自閉症からの逆襲

逆襲だなんてぶっそうなタイトルをつけてしまいましたが、決して危害は加えません。よく皆さんが自閉症児たち特有の行動として挙げていることについて、ちょっとした説明を試みてみるだけのことです。といっても、私のような中途半端な自閉症者の分際で自閉症一般について述べるなどという大それたものではありません。「もしかしたら何かの役に立つかもしれない」という程度のことです。中には今まで手をこまねいていた行動のなぞを解くカギがあるかもしれません。よかったら参考にしてください。

 

道順へのこだわり。

自閉症者はよく、道順を変えると不安になると言われています。でも、道や建物のはっきりした位置関係が覚えられないという人は少なくはないでしょう。見知らぬ土地だったり、目的地以外の建物を無視していい自分が住んでいない土地ならば誰だって決まった道しか歩けないのはあたりまえ、それと同じことです。

ところが、家の近所なのに同じ感覚なのはなぜだろう。単に道の覚えが悪いだけでもなさそうです。自分の興味をひく物や知っている人・用事があって行ったことのある人の家しか眼中にないからあいまいなのかもしれない。いや、ただ「家だけ知っている人」「名前だけ知っている人」「面識はないのに誰とどういう関係にある人か知っている人」を記憶としてストックできないせいかもしれません。普通ならウワサしてでも仕入れてくるような「あの家はだれそれさんの家で、年はいくつで、どこに勤めていて、子供が何人、最近どんなことがあった」なんていう個人情報のやりとりに一切関心が無いのです。いや、覚えたくてもすぐに頭の中から削除されてしまうと言った方が正確です。

何年いても見知らぬ土地と同じ状態のまま、だけど道ぐらいは覚えます。なのにいつも同じ道を通るのはなぜでしょう。何か夢中になっているものがあって頭がいっぱいになっていることもあるし、時々刻々と変わる景色や音・臭いなどの目や耳や鼻から入ってくる情報の中に興味をひくものを見つけたのかもしれない。いずれにしても、ほかのことに気をとられて人や建物に注意が向かない、いや、通常は無意識のうちに働いているはずの位置についての情報をとらえる機能が動いていないのです。だから、道を決めておく必要があるのです。

土地感もあって道順も変えられるようになってもなお同じ所を通っているのは「道を意識して歩いている」のです。どの道のどの辺をどういう角度で通るというようなコースを決めてそれを守るのが好きなのです。そして時々ちょっと変えてみる楽しさを味わっているのです。ごくごくまれに「この先はどうなっているんだろう」と、ふらっと出かけてしまうこともあります。

行く手をさえぎる目の前の戸しか見えていない。

 

衣服へのこだわり。

朝起きて自分の体への意識が目覚めたとたん、"服との戦い"の始まりです。毎日毎日、最も身近にしかも全身に触れてくる衣服というのは第一の敵なのです。ちょうど「まえ髪 いのち」のコギャルやOLがまえ髪が決まらないと家から出たくないのと同じように気になって気になって仕方がない。触覚の好みに合わない服を着てしまった日は一日中不機嫌です。人から見られた自分の姿には無頓着なかわりに、自分自身の身体感覚には妙に敏感です。

この体の感覚にはホトホト参ってしまいます。どこへいっても・何をしていても・誰もいなくても、自分が眠ってしまわない限りまとわりついてくるのですから。この感覚に縛られて、目や耳や鼻といった外界の情報を収集する器官がプツンと切れてしまう瞬間だってあります。そんな時に何かを見たり聞いたり考えたりするには相当のエネルギーが要るのです。ちょうど、いかつい宇宙服にがんじがらめにされているようなものです。心は軽く、どこまでも限りが無いけれど、体はズッシリと重いのです。

でも、健常と呼ばれている人たちが自分の外見に「こだわって」縛られているのとどっちががシアワセなのだろう? 服の内側と外側とが違うだけの差で。

心は宙に、けれど体に縛られて。

 

順序へのこだわり。

自閉症児は何かを一直線に並べる遊びをよくします。3〜6歳ぐらいの現役の自閉児たちを見ていると、ひとりではしゃぎながら同じモノを並べるのは毎日の日課です。私の場合、ほとんどがキャラクターのあるお話になっていたので何かを並べていた記憶はありません(「私のアスペルガー体験記」をご覧下さい)。でも、何故か家の駐車場にひいてあったジャリの映像が残像として頭の中にこびりついています。一日に一度はそこに居ました。もしかしたら、同じ形のものを並べる時にぴっちり揃っていないと気が済まないのはその名残りかもしれない。

