PL雑感その4


2002.2.17

「一生懸命さ」が伝わるということ

PL時代の土曜夜というと、テレビではお化け番組と言われたTBS系の「全員集合」が有名でした。PLもよくゲストとして出演していましたね。体操のコーナー、合唱隊のコーナーなど懐かしく思い出されます。
その同じ土曜の夜、同じTBSのラジオ(公開生)で番組名は忘れたのですが(ヤンタン東京?)、歌謡番組がありました。PLもたびたび、「全員集合」の後などに出演していたようです。司会者は、鈴木ヒロミツさん、太田裕美さん、アン・ルイスさんなどだったと記憶しています。ゲストの歌、司会者とのトークという構成で、何の変哲もない番組だったのですが、テレビに比較するとトークの時間が長く、PLの普段聞けない話なんかもあって、わりと興味深く聞いていた覚えがあるのです。私は、例によってケイちゃんのトークだけ断片的に覚えているのですが(^^)例えば・・・会場からのファンの質問で「ファーストキスは?」なんてのがあって、ケイちゃん「子供の頃、お兄さんと・・・」と、うまくかわしたり(^^)、鈴木ヒロミツさんが「大胆な衣装着ててどうですか?」に対し、ケイちゃん「涼しいですね。」とボケ気味?に返したり(^^)・・・

さて、本題です。確か1977年秋頃、PLがこの番組にゲスト出演した時(この時ケイちゃんの声が絶不調でかわいそうでした。)のことです。鈴木ヒロミツさんが「なぜPLはこんなに人気が出たのか?」という極めて根源的な問いを発したのです。それに対しての司会者陣の回答が印象に残っています。まず、太田裕美さんは「やっぱり、衣装とか振り付けとか・・・」という定番的な回答でした。これに対して、アン・ルイスさんが(詳細は忘れましたが、確かこんなイメージで)「衣装、振り付けとか・・・あと、とにかく二人が一生懸命踊っているというのが良かったのでは・・・」アン・ルイスさんのこの回答、極めて単純明解なものながら、なかなか本質をついているなと、当時感心したものです。

それから、23年経過した2000年末紅白では、大反響となったPL復活がありました。直後にネット上で復活PLについて、様々な感想があふれていました。その中にこのようなものがありました。女性の投稿で概略は・・・「(PL現役)当時から一生懸命さが伝わってくるグループで好感を持っていました。一生懸命さが伝わる時、人は応援したくなります。」というものでした。この投稿を見て、私は1977年のアン・ルイスさん発言との一致に驚いたものです。
今も昔も、「一生懸命さ」が伝わってくるということ。一見簡単なようで、なかなか大変なことだと思いませんか?そして、それがPLプロジェクトという企画の素晴らしさとは別に、PLの大きな魅力であることは間違い無いでしょう。PLの成功が単に企画の勝利でなく、お二人のキャラによるものだということをよく示していると思います。


2001.12.24

年末に当たり

早いもので21世紀初めの2001年も、残すところわずかとなりました。日頃、当HPをご訪問のPLファンの皆様には、改めて厚く御礼申し上げます。おかげさまで、当HPも今年の2月にはアクセス1万件の大台を突破、その後も順調にアクセス件数を伸ばすことができました。
当HPのごときつたない個人HPが、ここまでこれたのも、ご訪問の皆様、そして相互リンクいただいているPL特別親衛隊様、PL−NET様、ケイちゃん隊様、総隊長様のおかげだと思っています。この場を借りて、重ね重ね感謝いたします。
さて、今年初めに当HPの更新方針をご紹介しました。振り返ってみますと、「PL小辞典」は抜けが多いものの一応完成、念願のケイちゃん関連ページの統合も「ケイちゃんの部屋」として実現できまして、まずまずの出来であったかなと、自画自賛しているところです(^^)皆様のご感想はいかがでしょうか?「ケイちゃんの部屋」では文字中心の当HPでは珍しく、画像もかなりアップしまして、ケイちゃんの魅力を多面的にご紹介したつもりです。結果として、ますますマニアックなケイちゃんページとなってしまったようですが(^^)
私が偉そうに言うまでもないですが、PL−NET様各HPは非常にバラェティーに富んでいますので、当HPのようなある意味ケイちゃんに偏った?HPも存在していてもいいのではと、勝手に思い込んでいる(開き直り?)次第です。来年当たりは「ケイちゃんの部屋」が表看板になって「PLの部屋」が分室になってしまうかも?これぞまさに「軒を貸して母屋を取られる」??実質的には今現在既にそうなっているようですが(^^;)冗談はさておき、来年も変わらぬご支援・ご訪問をお願いいたします。

