早春賦・
第二章
学校の正門の前にある文房具屋は、女子たちでいつもいっぱいだ。
色やもようのついた消しゴムや、香水のにおいのする鉛筆がはやっているからだ。
筆箱や下じきまでおもちゃみたいになってきた。
ぼくはふつうの鉛筆と消しゴムを買って、あふれかえる女子たちにおし出されるよ
うに店の外に出た。
ふうっと、ため息をつく。
「すごい試合だったね」
声の方に、ぼくはふり返った。
小がらで色白な山崎博史が、はにかむような目で立っていた。買ったばかりの画用
紙をひじの下にかかえている。
博史も、雄介たちと同じ五年四組の生徒だ。話をしたことはなかったが、名前は知
っていた。
「うん。あんな女たちがそばにいると思うと、こわいよ」
博史はゆかいそうに笑ってから、ぼくの顔を見た。
「永瀬くんは、もう体育をやってもいいんだね」
ぼくが博史を見知っているのは、博史がいつも体育の授業を見学している生徒だか
らだ。ほかの生徒たちが校庭をかけまわっているとき、校舎の前の日だまりでひとり
足もとの小石をけっている博史の姿を、ぼくは二階の教室の窓から見ていた。
そしてぼく自身も、一年前まで体育のできない生徒だった。
博史がこのように聞いてきたということは、かれも日だまりに立ったぼくを見てい
たのだ。
「去年の初めから、なにをやってもいいって言われている」
「よかったね」
ぼくはなぜかうしろめたい気持ちがした。それでもぼくは聞いた。
「きみは?」
「ぼくの心臓は生まれつきだから、時間がかかるみたい」
「そうなのか」
そのあとをどう続けたらいいのかわからない。
住所をたずねると、ぼくの帰り道の途中だった。
「結核だったんだ」
かかったのは二年生になったばかりのときだった。ときおり微熱が出るくらいで、
入院の必要もない軽いものだったが、検査や注射のために毎月、電車に乗って大学病
院に通院した。
そのあいだも、ぼくは渋谷のバイオリン教室に通い続けていた。病院の先生は、寒
い外で遊ばせるよりも、部屋の中でできる音楽の方が体にいいと言ったそうだ。
「もうすっかりいいの?」
「うん。去年の夏、初めて学校のプールに入った」
「いいなあ」
「全然泳げなかった。水は冷たいし、塩素のにおいはきついし、銭湯の方がずっとい
いよ」
ぼくはおどけた調子で博史を笑わせたが、半分は本心だった。
泳ぎにしても、競走にしても、体を動かすことはどれも苦手だ。家の中で絵をかい
たり、模型を作ったりしている方がずっといい。
もし、また先生から体育の授業を見学するように言われても、ぼくは少しも悲しく
ないだろう。
でも、そんなことを博史の前で考えてはいけない。
「ぼくも、来月の検査がよかったら、もっと運動もできるようになるんだけど」
「よくなっているといいね」
アパートのある高台まで続く、長いだらだら坂にさしかかった。
ぼくは博史に合わせて、歩く速さを選んだ。
◇ ◇ ◇
ぼくと博史は、学校の行き帰りに出会うたびに話をするようになった。
博史はけっして、ひ弱な子供ではなかった。学校の勉強に関係あることでも、遊び
や趣味のようなことでも、博史の知識はぼくをおどろかせた。
「本だけはいっぱい持っているから」
と、博史は笑った。
お父さんは大学の化学の先生なのだそうだ。
初めてぼくのうちに来たとき、ひとりっ子の博史は、ぼくに妹がいることをうらや
ましがった。
「麻里ちゃん、いくつなの?」
妹は、いつもうちに遊びに来ている同い年の女の子とままごとをやっていた。
「五歳。来年、入学だ」
「かわいいでしょう」
こちらを見向きもしないで遊んでいる二人を、目を細めるようにして見くらべてい
る。
「かわいいもんか。毎日兄妹げんかばかりだ」
「こんなに小さいのに、けんかなんて、かわいそうじゃないか」
「かわいそうなのは、こっちだよ。気が強くて、なまいきで、負けずぎらいで。いつ
