りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(プライベート編)

トップページへ戻る

タイトルをクリックしてください。

遺品整理 2019.11.5NEW
伯母の遺言書 2019.11.4NEW
長島龍人のおすすめ映画 2019.1030NEW
時代劇のレッスン 2019.9.15NEW
現代劇のレッスン 2019.9.13NEW
面白いテレビドラマ 2019.8.27
伯母の死 2019.8.12
東京に来てから、テアトルアカデミーに入るまで。 2019.8.8
家事 2019.4.18
私のミーハー歴 2019.3.27
翔んで埼玉 2019.3.24
最近の母 2019.2.22
会いたかった 2018.12.17
夜中に起きたのに 2018.12.16
年賀状大失敗 2018.12.15
エキストラ出演 2018.12.13
母の愚痴 2018.9.26
カラオケの録音 2018.8.6
土用の丑の日と母 2018.8.6
平均寿命 2018.6.5
還暦を迎えて-テレビなどの記憶- 2018.5.21
母の復活 2018.5.4
カラオケのコツ 2018.4.29
実家の売却 2018.3.29
バブル時代 2018.3.28
母と暮らせば 2018.3.28
母の容態 2018.3.24
生活パターン 2018.1.26
整理の工程など 2018.1.26
実家を整理してみて 2018.1.26
たぶん、私の知識不足と、お金の存在する社会だから
起きたと思われる、wifi環境に苦労した話 2017.9.12
山梨の伯父のこと 2017.8.27
りょうさんを偲んで 2017.8.22
器用貧乏 2017.5.15
勤めた会社と仕事について 2016.8.21
退職後一年 2016.7.16
深夜バスについて 2016.6.12
東京の実家の母のこと 2016.6.11
2015年を振り返って(退職1年目) 2015.12.28
退職にあたって 2015.9.8
退職しました 2015.4.10
K-POPについて 2014.10.17
お金のいらない国の設定について 2014.5.3
姪の死 2013.11.1
韓国あっぱれ 2013.6.18
 2013.6.14
私の生き方 2013.6.6
肩の骨の石灰化 2012.9.18
54歳、現在の心境(2) 2012.8.22
54歳、現在の心境(1) 2012.8.22

コレクター 2012.4.18
「お金のいらない国」出版裏話2 
2012.4.11
続・生命保険について 
2012.4.11
生命保険について 
2012.1.19
自己中のすすめ 
2010.6.23
はじめての骨折・入院・手術 
2010.6.10
落語と私 
2010.6.2
すべては必要なこと 
2009.1.9
「お金のいらない国」出版裏話 
2008.8.26
文章を書くことのすすめ 
2008.4.14
世の中変わった 
2008.3.5
りゅうじんという名前について 
2008.2.23
嫌いな食べもの 
2007.11.28
発想の原点 2007.11.19
りゅうじん式健康法 2007.11.15
音楽と私 2007.11.8
父のこと 2007.11.6
お金と私 2007.11.4
ハンカチは必需品 2007.11.4
学生時代と就職のこと 2007.10.31
不思議な出会い2 2005.6.28
贈り物が苦手 2003.11.22
「家族サービス」っていう言葉が嫌い 2003.8.30
不思議な出会い 2003.7.26
腰痛の原因 2002.4.4
出不精 2001.7.4
すべての山に登れ(Climb Ev'ry Mountain) 2001.2.15
東京へのこだわり 2000.8.12
ゴキブリ大っ嫌い 2000.7.22
運動コンプレックス 2000.6.15
酒の効用 2000.6.14
りゅうじん式ダイエット

 

トップページへ戻る

遺品整理

山梨の伯母は5月に心不全で入院した時、駆け付けた私に、大事な書類のある場所を伝えた。その時、真珠のネックレスもあると聞いたのだが、それは後日にしようと私は言い、伯母の家に行って書類の入ったバッグを持って病院に戻り、伯母に見せてそれを預かり、東京に帰った。

1週間後に病院から、伯母が脳梗塞を起こしたと電話があり、結局、伯母はそのまま意識が戻らずに他界した。

ネックレスのある場所は聞かずじまいになってしまったので、それからあちこち何度も捜したのだが見つからない。真珠のネックレスのことは私の母も覚えていて、10年ほど前に一緒に銀座に行って買ったのだと言う。伯母の家からその領収書は見つかったので、確かに買っていて高価なものであることは確認できた。

そうなると簡単にあきらめるわけにもいかないので、私は遺品整理の業者に依頼して捜してもらうことにした。

当日は業者と現地で待ち合わせ。今度は特急が動いていたので大月までは楽に行けたのだが、レンタカーで国道を行くと、まだ台風被害の影響で、途中で通行止めになっていた。仕方がないので大月駅近くまで戻り、かなり遠回りして行くことに。待ち合わせ時間を30分ほどオーバーしたが、業者とは連絡が取れていたので大事には至らなかった。

数時間かけて大量のゴミを分別しがてらネックレスを捜す。しかし、ありそうな場所は全て見たのに結局見つからず。鍵の開かない金庫は業者に持ち帰って破壊してもらったが、入ってはいなかった。

まあ、ここまでやったので、思い残すことはなくなったが、生きているうちに伯母がいろいろ伝えてくれていたらこんな手間はかけずに済んだのにと思うと、終活の重要性が身に沁みて感じられる。

このページの最初に戻る

伯母の遺言書

10月12日に日本に上陸した台風19号の影響で、中央本線が運休となった。7月に亡くなった、山梨県大月市に住んでいた伯母が遺言書を遺していたので、私は弁護士を立てて開封の準備をしてもらっていたのだが、遺言書は地元の裁判所で開封せねばならず、その予定日が10月23日。

中央本線は10月18日に仮復旧したものの、特急は動かず、特急なら新宿から大月まで1時間で行けるところを、快速で高尾まで行って普通に乗り換え、相模湖からは下り線のみの往復運転。本数も少なく、相模湖で1時間近く待ってやっと大月へ。

裁判所は、大月から富士急行で最寄り駅まで行き、歩いて行くこともできるが、私は大月駅近くのレンタカーを手配していた。

結局、特急が動いていれば新宿から裁判所まで1時間半もあれば行けるところを、3時間以上かかった。弁護士先生は富士急行を使われたので、もっと大変だったはず。

さて、遺言書を開封してみると、これがなんのことはない、どこかに寄付したいとか、相続の権利のない人にあげたいということはなく、法律通りに相続してほしいという内容。それなら遺言書など書いてさえくれなければ、こんな苦労をすることはなかったのに。

帰りは弁護士先生を車で大月駅までお送りして喜ばれたが、まあ、伯母は借金を残していなかっただけありがたいと思うことにしよう。

このページの最初に戻る

長島龍人のおすすめ映画

私は映画が好きですが、マニアではないのでそう驚くほど見ているわけではありません。でも、60歳を過ぎるまでいろいろ見てきたので、古い映画などそれなりに知っています。

今回は、あまり有名ではないけれども、私が特に傑作と思っている映画を2本ご紹介します。私の好みですので責任は持ちませんが、こういう映画があることを知っておいてもいいのではないかと思います。

また、これらの映画に関する情報は、一切見ずに鑑賞されることを強くおすすめします。

●『テキサスの五人の仲間』(1966年 アメリカ)
監督:フィールダー・クック
出演:ヘンリーフォンダ ジョアン・ウッドワード他

ポーカーをネタにした、時代的には西部劇。昔、テレビで放送されているのを父と見て、衝撃を受けました。

●『汚れた顔の天使』(1938年 アメリカ)
監督:マイケル・カーティス
出演:ジェームズ・キャグニー、パット・オブライエン、ハンフリー・ボガート他

ギャング映画ですが、非常に感動しました。父が一番好きだった映画です。

このページの最初に戻る

時代劇のレッスン

7月に入学した総合芸能学院テアトルアカデミー。必修レッスン以外に、任意でやはり週1回の選択レッスンを一つ受講でき、私は「時代劇所作事」を選んだ。こちらは計8回で1クールが終了し、私はすべて出席した。

生徒は男女合わせて30名ほど。こちらは7月に入学した人だけでなく、経験はさまざまなようだった。衣装は持参の浴衣が基本だが、私は落語で使っている着物で参加した。

台本に沿って皆で時代劇を演じるのだが、登場人物は12名。殿様、武士、商人、女将、船頭、芸者などさまざまな役どころがある。1時間半の授業で4回くらいできるので、自分がいつどの役をやるかは、皆との調整は必要だが、自分次第。

とても面白いし難しいのは、時代劇は役によって独特の細かな演じ分けが必要なこと。それぞれ身分や仕事が違うので、体勢、歩き方、声の出し方、台詞回し、仕草が変わる。今回は特に所作の稽古だったので、男性は刀の扱い、女性は襖の開け閉め、草履を脱いで座敷に上がる仕草などで苦労されていたようだった。

また、舞台の設定だったので、立ち位置、移動のタイミング、次に台詞を言う人に不自然でないように場を空けるなど、今まで気づかなかった難しさもあった。

配役に関して先生は一切口出ししないので、皆、自分のやりたい役を選び、人によっては同じ役ばかりやっている人もいたが、私はだいたい空いているところを埋める感じで、一応、男性の役はすべて2、3回ずつはやってみた。

次のクールも同じ講座を選んだ。今度はどんな台本でどんな役をやれるのか、楽しみだ。

このページの最初に戻る

現代劇のレッスン

7月に総合芸能学院テアトルアカデミーのレッスンが始まって、1クール(3ヵ月)が過ぎた。必修の現代劇は週1回。といってもレッスンのない日もあったので、10回のレッスンで1クールが終わったことになる。

私のクラスはエイジレスクラスで、生徒は40代以上くらいの男女30名ほど。1回1時間30分のレッスンを一人の先生がみてくれる。私は一度も休まなかったので10回すべてに出席した。

発声練習などもあるが、ほとんどは台本に沿った演技の練習。今回の登場人物は、年配の母と息子で、男女を問わず、生徒二人が組になって順番に5分くらいの演技をする。

私が思うに、演技する上で大事なのは、いかに自分がその登場人物になりきって、自然な台詞回し、態度、動き、相手との絡みができるかだと思う。人は普段、不自然に生きている人はいないのだから、そういう意味では誰でもそこそこの演技はできるはず。

今回私は、3回目くらいには台本を持たずに演技に臨んだ。台詞はいくつも出てこなかったのだが、先生がフォローしてくれ、回を重ねるうち、ほぼ完璧に言えるようになった。同じことを毎週、何度もできるのだから、自分なりに目標を立て、進歩しようと努力することが大事だと思う。

私は、台詞を覚えるために、普段、出かけたりするときに常に小さい声で口にしながら歩いていた。とにかく音、リズム、間が自然な会話になるように、頭に叩き込んだ。音で覚えておくと、演技をするときにもそれに合わせて動けば自然な流れになると思う。

もちろん、相手が自分の思うようにやってくれるとは限らないので、それに対応できる臨機応変さと、相手がいることによる面白さも生まれるのだろう。

レッスンは2年間続く。10月からは、何か仕事があればオーディションなどの紹介はしてもらえるかもしれないが、この機会に、学べるだけのことは学んでおこうと思う。

このページの最初に戻る

面白いテレビドラマ

最近、映像配信サービス「U-NEXT」で、少し前のテレビドラマを見ている。リアルタイムで見てこなかったので、こんなに面白いのがあったのかと発見した感じである。

映画はそれなりに見ているのだが、ほんとに面白いと思えたのは少ないし、ハリウッドでもアニメの実写版だとか、伝記ものだとか、ネタがないのかなと思っていた。

私は30年くらい前から、日本のテレビドラマは、NHKの朝ドラ以外はほとんど見てこなかった。韓ドラは結構見ていて、好きなのがたくさんあるのだが、日本のドラマも面白いことがわかったのはうれしい。

「U-NEXT」では、好きな女優の名前で検索した。最近、気に入ったものの感想を少し。好き嫌いはあるだろうが、どれも脚本がとてもよいと思う。

『探偵が早すぎる』出演:滝藤賢一、広瀬アリス他
広瀬アリスちゃんで検索。美人なのに振り切れた演技がすごい。すずちゃんも好きだが、違った個性のすごい姉妹だ。

『神の舌を持つ男』出演:向井理、木村文乃、佐藤二郎他
木村文乃ちゃんで検索。文乃ちゃんのボケっぷり、事件解決直後にいつも「聖母たちのララバイ」を歌いだし、二郎さんにすぐ止められるところが最高。

『崖っぷちホテル』出演:岩田剛典、戸田恵梨香他
浜辺美波ちゃんで検索。毎回、話がよくできていて感動する。ホテル従業員のキャスティングがうまい。美人過ぎる美波ちゃんの明るいキャラに癒される。

ちなみに、私がNHK朝ドラで一番好きなのは「ゲゲゲの女房」です。

このページの最初に戻る

伯母の死

山梨の伯母が死んだ。母の姉。令和元年7月3日。89歳。婿取りで、伯父は既に亡くなっており、子供もおらず、十数年一人暮らしだった。家は国道沿いだが、近所に民家はなく、少し離れたところに住む血縁のある人などがいろいろと気にしてくれていたようだ。

以前、心筋梗塞で手術したり、この1月にも手術。足も痛いと言って、たくさん薬を飲んでいた。それなのにやたらと広い庭の草取りやら枯れ葉集めなど、大変な仕事を人に任せようとはしなかった。

甥である私は、ここ数年、半年に一度くらい、会いに行っていた。4月に、行きたいと電話すると、歯が痛いので病院に行くから、治ったら連絡するとのこと。待っていると、5月8日に病院から、心不全で入院したと電話があった。

翌日病院に行くと、水を制限されていて苦しそうだったが、家に行って持ってきてほしいバッグがあると言うので、取りに行って伯母に見せ、そのまま私が預かった。

5月15日、夜遅く病院から電話があり、伯母が脳梗塞を起こしたとのこと。翌日行くと、医師から、もう意識は戻らないと言われた。3日くらいが山とのことだったが、結局、7月3日まで人工呼吸器もつけずに体だけは生き続けた。

タイミングよく翌日には火葬し、お寺で葬儀をすることができた。大げさにするつもりはなかったが、町内の縁のある人が十数人集まってくれた。

伯母から預かったバッグには遺言書などが入っていた。遺言書はまだ開けていないが、それなりの財産を残している伯母。法律上、とりあえず私の母が相続人になるが、土地家屋の処分を含め、今後のすべての手続きは私の仕事である。

伯母は伯父と盆栽店などを営み、財を築いたが、結局自分は死ぬまでたいして使うことはなかった。お金はあるのだから、特別養護老人ホームのようなところに入ることも勧めたのだが、結局最後まで一人で頑張ってしまった。

伯父は職人で、仕事も楽しんでいるようだったが、伯母はお金を貯めることが生きがいだったのだろうか。最期は何を思っていたのだろう。「お金のいらない国」を伯父は絶賛してくれたが、伯母から感想を聞いたことはなかった。

このページの最初に戻る

東京に来てから、テアトルアカデミーに入るまで。

一昨年秋、東京の実家の近くにワンルームを借り、私が母と暮らすようになって1年と9カ月余り。実家は昨年2月に売却。数年前から心不全、腎不全で入退院を繰り返していた母は、昨年4月に腸閉塞の手術をして以来、なぜかむくむこともなくなり、入院もしていない。

私の自宅マンションは名古屋にあるが、名古屋へは2カ月に一度くらい、講演のある時しか帰っていない。もともと東京で生まれ育った私は、小中学校時代の同級生や、東京近辺の知り合いに会ったりできるようになった。

住んでみれば、さすがは東京。映画はもちろん、演劇やイベントもたくさん見に行ける。昨年8月に映画「カメラを止めるな!」を見て、ヒロインの秋山ゆずきちゃんのファンになり、ちょうどその頃、アイドルグループの活動も始めた彼女の出演するイベントにも何度も行けた。

イベント終了後の特典会では、一緒にインスタント写真のチェキを撮って、サインをもらえる。回を重ねるうち、ただ撮るだけでは物足りなくなった私は、勝手に「カメ止め」再現シリーズなるものを考え、ゆずきちゃんにお願いして、いろんな相手をしてもらった。

今年6月には、カメ止めロケ地、茨城県の浄水場跡へのバスツアーに参加。ゆずきちゃん、同じくカメ止めに出演している真魚ちゃん、さきにゃんも同行してくれた。私が濱津さん役をやって、ゆずきちゃんと、カメ止め「本物をくれよ!」シーンを再現。

母の容態も安定し、東京暮らしも長くなりそうだと思っていたある日、ツイッターに出てきた芸能スクールに応募してみた。テアトルアカデミー。書類審査をパスし、オーディションを受けたら入れてもらえたので、7月から週に2度、高田馬場まで通うことになった。

プロダクションを兼ねているとはいえ、あくまでも学校だから、そうそう仕事をもらえるわけではないだろうが、高校生の頃から役者になりたくても、金をもらうためには会社勤めだろうと、端からあきらめていた私は、やっと演劇の世界にちょっと足を踏み入れることができた。

私はエイジレス部門で、今レッスンを受けているのは必修レッスンの現代劇と、選択レッスンの中から時代劇所作事。クラスとしては人数は非常に多いようで、どちらも25〜30人くらいの男女がひしめく。特に時代劇は、身分や職業による動きや演じ分けなど、発見も多い。

このページの最初に戻る

家事

東京で母と二人で暮らすようになって1年半になる。母の容態はここ1年ほどは安定しているが、基本的に家事はできないので、炊事、洗濯、掃除などはすべて私の仕事である。

心臓の病院には月に一度通い、たまに眼科、耳鼻科にも行くが、その時は妻が名古屋から出てきて二人で付き添う。妻が来ると数日滞在する。

妻が来ると家事を代わりにやってくれるが、1年半もやっていると私のやり方ができていて、特に炊事は問題が起きたりする。

私は一昨年の10月までは自宅のある名古屋に居り、30年以上、妻と暮らしていた。その時は炊事はすべて妻に任せていて、私は台所に立ったこともなかった。

炊事と言っても私の場合、出来合いの総菜や、レトルト、冷凍食品を買ってきて並べるだけだから料理をするわけではないのだが、かなり細かい性格が災いして、例えば食器のしまい方や調味料の置き方などにもこだわりがある。

先日は妻がマヨネーズを冷蔵庫内で逆さに置いていなかったため、私が急いで使おうとして、容器の口のあたりにたまっていたマヨネーズがキッチンに飛び散った。

食事時に絡んで私が外出する際には、母の食事の用意だけして出かけるのだが、使った食器はそのままにしておくように言っても、帰ると母が洗っておいてくれたりする。しかし、目の悪い母がちゃんと洗えているのか気になるし、食器を戻す位置も変わってしまうので、有難迷惑ではある。

燃えるごみとプラスチックごみの分別も母はよくわかっていないので、できれば何もしないでいてもらう方が助かる。

このページの最初に戻る

私のミーハー歴

今(2019年)は還暦を過ぎて、『カメ止め』のヒロイン秋山ゆずきちゃんの追っかけをしている私だが、私のミーハー歴は長い。(以下、原則として敬称は略します)

最初にマジで芸能人を好きになったのは中学2年の時で(1971年)、歌手でテレビドラマにも出ていた天地真理。うちのテレビのチャンネル権は完全に親父にあったからドラマは見ておらず、レコードも買ってはいないのだが、まだビデオもない時代、テレビやラジオの歌番組をカセットテープに録音して聴いていた。また、なけなしの小遣いで「明星」「平凡」「近代映画」などの芸能雑誌を買っていた。

高校1年の時、「わたしの彼は左きき」の麻丘めぐみが好きになり、下敷きに雑誌の切り抜き写真をはさんでいた。この頃から友達の影響で顔写真の模写を始める。それから、山口百恵。百恵ちゃんは1つ年下で、映画を見に行ったり、ラジオ番組にはがきを送ったりしていた。

大学に入ると、同い年のピンクレディーが一世を風靡し、私はミーちゃんが大好きだった。写真集をずいぶん買った。その前くらいになるが、『11PM』のカバーガールをしていた、かたせ梨乃も同い年だが、好きだった。

会社に入るあたりから、一つ年下の岩崎宏美が大好きになり、これはレコードを買いまくったし、ベスト盤の3枚組を買った特典として、銀座の山野楽器でミニコンサートに参加でき、握手してもらった。入社して名古屋に配属されてからも、毎年コンサートに行った。

その後、結婚などして大分時間が空いたが、2010年に日本デビューしたK-POPの少女時代にはまって、CDなどを集め、日本に来るたびにコンサートに行った。基本、箱推しだが、特にティファニー。スヨン、ソヒョン、テヨンも好きだった。

同じくK-POPのT-ARA(ティアラ)も好きになり、コンサートやファンの集いに行った。特にウンジョンとヒョミンが好きだったが、名古屋のオアシスでのイベントで、事前にCDを予約した人が抽選で本人たちから手渡しでカードをもらえる企画では、ヒョミンは映画の撮影で欠席。ウンジョンは運悪く抽選で当たらなかった。

同時期、韓ドラがブームになり、『夏の香り』の主演女優、ソン・イェジンにはまった。他には『イ・サン』のハン・ジミン、『奇皇后』のハ・ジウォンなども好き。

外国の女優では、小学校時代に観た映画『サウンド・オブ・ミュージック』のジュリー・アンドリュース。ジュリーは年も母親くらいだが、もう、好きなんて畏れ多くて、女神。1977年に来日した際には、武道館のコンサートに行った。

日本の女優では、1995年公開の『ガメラ 大怪獣空中決戦』で鳥類学者・長峰真弓を演じた中山忍を好きになる。試写会では監督たちも含めた舞台挨拶があったのだが、まだ上映前だったので、きれいな人だなくらいで終わってしまい、もっとよく見ておけばよかったと残念に思う。

今好きな女優は、秋山ゆずきちゃんは本人にも何度も会えたし別格だが、他には木村文乃、有村架純、石田ゆり子、広瀬すず、深田恭子など。

女子アナも好きで、最初は日テレ『マジカル頭脳パワー!!』の永井美奈子(1992〜)、フジテレビの女子アナはだいたい好きだが、特にカトパン(加藤綾子、現在はフリー)。今ちょっと気になっているのは井上清華。テレ朝『激レアさんを連れてきた』で抜群のセンスを見せる弘中綾香も好き。

クイズ番組では、テレ朝『Qさま!!』に解答者としてよく出演していた村井美樹、芸能人ではないが、TBS『東大王』の現役東大生、鈴木光ちゃんが好き。光ちゃんは『プレバト!!』での俳句の才能もすごいし、天は何ぶつを与えるんだって感じ。

男性では中学時代から虜になったビートルズ。基本的に男に興味はないのだが、ビートルズに関しては、写真も見たいし、歌っている映像を見るだけで血が騒ぐ。

男優では父の影響もあってかジェームス・ディーン。『理由なき反抗』が特に好き。『大脱走』のスティーブ・マックイーン、寅さんの渥美清、座頭市の勝新太郎も好き。

35年間、電通(中部支社・名古屋)でアートディレクターをしていた関係で、仕事でたくさんの芸能人、有名人と関わった。特に何年も契約が続き、あるいはいろんな仕事を通じて、何度も撮影などがあったのは、観月ありささん、役所広司さん、谷原章介さん、星野仙一さん、SKE48など。

観月さんはコンタクトレンズの仕事で一緒にニューヨークやニュージーランドに行ったし、役所さんは複数のクライアントで。谷原さんは私がゴジラ好きだと知って、ご自身がゴジラ映画の主演をされたとき、トレーナーをくださった。

高校時代、美大受験のために代々木ゼミナールのデザイン科に通い、デッサンなどを学んだが、そこに先輩でいたのが竹中直人さん。先生のものまねをするなど超面白く、優しい人。

私は大学は武蔵野美術大学だが、別の科に榎木孝明さんがいた。後に俳優になるとは思わなかったが、超イケメンなので、やたら目立っていた。榎木さんとは最近個人的に知り合うことができた。

このページの最初に戻る

翔んで埼玉

大ヒット中の映画『翔んで埼玉』を観た。個人的には最後のはなわの歌が一番面白かったのだが、ここで、私の埼玉感について語ってみたい。

私は大学を卒業する22歳まで、東京都心の実家に住んでいたが、入社するとなぜか名古屋に配属され、35年間勤務。60歳からまたほぼ東京で暮らすようになった。

私が小さかった頃はまだ世田谷区あたりは普通に住める感じで、だんだん場所がなくなってくると埼玉県がベッドタウンになった。今では埼玉県も難しくなったのでははないか。

私の出た高校は新宿区にあり、今では東大に40人くらい入る名門になっているが、私の行っていた頃は今ほど難しくなく、埼玉県の浦和高校を落ちた人がたくさん来ていた。だから埼玉県民は結構身近にいた。

私のイメージとしては埼玉県は言葉に訛りもなく、地理的にも東京にくっついていて、あまり田舎という感じはない。実は埼玉はほぼ行ったことがないし、千葉も東京ディズニーランドくらいしか行ったことはないのだが、どちらかというと千葉県の方が謎である。

まあ、ディスられるというのは中途半端だからだろう。結構昔に「ださいたま」という言葉が生まれ、埼玉県はよくいじられるようになった。

中途半端と言えば、現在私の自宅がある名古屋もすごい。大都市ではあるが、東京、大阪には大きく離され、名古屋城くらいしかイメージもない。名古屋弁は超おもしろいし、最近では名古屋飯なども有名になってきたが、名古屋もディスるにはいいと思う。ただ、名古屋人は埼玉県民ほど笑って受け入れないかな(^^ゞ。

このページの最初に戻る

最近の母

今は2019年2月半ば。母と暮らし始めて1年と3カ月余り。母は、昨年2月に腸閉塞の手術をし、4月に退院するまでは心臓の電気ショックを受けるなど、かなり危ない状態だった。しかし、退院してからはなぜかむくむこともなくなり、それなりの状態を維持している。

母は現在86歳。もう長いこと心臓、腎臓を患っているが、おかげさまで認知症はなく、風呂、トイレなどは自分で入れるし、食事の支度や身の回りの世話をしてあげさえすれば、大して手はかからない。でも、やはり、普通はしないようなことをするのは、年を取ってどこか変わってきているのだろう。

