お金のいらない国

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ふと気がつくと、私は見知らぬ町に立っていた。ビルが立ち並び、車が行き交い、大勢の人々が歩いているその町は、一見、私が住んでいる町に似ていた。しかし、確かに私の町ではなかった。空は青く、空気は澄んでいた。建物も車もどことなく私の知っているものとは違っていた。また、その町にはさまざまな人種がいるようだった。でも不思議なことに言葉は誰とでも通じるらしく、皆、楽しそうに語り合っていた。暫く呆然と立っていた私の側に、一人の日本人らしき人が近づいて来て私に話しかけた。
「ようこそ。お待ちしておりました」
ダークスーツをさり気なく着こなしたその人は、四十代半ばくらいの品のいい紳士だった。しかし誰なのか、私は全く覚えがない。戸惑っていた私に、彼は言った。
「どうぞ私について来てください」
さっぱり訳が分からなかったが、とても悪い人には見えなかったので、私は彼の後について歩きだした。そこは、やはり私の町とは違っていた。すべてのものが美しい。決して絢爛豪華というのではない。どちらかといえばその逆で、建物も車も非常にシンプル。しかし、機能美というのか、まったく無駄のない、とても好感の持てるデザインがされていた。町並みに見とれながら少し歩くと、彼は一軒の喫茶店らしき所に入った。広くはないが小綺麗な店で、わたしたちが席につくなり、ウェイトレスがメニューを持って来て言った。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょうか」
そのウェイトレスは可愛らしい顔をした黒人女性だったが、日本語が話せるらしかった。紳士は私にメニューを渡し、何を注文するか聞いた。私は何も見ず、とっさに
「あ、コ、コーヒーを…」
と言った。紳士はウェイトレスにメニューを返しながら
「コーヒーをふたつください」
と言った。その丁寧な注文の仕方が、妙に私の耳に心地良かった。
「かしこまりました」
ウェイトレスは、にっこり笑って厨房の方へ去って行った。
少し沈黙があってから、私は紳士に聞いてみた。
「あのう…」
紳士は微笑んでいる。
「ここはどこなんでしょうか」
紳士は暫く黙っていたが、やがて言った。
「さあ、どこでしょう…」
「は」
私は唖然としてしまった。こいつ、人のよさそうな顔をして、私をからかうつもりなんだろうか。だいたい、何のために私をここへ連れてきたんだ。私は質問を変えてみた。
「あなたはどなたですか。私のことをご存じなんですか」
紳士は微笑んで言った。
「いずれ、お分かりになると思いますよ。悪いようにはいたしませんから、今は私について来てください」
私は全く納得がいかなかったが、見知らぬ町に一人で放り出されても仕方がないので、ひとまずこの紳士の言う通りにしようと思った。やがてコーヒーが運ばれてきて、私たちは黙って飲んだ。紳士は相変わらず微笑んでいた。私はさっぱり訳が分からなかった。でも、コーヒーはとてもうまかった。暫くして紳士が言った。
「じゃ、そろそろ行きましょうか」
どこへ行くんだか知らないが、私はうなずいて席を立った。紳士はそのまま店を出ようとした。私は驚いた。私にコーヒー代を払わせるつもりだろうか。どうしたらいいかわからないまま、私も紳士の後に続いて店を出てしまった。さっきのウェイトレスが呼び止めると思ったのに、彼女はにっこり笑って私たちを見ている。おまけに彼女はこう言ったのだ。
「ありがとうございました。またお越しください」
紳士はスタスタと歩き出している。私は瞬間的に考えた。そうか、あの店はこの紳士の行きつけで、きっとコーヒーチケットを預けてあるに違いない。私は、なあんだと思った。しかし、見ず知らずの人におごってもらうのも悪いなと思い、お金はとらないだろうとは思ったが、一応、聞いてみることにした。
「あのう、いくらでした」
紳士は驚いたような顔で私を見た。
「いくらって、何がですか」
「え、あの、コーヒーですよ。今、飲んだ」
「はあ」
「いや、ちゃんと割ってくださいよ。悪いですよ」
紳士は不思議そうな顔をして言った。
「割るって何を割るんですか」
私は少しイラッとした。こいつ、やっぱり私をからかってるんだな。ああ、さっきちゃんとメニューを見ておけばよかった。私はきっぱり言った。
「コーヒー代ですよ。お金払いますから値段教えてください」
「おかね?…ねだん?…なんですか、それ」
私は呆れてしまった。こいつ、一体どこまでとぼけるつもりなんだ。ほんとにふざけた野郎だ。でもまあ、いいか。おごってくれるというのなら、私が損するわけでもないし。

