りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(プライベート編)タイトルをクリックしてください。
●コレクター 2012.4.18NEW
●「お金のいらない国」出版裏話2 2012.4.11NEW
●続・生命保険について 2012.4.11NEW
●生命保険について 2012.1.19
●自己中のすすめ 2010.6.23
●はじめての骨折・入院・手術 2010.6.10
●落語と私 2010.6.2
●すべては必要なこと 2009.1.9
●「お金のいらない国」出版裏話 2008.8.26
●文章を書くことのすすめ 2008.4.14
●世の中変わった 2008.3.5
●りゅうじんという名前について 2008.2.23
●嫌いな食べもの 2007.11.28
●発想の原点 2007.11.19
●りゅうじん式健康法 2007.11.15
●音楽と私 2007.11.8
●父のこと 2007.11.6
●お金と私 2007.11.4
●ハンカチは必需品 2007.11.4
●学生時代と就職のこと 2007.10.31
●不思議な出会い2 2005.6.28
●贈り物が苦手 2003.11.22
●「家族サービス」っていう言葉が嫌い 2003.8.30
●不思議な出会い 2003.7.26
●腰痛の原因 2002.4.4
●出不精 2001.7.4
●すべての山に登れ(Climb Ev'ry Mountain) 2001.2.15
●東京へのこだわり 2000.8.12
●ゴキブリ大っ嫌い 2000.7.22
●運動コンプレックス 2000.6.15
●酒の効用 2000.6.14
私には物を集める癖があります。あまり高価なものは買わないし、博物館ができるほど徹底したコレクションはありませんが、今までずいぶんいろんなものを買い集めてきました。
初めてのコレクションは、小学校から中学にかけての切手収集でした。小学校でブームになっていたので、私も何となく集め始めました。と言っても小遣いでそう買ったりはできませんから、時々遊びに行っていた近所の家の人にいただいたり、お年玉付き年賀はがきで当たったものくらいです。
中学、高校時代にはビートルズのレコードを集めました。これはコレクションというより、聴きたいから次々買ったということですが、小遣いを2ヵ月貯めるとLPレコードが1枚買えたので、ほぼすべてそれに使いました。ビートルズは、大人になってからCDを一度にまとめ買いしました。子供の頃の苦労はなんだったんでしょう。
結婚してからは、ゴジラなどの怪獣やウルトラマンの、ソフトビニール製の人形にはまりました。毎週おもちゃ屋に出かけ、新しい物が出ていないかチェックし、買っていました。また、ガレージキットと言われる組み立て式のソフビを買い込んで、作って塗装し、飾っていました。ゴジラなどの精巧なおまけのついたポケット菓子もずいぶん買いました。
好きな映画のレーザーディスクもだいたい買っていました。今となってはLDは市場から消え、デッキが壊れれば見ることもできなくなってしまいます。パソコン類にも言えますが、媒体は時代とともに変化するので、ソフトの収集は長期保存が目的だとあまり意味がないことになります。
また、これはコレクションではありませんが、子供が生まれてからはビデオ撮影に凝りました。ビデオカメラは何台か買いましたが、初めのカメラはファインダーがモノクロだったので、私は旅行に行っても景色をモノクロでしか見ていないと言われるくらい、カメラを放さずにいました。しかしこれも、VHS-Cビデオ、8mmビデオ、デジタルビデオと変化し、今ではまたいろいろと変わっていますから、それぞれのデッキが壊れれば見られなくなってしまいます。
ミニカーのトミカもたくさん集めました。トミカタウンのいろんなお店を買い、街を作りました。初めに買ったビデオカメラはコマ撮りができたので、トミカタウンでゴジラが暴れるというアニメーションを製作し、テレビで放映されたこともあります。
これもコレクションではありませんが、10年くらい、熱帯魚を飼っていました。その間は毎週のように熱帯魚屋さんに通い、安い魚だけですがよく買いました。何百匹という魚がうちの水槽で死んでいきました。楽しませてもらったので彼らの役割は済んだのかもしれませんが、わざわざ外国から輸入されてきて可哀そうな気もします。
それ以外にも、恐竜や動物などを模したゾイドという組み立て式の動くロボットを片っ端から作ったり、ウルトラマンのコインを集めたり、クラシックのCDを100枚くらい買ったり、一時的にはいろんなものに凝りました。
今は、韓国のK-POPガールズグループ、「少女時代」と「T-ARA(ティアラ)」にはまっています。これも集めることが目的というわけではありませんが、入手できるCD、DVD、写真集などはすべて買っているし、そういったものに囲まれていると幸せなので、コレクションと言えるかもしれません。
広告代理店でアートディレクターをしている私が、1993年に、仕事の腹いせに書いた「お金のいらない国」ですが、2003年に出版することになりました。そうなると、どのような形の本にするかを決めなくてはなりません。
私は、「お金のいらない国」は、長い話ではないので、本の大きさは小さめで文字は大きく、誰にでもすぐ読めるようなものにしようと考えました。装丁と挿絵は、知り合いの画家であるFさんにお願いしたところ、喜んで引き受けてくれました。私はデザインは専門ですが、紺屋の白袴よろしく、みんなFさんにお任せしてしまいました。
かくして2003年7月の岐阜県可児市でのイベントに合わせて、めでたく本は完成しました。タイトルは1993年に書いた時につけたものですが、そのまま「お金のいらない国」としました。本当は、「お金のいらない国」より、「お金のいらない世界」あるいは「お金のいらない社会」の方が意味的には正しいのですが、本のタイトルと考えた場合、「お金のいらない国」の方が夢があるし、童話のようなイメージを持ててよいと思いました。
本にする前、会社の同僚のコピーライターに読んでもらったところ、「お金のいらない国」だとタイトルで内容がわかってしまうので変えた方がいいのではないかと言われたのですが、このタイトルだけで内容がわかるような人はほとんどいないだろうと考え、そのままにしました。
また、今でも「お金のない国」とよく間違えられますが、「お金のない国」だと、お金のある世界の貧乏な国と勘違いされてしまう可能性があるので、意識的に「お金のいらない国」としました。
「お金のいらない国」はキーワードとしては覚えやすいし、今となっては、私を知っている人は長島龍人と言えば「お金のいらない国」とすぐ認識してもらえると思うので、タイトルのつけ方としては成功だったと思っています。
世間ではいろいろな本が出版されますが、内容はいいのにタイトルが今一つと思えることもよくあるので、本を出される時は、タイトルは十分に考えられた方がいいと思います。
先日、私が勤めている会社で、50歳を過ぎて定年が近づいてきた社員を対象に、老後の生活に関するセミナーがありました。それに伴い、ファイナンシャルプランナーという人が、私の資産や、老後の生活費などの状態を分析、診断してくれました。
私の会社は大手広告代理店で、私はもう30年以上勤めていますが、確かにサラリーマンとしてはかなり高い水準の給料をいただいてきました。そう贅沢をしてきたつもりもないのですが、お金は持っていれば使うし、また社会的にも、あまり貯めてはいけないと思っているので、それなりに使ってきました。ですからそう資産がないのはわかっていました。
老後のことなど初めて考えたというのが正直なところですが、その人から話を聞くと、状況は私が思っていたよりやや厳しいものでした。このままだと、定年後はかなり生活レベルを落とさなければならない。まあ、それはそれで仕方ないのですが、ではどうすれば少しでも楽になるかをアドバイスしてくれました。
やはり、ネックは生命保険でした。私は、私が今入っている保険がどういう保険で、この先どうなっていくかということを初めてちゃんと知り、愕然としました。保険会社もだますつもりはなかったのでしょうが、やはり自分の会社に都合のいいことしか言わないというのがこの経済社会なのでしょう。第三者からの意見が大事であることを痛感しました。
私は入社直後にその生命保険に加入し、30年以上続けてきました。ときどき見直しがあり、担当者のすすめで妻や子も加入させたので、かなり高額な保険料を支払っていたこともあります。近年は、私も年をとったし、子供も大人になり、不景気で給料も下がったため、大分、金額は下げましたが、それでもこの先この保険を続けていけば、老後に大きく影響するというのがファイナンシャルプランナーさんの分析でした。
早速、私はその生命保険を解約、妻子の保険もやめました。必要最小限は別の保険に入りましたが、思い切りスリムになったし、長年もやもやしていたものが晴れて、とてもスッキリしました。
お金のいらない国なら何の心配もいらないのですが、ほんとにこの社会は厄介です。
お金の社会ならではのシステムの一つに、保険があります。保険にはさまざまな種類がありますが、中でも生命保険は、人によって好き嫌いがあったり、加入するかしないか、いくらくらいかけるかなども個人差が大きいでしょう。
私も30年ほど前に会社に就職した頃、ある生命保険に加入し、その後、結婚したり、子供が生まれるなどに伴い、保険会社のすすめで何度か見直しをしながら今も続けています。
生命保険は、保険契約者誰でもが、かけたお金が全部返ってくる、あるいは増えて返ってくるようでは保険会社はやっていけないし、基本的にそのお金のお世話にはならない方が幸せなのですから、儲けようと思ってするものではありません。万一の病気や事故で死亡、入院などしたの時のために、入っておくものでしょう。
ですから、保険の種類にもよるかもしれませんが、大半の人は最終的に、かけた金額より実質は少ない額を受け取ることになると思います。しかし、加入者の中には不幸にもたくさん受け取ることになる人もいるのですから、保険は人助けと思って入るくらいの方が納得できるかもしれません。
ただし、私の経験上、保険に加入する場合、考えておいた方がいいことがあります。保険は基本的に、収入のある人が亡くなったり、働けなくなった場合、その収入によって生活していた家族などが、とりあえず困らないようにするためのものだと思います。ですから、そういう意味では、収入のない人にかける必要はありません。