まず、食事の仕方。私は、ご飯類、肉や野菜のおかず類、汁物は出すようにしているが、母は不思議な食べ方をする。必ず、一つずつを完食してから次に進むのだ。例えば、まず味噌汁などを全部飲み干す。それからおかずを一皿きれいに食べる。最後にご飯。味付けご飯なら食べられるだろうが、放っておけば白いご飯でもそれだけを食べる。

そうなった場合は私がふりかけを持ってきてかけたりするが、コース料理じゃあるまいし、なぜそういう食べ方をするのか意味が分からない。最初に汁物を全部飲んでしまって、よくご飯が喉に詰まらないものだと思う。

先日、離れて暮らす妹が、イチゴを送ってきてくれた。木箱入りの高級品で、30個入っていた。私は母と、食後に5個ずつ(母2個、私3個)2回食べた。その後、私が出かけているときに家に妻が来た。私は外出先からスマホのLINEで妻に、冷蔵庫にイチゴが20個あると伝えたが、妻からは「ない」との返事。木箱入りだと返すと、木箱はゴミ箱に捨ててあるとのこと。

帰って確かめると、たしかに木箱は捨ててあった。なんと母は妻が来る前に、一人で20個のイチゴを一気に食べてしまったのだ。まさか嫁に食わせたくなかったわけではないと思うが、少食の母が、20個ものイチゴを一度に食べられたことも驚きだった。

母はおやつを必ず食べる。そして、個包装のクッキーなど、食べた後のゴミはそのまま捨てず、力ずくで小さく折りたたみ、セロテープで留めてから捨てる。なぜゴミにセロテープを使うのか謎だが、他にすることもなさそうなので、趣味なのだろうと理解し、これは注意はせずに見逃している。

このページの最初に戻る

会いたかった

ついでに失敗シリーズ第3弾。
9月のこと。「カメ止め」重度感染者になっていた私は、ヒロインの秋山ゆずきちゃんがゲスト出演する舞台を渋谷に観に行きました。

彼女は事前に、終演後、自分を見に来てくれた観客一人ひとりに挨拶したいとツイッターで呟いていたので、ロビーでドキドキしながら待っていると、他の俳優さんたちはいるのに、ゆずきちゃんは一向に出てきてくれません。20分くらいすると、退出を促すアナウンスがあり、私はあきらめて会場を後にしました。

その後、切っていたスマホを立ち上げると、なんとゆずきちゃんはツイッターで、面会場所を指定していました。そこは私が待っていたロビーではなく、通路の端の方。会場に入って早々にスマホを切っていた私はその呟きに気づきませんでした。彼女はゲスト出演なので、他の俳優さんたちに気を遣ったのでしょう。

かなり残念でしたが、舞台が始まる前、受付に彼女宛に『お金のいらない国』を預けられたので、よしとしました。後日、ツイッターでお礼の返事をもらいました。

このページの最初に戻る

夜中に起きたのに

失敗シリーズ第2弾。
昨日(今朝)の夜中の3時から、ニッポン放送『オールナイトニッポン』で、『カメラを止めるな!』の上田慎一郎監督がパーソナリティを務め、秋山ゆずきちゃんらが出演。
私は3時少し前に起きてスマホで聴こうとしたが、なんと名古屋では聴けず。月々いくらか払ってなんとか会員になれば聴けるようだが、すぐになれるのかもわからないし、この先まず聴くこともないのであきらめた。

このページの最初に戻る

年賀状大失敗

久しぶりに名古屋に帰って年賀状印刷をしようとした。すでに買ってあった年賀はがきはインクジェットの「写真用」で、開けてみて気づいたのだが、宛名面でない方には光沢がある。また、1枚に付き72円。10円高い。

結論から言うと、「写真用」は、全面写真用。余白スペースのあるデザインには、少なくともスミ(黒)文字は向かない。私の年賀状のデザインは余白スペースにスミ文字があり、定着が弱く、擦れると消える。他のはがきや手が汚れる。届く頃、差出人がわかるといいけど。

おまけに厚みがあるので、巻き込みのきついうちのプリンターでは給紙がうまくいかず、あきらめて今年は宛名書きを途中から手書きにした。

替えインクをセットで買ったばかりなのだが、プリンターも古いから限界かな。今住んでる東京のうちは狭くてプリンターが置けないので、年賀状は今年限りにしようかな。

このページの最初に戻る

エキストラ出演

ある映画の撮影に、エキストラで参加させてもらいました。意外な人にもお会いでき、楽しかった!映ってるかはわかんないけど、電通にいた頃はCMの製作側ばっかりだったので、キャスト側に回れてうれしかった(^^)。

このページの最初に戻る

母の愚痴

母と暮らし始めて1年足らず。その間、入院も2カ月ほどあったから一緒にいるのは8、9カ月だが、別々に暮らしていた頃にはあまり感じなかったストレスもある。

母は現在86歳。トイレや風呂は一人で入れるし、認知症ではないのでそう手はかからないのだが、年代、ものの考え方、性格の違いはなんともならない。

特に気になるのが愚痴。私も決してできた人間ではないし、優しくないし、気も短いから、時々それに対して文句を言ったり、怒り飛ばしたりしてしまう。

母の話すことは数パターンしかない。ワイドショーなどはよく一緒に見ているが、最近の事件などはあまり興味もなく、細かいことは理解できないようで、だいたい愚痴は遥か昔のことである。

1.懸垂ができない。
母が入りたかった女学校の入学試験の中に懸垂があったそうで、自分は懸垂ができないからあきらめていた。しかし、母の年はその試験が一里往復(8km)に変わったそうで、母はもちろん走ることも大の苦手だが、死ぬ思いで頑張って合格できたとのこと。
運動主体の学校でもないのに、入学試験に懸垂があるというのもどうかと思うが、母の運動神経の鈍さが遺伝した私も、高校まで懸垂はできなかった。でも、私は大学時代、ウェイトトレーニング部で鍛えて、できるようになったし、運動など、練習すれば誰でもある程度はできるようになる。今更どうでもよい昔の話だし、努力もしなかったくせに文句ばかり言うなとよく言ってしまう。

2.水泳ができない。
これも同じ。特に水が怖いという人もいるのかもしれないが、人間は動物なのだから、練習すればある程度は泳げるはず。母の時代は知らないが、私は小学校にプールがあったので、水泳は問題なくできた。母は練習する機会がなかったか、泳げるようになる前にあきらめたのだと思う。

3.自転車に乗れない。
自転車は誰でも練習して初めて乗れるようになるのであって、練習しなければ乗れない。私も必要に迫られず、練習したことがなかったのでずっと乗れなかった。しかし、大学3年の夏休み、母の実家で伯父が私に車の免許を取らせてくれることになり、自転車に乗れないのはまずいだろうということで、自動車教習所に通い始める前に、まず自転車を買ってくれ、練習して乗れるようになった。母は練習していないのだから乗れるはずがない。

4.友達の自殺
学生時代の友達二人が、後で自殺したという話もしょっちゅう聞かされる。一人は先生と関係があったそうで、母は、先生が悪いと言う。もう一人は利根川に飛び込んだが死にきれず、もう一度入って死んだらしい。そんな話、息子の私が聞いてもどうしようもないし、全然楽しくない。私はその二人の友達のフルネームを覚えてしまった。誰だって友達の一人や二人、自殺くらいしている。

5.右目が見えない。
これは昔の話ではないが、右目は数年前に白内障の手術をしてから、完全に見えなくなった。その前は真っ暗ということはなかったので、母は不満らしい。確かに手術に何かしらの問題があったのかもしれない。しかし、医者に聞いても、視神経が死んでいるから今更何をしても見えるようにはならないそうだし、左目はよく見えるようになったのだから、あきらめてもらうしかない。

6.目薬のつけ方
母の目薬は、私が朝晩つけている。私のつけ方は完璧だそうだが、入院していた頃、病院の看護師さんたちのつけ方が一人を除いて下手だったという。だからもう入院はしたくないと。もちろん、必要がなければ入院などしなくてよいのだが、私が知る限り、看護師さんたちはいろいろ非常によくやってくれていて、目薬だけで評価を下げられてしまうのは気の毒である。自分でつけると言えばよかったのにと思う。母は、妙なところで遠慮する。

6.左耳が聞こえない。
母の左耳は特殊な病気のようで、ちょっと放っておくと膿などがたまって聞こえなくなる。でも、鼓膜に問題はないので、膿が取れれば聞こえるし、補聴器は必要ない。私が点耳薬を毎日数滴ずつつけているが、後は自分で綿棒で掃除すれば聞こえるようになる。それがなぜか何度言っても理解できないらしい。

何かというと、自分は片目片耳で、よいのは鼻だけなどと、差別的な発言をしているが、歯も入れ歯は一本もなく、全部自分の歯で、硬い煎餅もバリバリかじっている。腎臓が悪いのだが、腸閉塞の手術をしてからなぜか足などがむくんだりすることもなくなり、今は塩分も気にせず、何でも食べて快調そうである。背中はかなり曲がっているが、腰にも膝にも痛いところはなく、外でも人につかまれば歩けるし、心不全の割には苦しそうな様子もない。

もちろん不自由もあるだろうが、86歳という年齢の割には元気な方だと思うし、体も柔らかくてよく動き、家に訪問してくるケアマネージャーや、看護師さん、リハビリの先生も驚いている。愚痴ってばかりいず、もう少し生かされていることへの感謝の気持ちを持ってもらいたいものだと思う。

と、ここまで母の愚痴に対しての私の愚痴を書いたが、その後、私の堪忍袋の緒が切れて母をかなりきつく怒り飛ばしたら、母はこういったことはほぼ言わなくなった。

このページの最初に戻る

カラオケの録音

母と暮らすようになって、私の仕事としては、一日3回の食事の支度は欠かせなくなりました。食事の支度と言っても料理を作るわけではありませんから、買い物をしてあれば10分くらいでできます。そして、他の家事は時間に縛られませんから、食事の時間以外は空いているわけです。

私の趣味の一つはカラオケで、最近は昼食後から夕方まで、ときどき行くようになりました。何人か一緒に行ってくれる友人がいて、今のところ全員女性ですが、それぞれ月一くらいのペースで付き合ってもらっています。私の移動時間がもったいないので、勝手ながら家の近くまで来ていただき、近所のカラオケに行きます。お友達など連れてきていただいてもかまわないんですが、今のところ3人以上になったことはありません。

私の歌は基本的にものまねですが、先日、ICレコーダーを買い、録音するようになりました。自分の歌が、客観的にどのように聞こえているか、歌えているのか研究するためです。録音したものはパソコンに落として、日付ごとに分類し、曲名を書き込み、誰と行ったかもわかるようにしています。

洋の東西、男女、ジャンルを問わず、歌える限りの曲を歌うようにしていますが、自分の歌を聴き直すことができるので、いろいろ気づくことがあります。どんなものでもリストにして整理することが好きなのは私の性格のようですが、次回、誰と行くときに何を歌うかの参考にもなるので重宝しています。

このページの最初に戻る

土用の丑の日と母

母と暮らし始めて半年が過ぎましたが、昼食は私が外でお弁当などを一つ買ってきて、二人で分けて食べます。母は食べる量が少ないし、私も若い頃ほど食べられないので、それでちょうどいい量です。

先日は土用の丑の日でした。母は以前から、土用の丑の日には私に鰻を買ってくるように言います。同居する前、通院の時だけ私が来ていたことがありましたが、土用の丑の日には、私がいらないと言っても、1万円してもいいから鰻を買ってきてと言ったほどです。母は鰻はあまり得意ではないはずですが、私が好きなことを知っているので、私に食べさせたいと思っているようです。

しかし、そもそも土用の丑の日に鰻を食べるなどというのは、夏に売れない鰻を買わせるために平賀源内が考え出した宣伝文句なわけですから、私は特別その日に食べなくてもいいと思っています。

でも、この前の土用の丑の日、私はスーパーで鰻弁当を見つけ、買って帰りました。ご飯を1対3くらいに分け、母の方には3cm角くらいの鰻を一切れ載せました。他にはちょっと豪華なサラダがありましたが、それ以外のおかずは鰻だけです。

でも母は、その小さな鰻も半分しか食べられず、残りは私が食べることになりました。この時まで私は、母がそこまで鰻を苦手だとは思っていませんでした。母は普段の食事は、多少無理をしても絶対に残さない人です。その母が食べられないほど嫌いな鰻を、今まで私に買って来いと言っていたわけです。

私に食べさせたいと思ってくれるのはありがたいですが、さすがにそこまで気を使ってもらうのは、ありがた迷惑です。また、土用の丑の日の鰻に限らず、少なくとも私の小さい頃、地元にはなかった習慣の『恵方巻』も、母は食べなければいけないと思っているようです。

もと、広告会社にいた人間としては、広告に影響される人はある意味ありがたいのですが、自分の好き嫌いくらいは優先していただいた方がいいかと思います。

このページの最初に戻る

平均寿命

平均寿命。生まれてこの方、認識を誤っていました。私は、ある年に亡くなった人の年齢を平均したものくらいに思っていましたが、正しくは、「0歳の子どもが平均してあと何年生きられるかを示す『平均余命』のこと」だそうです。と言われてもなんだかよくわかりませんが。

とにかく、ここのところ長い間、人間の寿命が延びていることは確かなようです。でも、小さい頃に死んでしまう人も、百歳以上生きる人もいるわけで、寿命は人それぞれということでしょうね。

参考:
https://kotobank.jp/word/平均寿命-128841

https://allabout.co.jp/gm/gc/384664/

このページの最初に戻る

還暦を迎えて-テレビなどの記憶-

2018(平成30)年2月。私は還暦を迎えた。60歳という年齢になってみて思うこと。

とりあえず病気や事故で死ななかったので、60年は生きられた。これはありがたいことだ。あと何年生きるのだろう。何らかの原因で死ぬまでは、この世でまだ生きる必要があるということかもしれない。それまでは食うに困るようなことにならなければいいが。また、死ぬ時にはあまり苦しみたくない。

髪の毛はほぼ白くなった。でも禿げなくてよかった。禿げている人には申し訳ないが。今のところ染めたことはないし、この先も染めるつもりはない。まだ顔にあまりしわがないので、染めたら年齢不詳になると言われている。

体力は落ちた。ときどき腰が痛くなる。でも、もともと運動は苦手だし、これといった持病はないので特に不自由はない。年を取れば自分で歩けるだけでもすごいことだ。この先も歩けるくらいの体力は維持していきたい。

もちろん自分もだが、母親や周りの人を見ると、人は年を取るんだなあと実感する。若い頃を知っているので、とても不思議な気分になる。個人差はあるが、古い友人と久しぶりに会っても、昔の面影はあるがずいぶん変わるものだなあと思う。

私が子供の頃に活躍していた芸能人。歌手、俳優、落語家、漫才師、司会者などもずいぶん死んでしまった。私は、昔のテレビドラマ、バラエティ、音楽番組、クイズ番組などを、今でもかなり鮮明に覚えている。大学を卒業するまでは東京に住んでいたが、いつも次回を見るのが楽しみだった。

特に好きだったのは、ドラマでは、「ケンチとすみれ」、「おかしな夫婦」、「タイムトラベラー」、「コメットさん」など。

舞台、寄席、バラエティなどでは、「お笑い三人組」、「ジェスチャー」、「シャボン玉ホリデー」、「てなもんや三度笠」、「底抜け脱線ゲーム」、「大正テレビ寄席」、「巨泉×前武 ゲバゲバ90分」、「お昼のゴールデンショー」、「お笑い頭の体操」、「お笑いオンステージ」、「お好み演芸会」、「あなたは名探偵」、「勝ち抜き腕相撲」、「お笑いマンガ道場」、「ハッチャキ!!マチャアキ」「カックラキン大放送!!」「コント55号のなんでそうなるの?」「欽ちゃんのどこまでやるの!?」「8時だョ!全員集合」など。

音楽番組では、「ザ・ヒットパレード」「今週のヒット速報」、「日清ちびっこのどじまん」、「ベスト30歌謡曲」、「レッツゴーヤング」、「夜のヒットスタジオ」、「ザ・ベストテン」など。

クイズ番組では、「アップダウンクイズ」、「それは私です」、「インスピレーションクイズ」、「クイズタイムショック」、「連想ゲーム」、「クイズダービー」、「ほんものは誰だ?!」、「象印ヒントでピント」、「世界まるごとHOWマッチ」など。

海外のドラマ、ショーでは、「名犬ラッシー」から記憶にあり、「アイ・ラブ・ルーシー」、「ザ・ルーシー・ショー」、「じゃじゃ馬億万長者」、「スパイ大作戦」、「奥さまは魔女」、「西部二人組」などが大好きだった。

また、長年、正月に放送されていたフジテレビの「新春かくし芸大会」が大好きで、毎年欠かさず見ていた。

漫画・アニメも、黎明期に私の世代は一緒に育った。うちがテレビを買ったのは私が幼稚園の時で、夜、私が寝てしまってから、「鉄腕アトム」の第1回を見た両親が、すごく面白いからと2回目から見せてくれた。

「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「エイトマン」、「オバケのQ太郎」、「おそ松くん」、「ゲゲゲの鬼太郎」、「ジャングル大帝」、「スーパージェッター」、「ビッグX」、「宇宙少年ソラン」、「遊星少年パピイ」、「ハリスの旋風」、「パーマン」、「もーれつア太郎」、「少年忍者 風のフジ丸」、「どろろ」、「魔法使いサリー」、「レインボー戦隊ロビン」、「マッハGoGoGo」、「妖怪人間ベム」、「かみなり坊やピッカリ・ビー」、「ピュンピュン丸」、「宇宙エース」などなど。

不滅のキャラクターがたくさん生まれた時代だった。手塚先生はじめ、ずいぶん亡くなってしまったが、ほんとに楽しませていただいて感謝している。海外のアニメでは「トムとジェリー」が大好きで、後にレーザーディスクBOXを買った。

「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」にも夢中になった。いまだに続くウルトラシリーズもあの頃始まったのだ。

人が演じる少年向けドラマでは、「ふしぎな少年」、「少年ジェット」、「少年ケニヤ」、「海底人8823」、「忍者部隊 月光」、「マグマ大使」、「快獣ブースカ」、「忍者ハットリくん」、「河童の三平 妖怪大作戦」、「キャプテンウルトラ」、「宇宙人ピピ」、「五人と一ぴき」などを覚えている。

NHKの人形劇では、「チロリン村とクルミの木」はかすかな記憶で、「ひょっこりひょうたん島」、「ネコジャラ市の11人」、「空中都市008」、「プリンプリン物語」などを見ていた。

私のテレビの最も古い記憶は、「おかあさんといっしょ」のブーフーウー、初代体操のお兄さんの砂川啓介さんかもしれない。

劇場用映画では、親に映画館に連れて行ってもらったものでは、東映長編漫画映画「少年猿飛佐助」、「西遊記」、「わんぱく王子の大蛇退治」、「ガリバーの宇宙旅行」など。特に「西遊記」は後に、ビデオ、LDも買ったし、今でも何度でも見たい。

海外ものではディズニーの「ピーターパン」、「101匹わんちゃん大行進」などが印象に残っている。

小学3、4年くらいの時に友達のお母さんが連れて行ってくれたミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」はリバイバル時にも映画館に行ったし、ビデオやLDも買って何度も見た。いまだに一番好きな映画である。

ゴジラなどの怪獣映画は親に連れて行ってもらったことはないのだが、これも別の友達のお母さんが、友達数人と「キングコングの逆襲」という映画に連れて行ってくれた。また、「宇宙大怪獣ギララ」は、夏休みだったか、学校の校庭で見た記憶がある。

もちろん、その後もいろいろな映画やテレビ番組を楽しんできたが、子供の頃に見聞きしたものの影響はかなり大きいと感じている。

また、小学校から先生が引率して連れて行ってくれた舞台、日生劇場のミュージカル「飛んだ幸吉」、「森は生きている」などは今でもシーンや歌を覚えているし、やはり小学校で連れて行ってもらったクラシックのコンサートでは、「カルメン」、「ハンガリア舞曲第5番」、「ツィゴイネルワイゼン」、「旧友」などが大好きになった。

音楽では、自分の意志で初めて買ったレコードが、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」。家には加山雄三の「夜空を仰いで/旅人よ」、「君といつまでも/夜空の星」、荒木一郎の「今夜は踊ろう」、森山良子の「この広い野原いっぱい」などがあり、家族でよく聴いていた。

中学時代はラジオで毎週、「ポップスベストテン」、「不二家歌謡ベストテン」を聴き、カセットテープに録音していたが、レコードはビートルズ一辺倒で、小遣いはすべてビートルズのレコードにつぎ込んだ。ビートルズを買い尽くした高校の頃は、来日したスージー・クアトロのコンサートに行ったり、レコードも買ったりしていた。

中学、高校時代はラジオの深夜放送もよく聴いた。まだアリスが売れない頃の谷村新司の「セイヤング」は特に面白かった。

私は戦後13年経って生まれ、日本の高度経済成長期に育った。昭和の、電化製品などがどんどん進歩していく時代で、活気があったし、危険な目に遭うこともなく、とても幸運だったと思う。

私は35年間務めた会社を3年前に退社し、今は、心不全で入退院を繰り返している母と、主に東京で暮らしている。子供は息子一人で、既に独立しており、妻は自宅のある名古屋と東京を行き来している。私の父は35年前に他界し、妻の両親も亡くなっている。

今後、私が必然的に関わる責任がある親族は、同居している母と、山梨県で一人暮らしをしている母の実姉、伯母である。伯母には子供がいないし、何かあった時が心配だが、たまに会いに行くくらいしかできないのが現状である。少なくともこの二人を送るまでは自分は死なずにいたいものだと思っている。

このページの最初に戻る

母の復活

今回は2018年2月8日に入院し、腸閉塞を起こしていることがわかって9日に転院。手術後、14日に再度、最初の病院に転院した母。心不全の悪化により不整脈を起こして脈拍が上がり、電気ショックまで受けたが、徐々に回復。酸素のチューブが取れ、導尿が取れ、点滴も取れて、なんと4月20日に退院した。入院中に86歳になった。

一時は私たち家族をはじめ、先生も看護師さんたちも、もうだめなのではないかと思ったようだが、奇跡の復活を遂げた。そして母は、入院前日の夜から吐き気で苦しがったことも、腕からの点滴が入らず首から入れるようにしたのをとても痛がったことも、何も覚えていないと言う。

手術や電気ショックは麻酔をしていたので覚えていなくて当然だが、転院時に救急車に乗ったことも、転院先の病院のことも、全く記憶にないらしい。痛かったり、苦しかったりした記憶はない方が幸せかもしれないが、そんな状態からの回復力、生命力には驚いている。

退院後、5月1日に通院したが、つかまれば歩けるし、入院前より元気なくらいで、帰りには外食でランチし、レストランからは結構長い距離を歩いて帰宅した。

母は少量だがなんでも食べるし、自分でトイレも行けるし、頭はボケていないし、病人の割には手がかからない。ただ、風呂に入りたがらないし、紙オムツをなかなか替えない。オムツを汚すことはないのでもったいないと思うようだが、以前は尿路感染が原因で入院したし、こちらが言わなくても一日一回は替えてほしいところである。風呂は、入ればとても気持ちよかったと言って出てくる。

妻は自宅のある名古屋と、東京をほぼ毎週行き来している。入院中は私か妻、あるいは二人で毎日病院に通ったが、3月に入ってからは容態が安定していたので私たちが病院にいるのは1時間ほど。母の食事を用意する必要もなく、自由な時間が増えたので、映画を何本も見に行けたし、夜は外で飲むこともできた。

母が退院した後でも食事の時間以外は外出できるので、ときどきだが、私は友達を誘ってカラオケに行ったり、小中学校時代の友人たちの集まりに参加して飲んだりしている。もともと私は、家にいることや、インドアが好きな性分なので、結構快適である。

このページの最初に戻る

カラオケのコツ

私は歌が好きで、1980年代からもう30年以上、カラオケでよく歌っている。ものまねで、テレビの素人参加番組にも何度か出演させてもらった。カラオケは今でも知り合いとよく行く。6時間くらい歌い続けることもある。

私がここで言うことでもないのだが、カラオケを歌う上では、歌いやすくするための機械の操作のコツがある。

今のカラオケの機械、リモコンは、キーの変更ができる。音の高さの変更である。♯(シャープ)を1回押すと半音上がり、♭(フラット)を1回押すと半音下がる。何度も押せばどんどん変わっていく。

歌っていて高いところが苦しいなと思ったら、♭を押して下げ、低いところが出にくいと思ったら、♯を押して上げれば歌いやすくなる。

プロの歌手はだいたい声が高いので、カラオケはオリジナルより少し低めに作ってあることが多い。カラオケの方が高いことも稀にあるが、だいたいはカラオケの方が少し低いか、原曲と同じ高さである。

原曲の高さで歌いたい場合は、リモコンに「原曲キー」というボタンがあるので、選曲するときにそれを押すとよい。

男性と女性ではもともとのキーが違う。一般的に女性の方が半オクターブくらい高い。だから、例えば女性が男性の歌を歌う場合は、何度か♯ボタンを押して高くするとよい。逆に、男性が女性の歌を歌う場合は、歌いやすい高さになるまで、♭を押せばよいことになる。

ファルセット(裏声)を使って高い声を出すことができる人は、男性でも女性と同じキーで女性の歌を歌うことができる。たまに男性で、地声で女性と同じ高さが出る人がいるが、そういう人は稀である。

私の場合は、ファルセットを使って、女性の歌も原曲キーで歌っている。私は基本的にものまねなので、男女を問わず、すべての歌はオリジナルキーで歌うことにしている。ただ、私もプロに比べると高い声が出ないので、男性の歌でもつらいことがある。その場合は少し下げるか、出ないところだけファルセットを使うことにしている。

このページの最初に戻る

実家の売却

私の実家は東京都港区にあり、先日、荷物を整理した時見つけた資料によると、長島家がそこに越してきたのは昭和10年。祖父がその場所にあった家を買ったのだとわかりました。父は15歳だったはずです。

