辰巳用水と埋蔵文化財 金沢医科大学助教授
平口哲夫
1.はじめに
北國新聞8月1日朝刊に辰巳ダム建設促進期成同盟会の総会、山出保金沢市長の発言、辰巳用水一部移設についての検討会という三つの記事が同じ紙面に並んで掲載されていたが、それによると、辰巳ダム建設に対する県の姿勢に不満を爆発させた市長が総会後に「金沢の浸水災害は深刻であり、早くダムを完成させてほしいと思っただけだ」と語ったという。
これを読んだ私は、「辰巳ダム ほんとうに必要?」という投書を同紙の「地鳴り」係に郵送した。示し合わせたわけではないが、同月3日の同欄に碇山洋氏の投書「辰巳用水を移設とは」が掲載され、二日遅れの5日に私の投書もひのめを見た。実を言うと、私の元の原稿では、〔辰巳用水の保存についても、部分的に「記録保存」となるのも仕方がないと思ったこともあった〕という文章の前に、埋蔵文化財の保存と比較した文言が付されていたのだが、短くしたいという電話が係からあり、主旨に影響もないことから省略に応ずることにしたのである。しかし、埋蔵文化財というキーワードは、辰巳用水の重要性や保存を考える場合にきわめて重要な問題を内包していると日ごろ思っていたので、あらためて「辰巳用水と埋蔵文化財」と題した拙文を呈したい。
2.辰巳ダム問題との出会い
私が辰巳ダム建設問題に初めて接したのは、1979年(昭和54)12月2日、第29回石川県五学会連合大会研究発表会の総会においてなされた宮江伸一氏(石川郷土史学会)による報告とそれにつづく討論であった。この総会で、ダム建設計画の変更と辰巳用水の保存を県へ強く要望する旨の決議がなされ、五学会合同の保存対策委員会を結成して取り組むことが確認されたことは、一部に態度保留の学会があったとはいえ、五学会としては画期的な出来事であった。それまで文化財保存問題で五学会が合同の取り組みに至ったことはなかったからである。しかし、辰巳ダムの建設そのものに反対を表明したわけではなく、その建設がほんとうに必要かどうかという議論がその場で行われたわけでもなかったように記憶している。
3.埋蔵文化財の場合
私が属する石川考古学研究会(五学会のうちの一つ)は、多くの埋蔵文化財保存問題に取り組んできたが、埋蔵文化財破壊の原因となる公共事業については、程度の差はあれ社会的に容認されたものであることを前提に、できるかぎり埋蔵文化財の保存を考えるというのが一般的姿勢である。道路建設を例にとるならば、それがほんとうに必要かどうか個人的に疑問をもつ会員がいたとしても、会全体としてその是非を問うような議論は暗黙のうちに避けてきたように思う。もちろん、建設予定地に遺跡がある場合は、できるだけそれを避けるようにルートを定めてもらい、やむをえず遺跡を通る場合はその範囲の発掘調査を適確に行うように主張する。発掘調査後、「記録保存」という名の破壊行為によって遺跡は消滅してしまう場合が多いが、発掘成果によってはルートの変更や遺構の移設が行われる場合もある。全国的には、青森県三内丸山遺跡や佐賀県吉野ヶ里遺跡のように、発掘調査の結果、遺跡の重要性が開発の必要性を上回るとみなされて、元の開発計画が全面的に中止され、遺跡整備事業という名の新たな観光開発に転換された例もある。
4.辰巳ダム問題にたいする認識の変化
当初私は、辰巳ダムの建設計画と辰巳用水の保存について、すでに犀川、内川ダムがあるのになぜさらに辰巳ダムが必要なのだという素朴な疑問をいだきながらも、結局、治水・利水の専門家をかかえた県当局が言うことなのだからと半ば信用し、開発を前提にして文化財の保存を考えるという通例のコースに嵌まってしまったようだ。しかも、1980年代、私の関心は自分の専攻分野に集中していたので、1983年(昭和58)1月刊行の『辰巳ダム建設問題調査報告書―辰巳の自然と辰巳用水をめぐって―』(金沢弁護士会・同公害対策委員会)を読んだのはずっとのちのことだった。
1989年(平成1)11月、小学校〜高校の同窓生を介した依頼により、奥村信子さん宅の「わくなみサロン」で縄文人の食生活について話をしたことがあるが、それが機縁で1990年5月22日の講演会「世界からみた辰巳用水」に出席、用水・ダム問題についての認識を新たにし、1994年6月5日の「兼六園と辰巳用水を守り、ダム建設を阻止する会発足総会」にも出席することになった。その後、一連の問題の経緯を詳しく検討して自分なりの判断をさらに確かなものにしたいと思い、金沢弁護士会などによる上記報告書や1995年(平成7)5月に出された「辰巳ダム問題に関する質問ならびに資料請求について(回答)」(石川県)などを知人にコピーしてもらった。最近は、Eメールやホームページによって最新の情報を速やかに知ることができる。こうして私は、「ダムの必要性については推進派よりも反対派の意見のほうが妥当である」という見解に達し、さらにその確信を深めているのである。
5.辰巳用水の再評価
辰巳ダム建設の必要性を示す合理的根拠が薄弱である以上、1999年8月17日に石川県公共事業評価監視委員会の出した「石川県が進めている辰巳ダム建設事業の継続の方針は理解できる」という結論は理解しがたいものであるばかりでなく、1980年5月22日に県文化財保護審議会が条件付きで建設に同意したというのも本末転倒の判断ということになる。辰巳ダム建設にいくらかの公共的利益があったとしても、自然環境と文化遺産を犠牲にしてまでも行わなければいけないほどの事業であるとは言いがたい。にもかかわらず、建設を強引に推進しようというのは、既成事実の積み重ねで生じた利得関係によってダム建設が自己目的化してしまっているからであろう。そこで、あらためて評価しなければいけないのは、ダム建設によって失われてしまう自然環境と文化遺産、特に辰巳用水の価値であろう。
もしも辰巳用水が発掘調査によって全貌が明らかにされた埋蔵文化財であったとしたら、大発見として全国的なニュースになり、考古学者を中心とした強力な保存運動も展開するに違いない。ところが、現在も景観の一部を構成し、生活のなかに生きている近世建造物となると、なぜか歴史学者による保存運動は盛り上がりに欠けることが多い。学界では近世考古学がすでに認知されているだけでなく、金沢城跡の発掘調査が巷の話題をよび、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪一の門・鶴の丸土塀・いもり堀などの復元整備事業も進められているにもかかわらず、金沢城跡と密接な関係のある辰巳用水の保存について、考古学関係者の取り組みも弱いのが現状である。
6.おわりに
明治維新後、近世城郭の多くを荒れるがままに放置し、あるいは積極的に取り壊してしまったことを今になって惜しみ、復元整備に着手するようになったのはまだしも、その一方で長らく保存・管理・利用されてきた辰巳用水の取水口を、必要性の低いダム建設によって台無しにするというのはまことに愚かなことである。今も生きている用水を移設保存するというのも、用水文化財の価値を著しく損なう発想といえよう。
(2000年8月21日脱稿)