私の、アスペルガー体験記

 私がアスペルガー症候群かどうか、本当のところは解りません。ちゃんとした診断は、子供の頃からさかのぼらなければならないからです。今なら、問題行動がみられるような重度のものでなくても発見される確率は高いかもしれませんが、私の子供の頃にはまだこんなこと誰も知りませんでした。事実、私の言うペンギンたちのほとんどが、「小さい頃からなんとなくおかしいと思っていたことだけど、最近になって本やホームページに書かれているのを見て“ここにワタシがいる!”と愕然とした」経験を語っています。

でも、医師に診断をしてもらったところで、私が人に理解されにくい・生き難い人生を生きなければならない事実に何の変わりもありません。さしあたって子供時代に遡って、思い当たるふしを書いてみます。ただし、仮にそうだとしても、軽症で、学習障害を併発していないタイプだということをお断りしておきます。

どうやら多動だったようです。私自身何の自覚も無いのですが。人から言われた記憶をたどると多動でおしゃべりだったようです。高校の卒業コメントには「常に何かしていないと気がすまないタイプ」と書かれてありました。そう言えば、小学校の入学式の時、知り合いを見つけて列を離れ、おかげでその一年間、自分の並び順がどこだかわからなくなってしまいました。

勉強はできるほうでした。成績は良かったけれど、国語の読解問題がまるでダメだったのが不思議でした。今思えば、社会的な学習能力が低かった為に文脈や感情が読み取れなかったのでしょう。

体育はまるでダメでした。動作模倣がまるでできません。体の動きを覚える為には大変な努力が必要です。小6の時に体の動きとしてのみぎ・ひだりをたたきこむのに苦労したのを覚えています。

一人遊びをよくしていました。友達がいなかったわけではありませんが、ミニチュアの人形を使って並べては動かし、一人で空想の世界にふけっていました、ほとんど毎日。ストーリーは、ものすご〜くかわいそうな主人公が最後に大どんでん返しで幸せになるというものだったように記憶しています。

「わたし」がいない!?作文には一人称の代名詞「私」という言葉が使えるのに、話し言葉として「わたし」と言えませんでした。みんなが私のことを名前で呼んだ。だから、自分のことをオウム返しに名前で表した。大きくなって恥ずかしくなると、自分を指差して済ませました。会話の中で「わたし」と言えるようになったのは、30才を過ぎてから、それはもう一大決心でした。でも、この言葉が使えるのと使えないのとでは天地ほどの差があるんです。

突然、ビシャリ!今は前ほどひどくはなくなりましたが、それほど親しくもない人から個人的なこと=どこの・だれか・年はいくつ・なにをしている、というような事柄を聞かれると、土足で人の心の中に勝手に入ってきたように感じられて「なに、このひと、いいかげんにして!」と思ってしまいます。そして、ただちにその人に対して警戒体制に入ってしまうのです。自分ではずっとこの感覚を〈シャッターが降りる〉と表現してきました。とりあえず、聞かれたことだけ答えたところで私は黙ってしまう。これを会話のきっかけにして、そこから話の糸口をつかもうとする相手のもくろみは失敗に終わります。

でも、本当の問題は、青年期以降に現れます。

      

学校という閉ざされた集団を離れたその瞬間から、ひねくれた宇宙人の青年に成長した宇宙人のこどもは、Nobody・Nowhereな存在になるのです。

人の顔と名前がわからない。毎日同じ場所で顔を合わせる人、しかも名札つき、名簿もある、という状況でなら覚えられても、いつ・どこで・どんな服装で出くわすかわからない世の人々となるとまるで解らない。あの人はどこの・誰だったか・どういう関係だったか、よほど何回もあって、そのたびに名前を確認できない限り覚えられません。また、しばらく会わないでいると忘れてしまいます。(一番困るのはPTAです。)きっとよそよそしい印象を与えているだろうと思います。でも、どうしようもありません。

話すことが無い。話題や用件がないと会話ができません。話の内容も理屈っぽく、すぐに独断的な結論を出してしまいます。だから、会話がはずむことはありません。それに、自分の予定にない立ち話が始まると不快感を隠せません。世間話ができないのは前と同じです。

決まりごとが大スキ。何事も計画を立てて周到に準備してかかります。手順通りでないとちょっとしたパニックになります。時間がずれても、順番を変えられずにおおあわてです。そして、困ったことに周りの人にもそれを守るように要求します。でも、私のプラン通りにみんなが動いたためしはありません。

すべてに序列があります。私の身の回りの物すべて、日常生活のすべてが、わたしの頭の中できれいさの度合いによって順番が決まっています。私は、きれいなものから汚いものへという制約の中で行動します。上から下へ降りていくのはいっこうにかまいません。しかし、ひとつ上のランクのものを触るとか、ひとつ上の活動をする時には、必ず手を洗います。たとえ、ひび割れ・あかぎれだらけになろうとも。

「そもそも」とか「本来」「本質」が大好きです。それをそのまま文章にすると難解な哲学になり、建設的な意見にしようとするとただの抗議になります。私の言うことは「難しくて解らない」とよく言われます。聞く人・読む人を感動させ、共感を誘おうという動機が欠けている為に、説得するためのプロセスを仕掛けられないのです。仮にどんな正論だったとしても、机上の空論でしかありません。