住所は港区麻布箪笥町。現在の六本木2丁目です。それまでは龍土町(現在の六本木7丁目)に住んでいたと聞いていますが、昔の防衛庁、現在の東京ミッドタウンの近くだと思います。

私の出身中学は、六本木の俳優座の裏、現在、麻布警察署庁舎を建設中の場所にあった三河台中学校ですが、父の時代はそこは三河台小学校だったそうで、そこが父の母校。集合写真には、私の友人のお父さんや、近所にあった食料品店のおばさんも写っています。

祖父が買った当時の家は戦災で焼失しました。その後、そこに家を建て、私が生まれた60年前にあったのもその家です。祖父の職業は紳士服の仕立て屋で、父は戦争から帰ってきてから跡を継ぎました。玄関を入ったところが仕事場でした。

その頃の家は表通りから数えて2件目でしたが、1964年の東京オリンピックの頃、道路を広げるために、表通りに面した家が立ち退かされ、うちが表通りに出ることになりました。うちも土地はある程度削られましたが、残ったところに3階建てのビルを建てました。完成したのは私が小学2年の時です。

3階が住まいで1階は店舗に貸し、2階は父が仕事場にしていました。しかし、父が47歳で病に倒れ、仕事ができなくなってからは2階も事務所として貸すようになりました。

その頃は土地は借地で、地主さんがときどき集金に来ていました。しかし、何年か後に土地が売りに出されてしまい、お金のなかったうちは親せきの力を借りて何とか買い取りました。

私は1980年に就職して名古屋に配属され、東京を離れました。1983年、私が結婚した年の暮れに父が他界し、実家の土地家屋の持ち主は母になりました。その後、バブルで地価が高騰し、いろいろな不動産業者から、かなり売ってほしいと言われたようですが、母は一切耳を貸しませんでした。

私は入社してから、名古屋の独身寮、結婚してからは家族寮に住んでいましたが、1987年に名古屋市内にマンションを買い、引っ越しました。妻は三重県の人です。

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。相当な揺れにも実家はなんとか耐えましたが、2か月後の5月、外壁が一部崩れ、前の歩道に破片が散乱しました。外壁は足場を組んで修理しましたが、1階の店舗はしばらく営業できず、工事中の3日間は警備員が外に立ちました。

2015年3月いっぱいで私は会社を早期退職しました。結局、一度の転勤、異動もなく、35年間、名古屋に勤務しました。退職して以降、東京には来やすくなりましたが、待っていたかのように母の心不全が悪化し、入退院を繰り返すようになりました。

港区に相談してケアしてくれる会社と契約し、週に何度か、買い物などのためにヘルパーさん、看護師さんに来てもらえるようにしました。また、和式だったトイレを洋式に改造、雨漏りしていた天井を一部修理しました。しかし、もともと安普請な上、築50年も経った家は相当傷んできていました。

ある日、不動産会社から、私の携帯に電話がかかってきました。実家の近くにあるA不動産で、私の携帯番号を知っている近所の人から番号を聞いたようでした。私はとりあえず母には内緒で会うことにしました。

聞けばもう30年もそこで営業しているそうで、近所の事情にも詳しく、うちを含めた一帯の土地を買い取ってビルを建てたい計画などを話してくれました。私は、今のところ母は売るつもりはなさそうだと伝えました。

その後、別の不動産会社(B不動産)が、売りに出ていた、うちの隣の土地を買いました。表通りの反対側、うちの裏に当たるところです。私はそちらの会社にも呼ばれて話を聞きに行きました。地元の不動産屋さんではありませんでしたが、こちらもうちの土地を含めてビルを建てたいとのことでした。

話を聞いた帰り、私はA不動産に電話し、会ってもらうことにしました。B不動産と話したことを伝えると、裏の土地をB不動産が買ったことは知っていて、B不動産とは面識もあるとのことでした。A不動産は、うちが土地を売ってくれるなら、裏の土地はB不動産から買い取ると言いました。

私は母に、既にビルは老朽化して危険であり、処分して転居する気があるなら手配を始めると言いましたが、母は家と心中する勢いで、全く動く気はなさそうでした。後日、私はB不動産にその旨をメールし、先にA不動産からも話をいただいていることを伝えました。

2016年は、母の容態が落ち着き、入院はせずに済みました。ただ、B不動産が、裏の土地に建っていた空きビルを壊し、一時的に貸し駐車場にする工事を始めたため、数カ月の間、うちはかなりひどく揺れ、母はそれに耐えねばなりませんでした。

私には妹が一人居り、結婚して神戸に住んでいます。私は、いずれ私と妹で相続するにしても、実家をこのままにはしておかない方がいいと思っていました。しかし、1階の店舗は長年営業を続けているし、どう処分したらいいのかわかりませんでした。そんな折、A不動産との話しの中で、1階の店舗は貸したままの状態で土地家屋を売却することが可能だと知りました。

2017年10月、母が入院しました。家の老朽化は一層進み、いよいよ住める状態ではなくなってきたので、私はこの機会に転居し、土地を売却することを決意しました。

私はA不動産に賃貸のワンルームマンションを探してもらうように依頼しました。この先、母を一人にするつもりはなかったので、私と二人で住むには手狭ではありますが、金銭的な都合もあるし、何とかなるだろうと判断しました。

幸い、A不動産は実家の近くに手頃なところを見つけてくれたので、すぐに契約し、妻と協力して、母が退院できそうな10月末までに何とか住めるようにしました。

母には入院中に一通りの話しをし、転居のことは一応、了解は得ていました。退院の日、実家には寄らず、タクシーで母を新居に連れてきました。母は気に入ったようでしたが、何が起きたのかぴんと来ておらず、いつまでここにいていいのかと、入居した当初はよく聞かれました。

新居に慣れる頃には、実家の売却も母は了解してくれました。私は2カ月ほどかけて、長島家が50年以上住んだ、捨てるものだらけの家を片付けました。12月には一度母を連れて行き、ほぼ物のなくなった家の中を見せました。

そして、A不動産を通じて、不動産鑑定士、測量士、司法書士による諸手続きを終え、2018年2月いっぱいで実家を売却することができました。

3月も終わりに近づいた頃、B不動産から私の携帯に電話がありました。裏の土地を買って駐車場にしているB不動産も、表通りのうちの土地を手に入れたいことは重々承知していましたが、私としては、先に話しをいただいており、以来、つながりを持ち続けたA不動産を選択しました。決め手としては、A不動産が、1階の店舗が入ったまま売ることが可能であることを教えてくれたのも、売却を決意する大きな要因でした。

今後、A不動産とB不動産は、どちらかがどちらかの土地を買い取り、ビルを建てることになるでしょう。1階の店舗との交渉もありますし、しばらく時間と手間がかかると思います。私の選択が多少、話しを複雑にしたかもしれませんが、お金の社会では仕方のないこと。ぜひ有効な土地活用をしていただきたいと思います。

こうして長島家は、戦前から80年住んだ土地を手放しました。

このページの最初に戻る

バブル時代

バブル時代とは、1980年代後半から1990年代初めの異常な好景気のこと。ただ、これは崩壊したからあの頃はバブルだったと、後になって言われているわけで、当時はその景気が続くと思われていた。

私の実家は東京の都心にあり、うちを含め、小学校時代の友人などは都心に土地家屋を所有している家が多かった。しかし、いくら都心とはいえ、私が子供の頃(昭和30〜40年代)は、今では想像もつかない古い家並みであった。

それがバブル時代に都市の再開発が盛んになって地価が一気に高騰し、土地を所有している人たちは思わぬ誘惑に踊らされることになる。

金融機関がさまざまな開発事業に融資したバブル時代。地上げが横行し、土地所有者の一部はそこを売って他の場所に移った。ただ、バブルは数年で崩壊したため、歯抜け状態で残るところも多かった。

また、銀行は、ある程度の広さの土地の所有者に対しては、その土地を担保に融資をするので、ビルを建て、テナントに貸して家賃収入を得ることをすすめた。しかし、バブルが崩壊して景気が悪くなり、家賃を払えなくなったテナントが出て行ってしまうと、ビル所有者の収入はなくなり、結局、担保にしていた土地を手放したり、巨額の借金を背負うことになった。

バブル時代の一時の好景気は金融機関をはじめ、人々の予想、判断を誤らせた。バブル崩壊後の世の中は大きく変わり、多くの銀行や金融機関が合併や倒産をすることになった。

私の実家はどうなったかというと、所有者の母が売買の話に一切耳を貸さず、結果的にバブルをやり過ごした形になった。その後、土地の価格は数分の一に下がったが、土地家屋を失うことはなく、借金も背負わずに済んだ。

お金の社会というのは本当に泡のような曖昧な世界なのであり、バブル時代は教訓として覚えておいた方がよいと思う。

このページの最初に戻る

母と暮らせば

2017年10月末に母が退院してから、私は東京の実家近くに借りたワンルームマンションで母と暮らしています。妻は自宅のある名古屋と東京を行ったり来たりしていますが、私は名古屋へは用事のある時、たまに帰るだけです。

母とは、私は生まれてから大学を卒業するまでの22年間一緒に住んでいましたが、今回二人で暮らしてみて、母の性格から食べ物の好みまで改めて分かったことがたくさんありました。

母は昭和7年生まれで、長島家に60年以上前に嫁いできました。母は私の記憶がある限りでも、父や祖母によく尽くしていました。母は人当たりがよく、でも芯はしっかりしていて、気難しい父や祖母と問題を起こすこともなく、嫁としての役目を果たしていたようです。

父は大正9年生まれで、戦争で沖縄に行きましたが、何とか生きて帰ってきました。しかし、撃たれた左足は銃弾が骨を貫通しており、患部は長い間膿んだりして大変だったようです。見合いで12歳年下の母と結婚した後も入退院を繰り返すことになりました。

家は都心にありますが、私が小学2年の時に建て直し、3階建てにしました。しかし、当時、土地は借地で、数年後、地主が突然転売してしまい、追い出される危機に見舞われました。親戚の助けを借りて何とか買い取ることができましたが、父も母も精神的に相当まいったようでした。

父は祖父の跡を継いで紳士服の仕立て屋をしていましたが、47歳の時、病に倒れ、めまいなどの後遺症で仕事ができなくなりました。その後、祖母は寝たきりになり、母による介護が必要になりました。

3階建てにしてから1、2階を貸していたので、ある程度の家賃収入はありましたが、経済的な余裕はなく、祖母が亡くなると、母は働きに出ました。アパレルメーカーの契約社員としてデパートで婦人服の販売員をしていたようです。

父は母が働きに出ることが気に入らず、酒が入ると時々母に当たっていました。父にしてみれば、自分が働けないのが悔しかったのでしょう。でも母は仕事をやめるわけにもいかず、こらえていました。

販売員としての成績は良かったらしく、先日実家を整理していたら、賞状が出てきました。正社員になることを大分すすめられたようですが、父の手前もあり、それはできませんでした。

私には5歳年下の妹が居りますが、母は子供たちには優しく、また、教育熱心でした。私が小学校高学年になると、もちろん父の同意があってですが、塾などに行かせてくれ、また、毎晩遅くまで勉強を見てくれました。

母は学生時代は成績もよく、勉強が好きで、大学も行きたかったようですが、経済的に無理と判断し、あきらめたそうです。だから、子供にはやりたいことをさせてやりたいと、私は美大へ、妹は音大へ行かせてもらいました。

私は大学を卒業して就職。配属先の名古屋に行って3年後、結婚した年の暮れに父が再び倒れ、63歳で亡くなりました。その後、妹が大学を卒業して結婚。神戸に行ったので、母は東京で一人暮らしになりました。

私は東京出張の時、たまに実家に泊まりましたが、後は年末年始に3、4日行くくらいで、母は長い間一人きりで生活していました。その間、右手首の骨折、白内障の手術など、今思えば一人ではさぞ不自由だったろうと想像できることも、母は一人で耐え、私たちの手を借りようとはしませんでした。

私が2015年に会社を早期退職すると、母は心不全などで入退院を繰り返すようになりました。以後、訪問看護師さんやヘルパーさんの力を借りつつ、私は妻と、通院などの必要があるときに自宅のある名古屋と東京の実家を行き来していました。

しかし、母の体調も浮き沈みがあるし、築50年を超える実家の老朽化も顕著になってきたため、近くにワンルームマンションを借り、私は東京で母と暮らすようになったわけです。

そうして家事一切を私がすることになったのですが、私は料理は何一つできません。ですから食卓に並ぶのは必然的にスーパーなどで買う総菜、レトルト食品、冷凍食品になります。私は自分が買い物をするようになって、初めて母の食べ物の好みを知りました。

私が子供時代、東京にいた頃は母が作ってくれたものを食べるだけ。母は自分の嫌いなものは作っていなかったかもしれませんが、家族の誰も別に文句は言わなかったし、母の好みなど考えたこともありませんでした。

実家は都心にあるので、一昔前から近隣の再開発が進み、昔ながらの商店街がなくなるなどして、母は一時はバスに乗って遠くまで買い物に行かねばならないこともありました。その頃は相当大変だったようですが、今私は歩いて行ける範囲にスーパーやコンビニがたくさんあるので、とても便利です。

母は心不全で、腎臓も悪く、2週に一度くらいは通院、必要があれば入院しています。通院はタクシーで、私や妻が付き添います。また、右目は全く見えず左目も緑内障なのでたまに眼科に通い、左耳も膿などが詰まるので耳鼻科で時々取ってもらわないと聞こえなくなります。以前は脊柱管狭窄症で整形外科にも通っていたのですが、現在は治まっているようです。

歩くと心臓が苦しいので通院以外は外出しようとせず、右目が見えないことを理由に本を読むことなどもなく、何もしようとはしません。左目の視力は結構あるようでテレビは裸眼で見ているし、小さなゴミに気づいて拾ったりしていますが、後は食事の時間以外はだいたい寝ています。

右目が見えないことは、ことあるごとに何もしない言い訳にしています。不自由なのはわかりますが、世間には両目が見えなくても頑張っている方がたくさんいらっしゃるし、もう少し左目が見えることに感謝してもいいと思うのですが、そこまで前向きには考えられない性格のようです。

母はいつも、病院の先生、看護師さん、私たちにもありがとう、ありがとうと繰り返しています。それは悪いことではないですが、あまり人に気を使ったり、身の回りの世話をしてもらうことを必要以上に申し訳なく思われると、こちらの方が気を使います。

基本的に頭はボケていません。最近のことはあまりちゃんと理解できていないこともあるようですが、昔のことははっきり覚えていて、よく話してくれます。しかし、同じ話を何度も繰り返されるので相槌を打つのが面倒になることもしばしばです。

母がよくする話の一つは小学校時代の学芸会のこと。母は友達と二人で主役を演じたそうですが、母が言うには自分は声が通らないのに友達はとてもよく声の通る子だったとのこと。だから何だという話です。

また、血縁にとてもこだわりがあるようで、親戚の昔の人の誰が本当の子ではないとか、私にとってはまさにどうでもいいことが、母にとってはとても大事なことのようです。

自分は生まれつき心臓に異常があったのに、両親はそれを隠していたという話も不満としてよく聞きます。若い頃は不自由はなかったんだし、今の歳まで生きられているんですから全く問題ないと思うんですが。祖父母は娘に余計な心配をさせたくなかったんでしょう。

母の話しは本当は黙ってただ聞いてあげるのがいいのだとは思いますが、私はそう辛抱強い人間ではないので、引っかかることがあるとつい、いろいろ言いたくなってしまいます。私が話し出すと母はテレビに目をやったりして、突然話題を変えます。

とにかく母は真面目で我慢強く、決められたことは完璧に守らなければ気が済まず、世の中に波風を立てるようなことは絶対にしたくない性格のようです。だから世間の常識を全て覆したいと思っている私のような子供が生まれたのかもしれません。

このページの最初に戻る

母の容態

2018年2月6日(火)。医師から指示された通院日に、私と妻は母を病院に連れて行った。いつものように診察を終え、帰宅。翌7日の夕方、母が気持ちが悪いと言い出し、食事もできず、薬も飲めなくなった。夜中じゅう、吐き気があり、8日の朝、救急で病院に連れて行った。家の前まで歩くことはできたので、タクシーには乗れた。

9日、CTスキャンを撮った結果、腸閉塞を起こしていることが分かった。その病院は心臓の専門医院なので総合病院に転院することになり、夕方、救急車で運ばれた。私と妻が付き添い、先生も一人同乗してくださった。

夜8時半頃から緊急手術。私と妻は待合スペースで待機した。ただでさえ心不全なのに全身麻酔をするのでどうなることかと思っていたが、11時頃、手術は無事終了したと医師が伝えに来てくれた。

しばらくして、面会できると言われたのでEICUの部屋に行くと、母は一応意識が戻っていて、薄く目も開いていた。やれやれと思い、私と妻は帰宅した。日付は翌日になっていた。

10日、病院に行くと、母は上半身が斜めに起きたベッドの上で目を開いており、一応、話しもできた。ただ、そこがどこなのか、何が起きたのかは理解できていないようだった。夕方、妻は自宅のある名古屋に帰った。

11〜13日は私が一人で様子を見に行った。腸閉塞の方はもう大丈夫なようなので、14日の午前中、また元の心臓の病院に転院することになった。再び、救急車で搬送。今回は私が同乗し、総合病院の先生が一名、付き添ってくださった。

手術をしたのだから仕方ないが、心不全は以前より悪くなっていた。不整脈で一時は急に脈拍が上がり、麻酔をして電気ショックを与えた。3月半ばを過ぎた現在も入院していて、いつどうなってもおかしくない状態ではある。

でも、鼻に入れていた酸素のチューブは取れたし、点滴は多少減っているようだ。退院の目途は立っていないが、リハビリが始まり、ベッドの上で大きな繭型のボールを蹴ったり、廊下を少し歩いたりはできるようになった。

私は2月以降、名古屋には帰っておらず、毎日1、2時間病院に行ってはいるが、ワンルームマンションで快適に暮らしている。妻は名古屋東京を行ったり来たりしており、一緒にいる時は家事をやってくれるが、私は一人の時でも、食事の支度は簡単だし、全て自分の自由になるので、何とも楽である。

このページの最初に戻る

生活パターン

2017年10月末、東京の実家近くにワンルームマンションを借りた私は、妻と協力して、住める環境を整えました。そして、ちょうど退院した母を実家には帰らせずに連れてきました。

その後は、母と私の二人暮らしが始まりました。妻は1、2週間おきに自宅のある名古屋と東京を往復しています。

私の役目は家事一切。と言っても食事は近くのスーパーやコンビニで、弁当、冷凍食品、レトルト食品などを買ってくるだけだし、洗濯は2日に一度。掃除も気になった時にやるだけです。

今まで母が住んでいた実家を整理するのは大変でしたが、それが済んだ今は散歩に出るなどの余裕ができました。

以下が私の基本的な生活パターンです。

6:00起床
6:30朝食〜テレビ
パソコン、ギターの練習、洗濯
10:00散歩など
12:00昼食〜テレビ
自由時間
15:00おやつ
16:00食品の買い物
18:00夕食〜テレビ
21:00入浴
22:00パソコン
23:00就寝

母は現在85歳で、心臓、腎臓に疾患があり、だいたい月に一度、タクシーで病院に連れて行っています。むくみが出たりすればすぐに予約しなおして行きます。足は悪くないのですが、人につかまらないと歩けないので、外出は病院に行く以外したがりません。また、右目は全く見えず、左目は緑内障の目薬をつけています。耳は左耳が膿などで詰まって聞こえなくなってしまうので、週に一度、耳鼻科に連れていきます。

認知症にはなっていませんが、最近のことははっきりとは覚えていないことが多くなってきたようです。

このページの最初に戻る

整理の工程など

今回、実家を整理するにあたり、残しておけるのは移動先のワンルームマンションに入るものだけでした。必然的にほとんどの物は捨てることになります。結果的に、日用品で移動させたのはテレビ、掃除機、必要な食器類、羽毛布団くらいでした。

マンションに持ち込んだ物で一番量があったのはアルバム、写真類でした。私と妹の小さい頃のアルバムが何冊かずつ、学校の卒業アルバムが数冊ずつ。これだけでも結構な量でしたが、父と母それぞれの昔のアルバム、母が元気な頃所属していたグループの旅行のアルバムなど。祖母の箪笥からも古い写真が出てきました。

実家は11坪しかない3階建てのビルで、主に使用していたのは3階部分だけですが、部屋の各所、屋上への階段回りにも棚が作られ、また、押し入れの袋戸棚や箪笥の上などにも大量の物が積まれていました。

以前は事務所として貸していた2階は現在空いていたので、私はまず、食器戸棚に入っている食器類を全て2階に運び、並べました。使い込んだもの、懐かしいものもたくさんありましたが、見たこともないもの、ほとんど使っていないと思われるものも大量にありました。

洋服ダンスの中や棚の上からは、大量のハンドバッグが見つかりました。いただきものなど、一度も使っていないものもかなりありそうでした。とりあえず、それも全て2階に並べました。

押入れの袋戸棚からは私の五月人形などが出てきました。祖父が買ってくれた兜や、よく御用聞きに来ていた近所の魚屋さんからいただいたという鍾馗様。桃太郎、金太郎、加藤清正。妹のひな人形は、実家を建て直す前の仮の家で雨に濡れ、ほぼ破損してしまったのですが、残った人形だけ箱に入っていました。それ以外にもケース入りの日本人形が2体。

押入れの下の段からは、着物を入れる大きな木の箱、トタンの箱、茶箱が出てきました。中には着物や帯、端切れや毛糸などが入っていて、着物などは2階に並べました。

私が最近、山梨に住む伯母からいただいた大量の記念切手などもあったので、ここで買い取り業者を呼んでみました。2階にはアクセサリー類も並べ、見てもらいましたが、着物などは骨董的価値のあるものでないとだめで、バッグ類も高級ブランドでなければだめ。結局、切手を額面の半額くらいで引き取ってもらえただけでした。

屋上への階段回りには、大量の本や、私の美大時代の油絵、課題で描いたポスター、卒業して以来二度と使わなかった写真用品などが埃をかぶって置いてありました。油絵のキャンバスは写真を撮って枠から外し、他の作品と一緒に燃えるゴミに出しました。

数十年前に父が買った一眼レフカメラの望遠レンズなどは、私が預かっていたカメラ本体と合わせて、カメラの買い取り業者に持って行ってみました。状態は悪かったのですが、カメラだけは交通費くらいで買い取ってもらえました。これも父が買ったらしい天体望遠鏡がありましたが、妹がほしいというので、妹に送りました。

その他、あちこちから大量の物が出てきましたが、使える使えないにかかわらず、ほぼ全て捨てるしかありませんでした。もったいない気もしましたが、少なくとも新しいものではないし、誰かにもらってもらうのも手間のかかることです。買い取り業者に見てもらった後は、2階に並べたものもほぼすべて分別してそれぞれのゴミの日に出しました。

毎日、少しずつ、考えながらの作業でしたが、収納することや捨てることに対する自分なりの基準ができた気がします。

物は、必要な時に必要なだけあればよい。今使わないものは後になっても使わない。特に洋服などは流行もあり、着物のようにカビや湿気で劣化するものは、よほど手入れをしっかりしておかないと、結局は捨てることになる。取っておくには場所が必要になるし、しまっておくとしても内容を把握し、忘れないことが重要。

この2か月、ほんとに大変でしたが、母ではいろいろ思い切れなかったろうし、家族が50年住んだ家を整理するのは、長男の私の役目だったのだろうと思いました。

このページの最初に戻る

実家を整理してみて

2017年10月末から、わけあって実家の整理を始めました。いくら狭いとはいえ、50年以上人が住んだ家の荷物、ゴミの量は半端じゃありません。毎日1、2時間の作業を続け、年が明けた現在、やっとだいたい全貌が見えましたが、いろいろ学ぶこともありました。

私の実家は私が小学校2年の時に建て直したもので、敷地は11坪しかないのですが、3階建てのビルです。当時は祖母、父、母、妹、私の5人家族でした。1階は飲食店に貸し、2階は、父が紳士服の仕立て屋だったので作業場にしていました。しかし、しばらくして父が病に倒れ、仕事ができなくなってからは2階も事務所として貸すようになりました。

建てた当時に、祖母と母それぞれの和箪笥二棹が、たぶん二度と開けられないような、屋上の出口手前に作られた棚に置かれました。案の定その箪笥の前には後日、大量の物が置かれ、今回、私はその箪笥を開けるにあたり、その埃にまみれゴミと化した大量の物を分別して捨てる作業が必要でした。

母の箪笥からは、母の記憶にあった、母が16歳の時に書いた、何かの賞をもらった習字が出てきました。祖母の箪笥からは、若くして亡くなった娘、父の姉の学生時代の写真などが出てきました。ドラマの舞台にもなった、外人の先生が多いお嬢さん学校なので、さすがに雰囲気があります。

別の箪笥の奥からは、父が戦時中、兵隊として行っていた沖縄から、自分の父や妹宛に送った葉書、手紙が出てきました。先に送ったと思われる葉書にはのん気なことが書いてありましたが、戦況が悪化してから書いた手紙は、死を覚悟したものでした。父は結局、足を撃たれて捕虜になり、生きて帰ってきたので私はこの世に生を受けることができました。

そういった、私にとっては結構貴重なものは発見されましたが、大半のものはゴミとして捨てるしかありませんでした。たぶんほとんどは、まだ存命中の母の判断で残されていたのだと思いますが、開封もされていない真新しいいただきものがそのまま出てきたりもしました。

これは母の性格だと思いますが、たぶん、もったいないから今は使わない、取っておけばいつか使うんじゃないかとしまい込み、そのまま忘れてしまったのでしょう。食器類、寝具、衣料用品など、そういったものが大量にありました。しかし、結局今となっては誰も使わないし、いらないものばかりです。

ものは使える時にすぐに使うか、少なくとも、中身としまった場所は覚えておいてチャンスがあれば使う、いらなければ捨てるようにしないと、結局、場所をとって長年ゴミを保管しておくだけのことになってしまうことがよくわかりました。

