■天安門広場

天安門広場は…とても広かった。1949年10月1日。ここは毛沢東によって中華人民共和国の建国宣言がなされた歴史的な場所である。その後も天安門事件など数々の歴史の舞台となったこの場。天安門に掲げられた毛沢東の大きな肖像画をみながら、しばし歴史を想った。広かったなぁ。人も多かったなぁ。



明十三陵
北京市北西郊外にある明の十三陵は世祖永楽帝はじめ13人の皇帝と23人の皇后と1人の貴妃の陵墓が集まる陵区。私が中国旅行に行って、はじめて訪れた場所です。長陵、昭陵、定陵、神道が一般公開されています。私が訪問したのは定陵。定陵は14代万暦帝の陵墓で、比較的規模が小さいことから発掘が進み、十三陵で唯一地下宮殿が公開されています。(他の陵墓は発掘中とか。中国はスケールがでかいなぁ)
地下宮殿は階段をかなり深く下りたところにあります。何でも地下30メートルとか。これでも他の陵墓に比べて小さいのだから、驚いてしまいます。
この万暦帝の在位は長かった。当初は張居正がおり、全国規模の検地の実施や租税の確保、軍事費の節約などにより財政を立て直し、明中興の実をあげた。しかしその死後、万暦帝は宦官を寵愛し、政務を放棄し、奢侈にふけった。そのため政治は乱れ、各地で反乱が起こった。「万暦の三大征」といわれる、寧夏のモンゴル人の反乱、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(1592〜93)・慶長の役(1597〜98))に対する朝鮮の李朝への援軍、貴州省の蕃族首長の反乱がおこり、さらには満州族の侵入がはじまり、増大する軍事費の支出は財政を破綻状態へと導いた。「明朝の滅亡をいう者は、崇禎帝(最後の皇帝)に滅びずして、万暦に滅ぶという」と書かれたように、明は万暦帝の死後20余年で滅亡することとなる。



■街中でみかけた李自成の像
長城へ向かう途中の街中で、李自成の銅像があった。自成は陜西地方の貧農出身。明末の農民反乱の指導者。明末、財政をかえりみずに奢侈な生活を求める暗愚な皇帝の即位、宦官や党派の抗争、官僚の腐敗などが続き、財政的に破綻。加えて満州族(清)の侵入に対処するために行われた、新たに戦費の調達のための増税、大規模な徴兵などが地方民衆の生活を破壊し、各地で反乱が勃発。やがて陜西地方の飢饉をきっかけに発生した反乱の中から頭角をあらわした李自成は、各地で明軍を破り、長安を占領して国号を「順」と称して建国。やがて北京を占領して明を滅ぼした。しかし、山海関の守将呉三桂が清を引き入れたため敗れ、北京を脱出。その後は自殺したとも農民に殺されたともいわれている。
貧農出身であったことや、「貴賤を問わず,田地を均等にし,3年間無税」「人民を殺さない,軍中に銀を私蔵することを禁じ,人民の家に立ち入らず,婦女を犯す者があれば斬刑に処す」といった政策が中国では高く評価されている。その評価が銅像となったのだろうか…。