暫く歩くと紳士は、今度は大会社という感じの大きなビルに入って行った。私は、ただ黙って後をついて行った。ビルの中では何人かの人にすれ違ったが、皆、紳士に丁寧に挨拶をし、紳士もそれに丁寧に応えていた。私は思った。そうか、どうも貫禄があると思ったら、この紳士はきっとこの会社の偉いさんなんだ。それも、社員たちに好かれている重役といったところか。いや、もしかしたら社長かもしれない。それならそうと早く言ってくれればいいのに。コーヒー代なんかでガタガタ言うんじゃなかった。私は妙に納得してしまい、いい人と知り合いになったかもしれないと思った。

紳士は一つのドアの前で立ち止まった。側にあったベンチで私に少し待っているように言い、彼はドアの中に入って行った。社長室のドアにしては、ちょっとちゃちだなと思ったが、私は見た目より座り心地のいいベンチで、彼が出てくるのを待った。

暫くしてドアが開いた。でも出てきたのは紳士ではなく、掃除のおじさんだった。私は、なあんだと思ったが、そのおじさんをもう一度よく見てわが目を疑った。
「お待たせしました」
それは間違いなく紳士だった。紳士は作業服に手袋をし、電気掃除機らしき機械を引きずって私の前に現れたのだ。目を丸くしている私に彼は言った。
「どうされました。何か変ですか」
私は暫く声が出なかったが、やっとのことで口を開いた。
「あ、の、掃除が…お仕事なんですか」
紳士は自信に満ちた表情で言った。
「そうですよ。私はこのビルの清掃を、もう長いことやらせてもらっています」
私は拍子抜けがしてしまった。てっきり、金持ちの社長か重役と友だちになれたと思っていたのに…。私は、正直言ってとてもがっかりした。紳士は掃除機のスイッチを入れて仕事を始めた。すごく高性能の掃除機らしく、何の音もしなかった。紳士は言った。
「できれば町をご案内してさしあげたいのですが、私はこれから暫くここで仕事をしなければなりません。申し訳ありませんが、お一人で散歩でもなさって来ていただけませんか。いえ、心配はいりません。この町の人たちは皆とても親切ですから、わからないことがあったら誰にでも遠慮なく聞いてください。散歩に飽きたら、ここに戻って来てください。私はあなたが戻って来られるまで、ここで仕事をしております」

私は一人でビルの外に出た。町は相変わらず美しく、活気があった。妙な所に来てしまったものだ。一体、ここはどこなのだろう。私は暫く町を行く人々を眺めていた。ほんとにいろんな人種がいる。白人も黒人も黄色人種も。でも皆とても仲がよさそうで、楽しそうに話したり、笑ったりしている。それを見ているだけで、私は何だかとても嬉しい気分になってきた。どこだか知らないけど、いい所だな。少なくとも日本ではなさそうだ。いろんな人種がいるところを見るとアメリカかな。でもアメリカにこんな平和で美しい都市があったんだろうか。私は思い切って、ちょうど目の前を通りかかったキャリアウーマン風の美しい白人女性に声をかけてみた。
「あの、ちょっとお尋ねしますが、ここはどこなんでしょうか」
その女性はにっこり笑って私を見つめた。私は(しまった)と思った。日本語で話しかけてしまった。私はどぎまぎして、ええと、英語ではなんて言えばよかったっけなんて考えていると、その女性が突然口を開いた。
「ふふ、どこなんでしょうね」
キャリアウーマンは、にこやかに笑いながら、足早に去って行った。私は呆気にとられた。なんてやつだ。日本語を喋ったと思ったら、私をからかって行ってしまった。あの紳士といい、キャリアウーマンといい、人の良さそうな顔をして何を考えているんだ。