このページの最初に戻る

たぶん、私の知識不足と、お金の存在する社会だから起きたと思われる、wifi環境に苦労した話

私のパソコンはデスクトップ型で、数年前に買い替えました。その時はスマホを持っていたわけでもなかったので、それまで通り、インターネットは有線でつなぎました。

2年ほど前にはスマホを使っていましたが、あるドコモショップに行った折、自宅がwifi環境にないことを話すと、wifiステーションなるものを勧められました。月々数百円でwifiが使える、そして、2017年7月に入ったら解約すればそのまま使えるようになる、と、私は解釈し、契約しました。

2017年7月に入ったので、今度は別のドコモショップでしたが行くと、今、解約すれば解約料はタダだが、解約すればwifiは使えなくなり、継続すると月々3千円近くかかるということでした。今更wifiが使えなくなっても困るので私は継続しました。

2ヵ月後のある朝、スマホが動かなくなりました。また別の、近所のドコモショップに行ったところ、幸いすぐ直りましたが、うちの契約状況を見て、wifi環境を聞いた担当者は、有料のサービスサポートに入会すれば、電話で一番よい方法を教えてくれると言いました。

自宅に帰って、もらったカタログを見ても入会方法がわからなかったので、あったフリーダイヤルに電話してうちの環境を伝えると、機械を買ってからでないと教えようがないと言われました。こちらは何をどこで買えばいいのかもわからないわけで、どこで買えばいいのかと聞いたことろ、家電店で買えるというような返事。私はとりあえず電話を切って、考えました。

それまで私は、パソコンをwifiにするにはパソコン自体を買い替える必要があるのだと思い込んでいました。しかし、どうも話の様子ではそうではないらしい。私はそのあたりをネットで調べてみました。すると、無線のルーターなるものを買えば、今のパソコンがwifiで使えるらしいことがわかりました。

それなら家電店に行くまでもないと思い、私はネットで、無線ルーターの親機、子機を注文しました。届いた機械を説明書通りにセットしたつもりでしたがすぐにはインターネットにつながらなかったため、私は再びサポートサービスに電話しました。そして電話で入会手続きをし、サポートを受けてつなぐことができました。すぐにwifiステーションの解約のためドコモショップに行きましたが、解約料は1万円近くかかりました。

こうしてうちのwifi環境はやっと落ち着いたわけですが、ずいぶん遠回りをしてしまいました。私に、パソコンをwifiに変える方法の知識がなかったことがそもそもの原因ですが、ドコモショップの誰かがそれを察知して教えてくれていたら、wifiステーションを契約することもなかったし、2年後に契約を継続することもなかったでしょう。

でもこれはお金の社会だから仕方のないことなのだと思います。お金の社会では、自分の仕事の範囲のことしか勧められないし、言えないのでしょう。全体を見て最良の方法をアドバイスするようなことは、別の仕事になってしまうのだと思います。厄介な世の中です。

このページの最初に戻る

山梨の伯父のこと

2003年の秋、山梨県に住んでいる伯母から、ある夜、うちに電話がかかってきました。私の母の姉ですが、わけあって長いこと疎遠になっていたので驚きました。すぐに伯父に電話を代わると、伯父はそのちょっと前に私が送った、自費出版したばかりの『お金のいらない国』の感想を言ってくれました。「心が洗われたよ」

その3ヵ月後くらいに伯父は亡くなりました。私は本を送っておいて本当によかったと思いました。

伯父も伯母も山梨県の出身ですが、伯母は私の母との二人姉妹です。今では珍しいかもしれませんが、男の跡継ぎがいないので、伯父は養子に入りました。ただ、伯父の家も男の子は伯父一人で、後はたくさんの妹さんだそうですから、不思議な話です。

当時、伯父も伯母も東京電力に勤めており、そこで知り合ったようです。伯父と伯母が結婚したのは私が生まれたより後で、私は幼稚園に入るか入らない頃だと思いますが、結婚式に出たのを覚えています。

その頃、母の実家には伯父、伯母と、祖父、祖母がいました。伯父、伯母の間にはその後結局子供ができなかったこともあり、私はものすごくかわいがってもらいました。小学校1年の夏休みには一人で39日間泊まり、その後も大学を卒業するまで、春休み、夏休みは可能な限り泊まりに行っていました。

伯父と伯母には富士急ハイランドや河口湖に連れて行ってもらったのを覚えています。富士急ハイランドに行ったのは小学校1年でしたが、富士山の噴火の模型などがとても面白く、また、河口湖の絵ハガキは富士山との四季の風景でしたが、その後もよく見ていました。

伯父は大の動物好きで、常に数匹の日本猫を飼っていました。縁あって飼うことになったシャム猫、コリー犬やミドリザルもいましたし、キジ、東天紅、チャボなど数種類の鳥がいたこともありました。私は動物は自分のうちでは飼ったことがないのですが、そこで動物たちと触れ合うのが楽しみでした。

私が小学生の時、伯父と伯母はそろって脱サラしました。近所の人からは、おかしくなったのではないかと言われたそうです。そして盆栽店を開きました。伯父はときどき伯母とトラックで出かけて苗木を仕入れ、自分で盆栽を作り、育てて販売しました。

また、家が国道沿いでもあり、しばらくして食堂も始めました。その頃には祖父は亡くなっていたと思いますが、伯父、伯母、祖母が毎日遅くまでとても忙しく働いていたのを覚えています。料理は伯父と祖母の担当で、とにかく伯父は何でも器用にこなす人でした。

田舎の食堂にしては結構いいものを出していて、これは祖母の得意料理ですが、おばあちゃんのエビチャーハンを気に入った大物女性歌手が、後日、予約して食べに来られたこともありました。

小学生だった私は、伯父に頼まれて店内の壁に貼るメニューを描きました。色模造紙にカラフルなサインペンで好き勝手に描いた相当変なものでしたが、伯父はやたらとほめて使ってくれました。

盆栽店の方では盆栽に使う富士砂も販売していたのですが、トラックで運ばれてくる砂をふるいにかける大きな機械も伯父が考案し、砂の袋詰めや積載作業は私もよく手伝いました。また伯父は防塵マスクをして、鞍馬石に鉄粉を吹き付けて削り、石の鉢も作っていました。

さすがに働きすぎだったのではないかと思いますが、伯父は肩こりがひどく、三叉神経痛でも苦しんでいました。石のように固くなった肩を私が揉んだこともあります。

食堂は数年で閉店し、盆栽店は伯父が亡くなった後、伯母が残った盆栽を売り切って閉店しました。

血もつながっていない私を非常にかわいがってくれた伯父には感謝してもしきれないし、最後は長い間会えなかったことが残念ですが、亡くなる前に『お金のいらない国』を読んでもらえ、喜んでもらえたことが本当によかったと思っています。

このページの最初に戻る

りょうさんを偲んで

2017年8月19日、りょうさんの奥様から私のスマホに、りょうさんが亡くなったとメールが届きました。りょうさんは私が以前二人で組んでいたバンドの、10歳年上の相方です。つい先日、70歳の誕生日を迎えたばかり。昨年、癌が見つかり、入退院を繰り返していました。

りょうさんに初めて会ったのは2006年1月。以前私が勤めていた広告会社と取り引きのあるデザイン会社が、たまの夜に事務所を開放してバーを開き、業界人が集まっていたのですが、ある日、そこでりょうさんがギター弾き語りのソロライブをしていました。りょうさんのお仕事は建築関係なのですが、その会社のオーナーとは友達でした。

ライブ終了後、私はオーナーに、りょうさんの伴奏で何か歌ってほしいと言われました。りょうさんが演奏した曲の中で私が歌えるのはビートルズの『And I Love Her』くらいだったので、それを歌わせてもらったところ、二人でバンドを組もうと誘われました。

お互いにビートルズが好きだということがわかり、数曲を決めて3月末に、その事務所でぶっつけ本番のライブをさせてもらいました。一度も合わせていなかったのであやしい演奏だったと思いますが、それがりょうさんとの初ライブでした。

その後、2週間に一度、お互いの仕事が終わって帰宅した後、夜8時から2時間、貸スタジオで練習するようになりました。私が妻に車で送ってもらってスタジオに到着すると、たいていりょうさんは少し先に来て準備を始めていて、いつも満面の笑みで迎えてくれました。

りょうさんがリードギターで私がリズムギター。ヴォーカルはだいたい私がリードで、りょうさんがコーラス。ビートルズを二人だけで演奏するわけですから、かなり無謀な挑戦でしたが、ファンには全てなじみ深いビートルズの曲の中でも、あまりメジャーでない曲を主に練習しました。

りょうさんのこだわりで、原曲のとおりにやらない部分もありました。二人だけで演奏するわけですからやむを得ないところもあったとは思いますが、構成や繰り返しの回数など、私は元のままでいいのにと思うこともありました。

練習の後は毎回、スタジオの近くのバーで1時間ほどビールを飲んで話しました。りょうさんは昔からいろいろな人とバンド活動をしていて経験が豊富でした。また、ビートルズが大好きなのに、自分で演奏することはあまり考えていなかったそうです。

りょうさんはとても話し好きで、二人で飲んでいてもほとんどりょうさんがしゃべっていましたが、とにかくビートルズに関しては友達かというくらいものすごく詳しく、いくら話してもネタは尽きないようでした。

2007年に入って、バンドに名前をつけようということになりました。私が出した案の中から、『ビーマイナー』という名前に決まりました。ギターコードのBmと、ビートルズのマイナーな曲を主に演奏するという理由からです。表記は『B'm』と、アポストロフィーが付くのですが、これも「余計なことをする」というりょうさんのこだわりでした。

わたしの知り合いのゆうさんがマネージャーを買って出てくれ、本番はだいたい3人で行動するようになりました。デザイン事務所でのライブの他に、他のバンドとのジョイントライブや、知り合いに頼まれてイベントにも出演しました。

2008年5月、デザイン会社の移転に伴い、オーナーは事務所とは別に、本物のバーを開きました。それからB'mは2週間に一度、そのお店でレギュラーで演奏させてもらうことになりました。

たまにビートルズの他に、りょうさんが好きな50年代の曲や、日本のグループサウンズの曲もやりました。また、オリジナル曲も何曲か作りました。りょうさんが作曲した曲には詩もついていましたが、自由に直していいとおっしゃるので、私は詩を遠慮なく修正させていただきました。

デザイン会社のオーナーが開いたお店は2009年11月に閉店しましたが、たくさんの人と知り合い、歌や演奏を聴いていただくことができました。その後は他のお店に出演するなどしていましたが、2010年3月末に私が右足首骨折で入院し、次にライブができたのは12月でした。

2011年2月に知り合いのバンドとのジョイントライブをしました。りょうさんとバンドを組んで5年が経ち、演奏はだいぶ安定していましたが、進歩はなくなってきたようで、私はちょっと行き詰まりを感じていました。

そして、2011年3月11日。東日本大震災が発生しました。津波の映像などに私は大変ショックを受け、バンドを続ける気力がなくなってしまいました。りょうさんはまだやりたそうでしたが、私はりょうさんに、もう続けられそうもないと伝えました。結局B'mとしては2月のジョイントライブが最後になりました。

その後、りょうさんは他の人と数人で全く違うコンセプトのバンドを組まれ、私もライブを聴きに行かせてもらったこともありました。

2014年9月、りょうさんからバンドの応援を頼まれました。またビートルズをやっているのでコーラスで参加してほしいとのことでした。私は快諾し、曲目を聞いて私のパートの練習をしてライブに参加しました。りょうさんは私とやっていた時のように普段は二人でやられているようでした。そのバンドのライブには、2015年の初めにも2度参加させてもらいました。

その後、2016年はりょうさんからの連絡はなく、2017年の年賀状も来ませんでした。いつも達筆の筆書きの年賀状をくださっていたので、マネージャーのゆうさんも心配していました。そしてその直後、りょうさんの奥様から電話をいただきました。りょうさんは2016年に癌が見つかり、昨年の6月から入退院を繰り返しているとのことでした。

私が翌日、妻と見舞いに行くと、りょうさんはベッドに寝ていました。元気な時とは大分様子が違いましたが、意識ははっきりしていて、話もできました。その後、妻ともう一度行き、2月にはゆうさんとも見舞いに行きました。その時は以前よりも元気に見え、たくさん話してくれました。

6月半ば過ぎ、りょうさん本人から、奥様の実家で療養することになったと、スマホにLINEが届きました。しかしその後、8月初めに奥様から、危篤になったとメールが入りました。翌日には持ち直したとのことでしたが、8月19日、ついに訃報が届いてしまいました。

20日の夜がお通夜でした。デザイン会社のオーナーや、お客さんとしてライブを聴いてくれた友人たち、ゆうさんも駆けつけました。遺影の写真はB'mのライブの後に撮ったもので、一番いい表情をしていたので奥さんと息子さんで選んだとのこと。シャツはライブの時に二人でよく着ていたものでした。

翌日の葬儀は平日だったので、友人は少なかったですが、仕事を辞めている私は妻と参列できました。式の後、花を入れるために棺のふたを開けると、遺体の上にはビートルズ関連の本が開いて伏せて載っていました。

りょうさんにとってビートルズは、演奏するのもはばかられるほど敬愛する存在だったのでしょう。私が何かお手伝いできたかはわかりませんが、貴重な楽しい時間を共有させていただいたことに感謝しています。

このページの最初に戻る

器用貧乏

私は器用な方だと思います。運動以外は結構そこそこいろんなことができます。しかしどれも、プロになれるほどではありません。真剣にその道だけを目指せば、それなりにそれぞれに関連した職業には就けたかもしれませんが、並外れた才能はないようです。

●美術
絵は子供の頃から好きで、これは一応、関連した職業には就けました。美大を出て広告代理店に就職し、アートディレクターとして35年間勤務しました。でもそう目立った仕事はできず、狙ったコンペなどでは賞も獲れませんでした。同僚の中には、同じ環境下で大活躍し、大きな賞を獲る人もいました。

高校時代、一緒に美大を目指して予備校に通っていた同級生はデッサンなどが天才的に上手でした。浪人して予備校に来ている先輩たちも上手でした。また、美大はもちろんうまい人だらけで、画家になった人もいます。私は美大に入れる程度には描けたわけですが、その中では特別目立つ存在ではありませんでした。

退職後は妻や親戚の要望に応えて、いろんなものに装飾用の絵などを描いたり、粘土で置物を作ったりしています。

●音楽
中学時代にビートルズを好きになり、歌うようになりました。会社に入るまではあまり人前では歌いませんでしたが、就職後、カラオケはスナックなどで何十年も歌い続けました。

テレビのアマチュアものまね番組のオーディションを受け、2度ほど出演させてもらいました。一緒に出演した人の中にはプロになって、今でも活躍されている方が何人かいらっしゃいます。そういう人に比べると、私のものまねは個性がないし、スカウトもされませんでした。

楽器は大学時代に通信教育のクラシックギターを始めましたが、難しくなったところでやめました。退職後、また始めましたが、なかなか進みません。先日お会いしたギタリストは高校時代にギターを始め、1年でプロデビューしたそうですから、天才とはそういうものなんだと驚きました。

会社では音楽部でバンドを組み、数年間は歌ったり、見よう見まねでドラムを叩きました。しかし、リズムキープもままならず、高度なことはもちろんできません。

講演活動をするようになって必要に迫られ、アコースティックギターを買ってコードを覚え、弾き語りをするようになりました。一時はバンドを組んで、知り合いの店で定期的に演奏させてもらいました。

今は知り合いに誘われてカラオケによく行きます。ファルセット(裏声)がかなり自由に出るので、洋の東西、男女、ジャンルを問わず、相当幅広く歌えます。ハモリは即興でつけられるので、人が歌っているのを盛り上げることもできます。

カラオケに行く前には知り合いからとんでもない曲のリクエストがたくさん来るので、覚えるのが大変ですが、歌うことは好きだし、一緒に行きたいと言ってもらえるのなら喜んでお付き合いしたいと思います。

●演劇
高校時代、なりたかったのは役者でした。でも、何をどうしていいのかわからず、結局美大を目指して、広告代理店に就職しました。予備校時代に一緒にデッサンをしていた先輩は、違う美大でしたが入った後、俳優になり、今でも大活躍されています。

高校時代は友達の自主製作映画にちょっと出演しました。文化祭で上映したものや、未完成で終わったものもありました。

『お金のいらない国』の講演は、初めの数年は寸劇でやっていました。プロの役者さんにご協力いただいて一緒にセリフを録音したものに合わせ、動きだけ演じるというものでした。各地でいろいろな人に出演のご協力をいただきました。

数年前にミュージカルのオーディションを受けてみました。そう簡単に通るわけもなく、落ちました。

●落語
ある時、『お金のいらない国』の講演をするのに、落語形式でやってみようと思い立ち、やるようになりました。お客さんからアドバイスもいただき、何年かするうちにそれなりの形にはなったように思います。

でも、社会人の落語コンテストに2度応募しましたが、半数くらいが通るDVDなどの1次審査で、2度とも落ちました。

●文学
文学と言えるほどのものではないかもしれませんが、文章を書くことは好きで、2003年に小説『お金のいらない国』を出版しました。そのときは自費出版でしたが、後にNPO法人ネットワーク『地球村』代表の高木善之さんに気に入られ、『地球村』出版から出版していただきました。シリーズで4まであります。

『お金のいらない国』は、ある学習塾の中学受験模試の国語、長文読解問題に採用されました。

他には、知り合いの出版社から、短編集『長島龍人のブラックショートショート』も出版されています。

結局、私はそれなりの人生を歩んで、今のところ食いっぱぐれることもなく、来年で60歳になろうとしています。やれることややりたいことはいろいろありますが、プロにはなれないにしてもそれなりに生かしてこられたのかもしれません。器用貧乏なんでしょうが、この先もできることはやって行きたいと思います。

このページの最初に戻る

勤めた会社と仕事について

あまり思い出したくないこともありますが、私が35年間勤めた会社、仕事に関して書いておきます。

1980年4月、私は某広告代理店にアートディレクターとして入社しました。広告代理店の中では日本で最大手で、巷で話題になるような広告の多くを手掛けている会社です。

採用内定の後、通知が来た配属先は名古屋支社でした。東京出身で本社の近くに実家のある私がなぜ名古屋なのか、驚きましたが暫くすれば戻れるのだろうと思い、本社で研修の後、7月に名古屋に行き、寮に入りました。

広告代理店のアートディレクターの仕事は、コピーライターと協力して、新聞広告、雑誌広告、ポスターなどの企画、デザインを行い、クライアント(広告主)にプレゼンテーションしてOKをもらったら、撮影、フィニッシュなどを外部にディレクションして広告を完成させることです。印刷の仕上がりチェックや見積り制作等も仕事に含まれます。

私が初めに与えられた仕事は百貨店のDM、チラシなどでした。もちろんそれらも広告には違いないのですが、世の中で目立つ仕事に関わりたかった私は拍子抜けしました。仕事としては慣れるまでは特に大変でしたが、基本的な作業工程などが学べました。

その後、さまざまなクライアントを担当し、いろいろな仕事をしました。特に印象に残っているのは、コンタクトレンズメーカーのカレンダーの仕事で、タレントを連れてニューヨーク、ニュージーランドで撮影したことや、レーシングチームのスポンサーになった時にフランスのル・マン24時間レースに撮影に行ったこと。また、住宅メーカーの新聞広告シリーズでゴジラに登場してもらい、本物の映画に使った着ぐるみで映画のスタッフと撮影したこと。テレビ局の新聞広告で、新聞見開きプラス1ページ裏表の全60段広告に息子をモデルに使ったこと。紳士服チェーン店のロゴマークを作り、一時は70店舗以上に展開されたことなど。タレントさんもずいぶんたくさんの人と仕事をさせてもらいました。

私の部署はクリエーティブという、広告の企画制作をする部門ですが、その仕事の難しいところは、表現に正解がないところでしょうか。自分はいいと思う案を考えても、クライアントにプレゼンするまでには社内のさまざまな人の意見が入り、思うような形にできないこともあります。

プレゼンしてもクライアントに気に入られなければ採用されず、競合の場合は扱いが他社に行ってしまうこともあります。結局はお金を出してくれる、決定権のある人に気に入ってもらえればよいのですが、表現は人によって好みも違うし、広告ですから世に出た後にそれなりの効果がなければ意味はありません。

広告の企画をし、クライアントにプレゼンする際には、その広告を作るにはいくらくらいかかるという見積書を提出する必要があります。見積りはなかなかすんなり通るものではなく、値引きさせられれば協力会社への支払いを調整するなどしても、ある程度の利益を出さなくてはなりません。その仕事がかなりやっかいで、時間も気も使うことになります。私は広告の企画制作がしたくてその会社に入ったのに、お金に関わる仕事もしなければならないことが苦痛でした。

入社10年くらい経った時、世の中にお金が存在しなければこの面倒な仕事はなくなるのにと思いました。また、そうなれば仕事の内容や進め方、人々の意識もだいぶ変わるのではないかと思いました。そして私は半分仕事の腹いせに、小説『お金のいらない国』を書きました。今思えば、私の会社経験はこの話を書くためにあったのかもしれません。

お金が存在しない社会で広告が必要かはわかりませんが、多くの人々に新製品やイベントなどを知らせるには告知は必要になると思います。ただ、価格を表示したり、安さを強調する必要がないので、現在の広告とは大分様子が違ってくると思います。

結局私は35年間、一度の転勤も異動もなく、名古屋の同じ部署に勤務しました。大して目立つ仕事もできなかったためか、東京出身でも異動の対象にはなりませんでした。担当替えはたまにありましたが、一番長いクライアントは入社2年目から退職するまで担当しました。また、勤務年数によって上がる資格は変わりましたが、いわゆる出世とは無縁で、退職するまで平社員でした。

管理職にならなかったことはある意味楽だし、自由でしたが、断ったつもりもないのに一度も出世の話がなかったことは、仕事が評価されていなかったか、人の上に立つ能力がないと判断されたのだろうし、微妙な感じではありました。しかし、おかげで退職するまで残業料をいただけ、部下にも気を使わずに済んだのですから、ラッキーだったとも思えます。

2015年1月に、全社的に希望退職者の募集がありました。ある年齢以上で、退職を希望する社員には、定年までの年数により、1年につきいくらのお金を出すという悪くない条件です。私の場合は定年まで3年。もう仕事に未練のなかった私は応募することにしました。

晴れて2015年3月いっぱいで退職しました。同じ部署から退職する人がもう一人いて、その人と相談して、会社の送別会は辞退しました。個別には同僚や協力会社の人が、数人の送別会を何度か開いてくれました。最後に会社を去る日もこっそり消えたかったのですが、記念品をもらって在席していた人たちに見送ってもらうことになりました。

私の会社人生はこうして終わりましたが、この35年間は休日でも仕事が頭から離れることはありませんでした。まとまった休暇もほぼ取ったことはなく、会社中心の毎日でした。自分のやり方も悪かったのかもしれませんが、日本の習慣、会社や仕事のシステムではこういう人が多いのではないでしょうか。在職中に亡くなる先輩も多い中で、今、退職後の人生を経験できていることは幸せだと思います。

もちろん、会社での経験は楽しいこともあったし、あらゆる経験は私にとって必要なことだったのだろうと思います。でも、お金のいらない国だったら、きっといろんなことが違った世の中になると思います。

このページの最初に戻る

退職後一年

2015年3月いっぱいで退職して以来、一年余りが過ぎました。母は昨年末に退院してからはそれなりの体調を維持していて、今年は7月現在まで入院はせずに済んでいます。東京の家のメンテナンスも昨年一通り済ませたので、私も今年は落ち着いています。

東京へは母を病院に連れていくためなど、だいたい月に2回は行きます。東京に行かない週の平日は妻の実家の四日市に2、3日行くことが多いです。四日市には妻の姉夫婦、甥夫婦、子供たちが居り、賑やかです。私は頼まれるままいろんなものに絵を描いたり、子供たちと遊んだりしています。

それ以外の出かける予定のない日は自宅でのんびり過ごしています。一日に一回、午前中か夕方に、家の近くを40〜50分ウォーキングします。コースはだいたい2種類で、晴れの日は八事山興正寺というお寺に行き、五重塔、大仏を見てから山を歩きます。夏でも涼しい木陰が続いています。天気があまりよくない日は、植田川まで行って、橋の上から鯉や亀を見ます。一度、猫ほどもある大きなネズミといった風貌のヌートリアも見ました。

家ではギターを弾いたり、テレビで映画やドラマを見たりしています。ギターは、大学生の頃にやっていたクラシックギターの通信教育の楽譜を引っ張り出して、また始めました。映画は、長年契約しているWOWOWで好きなものを録画したり、韓国ドラマなどを見ています。気に入ったものはブルーレイディスクに落とし、ちょっとしたコレクションになっています。

また、大相撲や高校野球は見たいだけ見られるし、会社に束縛されない自由な時間を満喫しています。

このページの最初に戻る

深夜バスについて

私は退職後、名古屋・東京の往復にはたいてい深夜バスを利用しています。さすがに1年に往復で50回以上乗るとなると、新幹線ではお金がたいへんだからです。料金はその都度変わりますが、新幹線の2分の1から4分の1くらいです。

深夜バスは、名古屋・東京間の場合、夜中に出発し、朝に着きます。車内で眠ることができれば前後の昼間の時間は移動に割かれることがなく、非常に有効に使えます。

バスは予約になりますが、座席は男性が前、女性が後ろに配置され、男女ペアは中間になります。私が利用しているバスは一列4人、通路を挟んで左右二人掛けです。

深夜バスは最初から窓のカーテンが閉め切られていて、出発すると、少しの注意事項のアナウンスがあった後、消灯されます。私語は禁止なのでみんな静かにしています。ただ、バスなので揺れと、ある程度の騒音はあります。また、たまにいびきや隣の人の動きなどが気になることもあります。

トイレ休憩はサービスエリアで2、3回。ある程度電気はつきますが、アナウンスはなく、自分の座席が通路側の場合は隣の人の事情もありますが、その間も寝ていても問題ありません。