私の場合、結婚してしばらくして、保険会社のすすめで専業主婦である妻にもかけましたが、あれは意味がなかったと思います。妻が入院した時に入院費などは出ましたが、今までにかけた額に比べれば微々たるものです。また、子供が生まれた時、入学時などにお祝い金が出る保険に入れましたが、かけ金を別のところで貯金できれば、その方が無駄はないでしょう。
保険は、お金の社会では意味はあると思いますし、悪いというつもりはありませんが、経済的に余裕のある範囲で、また、必要か否かを自分でよく考えた上で加入されることをおすすめします。
私はかなり自己中心的な人間だと思います。自分は正しい、間違っていない。私が苦しんだり、不都合を感じたとすれば、それは周りがおかしいからだ。だいたいそう思って生きています。
例えば、「お金のいらない国」にしても、お金の仕事が面倒くさい、いやだと思い、それはお金の存在する社会がおかしいのだと考えたところから生まれたものです。
ただ、自分が正しいと思っているからといって、周りがどう考えていようと基本的にはかまいません。私は私の好きなように生きるから、人はみんなそれぞれ好きにすればいい。そういうスタンスです。
だから、自分と意見の違う人がいても気にしません。誰かを自分の思い通りにしようとか、説得しようとかも思いません。私は講演活動をしていますが、それも私はこう思うと言っているだけで、聴いてくれた人が何かの足しにしてくれればうれしいですが、違うと言う人を何とかしようなどとは思いません。
この社会を生きていく上ではいろいろな人と意見交換したり、何かを決めたり、ルールに従わなければならない場合もあります。それはそれで、自分の思うようにできるところはするけれども、できないところは成り行き任せで、あまりこだわりません。
もちろん、自分は神様ではないのだから完璧なはずがありません。だから、自分が間違っていると思った時はさっさと修正すればいいと思います。しかし、人間は成長し続けるものであり、いつの時点、どういう段階でも自分がいいと思ったように生きるしかないと思っています。
世の中の人を見ていると、人の目を気にし過ぎている気がします。あるいは自分と違う価値観に合わせようとし過ぎている。それが楽しい人はかまいませんが、苦しいのなら、そういう生き方はやめた方がいいのではないでしょうか。
たしかに自分を自由にさせてくれない要素はたくさんあるでしょう。それは家族だったり、会社だったり、社会のルールだったり。でも、その中でも、できるだけ周りを傷つけないようにしながら、自分の生きたいように生きる努力をすればいいのではないでしょうか。
自分が苦しい、いやだと思うことに出会ったら、その原因をとことん追究してみる。そして、その原因が自分以外の人や、社会にあるのだったら、それは自分のせいではないのだからできるだけ気にしない。自分を責めない。
不都合を感じたら、世の中がどうであれ、周囲の人がどうであれ、自分の心に素直に向き合い、それから対処を考える。そういう生き方ができれば、日本で年間3万人以上もいる自殺者もかなり減るかもしれません。
2010年3月30日(火)午前1時過ぎ、自宅で寝ていてトイレに起きた私は、転んで右足首に激痛を覚えました。酒を飲んで泥酔していたのでよく覚えていないのですが、妻が言うには、あっという間に右足は丸太のように腫れ上がったそうです。車で救急病院に連れて行ってもらうと、3か所も骨折しているとのこと。そのまま入院となりました。
夜が明け、午後に手術をしてもらいました。脊椎注射で半身麻酔をし、右足外側はくるぶしから上に金属板を入れて何本かのボルトを打ち込み、内側もくるぶし下からボルト1本を打ち込んで関節を固定しました。その夜はベッドの上で、左腕に刺した点滴や、鼻に入れた酸素吸入、尿道に通したチューブ、心電図のコードなどがんじがらめで身動きが取れず、背中が熱く苦しく、辛い思いをしました。傷口は麻酔が切れてくると痛み、また、看護師さんが1時間おきに血圧と体温を計りに来られるのでほとんど寝られませんでした。
しかし、翌31日(水)午後には退院しました。右足膝から下はもちろんギプスで、歩くときは病院に貸してもらった松葉杖を使います。会社は4月1日、2日と休みましたが、土日をはさんで5日の月曜から、妻に車で送ってもらって出勤しました。でも、デスクに座ってやれること以外はほとんど何もできません。また、右足は下に向けると鬱血して痛むので、腰の高さくらいに上げていないとなりません。社員食堂に並ぶこともできないので、昼食は妻が作ってくれた弁当をデスクで食べます。
松葉杖で歩くということは、両手も使えないということです。手提げバッグを持つこともできません。また、右足に全く体重はかけられませんから、二本の足で立ってやることは何にもできないわけです。歯を磨く、顔を洗う、トイレも一苦労です。風呂に入る時は妻にギプスの上からタオルとビニール袋でくるんでもらい、右足は湯船のへりに載せてシャワーだけ浴びます。
4月16日、ついにギプスが取れました。右足首から先は真っ赤に腫れていて、両側の手術の傷跡は痛々しいですが、今まで触れなかったところに触れるようになり、風呂で洗うことができました。大量の垢が出たことは言うまでもありません。
5月7日、先生に紹介していただいた別の病院でリハビリが始まりました。10分間、電気を通してから、右足膝から下、足先までを10分ほどマッサージしてもらいます。右足は下に置くことはできますが、まだ体重はかけられません。それでも、下に着けなかった時に比べたら松葉杖で歩くにしても安定感がまるで違います。鬱血の痛みもだんだん少なくなってきました。
その後、腫れは日を追うごとに引いていき、体重も少しずつかけてよくなりました。今日は6月10日ですが、体重の半分くらいはかけていいことになっています。リハビリは開始以来、行ける日は毎日行っています。松葉杖が取れる日も近いかもしれません。
52歳の私にとって、骨折も入院も手術も初めての経験でした。自分の不注意から起こしてしまった事故ですが、これもいろいろな意味で必要な経験だったんだと思えます。過去、私は酒の席で数々の失敗をし、たくさんの人に迷惑をかけてきました。事故の日以来、酒は飲んでいません。松葉杖が取れれば飲むつもりではいますが、以前のような飲み方はしないように気をつけたいと思います。
また、心配してくださるみなさんのありがたさを身にしみて感じました。治療してくださるお医者さんや看護師さん、会社の上司や同僚、いろんなつながりのたくさんの友だち。実家の母はよく電話をくれますし、妻はもう3カ月近く、毎朝弁当を作り、会社へ車で送り迎え、帰りにはリハビリに連れて行ってくれています。自己中心的で人のために尽くすことなどできない私は、全ての人に感謝の気持ちが足りなかったと反省しています。やはり人生、無駄なことはないですね。
2003年から「お金のいらない国」の寸劇をしてきた私ですが、昨年(2009年)、落語をはじめました。きっかけは知り合いが貸してくれたDVDシリーズ。現役の落語家さんたちの高座100席が2席ずつ1枚のDVDに収められて定期的に発売されるというものです。
私が子供の頃は、落語はテレビでよく放映されていました。父が落語好きだったこともあって、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さんといった名人の高座を見ていつも大笑いしていました。しかし、時の流れとともにテレビで落語が放映される機会は極端に少なくなり、最近はその面白さを忘れかけていました。
そのDVDシリーズは、世の中には今もたくさんの落語家さんがいて、おもしろい話がたくさんあることに改めて気づかせてくれました。私は、中でも柳家喬太郎という人を特に気に入ってしまいました。ネット検索するとTou tubeでもいくつか見ることができ、そのおもしろさと技にたいへん感動しました。DVDシリーズは古典落語ですが、この師匠は新作落語でも独特の世界を見事に作り出されます。それからは独演会に行ったり、CDを買いあさったりしました。
私は、小さい頃から落語は好きでしたが、自分でやろうと思ったことはありませんでした。しかし、そんなきっかけがあって、ある時、「お金のいらない国」を落語形式でやってみようと思い立ちました。それまでやっていた寸劇をするには私を含めて3人の出演者が必要でした。誰にお願いしても喜んでやってくださいますし、それはそれで楽しいのですが、みんなの都合が合わないとできないので不便なところもありました。でも、落語なら一人でどこでもやれる。寸劇もそうでしたが、思いつくとすぐやりたくなる私は早速試してみることにしました。
でも初めのうちは台詞はほぼ寸劇のまま、落語というよりは動きのない一人芝居という感じでした。そんな形で何度か講演するうち、聴きにきてくださった、やはり落語好きの方から、もっと落語っぽくやった方がいいというアドバイスをいただきました。なるほどと思った私は、話の後半を寸劇とは替え、キャラクターやしゃべり方も、より落語らしく聞こえるように工夫しました。
そんなことで「お金のいらない国」の落語をはじめてから、1年ほど経ちました。もちろん私は落語の修行をしたこともない素人ですが、おかげさまでずいぶんいろいろなところに呼んでいただき、たくさんの方に聴いていただくことができました。これからも規模や人数は問わず、どこでもお伺いしてやらせていただこうと思っていますので、ぜひお気軽にお声かけください。
お申し込み・お問い合わせはryujin@mwa.biglobe.ne.jpまで。
50年生きてきて思うのですが、僕は、今までの人生の中で起きてきたことは、ある時点では苦しかったり悲しかったりしたことでも、今となっては、すべてなるべくしてなり、そのタイミングで自分にとって必要なことだったと思えます。
身の周りではいつも必要なことが起こり、自分に必要な人が現れ、また、必要なくなれば去っていく。必要なことは次々に応援者が現れて発展していき、このまま続いてもプラスになりそうもないと感じたことは、自分から働きかけなくてもなぜか終わりを告げる。
単に僕は運がよく、たいした経験をしていないのかもしれませんが、船井幸雄さんが「すべては必要・必然・ベスト」、越智啓子さんは「すべてはうまくいっている」、山元加津子さんも「みんないつかのいい日のためにある」と言われているのを見ても、みなさんある意味同じことに気づかれたのかもしれません。