私は、どうも納得がいかないまま町を歩き出した。そうだ、地図を調べてみよう。私はこれは名案だと思い、たまたまあった書店に入った。しかし、私の期待は見事に裏切られた。確かに地図はあった。それもちゃんと日本語で書いてあったので私にも読めた。この町が、国というべきか、とてつもなく広いこともわかった。しかし、肝心の、地球上のどこに位置するのかが、どこにも書いてないのだ。私の頭は混乱した。こんな馬鹿なことってあるか。こんなでかい国なのに、私はその存在を今の今まで知らなかった。学校の地理でも習わなかった。一体、ここはどこなんだ。ひょっとして地球ではないのか。そんな馬鹿な。地球以外に人の住んでいる星が見つかったなんて話、まだ聞いてないぞ。

私は、ふらふらと書店を出た。何がなんだかわからなかった。呆然と少し歩き、ふと見ると一軒のレストランがあった。こぢんまりとした、入りやすい感じの店だった。私は急に空腹を覚えた。ま、とりあえず飯でも食って、それからまた考えるとするか。私は店のドアを開け、中に入った。人気のある店らしく、結構混んでいた。私はウェイトレスに案内されてテーブルにつき、受け取ったメニューを広げた。家庭料理風の、うまそうな料理の写真がたくさん並んでいた。私はつい、ウキウキと迷っていたが、あることに気付いてはっとした。値段が書いてないのだ。しまった。もしかしたらこの店、すごく高いのかもしれない。そういえば、このテーブルやイスもさりげなくいいものを使ってるみたいだし。困ったなあ、あんまり持ち合わせがないんだ。今から出るわけにもいかないしなあ。足りるかなあ。まあ、いいか。そう言えば、この国で日本円が使えるとも思えないし。最悪、店の人に頼んで待ってもらって、あの紳士にお金を貸してもらおう。私は恐る恐るあまり高そうでないものを選んでウェイトレスに注文した。ウェイトレスはにっこり笑って奥へ引っ込み、間もなく料理を運んできた。目の前に料理が置かれるやいなや、私は値段のことも忘れて夢中で食べた。腹も減ってはいたが、とにかくすごくうまいのだ。

きっと、相当がつがつ食べていたのだろう。食べ終わってから、隣のテーブルの白人と黒人の学生風の女の子二人連れがくすくす笑っているのに気付いた。照れくさかったので私はそそくさと席を立った。
さあ、いよいよ問題の一瞬がやって来る。果たしていくら請求されるんだろうか。私は店の出口の方へ向かい、レジを探した。しかし、レジは見当たらない。仕方がないのでもう一度、中へ戻り、ウェイトレスを呼び止めた。
「あの…」
「はい、何でしょうか」
東洋系の、愛嬌のある顔をしたウェイトレスは、愛想良く日本語で答えた。
「レジはどこですか」
ウェイトレスは、きょとんとしている。店は結構話し声がしているので、よく聞こえなかったのかなと思い、私はもう一度ゆっくりと繰り返して聞いた。
「レジは、どこですか」
彼女は困ったような顔をして小声で言った。
「あの、すいません。ここにはそういう物、置いてないんですけど」
私は呆れた。こいつまで私をからかうつもりなのか。一体、この国のやつらは何を考えているんだ。よそ者をからかって、そんなにおもしろいのか。私は黙ってウェイトレスをにらみつけた。彼女はすまなそうに、うつむいてしまった。私はちょっとかわいそうな気がして、なるべく優しい口調で聞いてみた。
「私が食べた料理の値段を知りたいんです。お金を払いますから。教えてくれないとこのまま帰ってしまいますけど、いいですか」
ウェイトレスは顔を上げ、不思議そうに言った。
「あのう、お食事がお済みでしたら、お帰りになっていただいてかまわないのですけれど。もっと何かお召し上がりになるのでしたら、ご注文くださればお出ししますが…」
ウェイトレスの表情は真剣だった。とてもふざけているとは思えない。私の頭は混乱した。ひょっとしたら本当にタダなのだろうか。ここは、何かボランティアでもやってる店なのか。でも、来てる客はそんな、生活に困っているふうにはとても見えない。全く訳がわからなかったが、私はとりあえずウェイトレスに、にっこり笑って右手をちょっと上げて挨拶し、店を出てみた。彼女もにっこり笑って見送ってくれた。後は追って来ない。