バスは渋滞や天候などの道路事情で、予定より時間がかかることもあります。私は東京から名古屋に帰る際、昼間の便を利用したこともありましたが、夕方乗って23時頃着く予定のバスが1時間ほど遅れました。そのあと乗る地下鉄がなくなり、タクシーで帰ったので、結局料金は新幹線と変わらなくなってしまいました。それ以来、昼間の便はやめています。

荷物は大きいものは乗る前に、運転手さんが荷物置き場に入れてくれます。車内持ち込みのものは、網棚に乗せることもできます。私の場合、乗る前にキャリーバッグを預け、車内では小さいバッグを膝にのせています。必ず持って乗るのはマスクとペットボトルのお茶です。

東京での発着は、JR東京駅近くの鍛冶橋駐車場が多いです。ただ私は、半年くらい地下鉄丸ノ内線を利用していたので、鍛冶橋駐車場まで20分くらい歩かねばなりませんでした。でもある時、妻が地下鉄銀座線の京橋駅なら近いことに気付きました。

私の実家は銀座線溜池山王駅の近く。銀座線なら言うことなしです。鍛冶橋駐車場から京橋駅まで、歩いてみたら5分でした。

このページの最初に戻る

東京の実家の母のこと

東京の実家で一人暮らしをしている現在84歳の母は、心臓と腎臓に持病があり、2015年は、1〜2月、5〜6月、11〜12月の計3回入院しました。ですから私は2015年は、私の住んでいる名古屋と東京の往復を月に2〜4度しました。2016年に入ってからは今のところ容体が落ち着いていて、東京に行くのは病院に連れていくときなど、月に2度くらいです。

私が2015年1月に退職を決めたのは、母の介護のためではなかったのですが、3月いっぱいで会社を辞められたのは好都合でした。東京へは一人で行ったり、妻と二人で行ったりしています。ただ、母は全く動けないわけではないので、特に世話をすることもなく、近くのスーパーで買い物などをしてくるだけです。私たちがいないときは、介護保険で、区から、看護師さん、ヘルパーさんに来てもらえるようにしました。

実家は築50年の3階建てのおんぼろビルで、2015年はいろいろ改造しました。
●和式トイレを様式に大改造。大工さん、水道屋さん、電気屋さんの3人がかり。
●30年も使っていたエアコンを取り換え。屋上に置いてある室外機のファンが折れて回らなくなっていました。窓の開け閉めがままならず、電気屋さんには多大な苦労をおかけしました。
●3階の階段踊り場が雨漏りしていたため天井を修理。
●2階と3階のカーテンを全て取り換え。
●何十年も使っていたこたつ布団などを取り換え。
●半分壊れていたガスコンロを取り換え。
●風呂場のカビ取りや排水溝の掃除。ゴキブリの駆除。
●2階にネズミ撃退装置取り付け。効果のほどは不明。

母に代わって買い物をしてみて初めて、母の食べ物の好みを知りました。母とはもう58年の付き合いになりますが、私が東京にいた22歳までは母が作ってくれたものを食べていただけだし、母も何も言わないので、母の好き嫌いなど気にしたこともありませんでした。

東京へ行くと、母は寝ているとき以外はほとんど何かしゃべっています。子供のころの話や、もうほとんど付き合いのなくなった友達の話が多いです。何度も聞いた話なので相槌を打つのが面倒な時もありますが、幸い頭は全くボケていないようです。

このページの最初に戻る

2015年を振り返って(退職1年目)

2015年年明け早々、会社から早期退職者の募集がありました。退職金以外に、最高5年分の給与を支給するという特別措置付きです。もちろん今までのように勤めて給料をもらうよりは大分少なくはありますが、私は定年まで約3年なので、辞めても3年分はもらえることになります。

その時56歳、35年勤めて仕事に限界を感じていた私は応募しようかという気になりました。妻に相談すると、あなたの好きにすればいいとのこと。東京で一人暮らしをしている母に電話すると、もともと55歳が定年であるべきという主張の母は、「どうぞお辞めください」との返事でした。

晴れて3月末で退職しましたが、会社都合での退職扱いになるため、一年近く、ハローワークで失業保険もいただけます。それでもこの先、貯金と年金で死ぬまで暮らしていけるのか不安ではありますが、なるべく無駄遣いしないように心がければと、57歳でリタイア後の人生がスタートしました。

母は心臓と腎臓に持病があり、今年は心不全で1〜2月、5〜6月、11〜12月に入院しました。介護支援の制度で、母が家にいる時は区から週1度看護師さんが診察に、週2度ヘルパーさんが来て買い物などをしてくれますが、私は退職後は月に2〜4回は東京を往復するようになり、時々は妻も一緒に通っています。さすがに新幹線ではお金がかかりすぎるので、主に深夜バスを利用しています。

東京の家は築50年になる3階建のビルで、敷地は11坪しかないのですが、1階を店舗に貸し、母は3階で生活しています。以前は2階も貸していたのですが、今は私たちの宿泊用に使っています。母は階段を下りると上るのが大変なため、月に1度の1階の家賃の集金も私の役目になりました。

もともと安普請の上、古い建物なので、住むには限界が来ています。それでも引っ越すこともできないので、今年は大分改造しました。和式トイレを洋式に大工事。埃だらけだったカーテンをすべて付け替えました。30年使っていたエアコンを取り替え、雨漏りしていた3階の天井も修理しました。

退職を決めたのは母のためのつもりではなかったのですが、こうなってみると、会社の募集で好条件で退職できたのがなんとラッキーだったことか。募集がなくても辞めざるを得なかったかもしれません。

東京に行かない日は三重県の妻の実家にもよく行っていて、甥、姪の子どもたちと関わったり、いろいろな相談に乗ったりしています。また、美大出なので美術的な特技を活かし、妻や実家の人たちの要望に応じて装飾用の絵を描いたり、粘土で置物やブローチを作ったりもしています。

そんな中、「お金のいらない国」の講演はお声をかけていただけばどこでも伺うことにしており、今年は富山、大阪、広島、福岡などでもやらせてもらいました。

会社を辞めて暇になるかと思いきや、そんなこんなで毎日あちこち飛び回っています。来年も、私を必要としてくれることがあるなら、何でも楽しみながら挑戦していこうと思います。

このページの最初に戻る

退職にあたって

2015年1月はじめに会社から早期退職者の募集があり、私は乗っかったわけですが、3月31日に退職するまで、何度か説明会がありました。退職金のこと、年金のこと、保険のこと、株のこと、クレジットカードのこと。たくさんの書類に記入し、印鑑を押し、提出しました。退職してからもあちこち行ったり、手続きがいろいろあって、大変でした。結局、全部お金のことです。お金がいかにこの社会を複雑に、煩雑にしているかを改めて痛感しました。

このページの最初に戻る

退職しました

2015年3月31日をもって、株式会社電通を退職しました。アートディレクターとして1980年4月に入社してから35年間、一度の転勤も異動もなく、名古屋の中部支社に勤務させていただきました。60歳の定年までにはまだ3年あったので早期退職です。

年明けに会社から早期退職者の募集があり、なかなか条件が良かったので辞めることにしました。私は全く出世とは縁のない万年平社員で、ここのところ給料はピーク時よりはだいぶ下がっていましたが、大した仕事はしていない上、最後まで残業料はついたので、会社としては辞めてほしかったでしょうね。私もずいぶん前から仕事には魅力を感じなくなっていたし、これ以上この社会の経済活動に加担することも疑問だったのでちょうどいいタイミングだったと思います。

これからはライフワークと思っております拙著「お金のいらない国」の講演活動に専念していきたいと思います。ご依頼お待ちしています。

お問い合わせ:
okanenoiranaikuni@gmail.com(お金のいらない国を考える会)
nagaken@mtj.biglobe.ne.jp(長島龍人)

このページの最初に戻る

K-POPについて

私は2010年に少女時代を知ってからK-POPが好きになり、他にもT-ARAなどのCDを買ったり、コンサートに足を運ぶなどしてきました。家にはかなりのCD、DVD、写真集などがたまり、そろそろ置き場が無くなってきています。

そして、数年K-POPの日本進出を見てきて、思うことがあります。少女時代、T-ARAのように日本デビューしているグループは、日本語の歌詞でもたくさんの歌を歌っています。もとは韓国で作詞作曲された歌を日本語に訳しているものや、日本人の音楽家が作ったものもあります。

彼女たちはよく日本語の歌詞まで覚えて歌えるものだと感心するし、日本語も悪くはないのですが、ちょっと違和感を覚える部分もあります。特に日本人の作った曲は、全部ではありませんが日本的な印象を受け、K-POPらしさが失われているように思います。少なくとも私はK-POPが好きなわけで、彼女たちに日本の歌手になってほしいわけではありません。

また、これは韓国でもやっていることですが、一旦発売したアルバムに、後日1、2曲新曲を足して再販する手法があります。特に日本で発売されたものには、いろいろなおまけを付けて販売価格を上げていると感じるものも見受けられます。一概に悪いとは言えないかもしれませんが、そういったことをよく思っていないファンも多いのではないでしょうか。

韓国の3倍ほど人口のいる日本は、K-POP界にとっても大きなマーケットだし、進出してくれるのはありがたいのですが、やはりK-POPの歌手には韓国を中心に活動しながら、日本や世界にも進出してほしいと思います。また、日本の音楽業界も、お金を稼ぎたいのはわかりますが、無理な売り方をしないで、K-POPを大事に応援していってほしいです。

お金の社会ではお金を得るためにさまざまなことが考えだされ、行われます。ある程度は仕方ないにしても、それによってせっかくの本来の音楽の良さを失ったり、ファンの気を悪くさせるようなことはしてほしくないと思います。

このページの最初に戻る

お金のいらない国の設定について

私は「お金のいらない国」という小説を1993年に書きました。そして、2003年、出版すると同時に初めてのイベントを行い、寸劇を初演しました。寸劇の脚本はイベントの数ヵ月前に書いたもので、設定は本とはやや違っています。

本では、私は主人公が迷い込んだ世界が、いつなのか、どこなのかをはっきりとは書きませんでした。その時点では、私はその世界を、地球の未来というよりは天国をイメージしていました。また、そもそもかなり突飛な話なのに、未来という設定にすると、その時が来れば地球はそうなるということになり、逆に現実離れする気がしたからです。

しかし、寸劇を作る際には、わかりやすくするために500年後の地球、未来の日本という設定にして、希望を持てる内容にしてみました。そしてそれは、500年後にはとうの昔にそうなっているという話にしましたから、500年後と言わず今すぐになってもいいということです。

いずれにしても、お金のいらない国は、今後の人類の気づき、反省、努力なしには実現できないだろうし、人類がどのような道を選ぶかによって未来は変わるでしょう。

このページの最初に戻る

姪の死

2013年9月、妻の姉の娘である姪が、32歳で亡くなりました。

1年半ほど前に乳癌が見つかり、手術の後、闘病生活をしておりましたが、2ヵ月ほど前に入院。この1ヵ月は、週末には私も病院を訪れ、ハンドパワーのまねごとなどして本人とも冗談を言い合い、一時的に元気になったようにも見えたのですが、思うようにはなりませんでした。

私が初めて会ったのは彼女が2歳の時。まだおむつをしていて、私が遊びに行くと、いつもあぐらのひざの間に入ってきました。

葬儀はごく身近な者だけで済ませました。周りが一番心配していた4歳の娘は涙一つ見せず、冷静に大人たちを観察していました。

翌日、私は近親者にメールをしました。以下がその内容です。

                        ●●●

みなさんへ

この度は、大変な試練に直面されました。親でも配偶者でもなく、血もつながっていない私でも相当なショックを受けているのですから、もっと近しい皆さんの辛さはいかばかりかと思います。今回の出来事は、普通なら経験することもなく一生を終っていく人がほとんどであろう、この世の悲しみの中でも最大級のものでしょう。

ただ、起きてしまったことは後戻りできず、恨んでも悔しがっても始まりません。この事実を一人ひとりがどう解釈し、今後にどう生かしていくかで、悲しい経験も意味を持つのではないでしょうか。

悲しみはそう簡単には消えないでしょうし、消す必要もないのかもしれません。しかし、もし、ものの考え方によって気持ちが楽になったり、納得できたりすることがあるとすれば、いろんな意見に触れる意味もあるかと思い、僭越ながらこの機会に私の考えをお伝えしようと思いました。ですから、これからお話しすることは、正しいという保証もなければ、押し付けるつもりもありませんし、信じる信じないももちろん自由です。

私はものごころついた頃から、人は死んだらどうなるのか、人はなぜ生まれてくるのかということについて悩んできました。そして30歳を過ぎる頃までは、人は死んだらその肉体とともに意識もすべて消えてなくなると考え、それを思う度に底知れぬ恐怖と空しさを感じて生きていました。しかし、ある時、私はある本を読み、全く違う考えに出会いました。それからはものの見方、考え方が180度変わり、生きる意味を感じられるようになりました。

結論から申し上げますと、人はこの世限りのものではないということです。人の本質は霊であり、肉体はこの世を生きる間だけ宿るために必要な乗り物です。霊はもともとこの世とは次元を異にする霊界にあり、その存在は始まりも終わりもなく、永遠に生き続けるものです。地球上に生まれてくるのは、ここで何かを学ぶ、あるいは行う必要があって生まれてきているということです。

この世での必要な経験や役目が終わった霊は、肉体を離れて霊界に帰ります。しばらくはこの世に近いイメージのところで暮らし、その後、自分の心のレベルに合った世界に行くようです。そこは天国のような所から地獄のような所までさまざまです。どこに行くかは誰かに強制されるものではなく、自分の心のあり方で決まります。

肉体を離れ、あの世に帰った霊は、またこの世に生まれてくる必要があれば時期を見て生まれてきます。その際には、綿密な計画を立て、自分が学びたいこと、経験したいことに必要な環境を選びます。両親になるような霊とは深い縁があり、親子になることを約束して生まれてくるようです。

○○ちゃんの今回の人生は、この世的に見るとあまりにも短いものでした。本人ももっと生きたかったでしょうし、周りの人にとっても辛い別れが突然やってきました。しかし霊的に見た場合、少々残酷な言い方かもしれませんが、これは本人にとって、必要十分なものだったのかもしれないし、周りの人にとっても必要な試練なのかもしれないのです。そして、乗り越えられない試練は与えられないと私は思っています。

普通の人はこの世から霊界は見えませんが、あの世の霊からはこちらは見えるし、肉体に縛られることのない意識の世界ですから、思いのままに行動することができます。こちらで思えばいつでも意識は通じます。私は、こちらに残った人があまり悲しんだり落ち込んだりしていると、○○ちゃんも悲しむのではないかと思います。

○○ちゃんが生きた32年の間に、私たちはそれぞれが、彼女のおかげでどのくらいの喜びと愛を感じることができたでしょうか。彼女が与え、残してくれたものは計り知れないほど大きく、ありがたいものだと思います。

○○ちゃんはこれからもその美しい姿のまま、みんなの心に残り、支えになってくれるでしょう。そして、私たちがあの世に帰った時、その姿になって迎えてくれると思います。

                                   2013年○月○日
                                        長島龍人

このページの最初に戻る

韓国あっぱれ

日本のお隣の国なのに、私は韓国のことはほぼ何も知らずについ数年前まで生きてきました。キムチは時々食べるし、日本に進出した何人かの歌手の名前くらいは知っていましたが、特に興味も持たずにいました。

10年ほど前に『冬のソナタ』が日本で話題になり、韓流ドラマが次から次へと放送されるようになった後、妻に教えられて私が初めて見たのが『夏の香り』でした。第一印象は、なんかやたらとフラットな照明だなという程度のものでしたが、しばらく見ているうちに、主演女優のソン・イェジンにはまってしまいました。内容にも引き込まれ、それから毎週欠かさず見るようになりました。

音楽では2010年に、フジテレビの『トクダネ!』に出演した少女時代を見て気に入り、すぐにDVDを買いました。それからはほぼ全てのCD、DVDは買っているし、日本でコンサートがあれば行っています。その後、T-ARAもファンになって同じように追いかけ、K-POPは他にもブラウンアイドガールズ、SISTARなどを聴いています。

K-POPガールズグループは見た目のかわいさ、スタイルの良さ、ダンスのうまさも大きな魅力ですが、とにかく歌がうまいです。少女時代は全員がソロパートを受け持ち、ミュージカルに出たり、ドラマの主題歌を歌うなど個人活動も盛んです。男性も含め、韓国の歌手は全体的に歌のレベルがとても高いと思います。

ドラマもその後、歴史ものや現代劇などをいくつか見ました。できすぎだろうと突っ込みたくなる場面もしばしばありますが、どれもとてもおもしろく、続けて見ずにはいられませんでした。女優たちの美しさには目を見張るものがあります。

電気製品や自動車などの分野でも韓国は世界的に認められるようになりました。私は工業製品は日本製が最も優れているのだと長年信じてきましたが、韓国製はもはや日本製と遜色ない、あるいは勝るとも劣らないところまできているようです。

いろんな分野で日本や世界に影響を及ぼすようになった韓国ですが、このお金の社会では他国の進出は手放しでは喜べない面もあるでしょう。特に韓国と日本は歴史的にもいろいろなことがあり、お互いによく思っていない人もいますし、解決の難しい問題も抱えています。

しかし、いいものはいいのだし、受け入れられるものはどんどん受け入れていった方がいいと思います。仮にお金のいらない国になって利害の対立がなくなれば、何の気兼ねもなく、いいものが選ばれて行くのは当然のことです。私は、韓国の活躍をとてもうれしく思っています。

このページの最初に戻る

経済社会には、株式会社というものがたくさんあります。上場した会社の株は、一般投資家でも買えるようになります。しかし、昔から株で大損したというような話はよく聞くし、株は怖いものといったイメージもあると思います。

単に株を売り買いするだけで一瞬にして莫大な利益を得たり、大損したりするという、全くもっておかしな、お金の社会ならではのシステムですが、これによってある意味経済社会は支えられているわけですから、ある程度は知識として知っておいた方がよいかもしれません。

私はもう30年以上株式会社に勤めていますが、うちの会社は2001年に上場しました。それに伴い、社員も株を買えるようになったので、私も給料天引きで買い始めました。初めは売る気はなかったし、ずっと景気も低迷していたので売買の仕方も知らないまま放置していたのですが、先日初めて売ってみました。やってみるとすごく簡単。初めに少々の手続きは必要でしたが、それをすれば、インターネットで簡単に取引できるようになります。

簡単だからといって素人が闇雲に手を出すと痛い目に合うかもしれませんが、少し研究してみてわかったことがあります。あくまでも私の判断なので間違っているかもしれないし、一切の責任は負いませんが。

株は、買った時の値段と売った時の値段の差額で利益、損失が決まります。大事なのは売り買いのタイミングです。買った時の値段より安い値段で売らなければ損はしません。買った株の値段が下がってしまったら、上がるまで何年でも待ってみればいいでしょう。それをできるようにするためには、すぐ必要になるお金で株は買ってはいけないということです。また、会社は倒産することも珍しくはありませんし、その場合はお金は戻りませんから、注意が必要です。

株価はチャートを見ると、上がり下がりが一目瞭然です。会社ごとに1日、1週、1か月……5年、10年のように短期や長期での株価の変遷が見られますから、現在の株価が過去と比較してどのくらいのレベルなのかを知ることができます。あまり高い水準の時に手を出すと、下がる可能性も高いと思います。また、短期で勝負しようとすると、リスクも大きくなるでしょう。
※参考:YAHOO JAPANファイナンス http://stocks.finance.yahoo.co.jp/

株価は常に変動しますから、買った後で下がったり、売った後で上がったりということは当然起こります。最安値で買ったり、最高値で売ったりするのはまず不可能なので、儲けそこなったお金の計算をしていてもはじまりません。損せずにそこそこの利益が出たのなら、満足すべきでしょう。リスクを減らすには、何度かに分けて買ったり売ったりする方法もあるようですが、それもタイミングによっては一度に売り買いしておいた方がよかったという場合もあるでしょうから、一概にいいとは言えないと思います。

当然のことですが、売買する株数が多いほど利益、損失も大きくなります。例えば、株価が100円上がった時に、100株売れば利益は1万円ですが、1000株なら10万円です。株価が1000円上がれば、100株なら10万円、1000株なら100万円の利益になります。同じ値動きでも、株数によって利益は大きく変わるわけです。もちろん株価が下がった時に売れば、株数が多いほど損失は大きくなります。

リスクを減らしたいなら、倒産の心配のなさそうな会社の株価が過去の実績から見て安くなっている時に、無理のない範囲のお金で、そこそこの株数を買っておく。気長に待って、株価が上がってきたら、欲張らず、チャンスを逃さずに売る、という方法がいいのではないでしょうか。

このページの最初に戻る

私の生き方

「お金のいらない国」という本を出版し、もう10年くらい講演活動を続けている私ですが、ときどき聞かれることがあります。

「何か実践されているんですか」「普段の生活はどうされているんですか」……どうも、その言葉の意味は、お金のいらない国を提唱しているのだから、お金を必要としない生活、自然とともに暮らすような実践を何かしていないのかということのようです。

そういう意味では、私は何も実践していません。普通に経済社会の中で暮らしており、30数年会社員を続け、普通に給料をいただいています。結婚して妻が居り、息子を一人育ててきました。ごく一般的な現代人だと思います。

私がしたいのは世界中をお金のいらない国に変えることなので、私一人が他人と違った生活をすればいいとは考えていません。むしろ、今が経済社会である以上、その中にいて、さまざまな問題に直面することが、そして、その上で自分は何を考え、どういう行動を起こすのかが私にとっては必要な経験なのだと思っています。

もちろん、経済社会がいいとは思わないし、いずれお金のいらない国にしたいのは当然です。その時は、全世界の人が一緒に、この不自然な社会から解放されることを望んでいます。

このページの最初に戻る

肩の骨の石灰化

2011年3月11日に東日本大震災が起きた直後、私の右肩が痛みだし、右手が上がらなくなりました。症状はどんどんひどくなり、右腕は脇から全く離せなくなって、整形外科に行きました。レントゲンを撮ると、石灰化ということで、肩の骨の一部が白くなっていました。先生には10日くらいで治るだろうと言われ、痛み止めの飲み薬と張り薬をもらって帰りました。

右肩は何とも言えずチクチクと痛み、薬を飲むと治まるのですが、横になっても痛いので、布団などで上半身を斜めに起こし、なるべく痛くない位置をみつけて寝ました。それでも夜中に薬が切れると痛みで目が覚めてしまい、薬を飲みました。

でも、1週間もするとだんだん痛みは引いてきて、10日ほどで本当に治りました。原因はわかりませんが、震災の直後で私はかなりのショックを受けていたので、それが原因だったのかもしれません。そしてそれ以来、数年前から右腕をある形にすると痛かった痛みもなぜかなくなりました。

それから半年ほど経った頃、今度は左肩が同じ症状になりました。この時は病院には行かず、残っていた薬を飲んで、やはり10日ほどで治りました。その時も津波で家が流される映像を見た後でした。

このページの最初に戻る

54歳、現在の心境(2)

54年間生きてきた今、過去を振り返ると、失敗したことばかりが思い出されます。家族、親戚、友達、上司、同僚……。ある程度深くかかわった人とは必ず一度や二度、ぶつかったり、迷惑をかけたり、傷つけたりしてきました。

すべての経験があって今の自分があるのですから、無駄なことは一つもないんでしょうが、過去を思い出すと、悔やまれることが多く、恥ずかしかったり、申し訳ない気持ちになります。

年を重ねる過程ではいろいろな経験をして、気づいたり、納得したり、自分なりの判断をして、自分の生き方や考え方がまとまってきます。年を取ると、感情の持ち方や、考え方も自ずと変わってくるようで、過去を反省できるようになっただけでもそれなりに成長したのかもしれません。

反省できればいつまでも過去を引きずっていてもしょうがないし、その経験を今後の人生に生かしていくことが大事なのだと思います。そこから得たものが、今生が終わってからも自分の宝になるのかもしれません。

このページの最初に戻る

54歳、現在の心境(1)

私は、2012年2月で54歳になりました。大学を卒業して以来、広告代理店に勤務していますが、会社に入ってからも30年以上の月日が流れました。それなりに仕事をこなしながら、ただ毎日を生きてきたのですが、気が付いてみると周りの状況はずいぶん変わっていました。

先輩たちはほとんどいなくなりました。うちの会社の定年は60歳ですが、定年退職して元気にされている方もいらっしゃれば、亡くなった方もたくさんいらっしゃるし、現役の間に亡くなった先輩も結構いらっしゃいます。それはお世話になった協力会社の方も同じです。仕事をくださったお得意様も、一時はとても勢いがよかったのに無くなってしまった会社もあります。

会社ではほとんどの人が後輩になり、私は万年平社員で出世とは無縁ですが、入社が10年くらい下までの後輩は管理職になっている人も多いです。若い社員は昔の先輩たちのことなど知る由もなく、諸行無常、時代は移り変わっていくんだなあと痛感します。

仕事に関して言えば、経済社会の仕事に意味がないとは言いませんが、結局はお金のために、余計なこと、無駄なことにたくさんの労力、資源を費やしていると思えて仕方ありません。とはいえ私もまだこの社会に生きている以上、ある程度のお金は必要なので、大して役にも立てないのに会社にしがみついているという状況です。

あと数年で私も定年。お金のために働くことはもううんざりなのですが、すぐに会社を辞めるわけにもいきません。定年後も、少なくとも年金がもらえる年になるまでは収入なしでは生きていけないかもしれないし、また、その頃は年金もどうなっているかわからないと思うと不安ではあります。

やはりそろそろ「お金のいらない国」になってもらわないといけないようです。

このページの最初に戻る

コレクター

私には物を集める癖があります。あまり高価なものは買わないし、博物館ができるほど徹底したコレクションはありませんが、今までずいぶんいろんなものを買い集めてきました。

初めてのコレクションは、小学校から中学にかけての切手収集でした。小学校でブームになっていたので、私も何となく集め始めました。と言っても小遣いでそう買ったりはできませんから、時々遊びに行っていた近所の家の人にいただいたり、お年玉付き年賀はがきで当たったものくらいです。