たしかにあまりにも悲惨な目に遭ったりすれば、遭ってよかったとは思えないでしょうし、それが人為的なことなら起こすべきではなかったでしょう。しかし、どんなことでも起きてしまったことを嘆くだけでなく、自分にプラスになるように受けとめられれば、それも意味はあったことになるのではないでしょうか。
起きた事実は変えられないし、消すこともできません。であれば、どんなことでも自分にとって必要であったと前向きに受けとめ、そこから何かを学んだ方が、自分にとって有意義に、その後の人生も楽しくなるように思います。
私が「お金のいらない国」という本を出したのは2003年ですが、小説を書いたのはその10年前の1993年です。はじめは本にするつもりなどなく、手作りした小冊子を身近な人に配ったり、インターネットが普及してからは、ホームページ上に掲載していました。
2002年頃、ネットを通じて知り合った人たちから出版をすすめられ、ある出版社サイトの企画を紹介してもらいました。それは、そのサイトに作品を掲載し、それがもし本になったら購入するという契約者を募り、期限内に規定人数をクリアすれば出版してくれるという企画でした。私は早速申し込みました。
しかし、期限内に投票数はクリアできたにもかかわらず、商品価値が認められないという理由で、結局、その出版社からは出版してもらえませんでした。
2003年に「お金のいらない国」をネタにしたイベントをすることが決まり、私はそれまでには自費出版でも出版しようと決心しました。イベントスタッフの一人から、S舎という出版社が定期的に小説などのコンテストを行っており、上位入賞者の作品を出版するという企画があることを教えてもらいました。
そして、その賞に応募してみました。残念ながら私の作品は選に漏れましたが、後日、S舎から、共同出版という形で出版しないかと持ちかけられました。共同出版というのは、最初に500部の制作費プラスアルファを作家が払い、1年以内に売り切れれば出版社が増刷するというものでした。単純な自費出版より割高ではありますが、世の中に書籍として流通させることができ、ネット販売も行えるというメリットがあります。
私はその形で契約し、2003年7月のイベントまでに、無事、本が完成しました。たったの500冊ですからそうそう書店に並んだりすることはないのですが、発売当初は近くの書店に並んでいるのを見ました。私の場合はおかげさまで1年以内に売り切れ、S舎は約束通り500冊の増刷をしてくれました。
その後、何度か増刷を重ねるうち、2005年の愛知万博「愛・地球博」で、ネットワーク『地球村』の高木善之さんと知り合いました。高木さんは「お金のいらない国」を絶賛してくださり、続編を『地球村』出版から出してくださいました。また、「お金のいらない国」自体も『地球村』出版から出したいと言われ、私は2006年にS舎との契約を解除し、若干の加筆修正を加えた改訂版を『地球村』出版から出していただきました。
S舎はその後、他の著者とのトラブルが社会問題化し、倒産に追い込まれてしまいました。詳しい事情は存じませんが、私が関わる限りはS舎には何の問題もありませんでしたので、残念なことだと思います。
因みに、S舎版と『地球村』出版版の装丁はよく似ていますが、タイトルバックのパターンがS舎版はブルー、『地球村』出版版はピンクです。
私は今までこのホームページ上に、日頃生きている上で思いついたことをエッセイやショートショートなどの文章にして、その都度アップしてきました。各ページの目次タイトルの横に日付を入れ、いつ書いたものかわかるようにしています。(日付の入っていないものは、日付をつけ始める以前に書いたものです)
さまざまな人と関わり、社会で生活して行く上では、考えさせられること、悩んだりすることが多々あります。そこで思ったこと、気づいたことを文章にすることによって、自分の考えが整理され、また、足りないところに気づき、もっと深く考えたり、修正することができます。私の場合は、そうやって書いたものを誰でも閲覧可能なホームページにアップするという、自分にある意味責任を課すことで、幅広いことに応用の利く、できるだけ普遍的な内容にするように努めてきたつもりです。
しかし、あくまでも未熟な私が書いたものですから、正しいという保証はありませんし、また、過去に書いたものを改めて読むと、現在とは矛盾している部分があります。現在もすぐに過去になるわけですが、私は、一度書いたものは敢えて修正せず、そのまま残すことにしています。読んでくださる方には日付を見て、その時点では作者はそう考えていたのだと判断していただきたいと思います。
私のような形で公表しないまでも、考えたことを文章にするという作業は、先に述べたような効果があると思います。記録として残す残さないは別として、また、どんな表現形態をとるにしても、頭の中だけで悶々と考えているよりは、文章にしてみてはいかがでしょうか。
私が高橋信次氏の著書に出会ってスピリチュアルなことに目覚め、唯物論者から唯心論者に大転換したのが1991年、33歳の時でした。自分の言葉で伝えたいと思い、それから2年くらいの間に「宗教なんて大っ嫌いな人へ」という随筆や、短編小説「お金のいらない国」などを書きました。
まだパソコンはほとんど普及していない頃で、ワープロで打ったものをプリントアウトし、コピーをとって綴じて、身近な人に配って読んでもらっていました。
その頃の周りの人の反応はあまり芳しくないものでした。死後の世界や、目に見えないものを信じるのはちょっとおかしな人というイメージだったようです。まあ、以前は私自身が唯物論者だったわけですから、当然といえば当然です。せいぜい「お金のいらない国」が、現実にはあり得ないけれど、小説としてはおもしろいといった程度の評価でした。
その後、パソコンが普及し、私も1999年にホームページを立ち上げると、理解者は徐々に見つかりはじめました。それから9年ほど経つわけですが、その間にいろいろな出会いがあり、仲間は爆発的に増えました。
スピリチュアルなことにしても、お金のいらない国にしても、人によって受けとめ方はさまざまだと思いますが、ここ十数年の間に人々の意識はかなり変わったと思います。テレビにしても、以前はせいぜい面白半分のオカルト番組でしたが、今はゴールデンタイムに大真面目なスピリチュアル番組がありますし、書店にもスピリチュアルのコーナーができています。
身近でも、以前は否定的だった人が、肯定的になっていたりします。スピリチュアルなことは一つ間違うと危ない部分もありますが、少なくとも物質至上主義の文明は限界が見え、終わりに近づいているということかもしれません。既に私は50歳になりましたが、昔に比べると、本当に世の中は変わったと思うし、これからもっと面白いことになりそうな気がします。
私の名前、長島龍人(りゅうじん)はペンネームで、本名は長島隆人(たかひと)といいます。ペンネームは、隆人を音読みにして文字を替えたんですが、隆人という名前は僕の叔父さんがつけてくれたそうです。
親戚の人などからは子どもの頃から「りゅうちゃん」と呼ばれていました。「たかちゃん」と呼ばれたことはほとんどなく、記憶にあるのは近所のお風呂屋さんのおばさんくらいです。そして、名付け親の叔父さんだけは、なぜかいつも「りゅうじん」と呼んでいました。
ですから、「りゅうじん」は昔から馴染みがあり、ペンネームはあまり考えずにそうしました。文字は「龍」が好きだったので使わせてもらいました。音を聞くと龍神を思い起こし、おこがましいですが、「じん」が人なので許していただきたいと思います。
私は食べものの好き嫌いはあまりなく、たいていのものはおいしくいただきます。ただ、苦手なもの、できれば避けたいものはあります。食べたことのないものに関しての好き嫌いはわかりませんし、ゲテモノなどもいやですが、普段食べる必要もないでしょうからここでは除外します。
また、嫌いといっても、外で出されれば食べますし、普段食卓に並ぶようなものなら、我慢しても食べられないとか、食べると体に異常が出てしまうようなものはありません。
「きな粉」
小さい頃から、いやだった記憶があるのは、きな粉です。きな粉は好きな人が多いらしく、嫌いだというとよく驚かれますが、私はあの匂いがだめです。安倍川餅もだめで、くず餅にも自分からすすんできな粉はかけません。「ハチミツ」
これも小さい頃、お湯に溶かしたものを飲まされて嫌いになりました。やはり匂いがだめです。今は、匂いのきつくないものならパンにつけるなどして食べることができます。「ニッキ」
やはり小さい頃、ニッキ飴が嫌いでした。シナモンも同じ匂いです。スイートポテトや生八つ橋にかかっている程度なら、そんなに気にせず食べることができます。「レバー」
レバーも同じく小さい頃、匂いと歯ごたえがいやでした。今は焼き鳥屋さんでは時々食べます。でもやはり砂肝の方が好きです。「カキ(貝)」
これも昔から、あの匂いと歯ごたえがだめです。フライならソースで食べられないこともありませんが、生はどこがおいしいのかわかりません。妻が大好きなので、居酒屋などで頼むと全部食べてもらいます。「パクチー」
タイ料理のほとんどのメニューに入っている強烈な匂いのあの葉っぱです。あれさえ入っていなければおいしいのに、なぜ入れるのか意味がわかりません。周囲を見ると、男性には嫌いな人が多いようです。「生のタマネギ」
匂いが食後まで口に残るのがいやです。かなり水にさらして匂いの抜けたものなら食べられます。サラダやサンドイッチには入れてほしくありません。炒めたものなどは好きです。私の嫌いなものは、ほとんど匂いが原因のようです。自分がくさいと思う匂いは徹底的に気になります。人に比べて、いい匂いをかぎたいと思うより、いやな匂いをかぎたくないという意識が非常に強いかもしれません。
とは言っても、シソやミョウガ、山椒の香りはとても好きです。また、キンモクセイの匂いがわからず、よくあきれられます。
私はおかげさまでいろいろなことをさせてもらっています。やりたいと思ったことはなんでもやってみて、自分もそれなりに満足し、見聞きしてくださった方々にも喜んでいただけているとすれば、とても幸せなことだと思います。
