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俳諧浄土寺詳細

 

正覚寺の歴史と御本尊


○  御本尊 木造聖観世音菩薩 像高・・六十七,三センチ・・造立年代 南北朝時代(十四世紀)、行基菩薩御作

* 名付観音・・・寺の檀信徒や縁のある方には正覚寺で昔から産れた赤子に名前を授け来ている。 又、病気平癒の聖観世音菩薩様としても昔から信仰されている

* 津久井三十三所観音霊場 二百五十年程前(宝暦年間)、津久井町寺沢「雲居寺」の大雲禅無和尚 (建長寺第二百二世)発起、自坊の寺を第一番にして、臨済宗、真言宗、曹洞宗等の寺で、観音様を安置されている寺を選び、 津久井三十三ヶ所観音霊場を開設する。・・・西国、秩父、四国百観音霊場へは、当時一般庶民にとって費用や時間的にお参 りできない為、この津久井地方に観音霊場を開設する事と成る。・・・「午」歳本開帳、「子」歳 中開帳があり六年毎の御 開帳と成る・・・現在霊場は加盟四十五ヵ寺と成った為、「津久井三十三観音霊場」は「津久井観音霊場」と呼称は変更と成 っている。

* 第十五番「南無大慈大悲観観世音菩薩」…正覚寺は中番と言われ、昔は、ご開帳の年に三十三ヶ所全部巡礼する事は、 時間的に困難な為、第1番から十四番迄の霊場巡拝を終えたら、次の第十五番(正覚寺)から三十三番迄は、次の御開 帳の時に巡礼をした。この為、正覚寺は「中番」と言われ、次回霊場巡拝の重要な出発寺であった。

愚痴無知の衆生済度の大智山不取正覚の誓い頼もし

*  第十三番「南無十一面観世音菩薩」元「沼本」地区にあった寺の、宝珠庵の御本尊・・・津久井湖建設の為、 道志川の側にあったが湖底に沈む、当寺に合併移転し正覚寺回向の鐘に祀る。元臨済宗建長寺派寺院である。

沼本の川波澄ます宝珠庵浮世の塵を洗い流して


観音霊場津久井札所は花六分   十九巣

○ 開山雲潭玄蔭大和尚 嘉吉元年(1441)六月十五日忌

○ 南北朝終末開山 室町時代、足利尊氏の次男(長男は二代将軍義栓)、基氏が鎌倉公方と成り基氏の子、氏満が鎌倉公方就任が貞治六年 (1367)である。又、京都では二代将軍義詮の子義満(尊氏の孫)三代将軍となるのが応安元年(1368)で、この頃の 寺院建立であろう。正覚寺開山が没する頃は、応永二三年(1416)鎌倉公方と対立し、離反した関東管領上杉禅秀 (氏憲)の乱等あり。

○ 小田原衆所領役帳 (永禄二年) 千木良之村 善勝寺・・・二貫八百五十文、 若柳之村 正覚寺・・・二貫五百文  郡内では二ヶ寺のみ役帳記載あり。

○  西行の歌碑 正覚寺の裏山一帯を「間の山」と称し、別に「嵐山」と称す。嵐山とは今より千百余年前、 大和の隆弁僧正この地に遍歴の際、山城の嵐山に似たるとてこの名を附せりとあり、西行法師はこの嵐山に 憧れて、歩をこの「間の山」に進めしものという。正覚寺本堂に掲げてある(現在不明)額面に、この消息を 伝える文面あり。『西行は天台宗の僧、一名歌僧とも云われる、号を円位、俗姓佐藤、名を義清、鎮守府将 軍藤原秀郷の孫にして左衛門尉康清の子なり。後鳥羽上皇に仕えて北面の士となり、・・・中略・・・のち 吾妻に下向の折、将軍頼朝これを聞き、人を遣わして西行を鎌倉に召す。和歌、弓馬の事とを問わるるに、 西行辞する事を能わず、通宵大いに談ず、頼朝感謝して愛玩の銀猫を贈る。西行これを受けて門前に出ずるや、 路傍の児童に与えて呉れ去る。全く人口に膾灸する所にあらず、西行法師常に謂うらくは、「『「凡そ密教を 学ばんとすれば和歌を学ぶべし、さらではその奥旨を悟り難し」と、師の和歌に対する意見なり。それより 鎌倉を辞し、かって大和の隆弁遍歴のみぎり、山城の嵐山に似たるとて、その名を附すせりという間の山に 歩を進めて、