中学、高校時代にはビートルズのレコードを集めました。これはコレクションというより、聴きたいから次々買ったということですが、小遣いを2ヵ月貯めるとLPレコードが1枚買えたので、ほぼすべてそれに使いました。ビートルズは、大人になってからCDを一度にまとめ買いしました。子供の頃の苦労はなんだったんでしょう。

結婚してからは、ゴジラなどの怪獣やウルトラマンの、ソフトビニール製の人形にはまりました。毎週おもちゃ屋に出かけ、新しい物が出ていないかチェックし、買っていました。また、ガレージキットと言われる組み立て式のソフビを買い込んで、作って塗装し、飾っていました。ゴジラなどの精巧なおまけのついたポケット菓子もずいぶん買いました。

好きな映画のレーザーディスクもだいたい買っていました。今となってはLDは市場から消え、デッキが壊れれば見ることもできなくなってしまいます。パソコン類にも言えますが、媒体は時代とともに変化するので、ソフトの収集は長期保存が目的だとあまり意味がないことになります。

また、これはコレクションではありませんが、子供が生まれてからはビデオ撮影に凝りました。ビデオカメラは何台か買いましたが、初めのカメラはファインダーがモノクロだったので、私は旅行に行っても景色をモノクロでしか見ていないと言われるくらい、カメラを放さずにいました。しかしこれも、VHS-Cビデオ、8mmビデオ、デジタルビデオと変化し、今ではまたいろいろと変わっていますから、それぞれのデッキが壊れれば見られなくなってしまいます。

ミニカーのトミカもたくさん集めました。トミカタウンのいろんなお店を買い、街を作りました。初めに買ったビデオカメラはコマ撮りができたので、トミカタウンでゴジラが暴れるというアニメーションを製作し、テレビで放映されたこともあります。

これもコレクションではありませんが、10年くらい、熱帯魚を飼っていました。その間は毎週のように熱帯魚屋さんに通い、安い魚だけですがよく買いました。何百匹という魚がうちの水槽で死んでいきました。楽しませてもらったので彼らの役割は済んだのかもしれませんが、わざわざ外国から輸入されてきて可哀そうな気もします。

それ以外にも、恐竜や動物などを模したゾイドという組み立て式の動くロボットを片っ端から作ったり、ウルトラマンのコインを集めたり、クラシックのCDを100枚くらい買ったり、一時的にはいろんなものに凝りました。

今は、韓国のK-POPガールズグループ、「少女時代」と「T-ARA(ティアラ)」にはまっています。これも集めることが目的というわけではありませんが、入手できるCD、DVD、写真集などはすべて買っているし、そういったものに囲まれていると幸せなので、コレクションと言えるかもしれません。

このページの最初に戻る

「お金のいらない国出版裏話2」

広告代理店でアートディレクターをしている私が、1993年に、仕事の腹いせに書いた「お金のいらない国」ですが、2003年に出版することになりました。そうなると、どのような形の本にするかを決めなくてはなりません。

私は、「お金のいらない国」は、長い話ではないので、本の大きさは小さめで文字は大きく、誰にでもすぐ読めるようなものにしようと考えました。装丁と挿絵は、知り合いの画家であるFさんにお願いしたところ、喜んで引き受けてくれました。私はデザインは専門ですが、紺屋の白袴よろしく、みんなFさんにお任せしてしまいました。

かくして2003年7月の岐阜県可児市でのイベントに合わせて、めでたく本は完成しました。タイトルは1993年に書いた時につけたものですが、そのまま「お金のいらない国」としました。本当は、「お金のいらない国」より、「お金のいらない世界」あるいは「お金のいらない社会」の方が意味的には正しいのですが、本のタイトルと考えた場合、「お金のいらない国」の方が夢があるし、童話のようなイメージを持ててよいと思いました。

本にする前、会社の同僚のコピーライターに読んでもらったところ、「お金のいらない国」だとタイトルで内容がわかってしまうので変えた方がいいのではないかと言われたのですが、このタイトルだけで内容がわかるような人はほとんどいないだろうと考え、そのままにしました。

また、今でも「お金のない国」とよく間違えられますが、「お金のない国」だと、お金のある世界の貧乏な国と勘違いされてしまう可能性があるので、意識的に「お金のいらない国」としました。

「お金のいらない国」はキーワードとしては覚えやすいし、今となっては、私を知っている人は長島龍人と言えば「お金のいらない国」とすぐ認識してもらえると思うので、タイトルのつけ方としては成功だったと思っています。

世間ではいろいろな本が出版されますが、内容はいいのにタイトルが今一つと思えることもよくあるので、本を出される時は、タイトルは十分に考えられた方がいいと思います。

このページの最初に戻る

続・生命保険について

先日、私が勤めている会社で、50歳を過ぎて定年が近づいてきた社員を対象に、老後の生活に関するセミナーがありました。それに伴い、ファイナンシャルプランナーという人が、私の資産や、老後の生活費などの状態を分析、診断してくれました。

私の会社は大手広告代理店で、私はもう30年以上勤めていますが、確かにサラリーマンとしてはかなり高い水準の給料をいただいてきました。そう贅沢をしてきたつもりもないのですが、お金は持っていれば使うし、また社会的にも、あまり貯めてはいけないと思っているので、それなりに使ってきました。ですからそう資産がないのはわかっていました。

老後のことなど初めて考えたというのが正直なところですが、その人から話を聞くと、状況は私が思っていたよりやや厳しいものでした。このままだと、定年後はかなり生活レベルを落とさなければならない。まあ、それはそれで仕方ないのですが、ではどうすれば少しでも楽になるかをアドバイスしてくれました。

やはり、ネックは生命保険でした。私は、私が今入っている保険がどういう保険で、この先どうなっていくかということを初めてちゃんと知り、愕然としました。保険会社もだますつもりはなかったのでしょうが、やはり自分の会社に都合のいいことしか言わないというのがこの経済社会なのでしょう。第三者からの意見が大事であることを痛感しました。

私は入社直後にその生命保険に加入し、30年以上続けてきました。ときどき見直しがあり、担当者のすすめで妻や子も加入させたので、かなり高額な保険料を支払っていたこともあります。近年は、私も年をとったし、子供も大人になり、不景気で給料も下がったため、大分、金額は下げましたが、それでもこの先この保険を続けていけば、老後に大きく影響するというのがファイナンシャルプランナーさんの分析でした。

早速、私はその生命保険を解約、妻子の保険もやめました。必要最小限は別の保険に入りましたが、思い切りスリムになったし、長年もやもやしていたものが晴れて、とてもスッキリしました。

お金のいらない国なら何の心配もいらないのですが、ほんとにこの社会は厄介です。

このページの最初に戻る

生命保険について

お金の社会ならではのシステムの一つに、保険があります。保険にはさまざまな種類がありますが、中でも生命保険は、人によって好き嫌いがあったり、加入するかしないか、いくらくらいかけるかなども個人差が大きいでしょう。

私も30年ほど前に会社に就職した頃、ある生命保険に加入し、その後、結婚したり、子供が生まれるなどに伴い、保険会社のすすめで何度か見直しをしながら今も続けています。

生命保険は、保険契約者誰でもが、かけたお金が全部返ってくる、あるいは増えて返ってくるようでは保険会社はやっていけないし、基本的にそのお金のお世話にはならない方が幸せなのですから、儲けようと思ってするものではありません。万一の病気や事故で死亡、入院などしたの時のために、入っておくものでしょう。

ですから、保険の種類にもよるかもしれませんが、大半の人は最終的に、かけた金額より実質は少ない額を受け取ることになると思います。しかし、加入者の中には不幸にもたくさん受け取ることになる人もいるのですから、保険は人助けと思って入るくらいの方が納得できるかもしれません。

ただし、私の経験上、保険に加入する場合、考えておいた方がいいことがあります。保険は基本的に、収入のある人が亡くなったり、働けなくなった場合、その収入によって生活していた家族などが、とりあえず困らないようにするためのものだと思います。ですから、そういう意味では、収入のない人にかける必要はありません。

私の場合、結婚してしばらくして、保険会社のすすめで専業主婦である妻にもかけましたが、あれは意味がなかったと思います。妻が入院した時に入院費などは出ましたが、今までにかけた額に比べれば微々たるものです。また、子供が生まれた時、入学時などにお祝い金が出る保険に入れましたが、かけ金を別のところで貯金できれば、その方が無駄はないでしょう。

保険は、お金の社会では意味はあると思いますし、悪いというつもりはありませんが、経済的に余裕のある範囲で、また、必要か否かを自分でよく考えた上で加入されることをおすすめします。

このページの最初に戻る

自己中のすすめ

私はかなり自己中心的な人間だと思います。自分は正しい、間違っていない。私が苦しんだり、不都合を感じたとすれば、それは周りがおかしいからだ。だいたいそう思って生きています。

例えば、「お金のいらない国」にしても、お金の仕事が面倒くさい、いやだと思い、それはお金の存在する社会がおかしいのだと考えたところから生まれたものです。

ただ、自分が正しいと思っているからといって、周りがどう考えていようと基本的にはかまいません。私は私の好きなように生きるから、人はみんなそれぞれ好きにすればいい。そういうスタンスです。

だから、自分と意見の違う人がいても気にしません。誰かを自分の思い通りにしようとか、説得しようとかも思いません。私は講演活動をしていますが、それも私はこう思うと言っているだけで、聴いてくれた人が何かの足しにしてくれればうれしいですが、違うと言う人を何とかしようなどとは思いません。

この社会を生きていく上ではいろいろな人と意見交換したり、何かを決めたり、ルールに従わなければならない場合もあります。それはそれで、自分の思うようにできるところはするけれども、できないところは成り行き任せで、あまりこだわりません。

もちろん、自分は神様ではないのだから完璧なはずがありません。だから、自分が間違っていると思った時はさっさと修正すればいいと思います。しかし、人間は成長し続けるものであり、いつの時点、どういう段階でも自分がいいと思ったように生きるしかないと思っています。

世の中の人を見ていると、人の目を気にし過ぎている気がします。あるいは自分と違う価値観に合わせようとし過ぎている。それが楽しい人はかまいませんが、苦しいのなら、そういう生き方はやめた方がいいのではないでしょうか。

たしかに自分を自由にさせてくれない要素はたくさんあるでしょう。それは家族だったり、会社だったり、社会のルールだったり。でも、その中でも、できるだけ周りを傷つけないようにしながら、自分の生きたいように生きる努力をすればいいのではないでしょうか。

自分が苦しい、いやだと思うことに出会ったら、その原因をとことん追究してみる。そして、その原因が自分以外の人や、社会にあるのだったら、それは自分のせいではないのだからできるだけ気にしない。自分を責めない。

不都合を感じたら、世の中がどうであれ、周囲の人がどうであれ、自分の心に素直に向き合い、それから対処を考える。そういう生き方ができれば、日本で年間3万人以上もいる自殺者もかなり減るかもしれません。

このページの最初に戻る

はじめての骨折・入院・手術

2010年3月30日(火)午前1時過ぎ、自宅で寝ていてトイレに起きた私は、転んで右足首に激痛を覚えました。酒を飲んで泥酔していたのでよく覚えていないのですが、妻が言うには、あっという間に右足は丸太のように腫れ上がったそうです。車で救急病院に連れて行ってもらうと、3か所も骨折しているとのこと。そのまま入院となりました。

夜が明け、午後に手術をしてもらいました。脊椎注射で半身麻酔をし、右足外側はくるぶしから上に金属板を入れて何本かのボルトを打ち込み、内側もくるぶし下からボルト1本を打ち込んで関節を固定しました。その夜はベッドの上で、左腕に刺した点滴や、鼻に入れた酸素吸入、尿道に通したチューブ、心電図のコードなどがんじがらめで身動きが取れず、背中が熱く苦しく、辛い思いをしました。傷口は麻酔が切れてくると痛み、また、看護師さんが1時間おきに血圧と体温を計りに来られるのでほとんど寝られませんでした。

しかし、翌31日(水)午後には退院しました。右足膝から下はもちろんギプスで、歩くときは病院に貸してもらった松葉杖を使います。会社は4月1日、2日と休みましたが、土日をはさんで5日の月曜から、妻に車で送ってもらって出勤しました。でも、デスクに座ってやれること以外はほとんど何もできません。また、右足は下に向けると鬱血して痛むので、腰の高さくらいに上げていないとなりません。社員食堂に並ぶこともできないので、昼食は妻が作ってくれた弁当をデスクで食べます。

松葉杖で歩くということは、両手も使えないということです。手提げバッグを持つこともできません。また、右足に全く体重はかけられませんから、二本の足で立ってやることは何にもできないわけです。歯を磨く、顔を洗う、トイレも一苦労です。風呂に入る時は妻にギプスの上からタオルとビニール袋でくるんでもらい、右足は湯船のへりに載せてシャワーだけ浴びます。

4月16日、ついにギプスが取れました。右足首から先は真っ赤に腫れていて、両側の手術の傷跡は痛々しいですが、今まで触れなかったところに触れるようになり、風呂で洗うことができました。大量の垢が出たことは言うまでもありません。

5月7日、先生に紹介していただいた別の病院でリハビリが始まりました。10分間、電気を通してから、右足膝から下、足先までを10分ほどマッサージしてもらいます。右足は下に置くことはできますが、まだ体重はかけられません。それでも、下に着けなかった時に比べたら松葉杖で歩くにしても安定感がまるで違います。鬱血の痛みもだんだん少なくなってきました。

その後、腫れは日を追うごとに引いていき、体重も少しずつかけてよくなりました。今日は6月10日ですが、体重の半分くらいはかけていいことになっています。リハビリは開始以来、行ける日は毎日行っています。松葉杖が取れる日も近いかもしれません。

52歳の私にとって、骨折も入院も手術も初めての経験でした。自分の不注意から起こしてしまった事故ですが、これもいろいろな意味で必要な経験だったんだと思えます。過去、私は酒の席で数々の失敗をし、たくさんの人に迷惑をかけてきました。事故の日以来、酒は飲んでいません。松葉杖が取れれば飲むつもりではいますが、以前のような飲み方はしないように気をつけたいと思います。

また、心配してくださるみなさんのありがたさを身にしみて感じました。治療してくださるお医者さんや看護師さん、会社の上司や同僚、いろんなつながりのたくさんの友だち。実家の母はよく電話をくれますし、妻はもう3カ月近く、毎朝弁当を作り、会社へ車で送り迎え、帰りにはリハビリに連れて行ってくれています。自己中心的で人のために尽くすことなどできない私は、全ての人に感謝の気持ちが足りなかったと反省しています。やはり人生、無駄なことはないですね。

このページの最初に戻る

落語と私

2003年から「お金のいらない国」の寸劇をしてきた私ですが、昨年(2009年)、落語をはじめました。きっかけは知り合いが貸してくれたDVDシリーズ。現役の落語家さんたちの高座100席が2席ずつ1枚のDVDに収められて定期的に発売されるというものです。

私が子供の頃は、落語はテレビでよく放映されていました。父が落語好きだったこともあって、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さんといった名人の高座を見ていつも大笑いしていました。しかし、時の流れとともにテレビで落語が放映される機会は極端に少なくなり、最近はその面白さを忘れかけていました。

そのDVDシリーズは、世の中には今もたくさんの落語家さんがいて、おもしろい話がたくさんあることに改めて気づかせてくれました。私は、中でも柳家喬太郎という人を特に気に入ってしまいました。ネット検索するとTou tubeでもいくつか見ることができ、そのおもしろさと技にたいへん感動しました。DVDシリーズは古典落語ですが、この師匠は新作落語でも独特の世界を見事に作り出されます。それからは独演会に行ったり、CDを買いあさったりしました。

私は、小さい頃から落語は好きでしたが、自分でやろうと思ったことはありませんでした。しかし、そんなきっかけがあって、ある時、「お金のいらない国」を落語形式でやってみようと思い立ちました。それまでやっていた寸劇をするには私を含めて3人の出演者が必要でした。誰にお願いしても喜んでやってくださいますし、それはそれで楽しいのですが、みんなの都合が合わないとできないので不便なところもありました。でも、落語なら一人でどこでもやれる。寸劇もそうでしたが、思いつくとすぐやりたくなる私は早速試してみることにしました。

でも初めのうちは台詞はほぼ寸劇のまま、落語というよりは動きのない一人芝居という感じでした。そんな形で何度か講演するうち、聴きにきてくださった、やはり落語好きの方から、もっと落語っぽくやった方がいいというアドバイスをいただきました。なるほどと思った私は、話の後半を寸劇とは変え、キャラクターやしゃべり方も、より落語らしく聞こえるように工夫しました。

そんなことで「お金のいらない国」の落語をはじめてから、1年ほど経ちました。もちろん私は落語の修行をしたこともない素人ですが、おかげさまでずいぶんいろいろなところに呼んでいただき、たくさんの方に聴いていただくことができました。これからも規模や人数は問わず、どこでもお伺いしてやらせていただこうと思っていますので、ぜひお気軽にお声かけください。

お申し込み・お問い合わせはryujin@mwa.biglobe.ne.jpまで。

このページの最初に戻る

すべては必要なこと

50年生きてきて思うのですが、私は、今までの人生の中で起きてきたことは、ある時点では苦しかったり悲しかったりしたことでも、今となっては、すべてなるべくしてなり、そのタイミングで自分にとって必要なことだったと思えます。

身の周りではいつも必要なことが起こり、自分に必要な人が現れ、また、必要なくなれば去っていく。必要なことは次々に応援者が現れて発展していき、このまま続いてもプラスになりそうもないと感じたことは、自分から働きかけなくてもなぜか終わりを告げる。

単に私は運がよく、たいした経験をしていないのかもしれませんが、船井幸雄さんが「すべては必要・必然・ベスト」、越智啓子さんは「すべてはうまくいっている」、山元加津子さんも「みんないつかのいい日のためにある」と言われているのを見ても、みなさんある意味同じことに気づかれたのかもしれません。

たしかにあまりにも悲惨な目に遭ったりすれば、遭ってよかったとは思えないでしょうし、それが人為的なことなら起こすべきではなかったでしょう。しかし、どんなことでも起きてしまったことを嘆くだけでなく、自分にプラスになるように受けとめられれば、それも意味はあったことになるのではないでしょうか。

起きた事実は変えられないし、消すこともできません。であれば、どんなことでも自分にとって必要であったと前向きに受けとめ、そこから何かを学んだ方が、自分にとって有意義に、その後の人生も楽しくなるように思います。

このページの最初に戻る

「お金のいらない国」出版裏話

私が「お金のいらない国」という本を出したのは2003年ですが、小説を書いたのはその10年前の1993年です。はじめは本にするつもりなどなく、手作りした小冊子を身近な人に配ったり、インターネットが普及してからは、ホームページ上に掲載していました。

2002年頃、ネットを通じて知り合った人たちから出版をすすめられ、ある出版社サイトの企画を紹介してもらいました。それは、そのサイトに作品を掲載し、それがもし本になったら購入するという契約者を募り、期限内に規定人数をクリアすれば出版してくれるという企画でした。私は早速申し込みました。

しかし、期限内に投票数はクリアできたにもかかわらず、商品価値が認められないという理由で、結局、その出版社からは出版してもらえませんでした。

2003年に「お金のいらない国」をネタにしたイベントをすることが決まり、私はそれまでには自費出版でも出版しようと決心しました。イベントスタッフの一人から、S舎という出版社が定期的に小説などのコンテストを行っており、上位入賞者の作品を出版するという企画があることを教えてもらいました。

そして、その賞に応募してみました。残念ながら私の作品は選に漏れましたが、後日、S舎から、共同出版という形で出版しないかと持ちかけられました。共同出版というのは、最初に500部の制作費プラスアルファを作家が払い、1年以内に売り切れれば出版社が増刷するというものでした。単純な自費出版より割高ではありますが、世の中に書籍として流通させることができ、ネット販売も行えるというメリットがあります。

私はその形で契約し、2003年7月のイベントまでに、無事、本が完成しました。たったの500冊ですからそうそう書店に並んだりすることはないのですが、発売当初は近くの書店に並んでいるのを見ました。私の場合はおかげさまで1年以内に売り切れ、S舎は約束通り500冊の増刷をしてくれました。

その後、何度か増刷を重ねるうち、2005年の愛知万博「愛・地球博」で、ネットワーク『地球村』の高木善之さんと知り合いました。高木さんは「お金のいらない国」を絶賛してくださり、続編を『地球村』出版から出してくださいました。また、「お金のいらない国」自体も『地球村』出版から出したいと言われ、私は2006年にS舎との契約を解除し、若干の加筆修正を加えた改訂版を『地球村』出版から出していただきました。

S舎はその後、他の著者とのトラブルが社会問題化し、倒産に追い込まれてしまいました。詳しい事情は存じませんが、私が関わる限りはS舎には何の問題もありませんでしたので、残念なことだと思います。

因みに、S舎版と『地球村』出版版の装丁はよく似ていますが、タイトルバックのパターンがS舎版はブルー、『地球村』出版版はピンクです。

このページの最初に戻る

文章を書くことのすすめ

私は今までこのホームページ上に、日頃生きている上で思いついたことをエッセイやショートショートなどの文章にして、その都度アップしてきました。各ページの目次タイトルの横に日付を入れ、いつ書いたものかわかるようにしています。(日付の入っていないものは、日付をつけ始める以前に書いたものです)

さまざまな人と関わり、社会で生活して行く上では、考えさせられること、悩んだりすることが多々あります。そこで思ったこと、気づいたことを文章にすることによって、自分の考えが整理され、また、足りないところに気づき、もっと深く考えたり、修正することができます。私の場合は、そうやって書いたものを誰でも閲覧可能なホームページにアップするという、自分にある意味責任を課すことで、幅広いことに応用の利く、できるだけ普遍的な内容にするように努めてきたつもりです。

しかし、あくまでも未熟な私が書いたものですから、正しいという保証はありませんし、また、過去に書いたものを改めて読むと、現在とは矛盾している部分があります。現在もすぐに過去になるわけですが、私は、一度書いたものは敢えて修正せず、そのまま残すことにしています。読んでくださる方には日付を見て、その時点では作者はそう考えていたのだと判断していただきたいと思います。

私のような形で公表しないまでも、考えたことを文章にするという作業は、先に述べたような効果があると思います。記録として残す残さないは別として、また、どんな表現形態をとるにしても、頭の中だけで悶々と考えているよりは、文章にしてみてはいかがでしょうか。

このページの最初に戻る

世の中変わった

私が高橋信次氏の著書に出会ってスピリチュアルなことに目覚め、唯物論者から唯心論者に大転換したのが1991年、33歳の時でした。自分の言葉で伝えたいと思い、それから2年くらいの間に「宗教なんて大っ嫌いな人へ」という随筆や、短編小説「お金のいらない国」などを書きました。

まだパソコンはほとんど普及していない頃で、ワープロで打ったものをプリントアウトし、コピーをとって綴じて、身近な人に配って読んでもらっていました。

その頃の周りの人の反応はあまり芳しくないものでした。死後の世界や、目に見えないものを信じるのはちょっとおかしな人というイメージだったようです。まあ、以前は私自身が唯物論者だったわけですから、当然といえば当然です。せいぜい「お金のいらない国」が、現実にはあり得ないけれど、小説としてはおもしろいといった程度の評価でした。

その後、パソコンが普及し、私も1999年にホームページを立ち上げると、理解者は徐々に見つかりはじめました。それから9年ほど経つわけですが、その間にいろいろな出会いがあり、仲間は爆発的に増えました。

スピリチュアルなことにしても、お金のいらない国にしても、人によって受けとめ方はさまざまだと思いますが、ここ十数年の間に人々の意識はかなり変わったと思います。テレビにしても、以前はせいぜい面白半分のオカルト番組でしたが、今はゴールデンタイムに大真面目なスピリチュアル番組がありますし、書店にもスピリチュアルのコーナーができています。

身近でも、以前は否定的だった人が、肯定的になっていたりします。スピリチュアルなことは一つ間違うと危ない部分もありますが、少なくとも物質至上主義の文明は限界が見え、終わりに近づいているということかもしれません。既に私は50歳になりましたが、昔に比べると、本当に世の中は変わったと思うし、これからもっと面白いことになりそうな気がします。

このページの最初に戻る

りゅうじんという名前について

私の名前、長島龍人(りゅうじん)はペンネームで、本名は長島隆人(たかひと)といいます。ペンネームは、隆人を音読みにして文字を替えたんですが、隆人という名前は叔父さんがつけてくれたそうです。

親戚の人などからは子どもの頃から「りゅうちゃん」と呼ばれていました。「たかちゃん」と呼ばれたことはほとんどなく、記憶にあるのは近所のお風呂屋さんのおばさんくらいです。そして、名付け親の叔父さんだけは、なぜかいつも「りゅうじん」と呼んでいました。

ですから、「りゅうじん」は昔から馴染みがあり、ペンネームはあまり考えずにそうしました。文字は「龍」が好きだったので使わせてもらいました。音を聞くと龍神を思い起こし、おこがましいですが、「じん」が人なので許していただきたいと思います。

このページの最初に戻る

嫌いな食べもの

私は食べものの好き嫌いはあまりなく、たいていのものはおいしくいただきます。ただ、苦手なもの、できれば避けたいものはあります。食べたことのないものに関しての好き嫌いはわかりませんし、ゲテモノなどもいやですが、普段食べる必要もないでしょうからここでは除外します。

また、嫌いといっても、外で出されれば食べますし、普段食卓に並ぶようなものなら、我慢しても食べられないとか、食べると体に異常が出てしまうようなものはありません。

「きな粉」
小さい頃から、いやだった記憶があるのは、きな粉です。きな粉は好きな人が多いらしく、嫌いだというとよく驚かれますが、私はあの匂いがだめです。安倍川餅もだめで、くず餅にも自分からすすんできな粉はかけません。

「ハチミツ」
これも小さい頃、お湯に溶かしたものを飲まされて嫌いになりました。やはり匂いがだめです。今は、匂いのきつくないものならパンにつけるなどして食べることができます。