私が現在させてもらっている「お金のいらない国」に関する活動は、いろいろな方から影響を受けたり、ヒントをいただいたりしています。私が勝手にそう思っているだけですから、ご本人たちには大きなお世話かもしれませんが、感謝の気持ちを込めて、ここにご紹介させていただきたいと思います。
●ラーメンズ
ラーメンズは、とてもシュールでおもしろいコントをされる二人組です。片桐仁、小林賢太郎両氏からなるラーメンズは、以前は漫才コンビとしてテレビに登場したこともありましたが、その中身はお笑いという域を超えた芸術であると思います。私より前から妻が大ファンだったこともあって、ラーメンズの舞台は何度か拝見し、うちにはDVDもたくさん買い揃えてあります。必要最小限の小道具しか使わないシンプルな舞台。その知的でナンセンスな独特の笑いの中における、人間の深層をえぐり出すような内容、緻密な脚本、抜群の演技力は見るたびに感心させられます。
「お金のいらない国」の寸劇は、先に録音してあるセリフに、役者は口や動きを合わせるというものですが、これもラーメンズが舞台の中で一部に取り入れていた手法です。もっともこれはさらに昔、私がゲイバーのパフォーマンスで見て印象に残っていたのですが。
● 星新一
星新一さんはSF作家の大御所、ショートショートというスタイルの先駆者です。その奇抜な発想、少ない文字数の中で意外なオチに持ち込む計算されたストーリー展開は、いつ読んでも新鮮で痛快です。ほとんど本を読まなかった高校時代、古本を売りたがっていた友だちから星新一さんの文庫本を何冊か買いました。あまりにも面白くて、それから本屋さんで買いあさり、ほとんど読んでしまいました。
気軽に読める平易な文体、短い文章で中身の濃い内容。私はショートショートや短編小説を書くときにお手本にさせていただいているつもりです。
●手塚治虫
言わずと知れた漫画の神様。手塚治虫以降の日本の漫画家で、この方の影響を受けなかった人はいないのではないでしょうか。アニメーションの分野でも日本におけるパイオニア。その情熱は60歳で亡くなるまで失われることはなかったようです。私が幼稚園に通っていた時に、テレビで日本初のアニメ「鉄腕アトム」の放映が始まりました。私は幼稚園で毎日、画用紙にクレヨンで鉄腕アトムを描き、その裏に、同じくその頃放映されていた横山光輝の「鉄人28号」を描いていました。
手塚先生の作品は大好きなものがたくさんありますが、たしか30歳くらいの頃に「ブッダ」を読んで、宗教というものに興味を持ちました。私は、それまではガチガチの唯物論者で、あの世などあるわけがない、自分の目に見えるもの以外は何も信じないという考えでした。しかし、仏教にしろ、キリスト教やイスラム教にしろ、これだけ宗教というものが世の中にあるというのはどういうことだろう、ブッダやイエスは、一体何を言っているんだろうと気になったわけです。
●高橋信次
高橋信次さんはGLAという新興宗教の開祖です。宗教に興味を持った私は、書店でいろいろな宗教書を手に取るうち、そのご著書に目をとめました。人間の本質は霊であり、この世限りのものではない。肉体はこの世を生きるための乗り物、人はいずれはその肉体を離れ、あの世に還る。
衝撃でした。徹底的な唯物論者だった私は、その大前提をひっくり返されました。そして、人はこの世限りのものではないと仮定して考えた時、それまでの自分の悩み、疑問がすべて氷解しました(詳しくは、同ホームページ内「宗教なんて大っ嫌いな人へ」「30年間、私は何を悩んだか」をご参照ください)。
高橋信次さんはそのとき既に亡くなっていましたし、私はそれ以降もいかなる宗教にも関わっていませんが、この意識、価値観の大転換が現在の私の発想の原点であることは間違いありません。
私は健康な方だと思います。風邪は滅多にひかないし、そろそろ生まれて50年が経とうとしていますが、大きな病気もしたことがありません。入院も手術も今のところ経験がありません。
運動神経は非常に鈍いし、決して人より体力があるわけではありません。体は大きいですが、スポーツは何もできないので、無理をしないのもいいのかもしれません。そんな私の健康法をちょっとご紹介します。
●食べ過ぎない
「腹八分目に医者いらず」とはよく言ったもので、食べ過ぎないというのはとても体によいようです。その人に合った体型はあると思いますが、あまり太ると体には負担になると思います。私は、食後におなかが苦しくなるような食べ方はしないように気をつけています。外食する時も、肉や、カロリーの高そうなメニューは自分からは頼みません。私も若い頃は肉もたくさん食べましたから、体が欲するなら無理して我慢することはないと思いますが、なるべく野菜中心にした方が、血管の状態や、血液の流れなどにはいいようです。
●腹を立てない
腹を立てて興奮すると血圧が上がり、怒鳴ったりすれば周囲によくない波動を与えます。これは私自身がよくやってしまっていたことなのでよくわかります。腹を立てることは、自分はもちろん、周りの人の健康状態にも影響を与えると思います。腹を立てるか立てないかは自分次第です。思い通りにならなくても、人と意見が食い違っても、自分が腹を立てさえしなければいいのです。私は、自分は正しいと思って生きるのは人間として当然だと思うし、人にも、自分は間違っていると思いながら生きてほしくはありません。しかし、自分だけが正しい、自分と違う人は間違っているとは考えずに、人にはそれぞれの考えがある、あるいは、自分以外の人間は自分と違ってもかまわないという割り切りが必要だと思います。これは家族など身近な人に対して特に必要です。その考えが徹底すると、腹は立たなくなります。
●よく寝る
電気が発明されてからは、一般的に相当、夜起きている時間も長くなったと思いますが、現代の人は睡眠時間をあまりとれない人も多いでしょう。私も飲みに行ったり、いろいろと用事があって、寝不足になることがよくあります。しかし、睡眠というのは非常に大事なことで、自律神経の働きを考えても、体は十分休めなければいけないようです。私の場合、昼間でも、少しの時間でも、眠れる時には寝るようにしています。いつでもどこでもすぐ寝られるというのは特技かもしれません。会社のデスクでも、タクシーなどに乗っても、眠い時は寝てしまいます。なかなか会社で寝られる人も少ないかもしれませんが、そういう意味では私は恵まれた環境にいます。
●極力、薬を飲まない
体には自然治癒力があります。体調が悪くなった時に出る症状は、体を治すために出ている症状です。ですから、薬を飲んでその症状だけ抑えても、根本的な治療にはならず、かえって状態を悪くすることも多いようです。これは医者にかかっても、対症療法を受ければ同じことです。ですから、常に体は治ろうとしているということを忘れずに、具合が悪くなったらとにかく体を楽にして休むこと。余計なことは考えず、リラックスして、肉体とともに精神も休めるようにすることが大事だと思います。
私は音楽が大好きですが、特に好きになったのは中学時代にビートルズを聴いてからです。中学、高校時代のお小遣いは、ほとんどビートルズのレコードにつぎ込みました。うちには壊れかけた卓上ステレオしかなかったのですが、繰り返し聴いては、のた打ち回っていました。
歌い始めたのもその頃からです。狭い家だったので大声は出せず、毎晩、押入れのふとんの間に首を突っ込んで、ビートルズや、その頃、流行っていた歌を歌っていました。
ギターは、大学に入ってからクラシックギターの通信教育を始めました。数年続けましたが、難しくなったのでそれ以上続ける気にはならず、やめてしまいました。
大学時代は、人前で歌うということはほとんどありませんでした。その頃はまだカラオケもなく、唯一、ウェイトトレーニング部の宴会で、手拍子で歌っていました。所属する学部では、卒業時の謝恩会で初めてアカペラで「Yesterday」を歌ったところ、友だちにかなり驚かれたのを覚えています。
会社に入ると、社員のバンドにヴォーカルで入りました。しかし、やがてドラマーがいなくなり、私がドラムスをすることになりました。バンド経験のあるメンバーに基本パターンだけ教えてもらい、あとは原曲を聴いて適当にやりました。ヴォーカルをとりながら叩くこともしばしばでした。会社のイベントに数年間出演しました。
入社して3年ほどすると、世の中にカラオケが普及してきました。その後カラオケは、CD、レーザーディスク、通信カラオケと進化しながら、外国曲なども増え、私もカラオケボックスやカラオケスナックで毎晩のように歌いました。お金も相当使いましたが、これがかなりの練習になったと思います。
ものまねブームが来ると、私もものまねをするようになりました。テレビ局のアマチュアものまね番組のオーディションを受け、2、3度出演させてもらいました。一緒に出演した人の中には、今ではプロになって活躍されている方も何人かいらっしゃいます。
会社に派遣されていた女性が、ヤマハポピュラーミュージックスクールでヴォーカルを習っており、彼女に誘われて、たまにライブに出演するようになりました。バンドに参加したり、先生とユニットを組んだり、楽しい音楽仲間が増えました。
2003年、ネットを通じて知り合った人たちと、「お金のいらない国」をネタに岐阜県可児市でのイベントを企画。そこでは寸劇をするとともに、ラストに、一緒に出たバンドの人に伴奏してもらって日本語のイマジン「想像してごらん」を歌いました。
その後、「お金のいらない国」で何度かイベントに出演するうち、自分でギター伴奏をしようと思い立ちました。アコースティックギターを買って、コードを覚え、イベントにはギターをかついで出かけるようになりました。自分で「お金のいらない国の歌」を作詞作曲し、それも歌うようになりました。
ひと頃、コンピュータでの音楽作りに凝りました。友だちのフュージョンバンドに曲を提供したり、広告代理店である自分の会社の仕事で使うCMソングを作ったりしました。
同僚から、CMのプレゼンテーション用の歌の歌唱を頼まれたり、他社から、イベントで流すものまねの歌を依頼されたこともありました。
2006年1月、知り合いのバーで、ソロでライブをしていた人がいました。飛び入りで「And I Love Her」を歌わせてもらったところ、一緒にユニットを組もうと誘われました。3月末にその店でぶっつけ本番の初ライブをし、それから月に一度くらいのペースで出演させてもらっています。
ビートルズのマイナーな曲を中心に演奏するBm(ビーマイナー)。結成以来1年半が経過し、ライブハウスにも何度か出演させてもらいました。2週間に一度、スタジオを借りて練習しています。相方は今年、還暦を迎え、私も来年の2月で50歳になりますが、ますます元気なおじさんバンドです。