でも、すべてに順序があるのは今も変わりはありません。普段使う身のまわりの物の置き場所・仕事の手順といったものが決まっていないと何か落ち着きません。その中でも特に自分のお気に入りのモノとなると大変です。新しいモノをゲットするたびにその位置付けを決め、全体の整理・並べ替えをしなければならないからです。しかも、それの収まるところが決まるまでは先に進めないのです。

けれど、序列から外れてしまったモノはもうどうでもよくなってしまいます。自分の関心がないモノはどんなにゴチャゴチャになっていてもぜんぜん平気だし、片付けるように言われると整理はせずにかためておくか捨ててしまいます。いつも整理をしているが故に、まわりはいつも散らかってしまうのです。(だから私は毎日パソコン上のファイルや「お気に入り」を整理している。おかげで家中がホコリだらけ。)

ここだけきれいでまわりはゴミだらけ。でも、この机は実在の机ではなく頭の中にある机。

 

首振りのなぞ。

私の頭の中には常に言葉が渦を巻いています。ただの自分の中のもう一人の自分というよりも、まるで別の人間がいるかのようです。普段から、ソイツは絶え間なく喋りつづけています。けれど、私がソイツのひとりごとに耳を傾けたとたん、頭の中を支配されるばかりでなく体中が占領されてしまうのです。(今こうしてパソコンに向かっているのも、きっとソイツ。)

ソイツこそが、「認知療法」でしてはいけないと言われている思考法を持ってくるいやなヤツなのです。そいつのおかげで私はあっちからこっちへと振り回されます。世界のすべてが独断と偏見からなる思い込みに満ちてしまいます。良い時は有頂天になり、悪い時は地の底に沈められてしまうのです。ソイツが時々、突然、過去の忌まわしい出来事を運んでくるのです。その時私が何を言った・何をした・何と言われた・その場の雰囲気がどうだった、と。いたたまれなくて私は小刻みに首を振る。はたから見るとそれが「首振り」になるのかな? たまに一生懸命に追い払おう・打ち消そうと、手が動く。

重度のちゃんとした自閉と私みたいないい加減な自閉とは程度が違うだけなのだろうか、それとも質的な違いがあるのだろうか。でも、こんなことを書いてしまうと、精神分裂病じゃないかと言われるかもしれない。でも、自閉症と精神分裂病は違います。念のため。

「アスペルガーの舘」より「分裂病質」とAS−君もスキゾ・アスペリアン

「ワークショップ小児・思春期精神医学」より「近縁の発達障害」     

誰か、助けて!

 

言葉の丸のみ。

私には、「誰かがそう言った」「どこかに書いてあった」ことは正しいことで、誰もがその実現を目指すべきものだと思ってしまう傾向があります。それはひとつの意見にすぎず、実行するには別のプロセスがあるなんて思いもよらない。私が真理にマイシンするように、誰もが命令口調で教条的な指令のもとに行動すると思ってしまうのです。(ASの人の書いた文章に引用が多いのも同じ理由です。)

でも、ほとんどの人は他者からの視線を気にしながら自分の感情や欲望や思いを表にあらわし、お互いの係わり合いの中で動いているんじゃないでしょうか。その3つともが欠けている私には、どうすれば人をその気にさせることができるか見当もつかない。ひとりひとりが別々にひとつの目標を目指している縦方向のベクトルしかないのです。イイと決めたことは注意書きと簡単な説明だけあれば「即、実行」。皆がみなそうするはずだと思い込んで、結局いつも一人で突っ走っている。

そういえば、先生の言うことはほとんど丸のみにして「OOすべし」と思っていた、だから「イイ子」に見られていたみたいです。私はただ、あたりまえだとしか思っていなかったのに。

まるのみされた言葉の力。

 

わがまま。

毎日が同じスケジュールなら私の頭の中には予定表がきっちりと決まっていて精神的にも安定しています。何かの用事がある日にはその用事を組み込んだ予定を立てます。自分の立てた企画に従って進んでいる限りは[ひとつ終わればその消化した項目のところから組みなおす]ので、次の予定がスムースに出てきます。そして平穏に一日が過ぎて行きます。私はずいぶんといい加減で中途半端な人間なので、自分の都合でならその通りに実行できなくても何の問題にもなりません。その時点で計画を立て直せるからです。しかし、他人が自分の計画通りに動かなくて自分の計画に変更を余儀なくされた時は怒ります。見通しが立って予定を組み替えるまでちょっとしたパニックです。