話は変わりまして、最近PLに関して思うところを少し・・・昨年春頃、あるワイドショーでPLのコーナーがありました。ミーちゃん、ケイちゃん、阿久先生などのインタビューがありまして、「今後PLのようなアイドルが出るか?」といった趣旨の質問がありました。阿久先生もお二人も、可能性はありそうなご発言であったと思います。当時、私は「そうかな。」と思っていたのですが、最近は「PLのようなアイドルは、もう出ないのでは。」と感じています。その理由を述べると、もう一つHPが出来てしまいそうですので(^^)、詳細は避けますが、「ようこそ!PLの部屋へ」に記載している「PLと亜流グループとの比較表」を見ていただきたいのです。ここにはPLの魅力が列挙してありますが、これを全て網羅したアイドルは、まず出ないだろうと思うのです。
マスコミ的な批評では、衣装と振り付けに目が奪われがちですが、意外と重要なのは、当HPで繰り返し述べていますが、グループの成り立ちだと思うのです。そう、お二人が中学以来の大親友であるということ。これこそ、PLと他のアイドルグループ(A級からC級まで)との決定的な差異であり、PLの大きな魅力となっているのですね。「そんな単純なことか。」と笑われそうですが、考えてみて下さい!PL以外にいますか?しいて言えば、アイドルとは言えませんが、「待つわ」のヒットで有名な大学生デュオ「あみん」さんくらいしか思い出せません。それだけ、学生時代の親友、しかも女性同士がグループを組むということ自体、意外と困難な面があるようです。そして、PL伝説のかなりの部分は、「お二人が学生時代からの親友である」ということで理解できると思うのです。他のグループが、様々な点で、PLのようにいかない理由も、ここにあるのですね。
そんなお二人ですから、是非また再結成をお願いしたいものですね。結局これが言いたかった(^^)?

それでは、皆様よいお年を!


2001.9.24

デビュー満25周年に思うこと

皆様ご承知のとおり、ミーちゃんケイちゃんは本年8月25日でデビュー満25周年を迎えられました。今日は1か月遅れですが、満25周年に当たり、思うところを取り止めも無く打ち込んでいきます。

まず、当たり前のことですが、25周年・四半世紀という「時の長さ」です。この長い間、芸能界で活躍し続けるということ、これは大変なことです。いい例が「スタ誕」出身の女性歌手です。今現在も、歌手としての活動を続けていると私が認識できるのは、PLよりデビューが早い方では岩崎宏美さん、PL以後では中森明菜さんくらいしか思い当たりません。PLを含めてたった3組!!あの一世を風靡した栄光の!「スタ誕」出身歌手にして、この状況です。私が興味あるのは、デビュー当時のお二人が「どれくらい長く芸能界での活動を考えられていたか?」なのです。想像するに、たぶん25周年は視野に無かったのではないでしょうか。デビュー当時、ビクターの飯田ディレクターとの約束は「どんなことがあっても5年間はやろうね。」のようです。「あと5年間めんどうみて下さい。」と、お二人から飯田ディレクターに言われたこともあったそうです。結果としてPL時代は、その通りになりました。正確には4年7か月ですが、お二人が静岡から上京した1976年4月からカウントすると、ちょうど5年間になりますね。当時のインタビューなどで、お二人はこんな発言 をしています。ケイちゃん「26歳くらいで結婚・・・(結婚したら)仕事はやめて・・・」ミーちゃん「ザ・ピーナッツさん達のように30歳くらいまでは頑張ろうと・・・」いずれにしても、年齢にして40代、25周年に渡る芸能界での活動は、PL時代のお二人には意識として無かったように思えるのです。「こんなに長いことお仕事できるとは思ってなかった。」時々耳にするケイちゃんご発言です。