私の父は、1920(大正9)年生まれ。場所はちょっと違いますが、現在も私の実家のある東京都港区で生まれ育ったようです。四十代でくも膜下出血で倒れ、私が結婚した1983(昭和58)年の暮、脳の血管が切れて亡くなりました。享年63歳でした。
父は、病気になるまで紳士服の仕立て屋をしていました。私が生まれる前に亡くなっていたお祖父さんから継いだ仕事です。懇意にしてくれるお客様もいたようですが、生活は決して楽ではなく、私が小さい頃は毎晩夜中まで仕事場の電気がついていたのを覚えています。
父は第二次世界大戦の時、兵隊にとられて沖縄へ行きました。沖縄では民家に大変お世話になったそうです。その家の泡盛をみんな飲んでしまい、ひどい兵隊がいると噂になったとか。私が結構お酒に強いのは父親譲りでしょう。父は戦後、観光地化された沖縄には一度も行きませんでしたが、沖縄の方たちにはずっと感謝していて、沖縄は大好きなようでした。
父は、家族によく戦争の話をしてくれました。新兵の頃は上官に相当ひどい目に遭わされたようですが、父が話すと笑い話になりました。父は背は大きくはないし痩せているのですが、私と違って運動神経が発達していて大学時代にはラグビーで鍛えていましたので、軍隊の演習でも1、2を争う体力だったようです。
戦況が悪化すると父の部隊はばらばらになり、父はサトウキビをかじりながら、ひとりで逃げ回っていたそうです。かなり危ない目に遭いながらも生き延びましたが、左足を撃たれて捕虜になりました。銃弾は骨を貫通、その頃の医療ですから完治もせず、戦後退役してからも入退院を繰り返すことになりました。
捕虜の待遇はなかなかよく、タバコやお菓子の入った缶詰をくれ、さすがアメリカと思ったそうです。終戦後、その時に使っていた金属製の取っ手のついたコップを持ち帰ってきていて、現在、私の家にあります。コップの底には「1940U.S.」と刻印されています。
たくさんの人が戦死した沖縄から奇跡的に父が生きて帰ってこなかったら、私は生まれていませんでした。現在この世に生きている人はみな、戦争の中を生き残ってきたか、その子孫なわけで、それだけでも命を粗末にしてはいけないのではないかと思います。生まれてきたことはとても幸運で、きっと意味のあること。人生は大切に、悔いなく送りたいですね。
22歳で就職して、会社から給料をもらうようになると、私は貯金を始めました。お金はできるだけたくさんあったほうがいい、たくさん貯めたいと思っていました。マネー雑誌を愛読し、ボーナスをもらうと銀行や証券会社に行って、なんとかファンドやなんとか投信に預けました。
昔は金融商品の利率がよかったですし、私はあまりリスクのあるものには手を出さなかったのでお金は順調に増え、マンション購入の頭金にしたり、車などを買いました。
母親のすすめで、入社してから小遣い帳をつけ始め、二十数年間続けました。はじめはノートに手書きで、その後、ワープロ、パソコンと、ツールは世の中に合わせて進化していきました。毎晩、財布の中身を確認し、何にいくら使ったかを思い出して、項目別に金額を書き込みます。毎月集計、年度末には1年分の集計をし、パソコンでグラフを作ったりしました。
このことを人に話すと驚かれますが、A型で几帳面な私には苦ではありませんでした。小遣い帳はつけるだけで別にお金を節約するわけではないのですが、何にいくら使ったのかがわかるので、自分の行動を知る材料にはなりました。しかし、お金の本質に気づいてからはあまり必要性を感じなくなり、つけるのには結構手間もかかるので、数年前にやめてしまいました。
今私は、お金は必要な分だけはほしいけれども、あればあるほどいいとは思っていません。経済はゼロサム(プラスマイナスゼロ)なので、余分なお金を貯めることによって貧富の差が生まれると考えています。
息子が大学生なのでまだ数年はかなりのお金が必要ですが、自分はあまり物などがほしいとは思わなくなりました。福祉の行き届かないこの国ではある程度の貯えもないと不安ではありますが、できるだけお金は、多くの人にとって、社会にとってためになる使い方をした方がいいと考えています。
私はすごい汗っかきです。普通の人に比べたら、何倍もかくと思います。夏の初めから、外をちょっと歩いたり、食事をしたりするだけで汗だくです。ですから子どもの頃から外に出る時、ハンカチは必需品でした。忘れようものなら悲惨なことになっていました。
人と比べてあまりにも汗の量が多いので、拭くのも面倒だし、とてもいやでした。でも、私の場合、病気ではないし、新陳代謝がいいから汗をかくので、悪いことではないようです。年のわりに肌に張りがあると言われるのも、汗がたくさん出るおかげかもしれません。勝手なもので最近は、汗をかく体質でよかったなあなんて思っています。
ハンカチは、吸水性のよいタオル地か、柔らかい厚手のものをいつも2枚持ち歩いています。1枚は、汗拭き用、1枚は手拭き用です。
私はよく手を洗うのですが、トイレにペーパータオルが備え付けてあっても絶対に使いません。手を拭くくらいのことに貴重な紙資源を使うのは非常にもったいないと思います。ぜひ、みなさんにも手拭き用のハンカチは持って出かけていただきたいと思います。
私は1958(昭和33)年、東京で生まれました。東京タワーのできた年です。まだ高速道路も高層ビルもありませんでした。大学を卒業するまで東京都港区に住んでいましたが、その間に辺りの景色は一変しました。
幼稚園はキリスト教系の私立に行きました。うちは一応仏教ですが、区立の幼稚園のくじ引きに外れたためです。小学校は6年間、港区立の小学校に通いました。5年生から近所の同級生4人グループで、平日の夜、週に3日、家庭教師に来てもらいました。場所は各家持ち回りで、4人と先生が集まり、先生が帰る最終バスの時間まで勉強するのです。日曜日はその4人で進学教室に通い、毎週、試験を受けました。その結果は木曜日に送られてきて、順位が出ました。
中学校は5校を受験しましたが、すべて落ち、区立の中学校に行きました。土日は進学塾に通いました。日曜に行っていたところはやはり試験があって、全国の順位が送られてきました。
高校も5校を受験し、私立1校以外、すべて落ちました。確実視されていた都立高校も、一番肝心な3年生の2学期に内申書の点数を激しく落としたため、だめでした。私が行った私立高校は今でこそ名門になっていますが、その当時はある程度の成績の子にとってはすべり止めでした。高校でも日曜日に予備校に通い、毎週試験を受けました。
私の隣のクラスに、美大を目指しているとても絵の上手な友だちがいました。私は小さい頃から絵が好きで、高校でも彼の所属する美術部で一緒にデッサンをしていたのですが、3年生になったある日、顧問の美術の先生が、
「長島も美大を受けるんだろ」
と言いました。どうも先生は冗談のつもりだったようなのですが、私は普通の勉強はいやになっていたので、美大もいいなと思ってしまいました。そして、高校3年の夏休みから大胆にも進路変更。以前から予備校のデザイン科に通っていたその友だちと一緒に、そこに通い始めました。両親は、なぜか私が美大を目指すことを全く反対しませんでした。普通の親なら、美大を出ても食っていけないのではないかという心配をすると思います。後から聞きましたが、美術の先生の方が心配して、親に本当にいいのか確認してきたそうです。親は、小さい頃から教育熱心でしたが、子どもには何か一つ、好きなことをやらせてやりたいと思っていたそうです。因みに妹は、幼稚園からピアノ一筋で、音大を出ました。
予備校には浪人中のデッサンの上手な人がたくさんいました。今では有名な俳優になったTさんもいて、とても仲よくしていただきました。僕はそういう先輩の絵をお手本に半年間、デッサンなどの勉強に励みました。
大学は3つの美大を受験し、運よく現役で2つに合格することができました。行ったのは武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科。平面が主になりますが、ビジュアルに関する幅広いデザインを学ぶところです。クラブ活動はウェイトトレーニング部に入り、1年生の頃は毎日バーベルを持ち上げていました。運動は苦手なのですが、体型をよくして体力をつけたかったのです。おかげさまで力もかなりつき、丈夫になりました。大学3年の頃、いい気になって食べていたら一時、体重が100キロを越えました。今は67、8キロですから30キロ以上重かったことになります。
私はアルバイトというものをほとんどしたことがありません。決して裕福な家庭ではないのですが、親が、学生は勉強しなくてはいけないからということで、バイトはさせませんでしたし、自宅通いだったこともあって食うには困らず、私も働いてまで遊ぶ金がほしいとは思いませんでした。そして、4年生になっても、就職活動をする気になりませんでした。
ある時、大学に某食品会社宣伝課から推薦入社の案内が来ていました。就職試験を受けたくなかった私は、教授に推薦をお願いしました。宣伝課の作品面接の後、人事部の面接を受けました。しかし、結果の通知がいつになっても来ません。私は教授に様子を聞きに行きました。
「実は……」
とっくに落ちていたのでした。早く言ってよね。さあ、どこかを受験しなくてはなりません。しかし、もうほとんどの会社は採用試験を終えていました。残っていたのは某大手広告代理店。だめもとで受けるしかありませんでした。ある朝、うちでだらだらしていると、大学から電話がありました。
「推薦されていますが、今日の午前中までに手続きをしないと無効になりますよ」
「ええっ!すぐ行きます」
広告代理店を受験するのにも大学の推薦が必要なことをちっとも知らなかった私は、慌てて片道2時間近くかかる大学に行き、手続きをしました。採用試験を受けに行きました。採用調書というものに顔写真を貼るのですが、「スピード写真は不可」と書いてありました。私が持って行ったのはそのものズバリのスピード写真。ええい、こんなことで落とすなら落とせ!とその写真を貼り付けて提出しました。
幸いそれで落とされることはなく、それから筆記試験、実技試験、作品面接、重役面接などがありましたが、なんと採用されてしまいました。大学の優秀な友だちがたくさん落ちていたので、先生も友だちも自分もびっくりしました。
