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早春賦・
第一章
窓ごしの太陽にセーターの背中を暖められながら、ぼくは午後の授業のあいだずっ
と、うとうとしていた。
やっと終業のチャイムが鳴った。
高橋先生が国語の教科書を閉じて、机のすいせんの花びんをちょっと動かしてから
教壇をおりても、ぼくはまだねむかった。
「先週もお話ししましたけど、工事のさくには近づかないように」
ぼくは窓の外に目をやった。
二月初めの空には、ちっぽけな雲のかけらも見えない。
下の校庭では、西側の半分をしめきって仮の校舎を作り始めている。四月から古い
校舎を順々にこわして、そこに新しい鉄筋コンクリートの校舎を建てるのだそうだ。
完成は来年の夏なので、ぼくたち五年生はその校舎を一度も使わずに卒業すること
になる。ぼくは今の二階建ての木造校舎が好きだから、それでもかまわない。
「しばらくのあいだ、校庭がせまくなってしまいます。みんなでゆずり合って遊んで
ください」
少し目がさめてきた。
「みんなは、四組の人たちといっしょに遊んでいるそうね。仲よくするのはとてもい
いことだわ」
「仲よく、だって」
うしろから、小泉智子がぼくの背中をつっついてきた。
「これは戦争よね」
うふふと笑いながら、すごい言い方をする。
この智子にしても、学級委員の今宮千春にしても、うちの組の女子はどうしてこう、
みんな気が強いのだろう。
強いのは気だけではない。体格も腕力も男子より上みたいだ。先月、始業式の日に
身長に合わせて席がえをしたら、うしろの方は女子ばかりになってしまった。智子だ
って、去年の春はぼくの方が背が高かったのに。
「これから四組のひとたちと、ドッジボールをするんです」
礼がすむと、出席簿をだいた先生に、すました顔で千春が言った。
「よかったわね。でも下校時間になったらちゃんと帰るのよ」
「はい」
学級委員らしい、よい返事だ。
「彰くんもやらない」
智子がまた、ぼくの背中をつっつく。
「今日はやめておくよ」
ぼくは教科書とノートをたたんで、ランドセルのふたを開けた。
「少しは外で遊んだ方がいいのに」
「うん」
「応援くらいはしてよね」
智子はランドセルをかたに引っかけると、勢いよく教室を飛び出していった。
今日の昼休み、うちの五年五組の女子たちがドッジボールをしようとしているとこ
ろに、四組の男子がわりこんできて、あわやつかみあいのけんかになりそうになった
という。そのとき千春が、ドッジボールで決着をつけようと提案した。
ぼくはその場にいなかったが、そうとうに険悪な試合だったらしい。
「途中で昼休みが終わってしまったから、放課後にやりなおすことにしたの」
午後の授業が始まるとき、うしろの席の智子が教えてくれた。
「てってい的にやっつけてやるからね」
ぼくは首をすくめた。
「きみは保健委員だろう。けが人なんか出すなよ」
「そうしたら、すぐに保健室に運んでやるわ」
右手のこぶしをぎゅっとにぎりしめた智子の顔を思い出した。
放課後、校庭で遊べるのは終業のチャイムから一時間だけと決められている。生徒
たちは時間にせかされるように、せまくなった校庭のあちこちでボール遊びやなわと
びを始めていた。
ぼくはランドセルを地面に置き、両手をポケットにつっこんで、千春たちが木切れ
で校庭に大きな長方形を書くのを見ていた。
外はやっぱり寒い。四組の男子たちはまだ集まっていないようだ。ぼくは手袋の上
から白い息をはきかけて、指先を暖めた。
背中に気配を感じた。ふり向くと、いやな顔が四つならんでいる。
「永瀬。べつに女でなくたって、やってもいいんだぜ」
雄介がにやっと笑う。
ぼくは口を結んで首をふった。
「やっぱり、めんこの方が得意か」
野島雄介は酒屋の息子で、むかしから駅前商店街の子供たちの大将だった。残りの
三人も商店街の住人で、いつも雄介のまわりにいる子分たちだ。
ぼくは、高台のまだ新しい四階建てのアパートに住んでいる。アパートの子供たち
は商店街の連中が苦手なのだ。
雄介たちはときおり、商店街のはずれから続く、長いだらだら坂を上ってきては、
ぼくたちのビー玉やめんこ遊びに強引に入りこんできた。気の弱いアパートの子供た
ちはそれをことわることもできなかった。
かれらの手かげんを知らない勝負のやりかたは、ぼくたちのおっとりした遊び方と
はまるでちがっていた。なにか、しかけがあるのではないかと思うほど、めんこの山
はあっけなくくずされ、次々にうら返しにされていく。自分がこれ以上取れないとな
ると、あとの仲間のためにつごうのいい形を残しておく。手も足も出ない。うなだれ
るぼくたちの前で、かれらは持ちきれない戦利品をポケットにおしこんだ。
「ビー玉にするか」
源太郎が口をはさむ。
林源太郎は学年で一番背が高い。見おろすように、ぼくの顔をのぞきこんでくる。
「そんなもの、もうやらないよ」
ぼくは舌打ちをして横を向いた。
フンチとクンチがけらけらと笑う。藤崎と久米沢。どちらも名前が健一なので、仲
間うちではそう呼ばれている。
学校でも、こいつらとはできるだけ顔を合わせないようにしていた。五年四組にい
ることはわかっていたのに、うかつだった。こんなところでつかまってしまった。
「おまえ、まだバイオリンひいてんのか」
でぶのフンチだ。こいつはいつも半ズボンのすそを、ももに食いこませている。
それがどうかした?