私は狐につままれたような気持ちで、また町を歩き出した。ほんとにタダだった。だとすると、あの紳士と飲んだコーヒーも、やはりタダだったのかもしれない。なぜだ。なぜ、タダでやっていけるんだ。その時、私の脳裏に無謀な仮説が浮かんだ。(ひょっとしたら、この国のものはみんなタダなのかもしれない)我ながらとっても無謀な考えだと思った。後でそのシステムを理論づけることなど、自分にはできっこないという妙な自信まで持ってしまった。そんな馬鹿なこと、すべてタダで世の中が成り立つはずはないんだ。

ふと見ると、大きなスーパーマーケットがあった。私は、よし、ここに入ってみようと思った。ここで何か買ってみれば、はっきりするだろう。スーパーがタダでやっていけるはずがない。物を売らなきゃ商売にならないんだから。店に入ると私はまず、レジを探した。あった、あった。大きなスーパーだけあって、出口のほうに向かってレジがズラーッと並び、どれにもお客の長い行列ができていた。店員はそれぞれのレジに二人ずつ付き、忙しそうに機械を操作しながら商品を客に手渡していた。私は何となくホッとして、カゴをひとつ取り、そこら辺のものを適当に放り込んで、行列の最後についた。もう、自分のお金の持ち合わせがないことなど気にしていなかった。何だか妙な安心感があった。これでいいんだ。こうでなきゃ変だ。列は次第に進んで、だんだん私の順番が近くなってきた。ふと、私はレジの店員とお客を見た。一人の店員は、カゴから出した商品を一つずつ機械でチェックしていた。もう一人は、チェックの済んだ商品を手提げ袋に入れ、客に渡していた。そして客は、そのまま袋を持って店から出て行った…。私の頭は真っ白になった。カゴを放りだし、列をはずれて店を飛び出した。

どうやってたどり着いたか覚えていない。気がつくと私は、あの紳士と別れた大きなビルの前にいた。ビルの中に入ると、丁度そこで紳士はまだ掃除をしていた。
「やあ、どうでしたか、町は。皆、親切だったでしょう」
私は何と答えたものか、声が出なかった。
「おやおや。少しお疲れのようですね。ちょっと待っていてください。もうすぐ仕事が終わります。そうしたら、お休みになっていただけるところへお連れしますから」
今度は一体どこへ連れて行くというのだ。もう、どうにでもなれ。私は疲れとあきらめで眠気を催し、近くにあった椅子に座って少しウトウトしてしまった。

気がつくと目の前に、スーツに着替えた紳士が立っていた。
「お待たせしました。さあ、いい所へお連れしますよ」
私はどこへ行くのか聞く気にもならず、黙って紳士の後について行った。外に出た紳士は歩道の一角にある階段で地下に降りた。そこは地下鉄の入り口だった。駅員はいたが、案の定、改札はなかった。私はもう、考える気力も失せていた。間もなくホームに電車が入ってきた。とても静かな電車で、乗ると邪魔にならないくらいの音量でBGMが流れていた。その音楽がとても心地よく、私の疲れを少しいやした。