会社の配属先はなぜか縁もゆかりもない名古屋でした。私は、親元を離れるのも悪くないと思いましたし、そう遠くない将来、東京転勤になるだろうと軽く考えていました。しかしその後、結婚して、子どもができ、その子どもが今では大学生。私が入社してからもう27年も経ち、東京より名古屋の方が長くなりました。
10年くらいは東京に帰りたくて仕方ありませんでしたが、今となって考えれば、この名古屋に来てからのたくさんの人との出会い、経験は、何ものにも替えがたい貴重なものです。名古屋に来てよかった、すべては必然だったんだなあと思えます。
私は、運はいい方なのではないかと思いますが、受験に失敗したことは数知れず、会社でも出世や名誉などとは縁がないわけで、今までの人生がそう順風満帆だったわけでもありません。でも、それにめげることなく、自分の宿命を受け入れてきた結果今があることを、それなりに満足しているのではないかと思います。
また、例えばもし、中学、高校受験で志望校のどれかにでも受かっていたら、全く違った人生になっていたでしょう。そういう意味では今の自分は、うまくいかなかったことも含めてすべてがあったからこそ形成され、ここにいるということになります。
それに満足するのか不満に思うのかは人それぞれかもしれませんが、あまり嬉しくなかった経験からも学んだことがある、あるいはそういった経験からこそ学べるのだとすれば、すべての経験は貴重なものと考えたほうが自分にとってプラスになるのではないでしょうか。
そして、人間万事塞翁が馬、先のことはどうなるかわかりません。そもそも、この先進国のおかしな社会で教育を受け、不自然な仕事をし、今まで生きてきた過程では、地球資源や他国の人々の多大な犠牲をはらっているわけです。このある意味特殊な、恵まれすぎた社会の中で大過なく過ごせたとしても、それが何だというのでしょう。
現在、地球環境は最悪、戦争はなくならず、激しい貧富の差がつき、生きることもままならない人が山ほどいます。その原因も、先進国のやり方、暮らし方に問題があるからとわかった以上、この事実に目をつぶり、自分さえよければいいというような生き方をしていては、その価値も半減してしまうでしょう。さあ、来年の2月が来れば50歳になる私は、この先どんな人生を歩むのでしょうか。
2003年7月19日、岐阜県「可児市文化創造センター」で開かれたイベントで、初めて「お金のいらない国」の寸劇を上演してから約2年が経ちました。「お金のいらない国」&「イマジンコンサート」は、2005年万国博覧会「愛・地球博」の市民プロジェクトに公式参加し、本番を5日後に控えています。
この2年の間に私は本当にたくさんの人と出会い、その趣旨に共感していただき、「お金のいらない国」は計30回ほど上演させていただく機会を得ました。イベントで見られたことをきっかけに、いろいろな方にご紹介してくださったGさん、ご自分の会社の周年パーティに呼んでくださり、出席者全員に本をプレゼントしてくださったEさん、素敵な舞台衣装を作ってくださったデザイナーのSさん、そして、ご自分の講演会に呼んでくださった環境問題研究の第一人者Tさんとネットワークの方たち。その他知り合ったたくさんの人たちが、さまざまなイベントに呼んでくださったり、本を紹介してくださいました。
手探りで始めた「お金のいらない国」の活動ですが、この短期間にこれだけの手応えが得られたことは、私は言葉にならないほど嬉しいし、応援してくださった皆さんに心から感謝しています。そして、現在の社会に疑問を感じ、本当の人間の生き方、理想社会を目指している人がこれだけたくさんいるのだということがわかり、計り知れないパワーをいただいたと感じています。今後も自信を持って活動を続けるとともに、賛同してくださる多くの方たちと力を合わせ、理想社会の実現に向けて、楽しみながら努力して行くつもりです。
人はよく、贈り物をします。誰かに何かをあげることによって、喜んでもらいたいと考える。一種の愛情表現と言えるでしょう。例えば誕生日や、クリスマスなど何かの記念日に、その人がもらって喜ぶであろう物をあれこれ考え、買うなどして準備しておき、渡した時の相手の反応を期待する。贈り物をすることが好きな人はそれが楽しいのでしょう。
私は、この贈り物というのが、あげるのも、もらうのも、ちょっと苦手です。愛情が足りないと言われればそれまでかもしれませんが、相手のほしい物がはっきりわかっているならともかく、いらないものをあげても、迷惑だろうと考えてしまう。また、自分がもらったら、いつか何かを返さねばと考える。人に物をあげるということは、同時に相手にそういう気を遣わせることにもなります。
また、お金で買った物をやりとりすること自体にも疑問を感じます。私の理想とする「お金のいらない国」ではすべてがタダですから、ほしい物は自分で手に入れればいいわけで、わざわざ人からもらう必要はないですし、少なくともお金がかかっているから贈り物に価値が増すということはありません。現在の世では、たくさんお金をかけたことによって愛情の大きさを表そう、或いは表してほしいと考える人もいるようですが、それは発想が歪んでいると思います。
ここで、贈り物をする行程を分析してみましょう。まず、(1)相手のほしい物は何かと考える。(2)それを入手しに行く。(3)お金を出して買う。(4)渡す場所まで運んでくる。(5)相手に渡す。「お金のいらない国」での贈り物は、このうち(3)の抜けた行動になります。「お金のいらない国」では物事の本質が表れると思いますから、(3)以外の行動のみで喜んでもらうのが本来の贈り物なのかもしれません。
また、私が常々疑問に思っているのが、中元、歳暮。個人レベルや会社レベルもあり、世間がこれに費やす金額はかなりのものと思われます。経済社会を支える上では無くせない習慣なのでしょうが、全てとは言わないまでも、義理で物をやりとりするのは資源の無駄遣いだと思います。関係によっては、ある意味賄賂ですから、これをしなければ保てないようなつながりというのも困ったものです。
お金で買える物を対象に、贈り物について考えてきましたが、勿論、手作りの物、滅多に入手できない物などを贈ったり贈られたりすることにはまた違った意味があるでしょう。これは「お金のいらない国」になっても変わらないと思います。
行楽シーズンになると、よく「家族サービス」という言葉を耳にします。日頃忙しく働いているお父さんが、やっと取れた休日を、体を休める間もなく家族を旅行に連れて行くなどして費やし、体力もお金も使い果たすようなことを意味するようです。
旅行も好きじゃないし、車の運転もしない私にはとても真似のできないことなので偉そうなことを言えた義理ではありませんが、私は「家族サービス」と聞くと、え?ほんとかよ、と思ってしまいます。
「家族サービス」という言葉からは、お父さんはあくまでも犠牲者、家族に喜んでもらうために自分はやりたくないことを敢えてしているといったニュアンスを感じます。でも、お父さんが本当に嫌だと思っているようなことだったら、家族はしてもらって嬉しいんでしょうか。お父さんはおまえたちのために、無理してやってやっているんだなんて言われたら、家族も、そんなに嫌なことならしてくれなくていいよと言いたくなると思います。
私は家族サービスなるものをしているお父さんたちは、実は自分が楽しんでいる、或いは家族のために尽くすことに、喜びや満足感を感じていて、好きでやっているのではないかと思います。まあ、そうでもなければできっこないと思うし、世の中に於ける「家族サービス」という言葉の意味はそもそもそういうことなのかもしれません。
「家族サービス」に限らず、人のために何かをするような場合、どんなことであれ、それをすることにどこかで自分が充実感や満足感を覚えていなければできないし、少なくとも続かないと思います。本当に心底嫌なことを誰かのためにしているだけというのでは、ストレスで病気になってしまうでしょう。何かしてもらうにしても、する方が、あなたのためにやってあげているのだというだけの認識でいるとすれば、される方もありがたいとは思えないのではないでしょうか。
私には現在、妻と子供一人が居りますが、正直言って「家族サービス」はできません。普段から基本的に家族で行動しなければいけないとは思っていないのですが、家族と自分のやりたいことが一致した時だけ一緒に行動するようにしています。あとはできるだけそれぞれ個人が自由に、やりたいことをできるような環境を作っておきたいと思っています。
2002年2月、腰痛になった私はインターネットで検索するうち、岐阜県可児市で治療院を開かれているI氏を知りました。I氏は、長年ガン治療を専門にされていた外科医O氏と、TMS理論(「腰痛の原因」参照)で意気投合されていました。I氏の周辺には、TMS理論で腰痛を治した人たちを中心としたグループができていました。彼らは、私がホームページ上で発表している短編小説「お金のいらない国」を、いたく気に入ってくれました。
I氏はバンドを組んでおられ、ある日、私はそのライブを聴きに出かけました。I氏はそのコンサートで、日本語訳のジョン・レノンの「イマジン」を誰かに歌わせたいと考えていて、私が飛び入りで歌うことになりました。I氏から渡された歌詞を読んで私は驚きました。『想像してごらん、財産のない世界を』というフレーズがありました。まさしく「お金のいらない国」でした。昔からビートルズが大好きだった私は、勿論「イマジン」という曲は知っていましたが、あまり意味を考えたことはありませんでした。そのライブ以来、私は機会あるごとにあちこちで日本語の「イマジン」を歌うようになりました。
I氏、O氏、学生バンドの人たちが中心になって、「世代の扉」という会ができました。年齢、世代を越えてつながりを持ち、音楽を楽しんだり、理想社会や生き方を考えたりしようというグループです。さまざまな職業、立場の人が加わりました。そのグループの人たちの薦めで、私は「お金のいらない国」の出版化を考えはじめました。また、「世代の扉」を世にアピールするため、イベントをやろうということになりました。いろんな世代のバンドによるコンサートや「お金のいらない国」の寸劇が企画されました。
