大多喜妙厳寺南無道場
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妙厳寺の歴史
妙厳寺の縁起
当山はその昔真言宗の名刹で不動寺といい、全国から山伏が集る修行の場で した。
今から約五百年ほど前(文明九年)、池上本門寺第八世の常住院日調聖人(にちじょうしょうにん)がこの地方を布教されたとき、この寺に立ち寄り、住職の法印善慶律師と問答しました。 そのとき、日調聖人の学徳の高さに敬服した善慶律師は、その場で日調聖人の 弟子となり、名を日賞と改め、寺も日蓮宗に改めました。これを記念して祖師堂 を新築し( この棟札は寺宝として現存)、日調聖人を開山、日賞聖人自らが第二世となりました。
 それからおよそ百年たった永緑年間に第四世として妙厳院日諦聖人(にったいしょうにん)が住職されました。まれに見る学徳兼備の方で、当時の安房上総の頭領であった里見安房守も深く聖人に帰依しました。
 天正年間には大多喜領主正木大善を奉行とし祖師堂を改築寄進しましたが、 その荘厳華麗な様は比すべきものなしと言われるほどでした。同時に境内を中心に四丁四方が寄附され、十万石の格式が与えられ、大正初年までは黒塗りの駕龍 に供四人を従えて往来したといわれます。
 現存する杉の老大木は、日諦聖人が祖師堂改築入仏式を行ったとき、それを 記念して植樹されたもので樹齢450年を超えます。また、この時、寺の名を不動寺から妙厳寺と改め、山号も法受山と称しました。それ以来上総の名刹として重 きをなし、平沢大坊或いは上総身延と呼ばれ人々の信仰を集めてまいりました。
枕飯霊場の沿革
その昔(江戸時代)、当山の麓におさんというお婆さんが薪を商って細々と暮ら していました。老婆には一人の身寄りも親戚もなく、ただただ当山の祖師さまを 唯一の心の拠り所としていました。ある朝、この老婆もよる年波に天寿を完うし不帰の客となりました。日ごろ早 起きの老婆の家の戸がいつになっても開かないのを不信に思った近所の村人が戸をこじ開けて、入ってみますと、おさん婆さんは床の中で眠るような大往生をと げておりました。
 ところが不思議なことに、常にお祖師様にお供えする霊膳がお婆さんの枕元に供えてあります。
 おどろいた村人が早速この事を住職につげたところ、住職は「そういえば今 朝の勤行(ごんぎょう)のおり、お厨子(ずし)の中から明るい光がさしたので 不思議なことがあるものだと思っていたが、そうであったか。それはお祖師様が 身寄りもなく、死水も取ってもらえないお婆さんを不愍に思召して、自らのご霊膳をご供養さ れたに相違ない」と、お祖師様のありがたさに改めて合掌したといわれています 。
 この時から当山は、枕飯の霊場と呼ばれるようになり、人々はこのお祖師様に自らの心安き臨終を願うと同時に、末永く子孫の繁栄することを願いました。
 また、当山には萩の柱があるといわれておりますが、これはお婆さんが祖師堂改修に際し、山からの萩の幹を採って市で商い、そのお金で一本の柱を寄進し たことによります。一名萩寺と呼ばれるのも、この故事によります。
身延山と枕飯霊場
いつの頃からか、身延参詣のしめくくりとして当山に参詣し、砂払い」をす るならわしがあります。
 これは前にも書いた通り、当山が臨終正念を祈る霊場であるところからおこ ったもので、遠くの山河を越えて身延山を参詣され、仏縁を深めてつつがなく帰 郷した旅の終わりにこの山に詣で、仏祖の御加護を感謝し、参拝旅行の締めくく りをするわけです。
 日蓮聖人は、「まず臨終のことを習うて後に他事を習うべし」と、この一生を有意義なものとするためには、まず最初に、人生の締めくくりをきちんと解決 しておくことが大切であることを教えられております。当山のお祖師様に二世安 楽・臨終正念を祈念し、信仰に励み、安心な毎日を送り、そして臨終のときはお さんお婆さん同様、安らかに霊山浄土へ参りたいものです。