 (山家集の恋歌)  の一首を詠じ、佐賀の大覚寺に摸し、字義を同じうする正覚寺に投宿し云々。

* 最近、当寺へ愛好家の訪れる所となり、西行法師の歌碑も、永い眠りから覚め、写真撮影、拓本にと、 時代の脚光を浴びるに至っている。

* 「間の山」は昔、甲相州の往来の要害地で、奇岩怪石のある観光登山地、石老山と小仏峠の間にあり、 現在は相模湖ピクニックランドの用地となっている。

* 正覚寺大樫の根元の子持石に西行の歌碑を刻む、西行の腰掛けたと言う「西行法師腰掛石」もあり。

○ 信玄道 武田信玄と小田原北条氏が三増峠で合戦、信玄戦勝し、正覚寺面前を通り甲州へ帰る。正覚寺古屋敷は信玄帰途の際、 道明かりとして焼失す。相模湖町には「信玄道」は二道あり



正覚寺と狸和尚伝説


安永四年(1775)六月再建と成った、鎌倉建長寺の「山門建立」に関わる「狸和尚」の話しは各地方に昔から、 数多くの逸話、伝説を残している。当寺正覚寺にも「狸和尚伝説」の話しが遺されていて、その伝説に関っ ている山門化縁主萬拙和尚の掛軸や、正覚寺がその檀信徒に山門建立の為の柱木欅を請け負わせ、相模川の 水運を利用して鎌倉へ搬出する事に関係した古文書、更に、「狸和尚の人面石」等が伝説と共に現存してる。