私は「お金のいらない国」の設定を少し変えて15分ほどの舞台用シナリオを書きました。芝居の練習をする時間はあまりないと考え、セリフだけ先に録音しておいて、それに合わせて演技するという方法をとることにしました。まず、プロのナレーター、俳優であるS氏、ミキサーのA氏らに手伝っていただいて、声の録音をしました。紳士役をS氏、お金のいらない世界に迷い込む男の役を私がやりました。「世代の扉」メンバーの練習用に、日本語のイマジンも録音しました。ミュージックスクールの講師をされているS先生がピアノ伴奏をしてくださいました。
「世代の扉」は、2003年7月19日、岐阜県「可児市文化創造センター・小劇場〔虹のホール〕」で初めてのイベントを行いました。コンサート、トークなどの後に、「お金のいらない国」の寸劇を上演しました。舞台では私が紳士役、大学生のA氏が男の役をやりました。芝居に続いて私は、日本語のイマジン「想像してごらん」を歌わせてもらいました。「お金のいらない国」の原作本は、知り合いのイラストレーターF氏、コピーライターM氏の協力を得て、新風舎という出版社から出版され、イベント会場でも販売しました。
ここ2年足らずの間に、私はいろいろな人に出会い、活動もさまざまに展開してきました。ひと月で治ってしまった腰痛は、この出会いのために必要だったのだと思えます。10年前に生まれた短編小説「お金のいらない国」も、こうしてより広く触れていただけるようになりました。私が今までやってきたことと、多くの人の力がひとつになって、何かが動き出した気がします。このエネルギーをより大きなものにしながら、この先みんなで何ができるか、自由に想像してみたいと思います。
私はこの2月から3月にかけ、腰痛を経験しました。朝、顔を洗った時、腰に違和感を覚え、それ以降痛みが続き、まっすぐ立って歩けなくなりました。3月中旬にはおさまり、現在はもうなんともありませんが、痛みがちっとも引いていかない時は、もう治らないんじゃないかと思いました。
インターネットで腰痛関連を調べているうち、興味深い理論に出会いました。TMSという理論で、腰痛は怒りの抑制によって起こるというものです。世の中には大変多くの方が腰痛で苦しんでいらっしゃいますが、その原因は現在の医学でははっきりしていないようです。レントゲンを撮って脊椎の異常があっても、痛む場所は違っていたり、老化が原因ではと考えても腰痛患者は若い人に多かったり。運動不足かと思えば、運動選手にも多いのでそうとも言えなかったり。
TMS理論では、明らかな身体的疾患以外は、腰痛の多くは過去に感じた怒りを抑制することによって起こると言っています。怒ってはいけない、温厚であるべきだというような意識から、怒りを抑え、我慢し、場合によっては怒りを感じた自分を責めてしまう。しかし、生まれてから現在までに押さえつけられた怒りの感情は消えることなく、自分の気づかないうちに鬱積し、腰痛という形で爆発する。
怒りの感情を抑えればストレスになります。しかし、今の世の中、皆が怒りを抑えることなくぶちまけていては世の中は大混乱してしまいます。TMS理論では、腰痛を治すにはストレスを解消することが必要になるのですが、そのために次のような方法を提案しています。
できる限り過去に遡り、どんな些細なことでもいいから、自分が怒りを感じたことを書き出してみる。人に見せるわけではないので、ちゃんとした文章にする必要はなく、箇条書きでもメモでもいい。感情のまま汚い言葉で書きなぐってもいい。そして自分が怒りを感じたことを改めて確認する。怒りとは人間にとって当然の感情でちっとも悪いことではないということを自分で納得する。それができたら書いたものは捨ててしまってかまわない。それだけで多くの場合、腰痛は治る。
宗教的な考え方ですと、過去を思い出しても反省することが中心になるようですが、TMSの方法では、より自分の気持ちに素直になりやすいかもしれません。いずれにしても過去を振り返り、それから逃げることなく向き合って考え、自分の持った感情も含めて全てを許せる心境になることが悟りにつながるということかもしれません。
私の腰痛は、ストレスリストを作る前に治ってしまいましたし、TMS理論が手放しで正しいという保証もありませんが、実際にかなりの患者さんがこれで治ったようですし、たまたま私がこの理論を紹介した友人も、長年苦しんできた腰痛に効果があったようです。
病気の中でも胃潰瘍などはストレスが原因と認められていますし、腰痛の原因がストレスであっても何の不思議もありません。ややもするとおろそかにされがちな病気と心の関わりですが、本当に正しい医学が進歩すれば、心と肉体の関係はこの先もっともっと解明されていくかもしれません。
今回、私が腰痛になったことで、ネット上でいろいろな方と知り合い、TMS理論も知ることができました。確かに痛みはかなりのものでしたが、得るものも大きかったと思います。またひとついい体験をさせていただいたと思っています。
TMS関連サイト
TMS JAPAN
私は出不精な人間です。自分から旅行の計画を立てるということはまずありません。誘われれば一応前向きに考えるし、行けば行ったでそれなりに楽しんではくるんですが、後から、うちで好きなことをしているより楽しかったかと考えると甚だ疑問です。目的地にどうしても見たいものがあるとか、人に会いに行くなど目的がある場合は乗り気にもなりますが、特に自分が行く必要もないのなら、よほど暇と金をもて余さない限り、なかなか腰を上げる気にはならないでしょう。
私の場合、この地球上で肉体がどこに移動しようと大したことではないという意識が強いようです。食べ物も日頃食べているもので十分満足しているし、買いものをしたいわけでもないので、わざわざ面倒な手続きを踏んで、人ごみの中に行ったり、使い慣れない宿に泊まったりする気は起きないんですね。
たしかに家族や気の置けない友だちと過ごす時間は楽しいですが、家族や友だちとは普段からよく一緒に過ごしていますし、結局私にとって楽しいのは、夜、酒を飲んでいる時間だったりして、それはどこで飲んでいても変わりませんから、別にわざわざ遠くまで出かける必要もないわけです。
過去、何度か海外出張をしました。仕事では断るわけにもいかないんですが、同僚でも海外に行けるというだけで羨ましがる人も多く、できることなら代わってあげたいなんて思ってしまいました。勿論、仕事をこなした以上に得るものはあった気がしますし、霊的なことを知ってからは特に、必要な経験だったのだと思ってはいますが、正直なところ、今後、必要がないならできれば行きたくないという気持ちは否めません。
世の中には旅行が趣味という人がとても多いようですから、私は相当変わった人間の部類に入るでしょう。私はどこにも行かなくても、自分が存在していることを喜び、いろんな人が存在していることを知り、いかに生きるかを考えることで十分満足してしまっているようです。おまけに音楽や美術に関われ、本や映画などに触れていられれば世界はいくらでも広がっていきます。
この世は生活費を得るための仕事に多くの時間を割かねば暮らしていけないようになっています。私も、もっと自由に使える時間が増えれば、家でやりたいことも一通り済ませられ、旅行も考えなくはないかもしれませんが、今のところ自分の自由になる僅かな貴重な時間を、他の趣味に優先して旅行に当てる気にはなれないといったところです。
すべての山に登れ(Climb Ev'ry Mountain)
私の大好きな映画のひとつに「サウンド・オブ・ミュージック」があります。ベストワンかもしれません。日本で封切られた当時、私は小学生でしたが、その時、映画館で見たのが最初で、後にリバイバルも見に行ったし、まだ高価だった頃のビデオやLDも買いました。オーストリアの大自然と名曲の数々。主演のジュリー・アンドリュースの透き通るような歌声。ストーリーも音楽も演出も見事で、思わず引き込まれてしまいます。
複雑な時代背景の中において、明るく、優しく、周囲を勇気づけていくマリア。苦しみながらも自分に素直に生きようとする姿は、いつ見ても感動的でいとおしく、清々しいものです。先日、私の住んでいる名古屋で日本人の俳優さんたちによる「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を見る機会に恵まれ、改めて気づいたことがありました。大佐に恋をしてしまったマリアが修道院に戻り、修道院長と話す場面です。院長の言葉「修道院は逃げ場所ではありません」。そして「すべての山に登れ」を歌います。
今までも映画で何度となく見てきた場面ですが、今回、出家は俗世間の苦しみから逃れるためであってはならないということを改めて考えさせられました。日々の生活を通して率直に自分の心を見つめ、きれいなものも汚いものもすべて自分のものであることを知り、悩み、いかに生きるべきかを考える。そういった段階を経ずして、ただ苦しみから逃れるために出家し、人生をきれいごとで済ませようとするのでは、この世に生まれてきた意味も半減してしまうと思います。
マリアは大佐の元に帰って結婚し、子供たちの母になります。「すべての山に登れ」この言葉には非常に深い意味があります。人それぞれ解釈の仕方、考え方は違うかもしれませんが、私はこの地上に生まれてきた経験を無駄にしないよう、喜びも苦しみも受け入れながら、悔いのないように生きて行きたいと思います。
私は東京で生まれ育ち、大学を卒業するまで東京の実家で父母、妹と暮らしていました。卒業後、現在の会社に入社しましたが、なぜか配属は名古屋でした。それを知った時には驚きましたが、親元を離れたことがなかった私は一人で暮らすことにちょっとした期待もあったし、そう何年もしないうちに東京に戻れるだろうと甘く考えていたので、そんなに嫌ではありませんでした。
しかし、そのまま時は過ぎ、私は今年、勤続20年を名古屋で迎えました。初めの何年かはいずれ東京に帰れるだろうと安易に考えていましたが、年を重ねるに連れ、このままずっと名古屋にいることになるかもしれないという、不安ともあきらめとも言える心境になっていきました。
名古屋は非常に住みよい町なのですが、私の仕事は、やはり東京あってのもの。会社の中枢で働きたいという気持ちは出身地に関わらず若者は持つようですし、そのくらいの意気込みがなければ会社としても雇っておきたくないでしょう。増して私は東京出身。入社4年目の時に父が死に、その数年後に妹が嫁いで東京を離れ、母一人が家を守ることになったとあっては、長男の私としては責任を感じざるを得ません。しかし、会社は個人の思うようになるところではありません。これは私の苦悩の一つでした。