他人が立てた計画に合わせなければならない時もパニックです。他人の立てた予定に時間を合わせるために新たに予定を作って、最初から最後まで緊張しづくめです。でもそれは、自分のやりたいようにやれる時間には「おわり」や「区切り」があることを理解しているからこそ起きることで、それだけ社会性がある証拠なのです。

今やめてもそのモノ自体は継続していてまた続きができること、朝・昼・晩といった時間の進行に従ってしなくてはいけない生活習慣があること、他に日本人として・所属する集団のメンバーとして参加しなければならない行事があるなどのことがわからない重症の自閉症者にとって、「やっていることをやめること自体」が苦しいことに違いないと推測されるのではないでしょうか。こういう人を指示に従わせるのは容易ではありません。やみくもに押さえつけたところで何の進展もありません。叱っても意味がわからないまま混乱し、ますます執着しつづけることでしょう。

何事もまず予定と見通し。

 


私からのちょっとした提案


自閉症者は、反応が少ないとか反応が不適切だからといって、何もないつまらない世界に生きているわけではないのです。この同じ地上に、自分の居場所を守りながら素晴らしい世界を楽しんでいます。むしろ、そっちが忙しくて外界で起きることにかまっているひまの方がないのです。

もし、そんな人たちに社会の一員として生活できるように働きかけるのなら、まず、教えようとする側の方から心の中に入っていく必要があります。「どんなことに夢中になっていて、どこまでわかっていて、何につまずいているのか」。見つけ出せば自ずと「何をのばして、どう教えればいいのか」が分かってきます。引っ張りあげて普通にしてしまおうとすればするほど腹が立ち、疲れてしまうのです。

耳の聞こえの悪い人が自分の耳が悪いのに気づかないように、多動の人も自分が多動だなんて思わない。注意の欠陥だって、自閉だってそうです。自分の行動を客観的に見られるようになるまで「自分は正しい」と思っているものです。たとえどんな大きな失敗をしても、どんなにみじめな思いをしても、自分一人の経験におさまっている限り、「自覚」はできません。逆に自分の方こそ"たいそうな人間"で世間の方が間違っていると思ってしまうものなのです。

最近、イモズル式に(私のような便乗組も含めて)本人たちが語り始めたのは、同じような症状を持つ人の手記が目に触れるようになって以来のことです。私の場合、まず始めに自分の子供の障害(当時の診断は注意欠陥・多動だけれどどうやらアスペ)の宣告がありました。それから学習障害について独学で学んで、勉強と自閉の治療教育を始めたのです。(最初は一人、今は三人。)でも、本で「アスペルガー症候群」という診断名を見ても別にどうってことはなかった。ただ、書いてある症状はあまりにも私に似ていたし、第一、自閉児たちの行状を理解するのに何の苦労も無かったので薄々とは気づいていました。けれどまだ他人事だったのです。

それをはっきりと自分の問題としてとらえ、「自覚」したのは、村上真雄さんの「アスペルガーの舘」というホームページを見た時です。「そうだ!こういう風に言ってしまえばいいんだ。」とその時に思いました。普通になろう・立派にしていなければいけないと考えるから自分はダメで、のけものにされているように感じてしまう。でも、「できないことはできない・わからないことはわからないと」素直に認めてしまえばいいんじゃないか、と。

そうして、普通になろうとしなくなったら、普通になってしまった。

ところが、わかってもいないのに分ったふりをするのをやめたとたん、人に対する構えがなくなって自然につきあえるようになったのです。なぁんだ、私は「ここではこういう風にふるまうべき、できないのはダメ人間」という決まりを自分で作ってそれを守ろうとしていただけだったんだって、気がついたのです。それでホームページを作ろうと思い立ち、「私のアスペルガー体験記」を書きました。それ以来、この社会の中におさまってしまおうなんてもう思いません。ひとづきあいがうまくできなくても、無理して人に合わせなくても良かったんです。もともと私はこういう≪ひとと・ちがった≫個性の持ち主だったんですから。それなら、普通になろうと背伸びして生きるよりも、中途半端な人間じゃなければ出来ない仕事をしていけばいいんじゃないか!

わたしはずっと、何を見ても[自分と同じか・違うか]だけを測って来ました。私の中のもう一人の住人の正体を追い続けて来たようです。でも、その"自分探しの旅"は、これでおしまいです。

心の宝箱を開けてみよう!


          

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