「ニッキ」
やはり小さい頃、ニッキ飴が嫌いでした。シナモンも同じ匂いです。スイートポテトや生八つ橋にかかっている程度なら、そんなに気にせず食べることができます。

「レバー」
レバーも同じく小さい頃、匂いと歯ごたえがいやでした。今は焼き鳥屋さんでは時々食べます。でもやはり砂肝の方が好きです。

「カキ(貝)」
これも昔から、あの匂いと歯ごたえがだめです。フライならソースで食べられないこともありませんが、生はどこがおいしいのかわかりません。妻が大好きなので、居酒屋などで頼むと全部食べてもらいます。

「パクチー」
タイ料理のほとんどのメニューに入っている強烈な匂いのあの葉っぱです。あれさえ入っていなければおいしいのに、なぜ入れるのか意味がわかりません。周囲を見ると、男性には嫌いな人が多いようです。

「生のタマネギ」
匂いが食後まで口に残るのがいやです。かなり水にさらして匂いの抜けたものなら食べられます。サラダやサンドイッチには入れてほしくありません。炒めたものなどは好きです。

私の嫌いなものは、ほとんど匂いが原因のようです。自分がくさいと思う匂いは徹底的に気になります。人に比べて、いい匂いをかぎたいと思うより、いやな匂いをかぎたくないという意識が非常に強いかもしれません。

とは言っても、シソやミョウガ、山椒の香りはとても好きです。また、キンモクセイの匂いがわからず、よくあきれられます。

このページの最初に戻る

発想の原点

私はおかげさまでいろいろなことをさせてもらっています。やりたいと思ったことはなんでもやってみて、自分もそれなりに満足し、見聞きしてくださった方々にも喜んでいただけているとすれば、とても幸せなことだと思います。

私が現在させてもらっている「お金のいらない国」に関する活動は、いろいろな方から影響を受けたり、ヒントをいただいたりしています。私が勝手にそう思っているだけですから、ご本人たちには大きなお世話かもしれませんが、感謝の気持ちを込めて、ここにご紹介させていただきたいと思います。

●ラーメンズ
ラーメンズは、とてもシュールでおもしろいコントをされる二人組です。片桐仁、小林賢太郎両氏からなるラーメンズは、以前は漫才コンビとしてテレビに登場したこともありましたが、その中身はお笑いという域を超えた芸術であると思います。私より前から妻が大ファンだったこともあって、ラーメンズの舞台は何度か拝見し、うちにはDVDもたくさん買い揃えてあります。

必要最小限の小道具しか使わないシンプルな舞台。その知的でナンセンスな独特の笑いの中における、人間の深層をえぐり出すような内容、緻密な脚本、抜群の演技力は見るたびに感心させられます。

「お金のいらない国」の寸劇は、先に録音してあるセリフに、役者は口や動きを合わせるというものですが、これもラーメンズが舞台の中で一部に取り入れていた手法です。もっともこれはさらに昔、私がゲイバーのパフォーマンスで見て印象に残っていたのですが。

● 星新一
星新一さんはSF作家の大御所、ショートショートというスタイルの先駆者です。その奇抜な発想、少ない文字数の中で意外なオチに持ち込む計算されたストーリー展開は、いつ読んでも新鮮で痛快です。

ほとんど本を読まなかった高校時代、古本を売りたがっていた友だちから星新一さんの文庫本を何冊か買いました。あまりにも面白くて、それから本屋さんで買いあさり、ほとんど読んでしまいました。

気軽に読める平易な文体、短い文章で中身の濃い内容。私はショートショートや短編小説を書くときにお手本にさせていただいているつもりです。

●手塚治虫
言わずと知れた漫画の神様。手塚治虫以降の日本の漫画家で、この方の影響を受けなかった人はいないのではないでしょうか。アニメーションの分野でも日本におけるパイオニア。その情熱は60歳で亡くなるまで失われることはなかったようです。

私が幼稚園に通っていた時に、テレビで日本初のアニメ「鉄腕アトム」の放映が始まりました。私は幼稚園で毎日、画用紙にクレヨンで鉄腕アトムを描き、その裏に、同じくその頃放映されていた横山光輝の「鉄人28号」を描いていました。

手塚先生の作品は大好きなものがたくさんありますが、たしか30歳くらいの頃に「ブッダ」を読んで、宗教というものに興味を持ちました。私は、それまではガチガチの唯物論者で、あの世などあるわけがない、自分の目に見えるもの以外は何も信じないという考えでした。しかし、仏教にしろ、キリスト教やイスラム教にしろ、これだけ宗教というものが世の中にあるというのはどういうことだろう、ブッダやイエスは、一体何を言っているんだろうと気になったわけです。

●高橋信次
高橋信次さんはGLAという新興宗教の開祖です。宗教に興味を持った私は、書店でいろいろな宗教書を手に取るうち、そのご著書に目をとめました。

人間の本質は霊であり、この世限りのものではない。肉体はこの世を生きるための乗り物、人はいずれはその肉体を離れ、あの世に還る。

衝撃でした。徹底的な唯物論者だった私は、その大前提をひっくり返されました。そして、人はこの世限りのものではないと仮定して考えた時、それまでの自分の悩み、疑問がすべて氷解しました(詳しくは、同ホームページ内「宗教なんて大っ嫌いな人へ」「30年間、私は何を悩んだか」をご参照ください)。

高橋信次さんはそのとき既に亡くなっていましたし、私はそれ以降もいかなる宗教にも関わっていませんが、この意識、価値観の大転換が現在の私の発想の原点であることは間違いありません。

このページの最初に戻る

りゅうじん式健康法

私は健康な方だと思います。風邪は滅多にひかないし、そろそろ生まれて50年が経とうとしていますが、大きな病気もしたことがありません。入院も手術も今のところ経験がありません。

運動神経は非常に鈍いし、決して人より体力があるわけではありません。体は大きいですが、スポーツは何もできないので、無理をしないのもいいのかもしれません。そんな私の健康法をちょっとご紹介します。

●食べ過ぎない
「腹八分目に医者いらず」とはよく言ったもので、食べ過ぎないというのはとても体によいようです。その人に合った体型はあると思いますが、あまり太ると体には負担になると思います。私は、食後におなかが苦しくなるような食べ方はしないように気をつけています。外食する時も、肉や、カロリーの高そうなメニューは自分からは頼みません。

私も若い頃は肉もたくさん食べましたから、体が欲するなら無理して我慢することはないと思いますが、なるべく野菜中心にした方が、血管の状態や、血液の流れなどにはいいようです。

●腹を立てない
腹を立てて興奮すると血圧が上がり、怒鳴ったりすれば周囲によくない波動を与えます。これは私自身がよくやってしまっていたことなのでよくわかります。腹を立てることは、自分はもちろん、周りの人の健康状態にも影響を与えると思います。

腹を立てるか立てないかは自分次第です。思い通りにならなくても、人と意見が食い違っても、自分が腹を立てさえしなければいいのです。私は、自分は正しいと思って生きるのは人間として当然だと思うし、人にも、自分は間違っていると思いながら生きてほしくはありません。しかし、自分だけが正しい、自分と違う人は間違っているとは考えずに、人にはそれぞれの考えがある、あるいは、自分以外の人間は自分と違ってもかまわないという割り切りが必要だと思います。これは家族など身近な人に対して特に必要です。その考えが徹底すると、腹は立たなくなります。

●よく寝る
電気が発明されてからは、一般的に相当、夜起きている時間も長くなったと思いますが、現代の人は睡眠時間をあまりとれない人も多いでしょう。私も飲みに行ったり、いろいろと用事があって、寝不足になることがよくあります。しかし、睡眠というのは非常に大事なことで、自律神経の働きを考えても、体は十分休めなければいけないようです。

私の場合、昼間でも、少しの時間でも、眠れる時には寝るようにしています。いつでもどこでもすぐ寝られるというのは特技かもしれません。会社のデスクでも、タクシーなどに乗っても、眠い時は寝てしまいます。なかなか会社で寝られる人も少ないかもしれませんが、そういう意味では私は恵まれた環境にいます。

●極力、薬を飲まない
体には自然治癒力があります。体調が悪くなった時に出る症状は、体を治すために出ている症状です。ですから、薬を飲んでその症状だけ抑えても、根本的な治療にはならず、かえって状態を悪くすることも多いようです。これは医者にかかっても、対症療法を受ければ同じことです。

ですから、常に体は治ろうとしているということを忘れずに、具合が悪くなったらとにかく体を楽にして休むこと。余計なことは考えず、リラックスして、肉体とともに精神も休めるようにすることが大事だと思います。

このページの最初に戻る

音楽と私

私は音楽が大好きですが、特に好きになったのは中学時代にビートルズを聴いてからです。中学、高校時代のお小遣いは、ほとんどビートルズのレコードにつぎ込みました。うちには壊れかけた卓上ステレオしかなかったのですが、繰り返し聴いては、のた打ち回っていました。

歌い始めたのもその頃からです。狭い家だったので大声は出せず、毎晩、押入れのふとんの間に首を突っ込んで、ビートルズや、その頃、流行っていた歌を歌っていました。

ギターは、大学に入ってからクラシックギターの通信教育を始めました。数年続けましたが、難しくなったのでそれ以上続ける気にはならず、やめてしまいました。

大学時代は、人前で歌うということはほとんどありませんでした。その頃はまだカラオケもなく、唯一、ウェイトトレーニング部の宴会で、手拍子で歌っていました。所属する学部では、卒業時の謝恩会で初めてアカペラで「Yesterday」を歌ったところ、友だちにかなり驚かれたのを覚えています。

会社に入ると、社員のバンドにヴォーカルで入りました。しかし、やがてドラマーがいなくなり、私がドラムスをすることになりました。バンド経験のあるメンバーに基本パターンだけ教えてもらい、あとは原曲を聴いて適当にやりました。ヴォーカルをとりながら叩くこともしばしばでした。会社のイベントに数年間出演しました。

入社して3年ほどすると、世の中にカラオケが普及してきました。その後カラオケは、CD、レーザーディスク、通信カラオケと進化しながら、外国曲なども増え、私もカラオケボックスやカラオケスナックで毎晩のように歌いました。お金も相当使いましたが、これがかなりの練習になったと思います。

ものまねブームが来ると、私もものまねをするようになりました。テレビ局のアマチュアものまね番組のオーディションを受け、2、3度出演させてもらいました。一緒に出演した人の中には、今ではプロになって活躍されている方も何人かいらっしゃいます。

会社に派遣されていた女性が、ヤマハポピュラーミュージックスクールでヴォーカルを習っており、彼女に誘われて、たまにライブに出演するようになりました。バンドに参加したり、先生とユニットを組んだり、楽しい音楽仲間が増えました。

2003年、ネットを通じて知り合った人たちと、「お金のいらない国」をネタに岐阜県可児市でのイベントを企画。そこでは寸劇をするとともに、ラストに、一緒に出たバンドの人に伴奏してもらって日本語のイマジン「想像してごらん」を歌いました。

その後、「お金のいらない国」で何度かイベントに出演するうち、自分でギター伴奏をしようと思い立ちました。アコースティックギターを買って、コードを覚え、イベントにはギターをかついで出かけるようになりました。自分で「お金のいらない国の歌」を作詞作曲し、それも歌うようになりました。

ひと頃、コンピュータでの音楽作りに凝りました。友だちのフュージョンバンドに曲を提供したり、広告代理店である自分の会社の仕事で使うCMソングを作ったりしました。

同僚から、CMのプレゼンテーション用の歌の歌唱を頼まれたり、他社から、イベントで流すものまねの歌を依頼されたこともありました。

2006年1月、知り合いのバーで、ソロでライブをしていた人がいました。飛び入りで「And I Love Her」を歌わせてもらったところ、一緒にユニットを組もうと誘われました。3月末にその店でぶっつけ本番の初ライブをし、それから月に一度くらいのペースで出演させてもらっています。

ビートルズのマイナーな曲を中心に演奏するBm(ビーマイナー)。結成以来1年半が経過し、ライブハウスにも何度か出演させてもらいました。2週間に一度、スタジオを借りて練習しています。相方は今年、還暦を迎え、私も来年の2月で50歳になりますが、ますます元気なおじさんバンドです。

このページの最初に戻る

父のこと

私の父は、1920(大正9)年生まれ。場所はちょっと違いますが、現在も私の実家のある東京都港区で生まれ育ったようです。四十代でくも膜下出血で倒れ、私が結婚した1983(昭和58)年の暮、脳の血管が切れて亡くなりました。享年63歳でした。

父は、病気になるまで紳士服の仕立て屋をしていました。私が生まれる前に亡くなっていたお祖父さんから継いだ仕事です。懇意にしてくれるお客様もいたようですが、生活は決して楽ではなく、私が小さい頃は毎晩夜中まで仕事場の電気がついていたのを覚えています。

父は第二次世界大戦の時、兵隊にとられて沖縄へ行きました。沖縄では民家に大変お世話になったそうです。その家の泡盛をみんな飲んでしまい、ひどい兵隊がいると噂になったとか。私が結構お酒に強いのは父親譲りでしょう。父は戦後、観光地化された沖縄には一度も行きませんでしたが、沖縄の方たちにはずっと感謝していて、沖縄は大好きなようでした。

父は、家族によく戦争の話をしてくれました。新兵の頃は上官に相当ひどい目に遭わされたようですが、父が話すと笑い話になりました。父は背は大きくはないし痩せているのですが、私と違って運動神経が発達していて大学時代にはラグビーで鍛えていましたので、軍隊の演習でも1、2を争う体力だったようです。

戦況が悪化すると父の部隊はばらばらになり、父はサトウキビをかじりながら、ひとりで逃げ回っていたそうです。かなり危ない目に遭いながらも生き延びましたが、左足を撃たれて捕虜になりました。銃弾は骨を貫通、その頃の医療ですから完治もせず、戦後退役してからも入退院を繰り返すことになりました。

捕虜の待遇はなかなかよく、タバコやお菓子の入った缶詰をくれ、さすがアメリカと思ったそうです。終戦後、その時に使っていた金属製の取っ手のついたコップを持ち帰ってきていて、現在、私の家にあります。コップの底には「1940U.S.」と刻印されています。

たくさんの人が戦死した沖縄から奇跡的に父が生きて帰ってこなかったら、私は生まれていませんでした。現在この世に生きている人はみな、戦争の中を生き残ってきたか、その子孫なわけで、それだけでも命を粗末にしてはいけないのではないかと思います。生まれてきたことはとても幸運で、きっと意味のあること。人生は大切に、悔いなく送りたいですね。

このページの最初に戻る

お金と私

22歳で就職して、会社から給料をもらうようになると、私は貯金を始めました。お金はできるだけたくさんあったほうがいい、たくさん貯めたいと思っていました。マネー雑誌を愛読し、ボーナスをもらうと銀行や証券会社に行って、なんとかファンドやなんとか投信に預けました。

昔は金融商品の利率がよかったですし、私はあまりリスクのあるものには手を出さなかったのでお金は順調に増え、マンション購入の頭金にしたり、車などを買いました。

母親のすすめで、入社してから小遣い帳をつけ始め、二十数年間続けました。はじめはノートに手書きで、その後、ワープロ、パソコンと、ツールは世の中に合わせて進化していきました。毎晩、財布の中身を確認し、何にいくら使ったかを思い出して、項目別に金額を書き込みます。毎月集計、年度末には1年分の集計をし、パソコンでグラフを作ったりしました。

このことを人に話すと驚かれますが、A型で几帳面な私には苦ではありませんでした。小遣い帳はつけるだけで別にお金を節約するわけではないのですが、何にいくら使ったのかがわかるので、自分の行動を知る材料にはなりました。しかし、お金の本質に気づいてからはあまり必要性を感じなくなり、つけるのには結構手間もかかるので、数年前にやめてしまいました。

今私は、お金は必要な分だけはほしいけれども、あればあるほどいいとは思っていません。経済はゼロサム(プラスマイナスゼロ)なので、余分なお金を貯めることによって貧富の差が生まれると考えています。

息子が大学生なのでまだ数年はかなりのお金が必要ですが、自分はあまり物などがほしいとは思わなくなりました。福祉の行き届かないこの国ではある程度の貯えもないと不安ではありますが、できるだけお金は、多くの人にとって、社会にとってためになる使い方をした方がいいと考えています。

このページの最初に戻る

ハンカチは必需品

私はすごい汗っかきです。普通の人に比べたら、何倍もかくと思います。夏の初めから、外をちょっと歩いたり、食事をしたりするだけで汗だくです。ですから子どもの頃から外に出る時、ハンカチは必需品でした。忘れようものなら悲惨なことになっていました。

人と比べてあまりにも汗の量が多いので、拭くのも面倒だし、とてもいやでした。でも、私の場合、病気ではないし、新陳代謝がいいから汗をかくので、悪いことではないようです。年のわりに肌に張りがあると言われるのも、汗がたくさん出るおかげかもしれません。勝手なもので最近は、汗をかく体質でよかったなあなんて思っています。

ハンカチは、吸水性のよいタオル地か、柔らかい厚手のものをいつも2枚持ち歩いています。1枚は、汗拭き用、1枚は手拭き用です。

私はよく手を洗うのですが、トイレにペーパータオルが備え付けてあっても絶対に使いません。手を拭くくらいのことに貴重な紙資源を使うのは非常にもったいないと思います。ぜひ、みなさんにも手拭き用のハンカチは持って出かけていただきたいと思います。

このページの最初に戻る

学生時代と就職のこと

私は1958(昭和33)年、東京で生まれました。東京タワーのできた年です。まだ高速道路も高層ビルもありませんでした。大学を卒業するまで東京都港区に住んでいましたが、その間に辺りの景色は一変しました。

幼稚園はキリスト教系の私立に行きました。うちは一応仏教ですが、区立の幼稚園のくじ引きに外れたためです。小学校は6年間、港区立の小学校に通いました。5年生から近所の同級生4人グループで、平日の夜、週に3日、家庭教師に来てもらいました。場所は各家持ち回りで、4人と先生が集まり、先生が帰る最終バスの時間まで勉強するのです。日曜日はその4人で進学教室に通い、毎週、試験を受けました。その結果は木曜日に送られてきて、順位が出ました。

中学校は5校を受験しましたが、すべて落ち、区立の中学校に行きました。土日は進学塾に通いました。日曜に行っていたところはやはり試験があって、全国の順位が送られてきました。

高校も5校を受験し、私立1校以外、すべて落ちました。確実視されていた都立高校も、一番肝心な3年生の2学期に内申書の点数を激しく落としたため、だめでした。私が行った私立高校は今でこそ名門になっていますが、その当時はある程度の成績の子にとってはすべり止めでした。高校でも日曜日に予備校に通い、毎週試験を受けました。

私の隣のクラスに、美大を目指しているとても絵の上手な友だちがいました。私は小さい頃から絵が好きで、高校でも彼の所属する美術部で一緒にデッサンをしていたのですが、3年生になったある日、顧問の美術の先生が、
「長島も美大を受けるんだろ」
と言いました。どうも先生は冗談のつもりだったようなのですが、私は普通の勉強はいやになっていたので、美大もいいなと思ってしまいました。そして、高校3年の夏休みから大胆にも進路変更。以前から予備校のデザイン科に通っていたその友だちと一緒に、そこに通い始めました。

両親は、なぜか私が美大を目指すことを全く反対しませんでした。普通の親なら、美大を出ても食っていけないのではないかという心配をすると思います。後から聞きましたが、美術の先生の方が心配して、親に本当にいいのか確認してきたそうです。親は、小さい頃から教育熱心でしたが、子どもには何か一つ、好きなことをやらせてやりたいと思っていたそうです。因みに妹は、幼稚園からピアノ一筋で、音大を出ました。

予備校には浪人中のデッサンの上手な人がたくさんいました。今では有名な俳優になったTさんもいて、とても仲よくしていただきました。私はそういう先輩の絵をお手本に半年間、デッサンなどの勉強に励みました。

大学は3つの美大を受験し、運よく現役で2つに合格することができました。行ったのは武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科。平面が主になりますが、ビジュアルに関する幅広いデザインを学ぶところです。クラブ活動はウェイトトレーニング部に入り、1年生の頃は毎日バーベルを持ち上げていました。運動は苦手なのですが、体型をよくして体力をつけたかったのです。おかげさまで力もかなりつき、丈夫になりました。大学3年の頃、いい気になって食べていたら一時、体重が100キロを越えました。今は67、8キロですから30キロ以上重かったことになります。

私はアルバイトというものをほとんどしたことがありません。決して裕福な家庭ではないのですが、親が、学生は勉強しなくてはいけないからということで、バイトはさせませんでしたし、自宅通いだったこともあって食うには困らず、私も働いてまで遊ぶ金がほしいとは思いませんでした。そして、4年生になっても、就職活動をする気になりませんでした。

ある時、大学に某食品会社宣伝課から推薦入社の案内が来ていました。就職試験を受けたくなかった私は、教授に推薦をお願いしました。宣伝課の作品面接の後、人事部の面接を受けました。しかし、結果の通知がいつになっても来ません。私は教授に様子を聞きに行きました。
「実は……」
とっくに落ちていたのでした。早く言ってよね。さあ、どこかを受験しなくてはなりません。しかし、もうほとんどの会社は採用試験を終えていました。残っていたのは某大手広告代理店。だめもとで受けるしかありませんでした。

ある朝、うちでだらだらしていると、大学から電話がありました。
「推薦されていますが、今日の午前中までに手続きをしないと無効になりますよ」
「ええっ!すぐ行きます」
広告代理店を受験するのにも大学の推薦が必要なことをちっとも知らなかった私は、慌てて片道2時間近くかかる大学に行き、手続きをしました。

採用試験を受けに行きました。採用調書というものに顔写真を貼るのですが、「スピード写真は不可」と書いてありました。私が持って行ったのはそのものズバリのスピード写真。ええい、こんなことで落とすなら落とせ!とその写真を貼り付けて提出しました。

幸いそれで落とされることはなく、それから筆記試験、実技試験、作品面接、重役面接などがありましたが、なんと採用されてしまいました。大学の優秀な友だちがたくさん落ちていたので、先生も友だちも自分もびっくりしました。

会社の配属先はなぜか縁もゆかりもない名古屋でした。私は、親元を離れるのも悪くないと思いましたし、そう遠くない将来、東京転勤になるだろうと軽く考えていました。しかしその後、結婚して、子どもができ、その子どもが今では大学生。私が入社してからもう27年も経ち、東京より名古屋の方が長くなりました。

10年くらいは東京に帰りたくて仕方ありませんでしたが、今となって考えれば、この名古屋に来てからのたくさんの人との出会い、経験は、何ものにも替えがたい貴重なものです。名古屋に来てよかった、すべては必然だったんだなあと思えます。

私は、運はいい方なのではないかと思いますが、受験に失敗したことは数知れず、会社でも出世や名誉などとは縁がないわけで、今までの人生がそう順風満帆だったわけでもありません。でも、それにめげることなく、自分の宿命を受け入れてきた結果今があることを、それなりに満足しているのではないかと思います。

また、例えばもし、中学、高校受験で志望校のどれかにでも受かっていたら、全く違った人生になっていたでしょう。そういう意味では今の自分は、うまくいかなかったことも含めてすべてがあったからこそ形成され、ここにいるということになります。

それに満足するのか不満に思うのかは人それぞれかもしれませんが、あまり嬉しくなかった経験からも学んだことがある、あるいはそういった経験からこそ学べるのだとすれば、すべての経験は貴重なものと考えたほうが自分にとってプラスになるのではないでしょうか。

そして、人間万事塞翁が馬、先のことはどうなるかわかりません。そもそも、この先進国のおかしな社会で教育を受け、不自然な仕事をし、今まで生きてきた過程では、地球資源や他国の人々の多大な犠牲をはらっているわけです。このある意味特殊な、恵まれすぎた社会の中で大過なく過ごせたとしても、それが何だというのでしょう。

現在、地球環境は最悪、戦争はなくならず、激しい貧富の差がつき、生きることもままならない人が山ほどいます。その原因も、先進国のやり方、暮らし方に問題があるからとわかった以上、この事実に目をつぶり、自分さえよければいいというような生き方をしていては、その価値も半減してしまうでしょう。さあ、来年の2月が来れば50歳になる私は、この先どんな人生を歩むのでしょうか。

このページの最初に戻る

不思議な出会い2

2003年7月19日、岐阜県「可児市文化創造センター」で開かれたイベントで、初めて「お金のいらない国」の寸劇を上演してから約2年が経ちました。「お金のいらない国」&「イマジンコンサート」は、2005年万国博覧会「愛・地球博」の市民プロジェクトに公式参加し、本番を5日後に控えています。

この2年の間に私は本当にたくさんの人と出会い、その趣旨に共感していただき、「お金のいらない国」は計30回ほど上演させていただく機会を得ました。イベントで見られたことをきっかけに、いろいろな方にご紹介してくださったGさん、ご自分の会社の周年パーティに呼んでくださり、出席者全員に本をプレゼントしてくださったEさん、素敵な舞台衣装を作ってくださったデザイナーのSさん、そして、ご自分の講演会に呼んでくださった環境問題研究の第一人者Tさんとネットワークの方たち。その他知り合ったたくさんの人たちが、さまざまなイベントに呼んでくださったり、本を紹介してくださいました。

手探りで始めた「お金のいらない国」の活動ですが、この短期間にこれだけの手応えが得られたことは、私は言葉にならないほど嬉しいし、応援してくださった皆さんに心から感謝しています。そして、現在の社会に疑問を感じ、本当の人間の生き方、理想社会を目指している人がこれだけたくさんいるのだということがわかり、計り知れないパワーをいただいたと感じています。今後も自信を持って活動を続けるとともに、賛同してくださる多くの方たちと力を合わせ、理想社会の実現に向けて、楽しみながら努力して行くつもりです。

このページの最初に戻る

贈り物が苦手

人はよく、贈り物をします。誰かに何かをあげることによって、喜んでもらいたいと考える。一種の愛情表現と言えるでしょう。例えば誕生日や、クリスマスなど何かの記念日に、その人がもらって喜ぶであろう物をあれこれ考え、買うなどして準備しておき、渡した時の相手の反応を期待する。贈り物をすることが好きな人はそれが楽しいのでしょう。