入社してちょうど10年くらい経った頃、私は高橋信次の本、その後でシルバー・バーチの霊訓に出会いました。霊的真理を知り、私の苦悩は大分癒されました。名古屋に来たのは自分にとって必要なことだったのだと思えるようになりました。それまでは東京しか知らなかったし、ある意味、井の中の蛙でした。日本中どこへ行っても東京とそんなに変わらないだろうくらいに思っていました。名古屋は大都市ではありますが、特に私の仕事の場合は東京との差が顕著に感じられます。また、名古屋以外にも日本にはいろいろなところがあるのだという認識を以前より持てるようになりました。
考えてみれば私は名古屋に来てから結婚し、子供が生まれ、名古屋で知り合った人たちはものすごい数になっています。仕事関係は勿論多いですが、霊的なことがきっかけで深く付き合うようになった人も大勢いらっしゃいます。今回の私の人生では名古屋に来ていろいろな活動をすることが使命だったように思われます。自分が必要とされていると思えることに出会うたび、とても幸せな気持ちになれるこの頃です。
この地球上、自分の肉体がどこにあろうとそんなにこだわることではない気がします。自然の流れのままに、居るべくして居ることになったその場所で、自分のできるだけのことをして社会や人の役に立つことが大切なのではないでしょうか。
私は、何に対しても好き嫌いをはっきりと言うことは少ないですが、ゴキブリは大っ嫌いです。まあ、あまり好きな人はいないかもしれませんが、私の場合は見ただけで背筋がゾーッとし、足がすくみます。殺すときには殺虫剤をお風呂に入っているくらいぶっかけて殺しますが、その死骸の処理も自分ではできないので誰かにやってもらいます。ゴキブリとして生まれてきてしまった魂に対しては申し訳なく思いますが、早いとこ死んで、別のものに生まれ変わってきてほしいです。
なぜゴキブリがそれほど嫌いなのか。ヘビやサソリは毒があるし、怖いけれども、ガラス越しなら見られるし、ある種、美しさも感じます。でもゴキブリは見るのも嫌です。大して形の違わないカブトムシやクワガタは大好きで、触れるし、飼ったこともあるのに、ゴキブリはできれば存在そのものを消してしまいたいほど嫌いです。何故そんなに嫌いなのか、その理由を考えてみました。
まず、汚い。聞いたところによると、ゴキブリはばい菌を相当持っているらしいです。ヘビやサソリの毒は、かまれたり刺されたりしなければ影響はないので、近づかなければ大丈夫ですし、幸い、身近にはいませんから現実離れしてるんですね。また、毒は、ばい菌と違って、なにかドラマ性と美しさも感じます。でもばい菌は汚いだけ。ゴキブリはかんだり刺したりしなくても私は絶対近づきたくないです。
次に、速い。あの速さは生まれながらにして嫌われ、逃げることを前提としているからこそ備わった機能のように感じられます。予想を上回る逃げ足の速さ、取り逃がした後の悔しさ、おまけに飛んだりするのですから、嫌われるために生まれてきたとしか思えません。カブトムシなど、好かれる虫は動きもゆっくりで、つい応援したくなってしまいます。
そして、ずうずうしい。ゴキブリはちょっとの隙間から人間の家に入り込み、台所で餌をあさったりします。人間なら完全に泥棒で、家宅侵入罪でつかまります。予想もしないところに突然出現して人を驚かせ、一家団欒をパニックに陥れます。虫といえどもそんなことが許されていいものでしょうか。
まあ、ゴキブリも、人間に嫌悪感というものを如実に感じさせるために存在しているのかもしれませんね。霊界が用意したものに無駄なものはないはずですから。
私は運動が苦手です。運動神経は皆無。球技も格闘技もまるでだめ。瞬発力も持久力もありません。スポーツをテレビで見るのは好きなんですが、自分でやることは考えられません。小学校や中学で、運動ができないのはすごいコンプレックスなんですよね。草野球に入れてもらっても、チームの足を引っ張るばかり。ボールはバットに当たったことがない、フライは取れたためしがない。運動のできる子はうらやましいなあといつも思っていました。
大学時代は、逞しい体に憧れてウェイトトレーニング部なるところに入りました。バーベルなどを使った、いわゆるボディビルですが、ボールを扱うわけでも相手がいるわけでもないので、私でもなんとかやれました。スタミナはないのでつらかったけれども、体型はみるみる変化し、体は丈夫になりました。これは根本的な体質改善になったようで、もう、やめて20年になりますが、驚くべきことに、それ以来、風邪はほとんどひいた記憶がありません。また、ピークに比べれば筋肉は大分細くなったし、力も落ちましたが、体型はそれなりに維持されているようです。年より大分若く見られるのは、その影響があるのかな。
最近は柔軟体操くらいしかやっていませんが、それでも一応、健康は保っています。40過ぎて思うのですが、やはり健康なのが一番。運動神経は鈍くても、体が丈夫でよかったと、最近つくづく思います。生まれながらに体が不自由だったり、不可抗力で病気や怪我をしてしまった人は、そういう経験をすることが必要だったと割り切るしかないですが、人間は、自分でカバーできる範囲では健康を保てるよう努力すべきでしょう。
運動ができないことにずっと劣等感を持っていた私ですが、最近では、運動ができなくてよかったと思ったりしています。私はいわゆるオタクで、できるだけうちにいたい人。とにかく、休日でもやりたいことが山ほどあり、とても時間が足りないのです。パソコンに向かっているだけでもかなりの時間を必要としますし、趣味もいろいろあるので、この上、スポーツまでしたいとなったら、欲求不満になってしまうでしょう。
人それぞれ、得手不得手はあるものです。できないことに劣等感を持って生きるより、できることに前向きに取り組んで行くことが大切なようですね。
私はよく、酒を飲みに行きます。週に2、3日は行っています。会社の仲間、仕事関係の人、休日は家の近所の人ともちょくちょく行きます。長年の間に、飲み仲間は友だちから友だちへ広がって、かなりたくさんの人とお付き合いさせてもらうようになりました。特別、値段の高い店に行くわけではないけれども、たいてい1軒では終わらないので金もかかりますが、私にとって、酒の付き合いで生まれた人間関係、そこで得た経験や情報はかなり重要なものになっています。
体質的に酒を受け付けない人はたくさんいるし、そういう人にはまた違った生活があるでしょうから、酒が誰の人生にも必要不可欠であるとは思いませんが、飲める人は酒をうまく利用して人間関係を深めるのも、有意義なことではないかと思います。
酒を飲むと、何か思いついてから、それを口にするまでの時間がしらふの時より短くなります。私のように口べたで、普段、つい話すタイミングを逸してしまうような人間には、酒は積極的に話すよう後押ししてくれます。ただ、酒が入ると、笑う、泣く、怒るなどの感情も出やすくなるので、いい方向に向けばいいのですが、場合によっては気まずい雰囲気になったり、後悔するようなこともあります。でも、しらふの時にはわからない、人の性格や考えが見えるので、ありのままのお互いをよく知ることができます。
私は酒そのものを飲まずにはいられないという体ではないし、憂さ晴らしのやけ酒は飲みません。問題は酒を飲んでも解決しませんからね。飲み過ぎることはよくないでしょうが、今のところ、それなりに健康は維持できているようなので、一緒に飲みたいと言ってくださる方がいる限りは、これからもできるだけお付き合いさせていただこうと思っています。やはり、この世では人との関わりの中から得るものが多いですから。
世の女性たちは、痩せたいと思っている人が多いようですね。人それぞれ持って生まれた体型というのもあるだろうし、健康でいられるなら、無理に痩せることもないと思うのですが、死にそうになってまで頑張ってる人もいる。
私は男ですが、現在、身長183センチ、73キロくらいで、まあ太っても痩せてもいないかな。でも、私も実は太りやすい体質で、ボディビルなんかやっていた大学時代は、100キロ超えたこともあるんです。で、今なぜ普通かっていうと、私なりのダイエットのやり方があるんですね。医学的なことは知りませんから、真似して失敗しても責任は持ちませんけど。
まず、食べるということを考えてみる。食べ物は生き物ですから、自分を生かすために犠牲になってくれてるってことですね。だからなるべく食べないようにすれば尊い命を奪わなくてすむ。本当は動物なんか食べちゃかわいそうだと思います。自分で殺さなきゃならないんだったら、多分食べないでしょう。でもベジタリアンではないし、付き合いもあるから食べてますが、少なくとも積極的には食べないし、食べ過ぎないように気をつけています。動物を食べる時はごめんね、ありがとうと思いましょう。
食事する時は、とにかく食べ過ぎないようにする。このくらいで次の食事までもつかなというところでやめておく。胃袋が小さくなってくると、そんなに食べなくても平気になります。習慣になってしまえばこっちのものです。継続は力なり。続けるということは、大きな成果を生みます。悪いことを継続すると、えらいことになりますけどね。ダイエットの基本は続けること。初めから、続けられる程度のことを考えるべきです。続けられないようなことを短期間、頑張ってみても、すぐ挫折して元に戻ってしまうでしょう。
少なくとも、後で苦しくなるような食べ方はやめましょう。私は特に夕食は気をつけています。寝るときにおなかが苦しいなんていう状態は避けるべきです。お酒を飲みに行った帰りのラーメンなんかも、習慣にすると確実に太ります。夜、控えめにすると、朝食がおいしいんですよね。朝と昼はちゃんと食べた方がいいと思います。
たまに付き合いなどで、たくさん食べなくてはならないことがあっても、1食や2食は大丈夫です。その後すぐ元に戻せれば、影響はありません。精神面と肉体面でしっかりした習慣を身に付けておけば、少しの過ちなど恐るるに足りません。
また、我慢すればいいというものではありません。もちろん栄養面の問題もあると思いますが、無理のあることは、一時的にはよく見えても、いい結果を生まないでしょう。釈迦が苦しい断食修行の末に悟った真理は「中道の精神」でした。もう限界という時に、どこからともなく流れてきた琴の音色を聴いた釈迦は、「琴の弦は強く張りすぎても弱すぎてもいい音は出ない。丁度よい強さに張った時、いい音が出るのだ」と気づきました。極端なことをしようとしても無理が出る、何事も適度にすることが大切という真理ですね。