もぼくの方が泣かされている。こういうのが大きくなると、うちの組の女子みたいに
なるんだぞ」
博史がふき出した。
「きみは、今宮さんや小泉さんたちが苦手なの?」
「そんなことはないけど、四組のあの連中だってやっつけてしまうんだから」
ということは、やっぱり苦手ということか。
ぼくは苦笑いをした。
「バイオリンをやってるんだよね」
博史は机の上のバイオリンを見つけて、ものめずらしそうにさわってから、なにか
ひいてとねだった。
ぼくはいま練習中のソナタの一番やさしいところをひいてみせた。
博史は初めて間近で聞くバイオリンの音色に目をかがやかせ、感動して手をたたい
た。
このときだけは、ぼくはバイオリンを習っていてよかったと思った。
「ひいてもいい?」
博史は遠慮がちに聞いた。
ぼくが弓をわたすと、持ちにくそうにあごにはさんだバイオリンの弦を、ぎこちな
くひとこすりした。
「ひどい音」
博史は首をすくめ、顔をしかめながら楽器をぼくに返した。
「バイオリンを習うときはね、最初はだれも人のいない山おくでやるんだ。上手にな
ったらだんだん里に下りてくる。近所めいわくになるから」
「ほんと?」
「うそだよ」
博史は声をあげて笑った。
◇ ◇ ◇
昼休み、ぼくは机の上に図書室から借りてきたぶ厚い昆虫図鑑を広げていた。
「ドッジボール、やろうよ」
智子がぼくのセーターのそでをつんつんと引っぱった。
あの雄介たちとの対決以来、女子たちは昼休みになると毎日のようにドッジボール
をやっている。
「女ばかりなんだろう。いやだよ」
初めのうちこそいく人かの男子も混じっていたが、『女の中の男』はいごこちが悪
いし、女子たちのいい標的にされてしまう。そのうえ、まちがって女子の顔にボール
をぶつけたりでもすると、非難の矢を浴びてひどい目にあわされるので、いまではド
ッジボールはすっかり女子の遊びになっていた。
智子は毎日ぼくをさそうけど、ぼくはいつも何か理由を見つけてはことわっている。
「こんなに天気がいいんだから、外に出なくちゃだめ」
どうも智子は、ぼくの保護者かなにかのつもりでいるらしい。
学校のうらにある小児科医院のむすめだという理由で、いつも保健委員をやってい
る智子は、ぼくの健康を見張ることが仕事だと思っている。
確かにぼくは体育見学の生徒だったこともあるけど、いまはなんでもないんだ。そ
れなのに、手の洗い方や、給食の食べ方にまで口をはさむ。
「ほら、そんな本なんか置いて」
「いま、これを調べているから」
ぼくは思いついたページを開いて、智子の目の前にさしつけた。
智子は、ぼくの予想をはるかにこえる反応を見せて、教室の反対側まで飛び下がっ
た。
「早く、しまってよ!」
悲鳴のような声を張り上げる。
そんなに、いやなものなのかな。
ぼくは、まるまると太ったクロアゲハの幼虫をもう一度ながめてから、図鑑を閉じ
た。
「こんどそんなことをしたら、絶交だからね」
絶交するとどんなことになるのかよくわからなかったけど、ぼくは智子にあやまっ
て、もうしないと約束した。
「なんでそんな本を持ってくるのよ」
智子はおそるおそるぼくのそばにもどってきた。
「きのう、草むらで見つけたサナギが、なんのサナギか調べていたんだ」
「彰くんて、そんなものが好きなの?」
「二つくらいの時、公園で遊んでいたぼくが両手をこんなふうに丸く合わせて、にこ
にこしていたんだって。母さんが、なにかいいものを見つけたの、ってぼくの手の中
を見たら、マツケムシがいっぱい入ってたんで、母さん、気絶しそうになったって…
…」
「やめてよっ、そんな話!」
両手で耳をおさえ、おかっぱ頭をくるくるふって、泣きそうな声でぼくをさえぎる。
いつもえらそうなことを言うくせに、毛虫くらいでこんなになるなんて、やっぱり
女はだめだ。
ぼくは、智子に気づかれないように下を向いて、おかしさをかみころした。
(続く)