いくつくらい駅を過ぎたろうか。紳士はある駅で電車を降りた。勿論、私も後に続いた。地上へ出てみて驚いた。電車にはそんなに長いこと乗っていたつもりもないのに、目の前には先程の大都会とは打って変わって、閑静な住宅街が広がっていた。豪邸という程でもないが、きれいな家が適度な間隔を置いて立ち並び、どの家もそこそこ広そうだった。もう、すっかり日は暮れていたが、きちんと整備された街灯が道や家々を美しく照らし出し、家の窓からは柔らかい光が漏れていた。

紳士は一軒の家の前で立ち止まった。私は(ここがこの人の家なのか。いい所に連れて行くと言ってたが、自分の家に招待するってことだったのだな)と思った。紳士はドアを開けた。玄関のライトが自然についた。紳士は私に言った。
「さあどうぞ、お入りください」
私は玄関に立った。とても雰囲気のいい家だと思った。結構、天井が高く、壁に掛けてある絵も、私の趣味に合っていた。紳士は一つの部屋のドアを開け、私を招き入れた。部屋の中に入って私は仰天した。外から見て想像したより、部屋はずっと広かったのだ。そこはリビングルームだったが、かなりのスペースの真ん中に、数人が掛けられる、ゆったりとした座り心地の良さそうなソファとテーブルが置いてあった。大きなリビングボードには、高級そうな酒らしきものや、変わった形のグラスも並んでいた。しかし、それより私が驚いたのは、紳士がスイッチを入れると現れた、壁に仕込まれた巨大な画面のテレビのようなものだ。特殊な眼鏡をかけているわけでもないのに、明らかにそこに存在しているかのような映像が、次々と大迫力で展開されていた。私が知っている立体映像とは、比べものにならなかった。
紳士は、呆気にとられている私を、にこにこしながら見ていた。
「いかがです。なかなか面白いでしょう」
「す、すばらしいですね」
紳士はさり気なく言った。
「今日からここが、あなたのうちですよ」
「は」
私は変な声を出してしまった。なんだ、なんだ。こいつ、私と一緒に住もうってのか。妙に親切だと思ったら、そういうことだったのか。いやだ、いやだ、ぜーったい、いやだ。そんな目に合うくらいなら死んだほうがましだ!真っ青になっている私に、紳士は言った。
「いや、勘違いなさらないでください。私の家はちゃんと別にあります。ここはあなた一人のためにご用意した家ですから、安心なさってください」
私は声が出なかった。(何だって。私のために用意しただって。なんで私が来るのが分かったんだ。こんなすごい家、誰がどうやって貸してくれたというんだ)
この不思議なことの連続、もう完全に私の理解の範ちゅうは越えた。何を考えても無駄だと思った。これ以上考えたら、気が狂うしかないだろう。紳士は言った。
「ここに住んでいただけますよね。まあまあの家だとは思うんですが」
私は声が出せず、口を開いたまま、ただうなずいた。
紳士は安心したようににっこり笑い、他の部屋も案内してくれた。とにかくすごい家だった。考えることを放棄していなければ、私の頭は爆発してしまっていただろう。

ひと通り部屋を回り終えると、私たちはリビングルームに戻った。紳士は私に断ってから、リビングボードに並んでいた酒らしきボトルのうちの1本と、グラスを2つ出して来て、飲み物を作ってくれた。大きなソファに座って私たちは乾杯した。その飲み物は私の知っている酒の類とは少し違っていた。決して甘くはないが飲みやすく、何とも言えず良い香りがして、体に心地いい。いくら飲んでも悪酔いしそうもないという代物だった。