○  三百五十年程前(明和年間) 鎌倉建長寺の住職、『萬拙和尚は山門を建立するため勧進といってな、寄付金募集の旅をしておった。 この和尚が山口の正覚寺へ立ち寄ったのは、峰々の雪も解け始めた春の事じゃった。正覚寺へ宿泊した 和尚は、この地に山門柱木の適材のあることを聞き、早速不足分の七本を調達して、ひとまず建長寺へ 戻る事と成った。ところが疲労からか、和尚は帰るとすぐ病気になってしまってな、それから先の勧進 を続ける事が出来なくなってしまった。この事を知って喜んだのが、建長寺の裏山に五百年もすんでい るという古狸じゃった。「これはシメタ」とばかりに、さっそく萬拙和尚に化けて勧進に出かけてしま った。藤沢から伊勢原、厚木へと進み、ついに正覚寺へ着いたが、正覚寺には泊まらず、義海和尚にあ いさつを残しただけで次の投宿場、甲州街道小原宿の本陣へと向かって行ったそうじゃ。本陣へ着くや、 出迎えの者に「わしは犬が大嫌いでのー、つないで置きなされやー」と命じたり、女中からお風呂を進 められても、「いや、風呂はあまり好まんでのー」と断ったりする。女中が「でも道中汗をおかきに成 ったでしょうから」となおも進めると、「では、いただこうかな」とシブシブ腰を上げたが、入る真似 をするだけである。さらに「夕食を召し上がれ」と、女中がお膳を運んでいくと「お給仕はいらんでの ー、そこへ置いていかっしゃれーという。女中は、手がかからなくていいと思う反面、なんとも言動 が奇妙なので不思議に思ってたが、翌朝もっと驚く事があった。床を上げようとすると、和尚の布団 に獣の毛がたくさんついておったのじゃ。女中が「どうしたものか」と思案していると、ちょうどそこ へ次の投宿先、多摩の法林寺から迎への者がやって来た。そこで女中は、その者にこれまでの奇妙な出 来事をそっと耳打ちして、和尚を送り出した。法林寺でも、和尚の言動は女中から聞かされとおり奇妙 なものだったので、寺中の者が怪しんだ。そこで、なんとか正体を見とどけようと、まずお風呂をすす めた。すると入ったものの、あまりにも静かすぎるので、寺男が湯加減を尋ねると「いいあんばいじゃ」 と答えながら「ボチャボチャ」と音るをたてている。なんとか中の様子をのぞいてみようと羽目板の穴 から覗いた寺男は、驚きのあまり思わず声をあげそうになってしまった。なんと体中に毛が生え、浴槽 のふちに腰をおろして尻尾でお湯をたたいていたのである。夕食の時も、小原の本陣と同じように「つ いていなくてもよいでのー、終れば呼ぶでのー」と、寺の女中を追い立てるように言う。だが、機転を きかした女中が、襖が跳ね返るようにピシャリト強くしめ、その隙間からのぞいて見ると、これは大変、 お膳の上へ飯をあけ、汁をかけてピシャピシャ、クチャクチャ食べている。いよいよ、これは狸か狐が 萬拙和尚に化けているのに違いないということで、和尚が便所へいくのを待って、犬を追放したからた まらない。「ギャアッ!」という悲鳴と共に犬にかみ倒され、そこを寺男に山斧でバッサリと首を落と されてしまった。寺男はその首をすぐさま箱に入れ、建長寺へ行こうとしたが、「首をあらためてもら うなら、何も鎌倉まで行く事はない。正覚寺の和尚に見てもらえば分かるだろう」という者があり、さ っそく山口の正覚寺へ出向く事に成った。さて、法林寺の寺男が持参したその箱を、 正覚寺の義海和尚が「それはご苦労、さあ、お集まりの者もご覧じろ」と開けて見ると、誰も息がとま るほど驚いたそうじゃ。なんと、それは一個の人面の石と化していたそうじゃ。なになに、「それはほ んとーの話しか?」じゃと。ほんとうじゃとも。それが証拠に、今も正覚寺にはその  狸の化首(現存) が残っているそうじゃ。』

○ 建長寺山門柱請負に関する資料    「以書付申上候」  
建長寺山門柱十二本の内、二丁は建長寺にて用意済み・・後の十丁正覚寺で木元見立て世話する様、言い渡される ・・山口喜左衛門は柱木十丁代金百三十両、一丁十三両の証文にて請負う・・一丁江戸より寄進の話し有り、九丁 の請負と成る・・建長寺五間半二丁の希望有り、近村に無く、間数引詰めの要望をする・・請負金等定らず、七丁 だけでも搬出する事となる・・請け負った内の二丁捨木では、金子のやりくり立たず九本の請負願う・・喜左衛門、 去年夏四丁川下げ、七丁分の代金を受け取る、二丁分減の為、三丁分諸掛の川下げ金子足らず・・正覚寺柱木搬出 の厳重催促をするが、去冬渇水と寒中の働き手も無く難渋する・・喜左衛門、雲居寺大雲和尚に来春迄、川下げ延 引き要請、本山も了承・・正覚寺立腹、喜左衛門に檀用意外に出入りしない様、言渡す・・喜左衛門出入り無き様 に本山に内済要請証文を提出る・・・・・・(以上要略)

雲居寺様御役中 明和三年戌六月   寸沢嵐名主 喜左衛門


○ 
津久井狸和尚伝説及び関係掛軸

* 相模原上磯部、川崎家「南無阿弥陀仏」書有り、建長大雲の落款有り・・・草書体にて誰にも読めず、 大雲なる僧の正体も分からない(調査の結果、大雲は山門化縁主萬拙和尚の次の建長住持第二百二世であった) ・・・川崎家菩提寺は曹洞宗で、それに加えて、異宗派の浄土宗の名号書『南無阿弥陀仏』が有り、狢和尚伝説となる。

