辰巳ダムに関する第6回意見交換会

(1999年7月19日掲載)



(第6回意見交換会。手前が県側。)

 辰巳ダム建設計画に関する市民グループと石川県の第6回意見交換会は、7月17日(日)午後、石川県自治研修センターで開催されました。
 議題は、辰巳ダム問題の“原点”ともいうべき、辰巳用水を中心とする「文化遺産問題」。

 市民側は、中井安治(辰巳の会)、碇山洋(同)、宮江伸一(辰巳の文化遺産と自然を守る会)、渡辺寛(ナギの会)、佐藤禮子(豊かな自然と健康を考える会)、吉岡勇(金沢自然観察会)、桶屋豊(市民オンブズマン石川)などが出席。県側からは、米田昭夫河川開発課長はじめ河川開発課、河川課の職員ほか、県教育委員会事務局から式部隆介文化財課長など3名が出席しました。
 また、県公共事業評価監視委員会から、守屋以智雄副委員長(金沢大学教授)、川村国夫委員(金沢工業大学教授)、矢島孝昭委員(金沢大学教授)の3名が臨席しました。


市民グループの質問と県側回答文書はこちら (pdf/17KB)
(四角内が市民側の質問です。)

pdfファイルを見るにはAcrobatReaderが必要です。お持ちでない方はここからどうぞ。

 意見交換会は、県側の回答文書をもとに、市民側がさらに質問、コメントする形ですすめられました。

 辰巳用水の歴史文化的価値については、回答文書では「一定の価値を有するもの」とされていましたが、式部文化財課長から口頭で「当時としてはきわめてすぐれた技術」という認識がしめされました。
 また、辰巳ダムによって水没・破壊される東岩隧道については、辰巳用水が最初につくられてから223年目に完成したもっとも新しい区間であるが、その後140年間守りつづけられており、辰巳用水の歴史を知るうえで価値があると述べられました。

 第一部のTでは、土木技術史における辰巳用水の位置について議論しました。
 ここでは、6点について質問しましたが、県側は、『加賀辰巳用水』『加賀辰巳用水東岩隧道とその周辺』など3点の文献以外に、県の辰巳用水に関する調査・研究の成果はないことを認めました。
 これらの文献には、(3)(4)(7)についての記述はまったくありません。また、(2)(5)(6)についての調査・研究もまったく不十分であることを、辰巳の会会長代行・中井安治さんが詳しく解明しました。とりわけ、甲州軍法など戦国時代末期に軍事目的に開発された技術が民生用技術に転換されていく変革期に辰巳用水が位置していること、また、幕末期の混乱のなかで加賀藩の生き残りをかけた火薬・兵器生産ときりはなして東岩隧道の建設を論じられないことなどが強調され、それらの考察を完全に欠落させた『加賀辰巳用水』などの不十分さが指摘されました
 また、辰巳ダムによって同じく破壊される左岸側の青谷砦跡については、初歩的な調査さえまったく行われていないことが、明らかになりました。


(日本と加賀藩の歴史・土木技術史における辰巳用水について説明する中井安治さん)

 Uでは、辰巳ダムによって破壊される東岩隧道について議論しました。
 ここでも県側は、9点におよぶ質問のうち、(2)(9)(10)については、3点の文献にはまったく記述がないことを認めました。式部文化財課長から、「東岩隧道についてはわからないことばかり」という率直な発言もありました。
 この問題に関しては、辰巳の文化遺産と自然を守る会代表幹事・宮江伸一さんがOHPをつかいながら、辰巳用水の価値とともに現在も自然流下で兼六園に水を供給している東岩取水口、東岩隧道の価値を強調。また、東岩隧道につかわれているさまざまな独特の技術について、宮江さんの推理、仮説が紹介され、ここでも、県の調査・研究がまったく不十分であることが明らかにされました。


(市民側は、情報公開制度で入手した資料をもとに、審議会の問題点を追求。)

 第二部では、“ダムによる辰巳用水の水没もやむなし”という「結論」が出されたという県文化財保護審議会、辰巳用水小委員会の審議内容と手続き問題について議論しました。
 審議会、小委員会とも議事録は残されておらず、『加賀辰巳用水』序説などに当時の様子が断片的に記録されているだけです。県側も、決定的な記録がなく、『加賀辰巳用水』序説などの記録に頼るしかないことを認めました。しかし、それらの記録には、矛盾点や曖昧な点が多く、“水没やむなし”という「結論」が、審議会の正当な結論として出されたかどうかは確認のしようがありません

 また、それらの記録によっても、小委員会は、「辰巳用水保護に関する基礎調査のために設置された」(県側回答文書)にも関わらず、県河川開発課からダムについての説明を受ける説明会を4回、地元との辰巳ダム代替案(位置を上流にずらすなど)に関する意見交換会を2回、県教委・土木部との協議を1回開いただけで、1980年9月12日に開かれた1回目の小委員会でいきなり“水没やむなし”の「結論」が出されたことになります。
 この間、小委員会が独自に辰巳用水、東岩隧道について調査・研究を行った形跡は、まったくありません。

 実際、審議会で“水没やむなし”の「結論」を出してから1年後になってやっと現地調査が行われ、「委員のすべてにとって隧道内に入ったのは初めての体験」と『加賀辰巳用水』序説にも記述されています。
 まず現地調査をしてから保存のあり方についての議論がはじまるはずですが、ダムによる破壊を決めて1年も経ってから初めて調査を行うというお粗末さです。

 市民側は、辰巳ダム再評価が行われているこの機会に、辰巳ダムの必要性についての議論を保留したとしても、最低限、(ダムによって破壊され追加調査が永遠に不可能になる前に)以下のことが必要であると強調しました。

(1)青谷砦跡、辰巳用水とりわけ東岩隧道について、あらためて徹底的な調査、研究をやり直すこと。

(2)その成果に立って、青谷砦跡、辰巳用水・東岩隧道の価値、文化財指定の適否について、あらためて文化財保護審議会で審議し直すこと。


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