私は暫くぼうっとして、ただグラスの中のものを飲んでいた。紳士は、相変わらず微笑みを浮かべたまま私を見守っている。やがて、私の脳裏にふつふつと素朴な疑問が湧き上がってきた。この家に来てからのことなど言い出したらきりがないので、私の防衛本能のためか聞く気も起こらなくなっていたが、私はどうしても、あのお金を取らなかったレストランやスーパーのことが気になって仕方がなかった。私は、恐る恐る聞いてみた。
「あのう、この国にはお金というものはないんでしょうか」
紳士は不思議そうに聞き返した。
「おかね…ですか。確か、前にもあなたは私にそういう言葉を言われましたね」
紳士は少し間を置いてから私に言った。
「少なくとも私は、お金というものは知りませんし、聞いたこともありません。それは一体、どんな物なのですか」
一応、予想していた答えではあったが、やはりこう、面と向かってはっきり言われると、ショックだった。私は、ズボンのポケットから財布を取りだし、中に入っていた紙幣数枚と、硬貨をジャラジャラ出して、テーブルの上に並べた。
紳士はそれらを興味深そうに手に取り、暫く眺めていたが、やがて言った。
「この汚れた紙きれと金属の破片が、一体どういう役に立つのですか」
私は返答に困った。お金の存在しない社会に暮らしている人に、一体なんと説明すればいいのだろう。とにかく一言では無理だ。私は思いつくまま話してみることにした。
「私たちの国では、何か仕事をすると、このお金というものがもらえるんです。そして、物にはみな値段というのが付いていて、お店で何かを買ったり、物を食べたりすると必ずその値段分のお金を払うことになっています。あの、買うというのはお金と引き替えに物を受け取ることなんですが、とにかく何をするにしてもお金がいるんです。お金がなければ生きていけないんですよ」
紳士は興味ありげに私の話を聞いていた。私は続けた。
「皆、自分が働いて稼いだお金を使って生活するんですよ。だから、いっぱい仕事をした人はいっぱいお金をもらって豊かな暮らしができるんです。まあ、かなり不公平もありますし、働かないで儲けるずるい人もいますが…。皆、自分が儲けたお金の範囲内で生活するようになっているんですよ。だから、お金はどうしても必要なんです」
ここで紳士が口をはさんだ。
「要するにあなたの国では、お金というものがないと、人々が欲望をコントロールできないというわけですか」
私は言葉に詰まった。確かにその通りかも知れない。でも私は反論したくなった。
「まあ、そうかも知れませんが、でも、お金を払わなくても何でも手に入るのなら、もう、仕事をしなくてもいいじゃないですか。毎日遊んで暮らせば…」
「皆が遊んでばかりいたら、何も手に入らなくなってしまいますよ。物を作る人も、与える人もいなくなるわけですから」
「でも、そういう人もいるのではないですか。働かなくても生活できるのなら、自分一人くらい遊んでいてもいいだろうと思う人が」
「この国にはそういう人は居りませんし、この国に、そういう人は住めないようになっております。それにあなたは、そのお金というものと働くということを堅く結びつけて考え過ぎている気がします。仕事は社会への奉仕ですから、世のため、人のため、ひいては自分のために、皆で働かなければ世の中は回っていきません。あなたの言うお金がもらえなくてもです。そしてあなたが生活に必要なものはお金など払わなくても、社会から奉仕してもらえばいいのです。事実、この国はそういうシステムになっております」
私は何となく分かったような気もしたが、さらに反論を続けた。
「お金はね、あるとためておくことができるんですよ。働いても使わずに貯金…ちょきんというのはお金をためておくことなんですが、貯金しておけば、後で必要な時にいつでもおろして使えるんです。たくさんためると贅沢ができます。だから楽しいんですよ」
「ぜいたくって何ですか」
「え、ええと…自分が欲しい物は何でも買ったり、美味しいものをたくさん食べたり…」
「この国では、欲しいと思ったものは、すぐにでも手に入れることができますよ」
「ただ欲しいくらいの物を手に入れたって、贅沢とは言えないんです。もう自分には必要ないくらいたくさんの物とか、値段のすっごく高い物とか…」
紳士は、ぷっと吹き出した。
「そんな、自分が必要もないほどの物を手に入れて何が面白いんですか。それに、そんなとりとめもない欲望を追っていたってきりがないでしょう」
確かにそうだと思った。しかし、負けてはいられない。
「でも、貯金しておくと、年とって働けなくなっても安心でしょう」
「この国では、働けない体の人には、みな喜んで何でも差し上げますよ。あなたの国ではそういう人でもお金というものを持っていなければ、何も手に入れられないのですか」
私は、自分の国では年金が…などというケチくさい話、とても言い出せなかった。なんだか自分のいた世界がとっても情けないところのように思えてきた。だんだん苦しまぎれになるのはわかっていたが、私はまだ抵抗を続けた。