* 正覚寺には、山門出所院御礼として萬拙和尚の掛軸有り、又、伝説の狸和尚化首も有り。 当寺へは他の資料から明和三年来られたと推定され、喜左衛門請負の古文書と年代が一致。 ・・・座禅修行の勉励の である。

* 狸和尚の化首 座ったまま持上げる事が出来ると病気も治り、良い事がある・・・・御参拝下さい。


柳田国男の内郷村調査


現在の相模湖町の若柳、寸沢嵐地区(当時は内郷村)は全国で最初に柳田国男のフィールド調査が 行われた地で、その調査に際し、正覚寺は宿泊寺として使用されている。宿泊した本堂は当時のま まで、現在もその当時を偲ぶ事が出来る。この内郷村調査においては、柳田国男先生と親交の深か った、当町の長谷川一郎氏、鈴木重光氏の名前を忘れる事はできない。以下「柳田国男の内郷村調 査」に付いて概略を説明すると

* 大正七年八月十五日からの十日間、正覚寺は柳田国男内郷村調査での宿泊所。

* 郷土会は柳田国男、新渡戸稲造が中心となって組織され、毎月新渡戸邸で開催。

* 当初、古跡伝説に富む藤野町佐野川村に白羽を立てる。そして、大正七年五月十九日、 佐野川村から三国山踏破を行う。しかし、「相模風土記稿記述が佐野川村について、余 りにも架空な事についての記述が多いのに愛想を尽かし、内郷村となる」と、当時内郷 村の郷土史家で、長谷川一郎(当時内郷村小学校校長)先生と共に柳田国男と親交のあった 鈴木重光氏は語る。

* 七月二十八日、柳田国男と小野武夫氏来村、押田村長と村内有志(長谷川一郎、鈴木重光)と懇談し内郷村調査の決定

* 調査分担    沿革=柳田国男     天然と土地=草野俊助、正木助次郎     衣食住 =小田内通敏     社会生活=小野武夫(農村研究講話)     教化及び衛生=牧口常三郎(創価学会創始者)、中桐確太郎     農業他その生業=石黒忠篤、小平権一     俗 伝 =中山太郎     蠢 室=田中信良 以上 郷土会メンバー   建 築 =佐藤功一、今和次郎 白茅会メンバー

* 八月十五日 多忙職務の為、分担者に故障、一行は柳田国男 (貴族院書記官長)、 草野俊介(農科大学教授(理学博士)、 正木助次郎(東京第三中学校教諭)、 牧口常三郎(東京東盛小学校長、後創価学会創始者)、 中桐確太郎(早稲田大学文科教授)、 佐藤功一(早稲田大学工科教授)、 今和次郎(早稲田大学工科講師)、 田中信良(鉄道院参事)、 小田内通敏(集落と地理著)、 中村留治(農商務省技師)計 十人参加、中村三〜四日にて帰る、 石黒忠篤(農商務省書記官)は終りに二日ほど来村・・・牧口常三郎は交通路調査、古道の分布やら現在の道路調査。

* 宿泊所正覚寺、本堂西側二室が研究室とも談話室とも応接室とも成る・・東側二室は昼は食堂、 夜は寝室、西側北角の床間と押入は各自所持品の置場所。

* 毎日内郷村調査に繰出す・・・「一行の困った事は、寺僧の規則正しい早暁四時半の読経で、毎晩十二時までの 議論、資料整理で朝四時半に起されては・・・四五日して、和尚も気に掛け読経を休みにした」(集落と地理) ・・・・寝具片付け、室掃除、茶器の上げ下げ、戸締りは一行で行う。 一〜二日は朝から晩まで麩と唐辛子、三日頃から各自持参の福神漬や大和煮を出す、小麦の饅頭は好評。