私は、この贈り物というのが、あげるのも、もらうのも、ちょっと苦手です。愛情が足りないと言われればそれまでかもしれませんが、相手のほしい物がはっきりわかっているならともかく、いらないものをあげても、迷惑だろうと考えてしまう。また、自分がもらったら、いつか何かを返さねばと考える。人に物をあげるということは、同時に相手にそういう気を遣わせることにもなります。

また、お金で買った物をやりとりすること自体にも疑問を感じます。私の理想とする「お金のいらない国」ではすべてがタダですから、ほしい物は自分で手に入れればいいわけで、わざわざ人からもらう必要はないですし、少なくともお金がかかっているから贈り物に価値が増すということはありません。現在の世では、たくさんお金をかけたことによって愛情の大きさを表そう、或いは表してほしいと考える人もいるようですが、それは発想が歪んでいると思います。

ここで、贈り物をする行程を分析してみましょう。まず、(1)相手のほしい物は何かと考える。(2)それを入手しに行く。(3)お金を出して買う。(4)渡す場所まで運んでくる。(5)相手に渡す。「お金のいらない国」での贈り物は、このうち(3)の抜けた行動になります。「お金のいらない国」では物事の本質が表れると思いますから、(3)以外の行動のみで喜んでもらうのが本来の贈り物なのかもしれません。

また、私が常々疑問に思っているのが、中元、歳暮。個人レベルや会社レベルもあり、世間がこれに費やす金額はかなりのものと思われます。経済社会を支える上では無くせない習慣なのでしょうが、全てとは言わないまでも、義理で物をやりとりするのは資源の無駄遣いだと思います。関係によっては、ある意味賄賂ですから、これをしなければ保てないようなつながりというのも困ったものです。

お金で買える物を対象に、贈り物について考えてきましたが、勿論、手作りの物、滅多に入手できない物などを贈ったり贈られたりすることにはまた違った意味があるでしょう。これは「お金のいらない国」になっても変わらないと思います。

このページの最初に戻る

「家族サービス」っていう言葉が嫌い

行楽シーズンになると、よく「家族サービス」という言葉を耳にします。日頃忙しく働いているお父さんが、やっと取れた休日を、体を休める間もなく家族を旅行に連れて行くなどして費やし、体力もお金も使い果たすようなことを意味するようです。

旅行も好きじゃないし、車の運転もしない私にはとても真似のできないことなので偉そうなことを言えた義理ではありませんが、私は「家族サービス」と聞くと、え?ほんとかよ、と思ってしまいます。

「家族サービス」という言葉からは、お父さんはあくまでも犠牲者、家族に喜んでもらうために自分はやりたくないことを敢えてしているといったニュアンスを感じます。でも、お父さんが本当に嫌だと思っているようなことだったら、家族はしてもらって嬉しいんでしょうか。お父さんはおまえたちのために、無理してやってやっているんだなんて言われたら、家族も、そんなに嫌なことならしてくれなくていいよと言いたくなると思います。

私は家族サービスなるものをしているお父さんたちは、実は自分が楽しんでいる、或いは家族のために尽くすことに、喜びや満足感を感じていて、好きでやっているのではないかと思います。まあ、そうでもなければできっこないと思うし、世の中に於ける「家族サービス」という言葉の意味はそもそもそういうことなのかもしれません。

「家族サービス」に限らず、人のために何かをするような場合、どんなことであれ、それをすることにどこかで自分が充実感や満足感を覚えていなければできないし、少なくとも続かないと思います。本当に心底嫌なことを誰かのためにしているだけというのでは、ストレスで病気になってしまうでしょう。何かしてもらうにしても、する方が、あなたのためにやってあげているのだというだけの認識でいるとすれば、される方もありがたいとは思えないのではないでしょうか。

私には現在、妻と子供一人が居りますが、正直言って「家族サービス」はできません。普段から基本的に家族で行動しなければいけないとは思っていないのですが、家族と自分のやりたいことが一致した時だけ一緒に行動するようにしています。あとはできるだけそれぞれ個人が自由に、やりたいことをできるような環境を作っておきたいと思っています。

このページの最初に戻る

不思議な出会い

2002年2月、腰痛になった私はインターネットで検索するうち、岐阜県可児市で治療院を開かれているI氏を知りました。I氏は、長年ガン治療を専門にされていた外科医O氏と、TMS理論(「腰痛の原因」参照)で意気投合されていました。I氏の周辺には、TMS理論で腰痛を治した人たちを中心としたグループができていました。彼らは、私がホームページ上で発表している短編小説「お金のいらない国」を、いたく気に入ってくれました。

I氏はバンドを組んでおられ、ある日、私はそのライブを聴きに出かけました。I氏はそのコンサートで、日本語訳のジョン・レノンの「イマジン」を誰かに歌わせたいと考えていて、私が飛び入りで歌うことになりました。I氏から渡された歌詞を読んで私は驚きました。『想像してごらん、財産のない世界を』というフレーズがありました。まさしく「お金のいらない国」でした。昔からビートルズが大好きだった私は、勿論「イマジン」という曲は知っていましたが、あまり意味を考えたことはありませんでした。そのライブ以来、私は機会あるごとにあちこちで日本語の「イマジン」を歌うようになりました。

I氏、O氏、学生バンドの人たちが中心になって、「世代の扉」という会ができました。年齢、世代を越えてつながりを持ち、音楽を楽しんだり、理想社会や生き方を考えたりしようというグループです。さまざまな職業、立場の人が加わりました。そのグループの人たちの薦めで、私は「お金のいらない国」の出版化を考えはじめました。また、「世代の扉」を世にアピールするため、イベントをやろうということになりました。いろんな世代のバンドによるコンサートや「お金のいらない国」の寸劇が企画されました。

私は「お金のいらない国」の設定を少し変えて15分ほどの舞台用シナリオを書きました。芝居の練習をする時間はあまりないと考え、セリフだけ先に録音しておいて、それに合わせて演技するという方法をとることにしました。まず、プロのナレーター、俳優であるS氏、ミキサーのA氏らに手伝っていただいて、声の録音をしました。紳士役をS氏、お金のいらない世界に迷い込む男の役を私がやりました。「世代の扉」メンバーの練習用に、日本語のイマジンも録音しました。ミュージックスクールの講師をされているS先生がピアノ伴奏をしてくださいました。

「世代の扉」は、2003年7月19日、岐阜県「可児市文化創造センター・小劇場〔虹のホール〕」で初めてのイベントを行いました。コンサート、トークなどの後に、「お金のいらない国」の寸劇を上演しました。舞台では私が紳士役、大学生のA氏が男の役をやりました。芝居に続いて私は、日本語のイマジン「想像してごらん」を歌わせてもらいました。「お金のいらない国」の原作本は、知り合いのイラストレーターF氏、コピーライターM氏の協力を得て、新風舎という出版社から出版され、イベント会場でも販売しました。

ここ2年足らずの間に、私はいろいろな人に出会い、活動もさまざまに展開してきました。ひと月で治ってしまった腰痛は、この出会いのために必要だったのだと思えます。10年前に生まれた短編小説「お金のいらない国」も、こうしてより広く触れていただけるようになりました。私が今までやってきたことと、多くの人の力がひとつになって、何かが動き出した気がします。このエネルギーをより大きなものにしながら、この先みんなで何ができるか、自由に想像してみたいと思います。

このページの最初に戻る

腰痛の原因

私はこの2月から3月にかけ、腰痛を経験しました。朝、顔を洗った時、腰に違和感を覚え、それ以降痛みが続き、まっすぐ立って歩けなくなりました。3月中旬にはおさまり、現在はもうなんともありませんが、痛みがちっとも引いていかない時は、もう治らないんじゃないかと思いました。

インターネットで腰痛関連を調べているうち、興味深い理論に出会いました。TMSという理論で、腰痛は怒りの抑制によって起こるというものです。世の中には大変多くの方が腰痛で苦しんでいらっしゃいますが、その原因は現在の医学でははっきりしていないようです。レントゲンを撮って脊椎の異常があっても、痛む場所は違っていたり、老化が原因ではと考えても腰痛患者は若い人に多かったり。運動不足かと思えば、運動選手にも多いのでそうとも言えなかったり。

TMS理論では、明らかな身体的疾患以外は、腰痛の多くは過去に感じた怒りを抑制することによって起こると言っています。怒ってはいけない、温厚であるべきだというような意識から、怒りを抑え、我慢し、場合によっては怒りを感じた自分を責めてしまう。しかし、生まれてから現在までに押さえつけられた怒りの感情は消えることなく、自分の気づかないうちに鬱積し、腰痛という形で爆発する。

怒りの感情を抑えればストレスになります。しかし、今の世の中、皆が怒りを抑えることなくぶちまけていては世の中は大混乱してしまいます。TMS理論では、腰痛を治すにはストレスを解消することが必要になるのですが、そのために次のような方法を提案しています。

できる限り過去に遡り、どんな些細なことでもいいから、自分が怒りを感じたことを書き出してみる。人に見せるわけではないので、ちゃんとした文章にする必要はなく、箇条書きでもメモでもいい。感情のまま汚い言葉で書きなぐってもいい。そして自分が怒りを感じたことを改めて確認する。怒りとは人間にとって当然の感情でちっとも悪いことではないということを自分で納得する。それができたら書いたものは捨ててしまってかまわない。それだけで多くの場合、腰痛は治る。

宗教的な考え方ですと、過去を思い出しても反省することが中心になるようですが、TMSの方法では、より自分の気持ちに素直になりやすいかもしれません。いずれにしても過去を振り返り、それから逃げることなく向き合って考え、自分の持った感情も含めて全てを許せる心境になることが悟りにつながるということかもしれません。

私の腰痛は、ストレスリストを作る前に治ってしまいましたし、TMS理論が手放しで正しいという保証もありませんが、実際にかなりの患者さんがこれで治ったようですし、たまたま私がこの理論を紹介した友人も、長年苦しんできた腰痛に効果があったようです。

病気の中でも胃潰瘍などはストレスが原因と認められていますし、腰痛の原因がストレスであっても何の不思議もありません。ややもするとおろそかにされがちな病気と心の関わりですが、本当に正しい医学が進歩すれば、心と肉体の関係はこの先もっともっと解明されていくかもしれません。

今回、私が腰痛になったことで、ネット上でいろいろな方と知り合い、TMS理論も知ることができました。確かに痛みはかなりのものでしたが、得るものも大きかったと思います。またひとついい体験をさせていただいたと思っています。

TMS関連サイト
TMS JAPAN

このページの最初に戻る

出不精

私は出不精な人間です。自分から旅行の計画を立てるということはまずありません。誘われれば一応前向きに考えるし、行けば行ったでそれなりに楽しんではくるんですが、後から、うちで好きなことをしているより楽しかったかと考えると甚だ疑問です。目的地にどうしても見たいものがあるとか、人に会いに行くなど目的がある場合は乗り気にもなりますが、特に自分が行く必要もないのなら、よほど暇と金をもて余さない限り、なかなか腰を上げる気にはならないでしょう。

私の場合、この地球上で肉体がどこに移動しようと大したことではないという意識が強いようです。食べ物も日頃食べているもので十分満足しているし、買いものをしたいわけでもないので、わざわざ面倒な手続きを踏んで、人ごみの中に行ったり、使い慣れない宿に泊まったりする気は起きないんですね。

たしかに家族や気の置けない友だちと過ごす時間は楽しいですが、家族や友だちとは普段からよく一緒に過ごしていますし、結局私にとって楽しいのは、夜、酒を飲んでいる時間だったりして、それはどこで飲んでいても変わりませんから、別にわざわざ遠くまで出かける必要もないわけです。

過去、何度か海外出張をしました。仕事では断るわけにもいかないんですが、同僚でも海外に行けるというだけで羨ましがる人も多く、できることなら代わってあげたいなんて思ってしまいました。勿論、仕事をこなした以上に得るものはあった気がしますし、霊的なことを知ってからは特に、必要な経験だったのだと思ってはいますが、正直なところ、今後、必要がないならできれば行きたくないという気持ちは否めません。

世の中には旅行が趣味という人がとても多いようですから、私は相当変わった人間の部類に入るでしょう。私はどこにも行かなくても、自分が存在していることを喜び、いろんな人が存在していることを知り、いかに生きるかを考えることで十分満足してしまっているようです。おまけに音楽や美術に関われ、本や映画などに触れていられれば世界はいくらでも広がっていきます。

この世は生活費を得るための仕事に多くの時間を割かねば暮らしていけないようになっています。私も、もっと自由に使える時間が増えれば、家でやりたいことも一通り済ませられ、旅行も考えなくはないかもしれませんが、今のところ自分の自由になる僅かな貴重な時間を、他の趣味に優先して旅行に当てる気にはなれないといったところです。

このページの最初に戻る

すべての山に登れ(Climb Ev'ry Mountain)

私の大好きな映画のひとつに「サウンド・オブ・ミュージック」があります。ベストワンかもしれません。日本で封切られた当時、私は小学生でしたが、その時、映画館で見たのが最初で、後にリバイバルも見に行ったし、まだ高価だった頃のビデオやLDも買いました。オーストリアの大自然と名曲の数々。主演のジュリー・アンドリュースの透き通るような歌声。ストーリーも音楽も演出も見事で、思わず引き込まれてしまいます。

複雑な時代背景の中において、明るく、優しく、周囲を勇気づけていくマリア。苦しみながらも自分に素直に生きようとする姿は、いつ見ても感動的でいとおしく、清々しいものです。先日、私の住んでいる名古屋で日本人の俳優さんたちによる「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を見る機会に恵まれ、改めて気づいたことがありました。大佐に恋をしてしまったマリアが修道院に戻り、修道院長と話す場面です。院長の言葉「修道院は逃げ場所ではありません」。そして「すべての山に登れ」を歌います。

今までも映画で何度となく見てきた場面ですが、今回、出家は俗世間の苦しみから逃れるためであってはならないということを改めて考えさせられました。日々の生活を通して率直に自分の心を見つめ、きれいなものも汚いものもすべて自分のものであることを知り、悩み、いかに生きるべきかを考える。そういった段階を経ずして、ただ苦しみから逃れるために出家し、人生をきれいごとで済ませようとするのでは、この世に生まれてきた意味も半減してしまうと思います。

マリアは大佐の元に帰って結婚し、子供たちの母になります。「すべての山に登れ」この言葉には非常に深い意味があります。人それぞれ解釈の仕方、考え方は違うかもしれませんが、私はこの地上に生まれてきた経験を無駄にしないよう、喜びも苦しみも受け入れながら、悔いのないように生きて行きたいと思います。

このページの最初に戻る

東京へのこだわり

私は東京で生まれ育ち、大学を卒業するまで東京の実家で父母、妹と暮らしていました。卒業後、現在の会社に入社しましたが、なぜか配属は名古屋でした。それを知った時には驚きましたが、親元を離れたことがなかった私は一人で暮らすことにちょっとした期待もあったし、そう何年もしないうちに東京に戻れるだろうと甘く考えていたので、そんなに嫌ではありませんでした。

しかし、そのまま時は過ぎ、私は今年、勤続20年を名古屋で迎えました。初めの何年かはいずれ東京に帰れるだろうと安易に考えていましたが、年を重ねるに連れ、このままずっと名古屋にいることになるかもしれないという、不安ともあきらめとも言える心境になっていきました。

名古屋は非常に住みよい町なのですが、私の仕事は、やはり東京あってのもの。会社の中枢で働きたいという気持ちは出身地に関わらず若者は持つようですし、そのくらいの意気込みがなければ会社としても雇っておきたくないでしょう。増して私は東京出身。入社4年目の時に父が死に、その数年後に妹が嫁いで東京を離れ、母一人が家を守ることになったとあっては、長男の私としては責任を感じざるを得ません。しかし、会社は個人の思うようになるところではありません。これは私の苦悩の一つでした。

入社してちょうど10年くらい経った頃、私は高橋信次の本、その後でシルバー・バーチの霊訓に出会いました。霊的真理を知り、私の苦悩は大分癒されました。名古屋に来たのは自分にとって必要なことだったのだと思えるようになりました。それまでは東京しか知らなかったし、ある意味、井の中の蛙でした。日本中どこへ行っても東京とそんなに変わらないだろうくらいに思っていました。名古屋は大都市ではありますが、特に私の仕事の場合は東京との差が顕著に感じられます。また、名古屋以外にも日本にはいろいろなところがあるのだという認識を以前より持てるようになりました。

考えてみれば私は名古屋に来てから結婚し、子供が生まれ、名古屋で知り合った人たちはものすごい数になっています。仕事関係は勿論多いですが、霊的なことがきっかけで深く付き合うようになった人も大勢いらっしゃいます。今回の私の人生では名古屋に来ていろいろな活動をすることが使命だったように思われます。自分が必要とされていると思えることに出会うたび、とても幸せな気持ちになれるこの頃です。

この地球上、自分の肉体がどこにあろうとそんなにこだわることではない気がします。自然の流れのままに、居るべくして居ることになったその場所で、自分のできるだけのことをして社会や人の役に立つことが大切なのではないでしょうか。

このページの最初に戻る

ゴキブリ大っ嫌い

私は、何に対しても好き嫌いをはっきりと言うことは少ないですが、ゴキブリは大っ嫌いです。まあ、あまり好きな人はいないかもしれませんが、私の場合は見ただけで背筋がゾーッとし、足がすくみます。殺すときには殺虫剤をお風呂に入っているくらいぶっかけて殺しますが、その死骸の処理も自分ではできないので誰かにやってもらいます。ゴキブリとして生まれてきてしまった魂に対しては申し訳なく思いますが、早いとこ死んで、別のものに生まれ変わってきてほしいです。

なぜゴキブリがそれほど嫌いなのか。ヘビやサソリは毒があるし、怖いけれども、ガラス越しなら見られるし、ある種、美しさも感じます。でもゴキブリは見るのも嫌です。大して形の違わないカブトムシやクワガタは大好きで、触れるし、飼ったこともあるのに、ゴキブリはできれば存在そのものを消してしまいたいほど嫌いです。何故そんなに嫌いなのか、その理由を考えてみました。

まず、汚い。聞いたところによると、ゴキブリはばい菌を相当持っているらしいです。ヘビやサソリの毒は、かまれたり刺されたりしなければ影響はないので、近づかなければ大丈夫ですし、幸い、身近にはいませんから現実離れしてるんですね。また、毒は、ばい菌と違って、なにかドラマ性と美しさも感じます。でもばい菌は汚いだけ。ゴキブリはかんだり刺したりしなくても私は絶対近づきたくないです。

次に、速い。あの速さは生まれながらにして嫌われ、逃げることを前提としているからこそ備わった機能のように感じられます。予想を上回る逃げ足の速さ、取り逃がした後の悔しさ、おまけに飛んだりするのですから、嫌われるために生まれてきたとしか思えません。カブトムシなど、好かれる虫は動きもゆっくりで、つい応援したくなってしまいます。

そして、ずうずうしい。ゴキブリはちょっとの隙間から人間の家に入り込み、台所で餌をあさったりします。人間なら完全に泥棒で、家宅侵入罪でつかまります。予想もしないところに突然出現して人を驚かせ、一家団欒をパニックに陥れます。虫といえどもそんなことが許されていいものでしょうか。

まあ、ゴキブリも、人間に嫌悪感というものを如実に感じさせるために存在しているのかもしれませんね。霊界が用意したものに無駄なものはないはずですから。

このページの最初に戻る

運動コンプレックス

私は運動が苦手です。運動神経は皆無。球技も格闘技もまるでだめ。瞬発力も持久力もありません。スポーツをテレビで見るのは好きなんですが、自分でやることは考えられません。小学校や中学で、運動ができないのはすごいコンプレックスなんですよね。草野球に入れてもらっても、チームの足を引っ張るばかり。ボールはバットに当たったことがない、フライは取れたためしがない。運動のできる子はうらやましいなあといつも思っていました。

大学時代は、逞しい体に憧れてウェイトトレーニング部なるところに入りました。バーベルなどを使った、いわゆるボディビルですが、ボールを扱うわけでも相手がいるわけでもないので、私でもなんとかやれました。スタミナはないのでつらかったけれども、体型はみるみる変化し、体は丈夫になりました。これは根本的な体質改善になったようで、もう、やめて20年になりますが、驚くべきことに、それ以来、風邪はほとんどひいた記憶がありません。また、ピークに比べれば筋肉は大分細くなったし、力も落ちましたが、体型はそれなりに維持されているようです。年より大分若く見られるのは、その影響があるのかな。

最近は柔軟体操くらいしかやっていませんが、それでも一応、健康は保っています。40過ぎて思うのですが、やはり健康なのが一番。運動神経は鈍くても、体が丈夫でよかったと、最近つくづく思います。生まれながらに体が不自由だったり、不可抗力で病気や怪我をしてしまった人は、そういう経験をすることが必要だったと割り切るしかないですが、人間は、自分でカバーできる範囲では健康を保てるよう努力すべきでしょう。

運動ができないことにずっと劣等感を持っていた私ですが、最近では、運動ができなくてよかったと思ったりしています。私はいわゆるオタクで、できるだけうちにいたい人。とにかく、休日でもやりたいことが山ほどあり、とても時間が足りないのです。パソコンに向かっているだけでもかなりの時間を必要としますし、趣味もいろいろあるので、この上、スポーツまでしたいとなったら、欲求不満になってしまうでしょう。

人それぞれ、得手不得手はあるものです。できないことに劣等感を持って生きるより、できることに前向きに取り組んで行くことが大切なようですね。

このページの最初に戻る

酒の効用

私はよく、酒を飲みに行きます。週に2、3日は行っています。会社の仲間、仕事関係の人、休日は家の近所の人ともちょくちょく行きます。長年の間に、飲み仲間は友だちから友だちへ広がって、かなりたくさんの人とお付き合いさせてもらうようになりました。特別、値段の高い店に行くわけではないけれども、たいてい1軒では終わらないので金もかかりますが、私にとって、酒の付き合いで生まれた人間関係、そこで得た経験や情報はかなり重要なものになっています。

体質的に酒を受け付けない人はたくさんいるし、そういう人にはまた違った生活があるでしょうから、酒が誰の人生にも必要不可欠であるとは思いませんが、飲める人は酒をうまく利用して人間関係を深めるのも、有意義なことではないかと思います。

酒を飲むと、何か思いついてから、それを口にするまでの時間がしらふの時より短くなります。私のように口べたで、普段、つい話すタイミングを逸してしまうような人間には、酒は積極的に話すよう後押ししてくれます。ただ、酒が入ると、笑う、泣く、怒るなどの感情も出やすくなるので、いい方向に向けばいいのですが、場合によっては気まずい雰囲気になったり、後悔するようなこともあります。でも、しらふの時にはわからない、人の性格や考えが見えるので、ありのままのお互いをよく知ることができます。

私は酒そのものを飲まずにはいられないという体ではないし、憂さ晴らしのやけ酒は飲みません。問題は酒を飲んでも解決しませんからね。飲み過ぎることはよくないでしょうが、今のところ、それなりに健康は維持できているようなので、一緒に飲みたいと言ってくださる方がいる限りは、これからもできるだけお付き合いさせていただこうと思っています。やはり、この世では人との関わりの中から得るものが多いですから。

このページの最初に戻る

りゅうじん式ダイエット

世の女性たちは、痩せたいと思っている人が多いようですね。人それぞれ持って生まれた体型というのもあるだろうし、健康でいられるなら、無理に痩せることもないと思うのですが、死にそうになってまで頑張ってる人もいる。

私は男ですが、現在、身長183センチ、73キロくらいで、まあ太っても痩せてもいないかな。でも、私も実は太りやすい体質で、ボディビルなんかやっていた大学時代は、100キロ超えたこともあるんです。で、今なぜ普通かっていうと、私なりのダイエットのやり方があるんですね。医学的なことは知りませんから、真似して失敗しても責任は持ちませんけど。

まず、食べるということを考えてみる。食べ物は生き物ですから、自分を生かすために犠牲になってくれてるってことですね。だからなるべく食べないようにすれば尊い命を奪わなくてすむ。本当は動物なんか食べちゃかわいそうだと思います。自分で殺さなきゃならないんだったら、多分食べないでしょう。でもベジタリアンではないし、付き合いもあるから食べてますが、少なくとも積極的には食べないし、食べ過ぎないように気をつけています。動物を食べる時はごめんね、ありがとうと思いましょう。

食事する時は、とにかく食べ過ぎないようにする。このくらいで次の食事までもつかなというところでやめておく。胃袋が小さくなってくると、そんなに食べなくても平気になります。習慣になってしまえばこっちのものです。継続は力なり。続けるということは、大きな成果を生みます。悪いことを継続すると、えらいことになりますけどね。ダイエットの基本は続けること。初めから、続けられる程度のことを考えるべきです。続けられないようなことを短期間、頑張ってみても、すぐ挫折して元に戻ってしまうでしょう。

少なくとも、後で苦しくなるような食べ方はやめましょう。私は特に夕食は気をつけています。寝るときにおなかが苦しいなんていう状態は避けるべきです。お酒を飲みに行った帰りのラーメンなんかも、習慣にすると確実に太ります。夜、控えめにすると、朝食がおいしいんですよね。朝と昼はちゃんと食べた方がいいと思います。

たまに付き合いなどで、たくさん食べなくてはならないことがあっても、1食や2食は大丈夫です。その後すぐ元に戻せれば、影響はありません。精神面と肉体面でしっかりした習慣を身に付けておけば、少しの過ちなど恐るるに足りません。

また、我慢すればいいというものではありません。もちろん栄養面の問題もあると思いますが、無理のあることは、一時的にはよく見えても、いい結果を生まないでしょう。釈迦が苦しい断食修行の末に悟った真理は「中道の精神」でした。もう限界という時に、どこからともなく流れてきた琴の音色を聴いた釈迦は、「琴の弦は強く張りすぎても弱すぎてもいい音は出ない。丁度よい強さに張った時、いい音が出るのだ」と気づきました。極端なことをしようとしても無理が出る、何事も適度にすることが大切という真理ですね。

このページの最初に戻る

トップページへ戻る