誰でもない・どこにもいない。住んでいる場所の習慣を身につけ、そこの価値観を学ぼうとするどころか「郷に入って間違いを指摘する」私には社会的地位などというものは無縁です。私はわたしであって、どこの住人でもなければ、どの集団にも属さない。私が大まじめにやることはほとんどが一人相撲か、相方なしで漫才をしているようなものです。

いっそ黙っていたほうが。私は適切な距離を保った節度のあるひとづきあいができません。堅苦しく通り一辺倒な受け答えしかできないか、調子に乗って人の心を傷つけてしまうようなキツイことを言ってしまうかのどちらかです。(そして、しゃべりすぎた人にはシャッターがおりてしまい、口を利きたくなくなってしまいます。)また、何か聞かれた時、問いかけた意図と違うトンチンカンな答えをして、よく「そういう意味じゃなくって」と説明されます。だから、時々、だんまりを決め込みます。

ほどほどにできない。人に対してしゃべりすぎるか黙りすぎるかのどちらかでその中間の"ほどほど"が無いのとおなじように、好きなモノ・興味のあるコトとなるとそればっかり、でも、ある日突然嫌いになる、なんてことがしょっちゅうです。人に対しては、嫌われた・イヤミな人だ・いじわるされたと感じると嫌いになります。

同化・共感・感受性。気分に支配されやすいのは確かです。けれど、あまり感情には左右されません。良く言えばポーカーフェイス、悪く言えば冷たい感じといったところです。感情はほとんどの場合「共感(同調)」です。目の前の人(ドラマでも、小説でも)と同化して同じような心理状態になってしまうのです。そしてもう、自分と同じ仲間だと思ってしまいます。ところがあちらはそういう感情になっていただけ、私はその感情の一時的な共有者にすぎなかった、それだけ。

要領のいい人が許せない。ウラ・オモテのある人、その場だけ上手くやればいいという人、口ばかりの人、無責任な人、感情で動く人、総じて、理に合わない人が許せません。何事も理路整然がいいのです。

世間の中にいない透明な存在である私は、「なによあの人」という顔をされるたびに、ひどく落ちこむとともに誰にも理解されない心地よさを感じているふしがあります。といっても、それを楽しめるようになったのはつい最近のことです。《アスペルガー》を知る前、「私は生まれてはいけない人間なんだ。息を潜めてひっそりと暮らさなければいけない人間なんだ。」と感じていました。私は人生を捨てていたとさえ言えます。

でも今は、こんな風に生まれついて良かったと思っています。私にはひとに見えないものが見えます。時の流れにも流されることの無い、大切なものを見つづけています。その方が、モノに振り回されカネに縛られ他人の目にビクビクして生きる人生よりもずっと自由で幸せだと思います。

自閉症のことはよく、「こころを閉ざしている」と表現されます。しかし、よく知られている《カナー》タイプの自閉というのは、まわりが一切視野にないと言うより、自分の外の世界に気づきにくく、「自分と同じように意識を持っている他者という存在」と「その他者に見られている自己」という認識にも欠けるため、自分しかいない初期段階の認知世界から抜け出せないでいるのです。だから、言葉の獲得が困難でコミュニケーションも取りにくく、閉じている印象を与えます。が、本当は自分と他との境目が無い"自開症"とも言うべきものだと私は思います。

それに対して《アスペルガー》タイプは、まわりがよく見えていて、見ているのも好きです。それは、都合のいいところだけ参加して演出家の指図を受けようとしないわがままな観客のようなものです。人々の演技を観察して「あんな芝居はしたくない」と非難しながら、「楽しそうな人たち」をうらやましく感じています。でも、決して「閉じて」いるわけではありません。社会的に通用する行動様式を持たないトンチンカンな自分と周りとのギャップに悩み、また、舞台の上で演技している=人と関わり合っている自分に嫌気がさすといった経験を繰り返すたびに、「閉ざしてやる!」と何度思ったことか。だけど、またのこのこと出かけてしまうのです。本当は天真爛漫で開けっぴろげすぎるのです。

         参照  飛翔15号寄稿『アスペルガー症候群とは』

 

今現在こういう子供を育てているという方へお願いがあります。

 言うことを聞かないので仕方なくかもしれませんが、こういう子供の〈個性〉を認めてくれている場合、本人にとってそれはありがたいことです。しかし、ただ、理解してくれるだけでなく、いつかは社会に出て行かなければならないことを決して忘れないでいて下さい。たとえほんの少しでも、社会との接点を持ちつづけるような方向付けをお願いします。

 それから、もっとよく私たちのことを知ってください。叱られてきたことの中には「そこは叱る場面じゃなくて、教えるべきところだよ!」と言えることが数多くありました。確かに、その場にそぐわない言動をして恥をかかせてしまったことでしょう。わる気は無いといって解ってくれる人ばかりでないのも事実です。だからちゃんと叱ってくれていいです、それがいけないことだと教えてくれるから。でも、わからないんだから教えて下さい。そして同時に「どうしてそんなことを言って、(または、してしまったか) わたしには理解できる。けれど、みんなにはこういうふうに思われてしまうんだ。」と説明して欲しいのです。もし、お父さん・お母さんにその力がないのなら、説明のできる人を探してあげてください。お願いします。


     

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