* 麩と南瓜の一週間」という新聞記事が出て、「村では手打蕎、鮎や饅頭を出して持て成したにも関わらず、 この様な記事が載った事について村民の心を逆なでした」・・「口髭の秀麗な人々がぞろぞろ繋がって歩いては、 何程猫撫で声を出しても問答が繋がらない」・・「米騒動の真っ直中に都の学者先生も有難 いが十人もの人に、十日間も居食されては村の物が干乾になる」(東京日々新聞)・・・

柳田国男  山寺や葱と南瓜の十日間 を読む

* 大正七年九月二十一日、郷土会定例会で内郷村調査報告・・「他の会員の報告は依然として雑話なり、少 しも学問的に非ざりし」と柳田記し・・「非常に面白かったけれど、我々の内郷村行は学問上まづ失敗でありました。 面白かったとはいえますが、有益であったとは申しにくい、其の失敗の原因は至って単純で、 一言でもって云えば問題が多岐に失して順序と統一の無かった事、学び得る事は何でも学ぼうとした其の 態度が悪かった」 定本全集二十五巻「村を観んとする人の為に」に記す。

* これ以後、新渡戸稲造の渡航などにより郷土会も解散となる。



正覚寺の首廻り達磨

* 八方睨み達磨や、七転八起達磨はあるが,正覚寺の「 首廻り達磨 」は珍しい。達磨の掛軸を見つめながら左、真中,右と部屋の中を、達磨の目を睨みつけながら移動すると、 あら不思議、自然に達磨の顔もこちらを睨みつけながら移動してきます。・・・何処に立って居ても達磨は その人を睨んでいるのです。この「首廻り達磨」は、よく首が廻ると云う事で縁起物となっています。そして、 今日の平成不況の世の中にとっては救いの達磨様で、金の回りの悪い人、借金に困っている人、病気で首の 廻らない人はぜひぜひご参拝下さい。きっと、首も廻るようになる事でしょう。・・・御参拝下さい

化首と首廻り達磨や夏涼し   児草

*首廻り達磨左隣には 観音様の掛軸 があります。当寺の現在閑栖和尚、亮因氏が青年期病弱であった為、病気平癒と健康を願って、 お経の「大乗の妙典観世音菩薩普門品第二十五」の経文文字で一生懸命描き上げた、大慈大悲の聖観音様の掛け軸です。 ・・・ご健康をお願いし、一生懸命拝めば病気も治ります。



正覚寺の五色椿と散椿

* 神奈川の名木百選の一つに選ばれており、四月中旬から五月初旬迄、一つの枝から 「赤」  「白」  「ピンク」  「赤白」  「赤ピンク」  「白ピンク」  の六種類の椿の花が咲きます。神奈川県下には天然五色椿としては、唯一つの非常に珍しい椿です。 ・・・この椿は今から二百五十年程前の宝暦年間、当寺中興開山の義海玄仁和尚が植えたと伝えられております。

* 「五色椿」の対面には、これも中興開山義海玄仁和尚が植えたといわれる散り椿(樹齢二百五十年)があります。 普通一般に、椿の花は、首元から花が落ちると言われておりますが、この「散り椿」は、花が根元から散り落ち ないで、花弁が一片一片、ひらひらと散り落ちると言う、珍しい椿です。そのため、椿の花が散り始 めると地面は花弁で、恰もジュウタンを引き積めた様に成ります。・・・・・・一度、ぜひ椿の咲く頃ご訪寺下さい。

空即是色咲き分けし椿かな   咲花



* 西行歌碑の側の大欅の中に 地蔵様 が安置されている・・・NHKテレビ等でも紹介される。洞祠の地蔵様が大欅に取込まれている ・・・閑栖亮因和尚が病気平癒を願って入れ込んだ物・・・平成十年一月十五日の大雪で片枝折れる。・・・・・現在修復中