次に思うことは「PL伝説化」です。当時のPL本で作曲家の都倉先生が興味深い発言をされています。「いつの日か、彼女たちが芸能界を引退する日が訪れたとしても、その足跡は、金字塔のごとくに光り輝いていて、長く歴史の上に残されるに違いない。・・・

『ビートルズ』現象という言葉があるのだが、それに近い言葉がPLの名を冠して作られる可能性だってあるのだ。」このご発言はデビュー2年後1978年のものですが、お二人が芸能界で現役のまま都倉先生の予言?通りになったのではないでしょうか。1997年ケイちゃんが出演されたNHK番組で、都倉先生は「PLは日本の歌謡史の一ページを飾る存在になりました。」とコメントを寄せられました。これは、都倉先生自ら1978年のご自身の予言?が、その通りになったと、認識されているように思え、とても印象深いものでした。

さて、続いて「PL成功の要因」です。これは当HPのあちこちで既に触れていますが・・・25周年の今も「大胆な衣装と振り付けで」というステレオタイプ(陳腐)な形容表現が横行?していますが(^^)。勿論それ自体は間違いではありませんが、まさに「木を見て森を見ず」ですよね。私には、ちょっと物騒な例えですが「総力戦」という言葉が思い浮かびます。つまり芸能界という戦場での「PLプロジェクトによる総力戦」です。総力戦での基盤が「経済力」だとすれば、「PLプロジェクトの基盤」は何なのでしょうか。
1994年にOAされた「驚きももの木・・・」はPLストーリーとして、(多少の脚色はあるにしても)よくできていたと思います。「ペッパー警部」と「乾杯お嬢さん」の例のA・B面問題で、「ペッパー警部」A面を押し通した阿久先生。ビクターからは「安キャバレーみたい」と言われながらも「ピンク・レディー」というグループ名を通した都倉先生。脚を広げるアクションを変えるように言われても、頑張った振り付けの土居先生。いずれも、レコード会社ビクターの意に反するものでした。「ビクターが決められたのはデビュー曲の発売日くらい」と自嘲気味に語る当時のビクター広報幹部の言葉は示唆的です。問題は「なぜPLプロジェクトのメンバーがそんなに頑張ったのか?」ということ。これについて都倉先生が面白い発言をされています。(以下正確ではないかも知れないですが発言趣旨です)「(お二人を)何とかしてやりたい。(スタ誕決戦大会)でプラカードが何十社もあがる人ならそんな気持ちにならなかったかも知れない。・・・」スタ誕決戦大会で、PLは清水由貴子さんに次いで二番手でした。よくデビュー当時、お二人は「周りから期待されていなかった。」と 言われます。この「周り」とはどのへんを指すのでしょうか?ビクター?あるいはスタ誕スタッフ(昨年のテレビで冷たい発言が気になった)?
以下、私の独断・仮説です。少なくとも、お二人は都倉先生などPLプロジェクトの主要メンバーからは、それなりに?期待されていたのではないでしょうか。単に「作家陣のプライド」や(言葉は悪いですが)「お二人への同情」だけで、レコード会社の意に反してまで、頑張れるものか疑問です。ましてや、お忙しい売れっ子の一流作家陣です。お二人に対する期待があったからこそではないでしょうか。具体的に何がそうさせたのか?・・・「お二人の歌うことに対する純粋な思い入れ」・・・かも知れません。お二人が「何か期待させるものを一流の作家陣に伝えることができたこと」これが重要です。そして、それは「お二人の人徳=PLプロジェクトの基盤」ということかも知れません。
以下続く・・・かも?


PL雑感トップ

トップページへ戻る