そう言おうと思ったが、やめた。
クンチが、あごの下に物さしをはさんでバイオリンをひくまねを始めた。きゅっき
ゅっと声を出しながら、こしをふってぼくのまわりを歩く。
どっと笑い声が起こった。
ぼくは三才になる二カ月前にバイオリンを持たされた。ひらかなを習うよりもずっ
と先に、楽譜の読み方を覚える子供がいることを、こういう連中は認めようとしない。
ぼくは自分をわかってもらおうと思わないし、こんなあつかいを受けるのは初めて
ではないが、笑いものにされるのは面白いことではない。
もう帰ろうと思ったとき、こちらを見ている千春と目が合った。
千春は、いつまでもふざけているクンチのうしろにそっとしのび寄ると、その頭の
上でぽこんとボールをはずませた。
「いってえ」
かめのように首を縮め、びっくり顔でうしろを見上げたかっこうがおかしくて、ぼ
くは笑った。
「なにをばかなことやってるの」
「急になにすんだよ、この大おんな!」
クンチが頭をさすりながら、千春の方に向き直ってつっかかったが、千春はちびな
クンチより頭ひとつ背が高い。
「こっちの準備はできているのよ。さっさとしなさいよ」
千春は、クンチに取り合わずにコートに立ち、いどむような目を雄介に向けた。
十人ずつでやることが決まった。
五組のチームは六人が女子で、千春をリーダーにして気おい立っている。残りの男
子たちはおもしろ半分に参加しただけで、たよりになりそうもない。
四組の方は、雄介たちのグループを中心にして全員が男子だが、こちらも本気なの
は半分もいない。
試合が始まると、遊びのつもりのものたちはたちまち脱落した。
はげしいうちあいが続くあいだに、両方ともだんだんに数を減らしていった。のっ
ぽの源太郎が女子たちのねらいうちにあって追い出され、おかっぱ頭をふり乱してが
んばっていた智子が力つきた。
もうコートの中には千春と雄介しか残っていない。
ボールを持った雄介も、こしを落として待ちかまえる千春も、かたで息をしている。
雄介は助走をつけ、体重を乗せたボールを千春の足もとに放った。
千春は軽やかなステップでそれを飛びこえたが、校庭のくぼみに足をとられてひざ
をついた。うしろの男子からするどいボールが返されてくる。体をひねって、かろう
じてかた先でよけた。
一度地面にはずんだボールは、ふたたび雄介の手の中にあった。
千春はまだ立ち上がれない。長いかみが顔にまいかかっている。
雄介は勝ったと思ったにちがいない。境界線いっぱいまで走り寄って、立てひざで
身がまえる千春の頭上に、ボールをつかんだうでを気合いをこめてふり下ろした。
その瞬間、にげ切れないと知った千春は、逆に雄介に向かってつき進んだ。女子た
ちが悲鳴を上げる。
雄介の放った強烈なボールは千春の胸でにぶい音を立てたが、だきしめるように曲
げたうでの中にしっかりとらえられていた。
形勢は逆転した。
雄介は前に出すぎていた。あわててあとずさりする雄介のひざに、千春の逆襲がつ
きささった。
ボールは転々とコートの外にはねていく。
「やったっ!」
「千春、すごい!」
女子たちが、飛びはねながら歓声を上げる。組に関係なく、女子はみんな千春の味
方だ。
「ちくしょう」
しりもちをついたままの雄介が、くやしさをかくそうともせずにうめいた。
見守る男子たちの間からどよめきがもれたとき、下校のチャイムが校庭にひびいた。
(続く)