樫落葉思惟を幾世に木洞仏    鏡水



正覚寺名物滝ツツジ

* 正覚寺境内には、つつじが約千本植樹されていますが、4月下旬から、 5月初旬に掛けて、これらのつつじが咲き誇るとそれは見事な景観と成ります。 滝つつじ は正覚寺の西側の駐車場付近にあり、白い花の咲<くつつじを約百本、 寺の裏山「大智山」に、総長百メートルに渡って上から、恰も、滝が流 れ落ちる様に植えられているもので、つつじの咲く、毎年五月の連休頃満開となり、多くの人達がこの滝つつじを見るために正覚寺やって きます。そして、花の咲く頃には、「滝つつじ」はもう満開に成りまし たか?と言う電話の問い合わせが多くあり、困ってしまいますが、 相模湖は、神奈川県でも寒い地方ですので東京、横浜でつつじが散り 始めた頃が滝つつじの見頃といえるでしょう。・・・ お見逃しなく!!!!!

* 正覚寺境内には、この「滝つつじ」の他に、「回向の鐘」(鐘撞堂)の下に、観音様の大慈大悲の眼を模った 慈眼つつじ や、寺の裏庭には、静かに滝が流れ落ちる様に咲く「静寂の滝つつじ」も有ります。 ・・・この時期の正覚寺は「全山つつじの花盛り」と成ります。




*
大智山の滝ツツジの咲く山から、回向の鐘の山に渡って羅漢様が建立されている・・・中腹に聳え立つ石像はお釈迦 様・・・亡くなられた子供さんの供養にと、平成八年志願者建立・・・羅漢様はお釈迦様の弟子・・・禅宗は十八羅 漢(大迦葉比丘 マハーカーシャバ、屠鉢歎比丘 クンドーパドンヤ)を奉る。 * 十八羅漢様の内でも、 おびんずる様 (第一番羅漢様)は、昔から信仰されていて、自分の体の悪い所とおびんずる様の同じ個所を摩ると、 その病も治ると言われています。・・・尚、この第一番の羅漢様は当寺閑栖和尚に非常によく似ていると言う事で、 評判の羅漢様です。・・・羅漢様は必ず誰か家族や親戚、親友に似ると云われます。 ・・・御参拝下さい。

* 詳しくは「 お釈迦様と十八羅漢」のページがありますのでそちらをご覧下さい。




* 柳田国男句碑、西行歌碑を元に昭和四十八年頃、閑栖亮因和尚発願により俳句寺と成る ・・・句碑建立は有名無名を問わず誰でも建立可能・・・金婚式、銀婚式、句会での トップ賞を記念して個人が、或は、家族の方々が建てられた句碑、ふと正覚寺に立寄り 建立を希望された方、句友一同で建立された方など様々です。平成十年現在 句碑二百 五基の建立が成されています。

* 境内句碑建立者の詳細一覧を見る事が出来る「正覚寺案内と境内句碑建立者一覧表」は 正覚寺本堂前に置いてあります。これには建立者番号が書いてありますので、これを利 用しながら見たい建立者の番号を辿ると、その人の建立句碑の前に辿りつく事が出来ます。  尚、このホームページにも 建立者一覧表 のホームページもありますのでご利用下さい。

* 五月の初旬、連休後、毎年建立者一同を会して「正覚寺 俳諧浄土句碑祭俳句大会」 を開催・・・最高句点者には大会碑に賞句が刻まれる。

* くわしくは「 境内句碑風景 のホームページがありますのでそちらをご覧下さい。



回 向 の 鐘


*
回向の鐘 は、元は相模湖を一望できる、湖畔の「尾房山」に建立されておりました。この地には、すでに当正覚寺の閑栖和尚、 亮因氏が発願、有志者の協力により、すでに「相模湖観音堂」が建立されており、 その傍に、昭和二十九年春に梵鐘の建立を計画、翌、昭和三十年五月、その地に鐘楼堂 「回向の鐘」が完成されました。その目的については、人造湖「相模湖」の築造に際し、住みなれし 有史以来の墳墓の地を去る八十余戸の将来の福祉を願い、湖底墳墓の改葬諸霊位やダム築造工事殉職者の霊、 ダム完成以来の水難諸精霊供養の為に、回向の鐘として出来たものであります。