「泥棒はいないんですか、泥棒は。人の物を取っていく奴です。お金は…ないからいいとしても、ほら、あなたの持ち物とか盗んでく奴」
「勿論、そんな人はいませんが、たとえいたとしても私の持ち物など取ってどうしようというのですか。大抵の物はお店で新品が手に入るのですよ。私が手で作ったものを欲しいと言われるのなら、差し上げられるものは差し上げますし…」
私はもう、何と言ったらいいか分からなくて、混乱してしまった。
「だけど、私の仕事だってね、見積りを書いたり、支払いの手続きをしたり、お金に関することがすごく多いんですよ。それに、そうだ。銀行や保険会社はどうなっちゃうんですか。お金がなかったら仕事がなくなっちゃうじゃないですか」
「ちょっと待ってください。よく分からない単語がたくさん出てきましたが、あなたの言いたいことは何となく分かりました。要するに、そのお金というものに関連して生まれる業務、あるいは直接お金を扱う仕事に携わっている人は、お金がなかったとしたら、仕事がなくなってしまうではないかということですね」
私は黙ってうなずいた。なんだか自分が子供みたいで、ちょっと恥ずかしかった。
「私の想像では、あなたの国は、そのお金というものを動かさなければならないために、ものすごい時間と労力のロスをしている気がします。言い換えれば、不必要なもののために、無駄な仕事を増やしているということです」
「でも、私の国ではお金がなければ社会が回っていかないんですよ」
「それは分かります。でも、あなたの国でもこの紙きれや金属を食べたり、直接何かに使ったりしている人はいないわけでしょう。要するにこのお金というものは、物の価値を皆が共通して認識するための物差しでしかないわけです。ですから、例えば今あなたの国で、このお金が一斉にパッと消えてしまったとしても、皆そのまま仕事を続けていけば世の中は回っていくはずなのですよ。それに、ちょっと想像してみてください。あなたの国の、お金を扱う仕事に携わっている人が、その業務から一切解放された時のことを。そして、お金を動かすために使っていた時間や労力をもっと世の中のためになる仕事に向けたら…いや、勿論お金の存在する社会においては、そういう仕事が大切なのは分かるんですが、もしそうしたら、ずっとずっと社会は豊かになると思いませんか。いいですか。あなたの国では現在、お金に関わっている仕事の人が全員、その仕事をやめてしまったとしても、皆ちゃんと暮らして行けるだけの豊かさは既にあるのです。そんな、言ってみれば無駄なことに時間や労力を使っていたにも拘らず、あなたの国はやってこられたわけですから。ですから、そういう仕事にかけていた時間や労力を、もっと社会の役に立つ仕事に向ければ、あなたの国の人々の生活はもっと豊かになるはずです」
私は言葉に詰まった。だんだんそんなような気もしてきた。もし、お金というものがなくなったら、お金に関するトラブルも一切なくなるわけだ。脱税だとか、借金苦の自殺だとか、銀行強盗だとか。世の中の「金のため」という矛盾もすべてなくなる。もしかしたら、世界中の、飢えや貧困に苦しんでいる人たちも救えるのではないかという気にもになってきた。しかし、私は紳士に言った。
「でも、今、私の国でお金というものがなくなったら、うまく行くとはとても思えません。きっと誰も仕事をしなくなって、世界が破滅してしまうんじゃないかな」
紳士は笑いながら言った。
「は、は、こんな紙切れや金属の破片のために破滅してしまうなんて、面白い国ですね。まあ、それはどうだか分かりませんが、確かに今すぐは無理でしょうね。私が思うには、あなた方は、まだそこまで魂が進化していません。でも、いずれ私たちのような国が作れるかも知れませんよ。気が遠くなる程、先の話でしょうけれど」
私はもう言葉が出なかった。話のレベルが違い過ぎると思った。紳士はさらに続けた。
「多分、そのお金というものを得ることが仕事の目的だと皆が思っているうちは、あなたの国の、真の意味での進歩はないでしょうね。仕事の目的は世の中の役に立つことです。報酬ではありません。報酬を目的にしていると、必ずどこかに歪みが生じてきます。自分の行なった仕事以上の報酬を得ようとしたり、必要のない仕事を無理に作って、自分の利益だけは確保しようとする動きが出てくるでしょう。そうなると、完全な競争社会になります。それもお互いの向上を目的としたものではない、単なる足の引っ張り合いになるはずです」
私は、紳士の言っていることが、あまりにも自分の国の状態とぴったりなので、驚きを通り越して恐怖を覚えた。紳士は最後にこう言った。
「あなたの今やっている仕事が、本当に価値のあるものかどうかを判断する、簡単な方法をお教えしましょう。仮に、社会からお金というものがなくなり、その仕事によって報酬を得られないとしても、自分がその仕事をすべきだと思うかどうかです」

紳士は私に、自分の連絡先を書いたメモを渡し、礼を言って出て行った。自分の家に帰ったのだろう。私の脳味噌は思考することをあきらめてしまったのか、妙にスッキリして心地よかった。私は体が溶けてしまいそうに寝心地の良いベッドにひっくり返ってぼうっとしていた。全く不思議な所に来てしまったものだ。なぜ来たのか見当もつかないが、居心地は悪くないから、とりあえず帰れるまでのんびりするか。さて、明日からどうしようかな。まあ、何でもタダだし生活には困らないわけだから、観光でもして遊んでようか。でも、そんなことしていたら紳士に怒られるかな。うつらうつらしながら考えているうちに、私は眠ってしまったらしい。

結局、他にすることも思いつかなかったので、翌日から私の贅沢旅行が始まった。

(出版に伴い、ホームページ上での掲載はここまでとさせていただきます。)

あとがき

私はこの物語をつくるに当たり、主人公の行く先を『あの世』にするか、地球の未来に出来るかもしれない『ユートピア』にするかで迷いました。しかし、結果的には、その二つが融合したような世界にせざるを得ませんでした。なぜかと言いますと、『あの世』は、私が行ったわけではないので正確に描写することは不可能であり、昼夜の別や時間の経過を表わすには、どうしても『この世』的表現が必要になりました。また、地球の未来の『ユートピア』にするとなると、どこかに西暦ウン万年、あるいは現在の地球のどこそこみたいな表現を入れなくてはならなくなり、妙に嘘臭くなってしまいます。そんな訳で、都合よく二つが組み合わさったような世界にしたのです。ですから、最後に使った『天国』という言葉は、私としては、そんな二重の意味を込めたつもりです。

私がこの物語で言いたかったのは、皆が、あって当たり前、あるいは、なくては社会が成立しないと思っているお金というものの存在価値、それに関連する、仕事というものの持っている意味、また、日々の生活態度そのものを、私を含めてもう一度考え直してみようではないかということです。お節介と思われる方は、出来の悪いSF小説として読み流して頂けば結構ですし、とやかくいうつもりはありません。しかし私はこの物語のような世界を地球上に実現できる可能性が全くないとは思いませんし、あの世の一つにこういった世界があっても、ちっとも不思議ではないと思っています。主人公が最初に出会い、いろいろと世話を焼いてくれた紳士は、さしづめ守護霊といったところでしょうか。

最後に、ここまで読んでくださったあなたと、私にこの物語を作るヒントを与えてくださったT氏に感謝いたします。

一九九三年六月十九日

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