* 又、「回向の鐘」建立計画中の昭和二十九年十月八日、相模湖で東京の麻布学園中学二年生六十八人 の内二十二人が死亡するという、内郷丸沈没水難事故もあり、亮因和尚も、この時は、率先して湖畔に出向いて亡き中学生の供養に、 ご家族の方達の慰安に、と勤められました。そして、この水難事故の三回忌に、地元相模湖町北相中学生が発起し、麻布学園中学生 供養の為にと「慰霊塔」募金が始められ、相模湖観音堂の傍に、二十二童尊の慰霊塔が建立されたのであります。

* しかしながら、当初は、相模湖や、嵐山への観光客や、相模湖を見下ろす景観地にある、「回向の鐘」、「相模湖観音堂」、そして、 「二十二童尊」慰霊塔への参拝客が多くありましたが、これも時代の変遷により、尾房山も「相模湖ピクニックランド」 用地に変わり、現地に人の訪ねる事なき状況と相成ったので発願者、亮因氏は、回向の鐘の移転を計画、当時の建立協力者の期待を無にする事 に偲びず、ここに、正覚寺境内に移転し、永久に梵鐘の由来を後世に伝承し、以って、幽明に梵音を供養せんとされ、ここに昭和五十六年十月 発願計画し、十二月には正覚寺「回向の鐘」の移転建立が成されたのであります。

* 尚、麻布学園中学「二十二童尊」慰霊塔につきましては、三井物産とのご遺族の縁故者もあって、 現在は三井物産所有地の「相模湖ピクニックランド」の用地内に移転され、相模湖の水難場所を一望でき閑静な地に移築安置され 供養されております。尚、三十三回忌の供養も過ぎましたが、毎年今でも祥月命日には、供養のため麻布学園中学の先生達がこ の地を訪れ、亡き二十二童尊に香を手向ける供養が成されております。そして、麻布学園中学校舎内には、最近、創立百周年記 念事業の一つとして当時の痛ましい遭難事故を永遠に忘れない為、「相模湖記念室」が作られたとの事です。

* 正覚寺「回向の鐘」には、十一面観世音菩薩様が刻まれております。又、その鐘楼堂には正覚寺と合併された津久井三十三所観音 霊場第十三番の沼本、宝珠庵御本尊「十一面観世音菩薩」が安置されております。

* 「回向の鐘」の意味と由来・・・・・相模湖築造工事殉職者の霊、湖底墳墓の精霊(勝瀬集落)、麻布学園中学遭難学徒の霊、 その他有縁無縁の水難者の霊を供養し、水の有難さに感謝し、梵音を以て環境を整え、人身を浄化し仏果を願う為建立 ・・・・・ご参拝者が人々に清浄心、慈悲心、感謝の心を手向ける様成って頂きたく・・・「回向の鐘」と名づけています。

* 「回向の鐘」の 梵鐘 の図案作成者は、亡き人間国宝であった香取正彦先生で、 香取先生が最初に製作を手掛けた梵鐘の一つと言われています。それ程に今では貴重なと成っております。(富山県高岡市 老子製作所造立)



* 石像で夫婦神像、そばに自然石の陰陽石がある。共に石神で道祖神である・・・賽の神・・・ 他集落から襲い来る疫神悪霊などを村境や峠、辻、橋のたもとで防障する義

* 男根と女性器有り・・・拝むと子の授り有りと云われる・・・子孫繁栄


・・・桜、五色椿、散椿、滝ツツジ     ・・・新緑、 山百合(七月)、山蝉の声 
       ・・・紅白蔓珠沙華、萩、もみじの紅葉、山の紅葉、    ・・・雪に羅漢、句碑に雪

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