| 酒門共有墓地 |
徳川光圀公は寛文元年(1661年)7月父の頼房公が亡くなったので、同年の8月19日、家督を相続し、34歳にして水戸第2代藩主となる。
藩主となるや数々の施政に参画し、その偉業は広く知られ、後には水戸黄門漫遊記として、戯曲化されてしまったほどの名君である。
光圀公の施政上重要なるものの一つに、社寺改革がある。当時の水戸領内には俗悪でくだらない社寺が氾濫しており、各所に小寺が建立されていた。これらの小寺院の僧侶は、無学破戒僧であって、奸才に長じ、怪しげな祈祷を以て領民を惑わし金銭や財産を搾り取るという有様でした。
また僧侶が神社の祭事を掌り、神社に仏像を祀ることがあっても、誰も怪しむことがなかったという、神仏混合となっていました。
光圀公は、早くから神道を尊び研究をなし、これらの世情を嘆き悲しみ、理想の実現と民風改善と冗費省減を考えて、社寺改革を断行しました。
寛文5年(1665年)定府の江戸より帰国した光圀公は、社寺法令を定めると共に、社寺奉行に北河原甚五右衛門景隆と山県源七の2人を任命し、神社仏閣の由緒や僧侶や尼僧、神官等の素行調査を命じ、領内3,088カ所の社寺を整理し、小規模の寺院997カ所を取り壊し、無学破戒僧344人を還俗せしめると共に、山伏、行人にも百姓または職人、もしくは商人のいづれかに転職せしめた。
光圀公は、唯一宗源神道の精神に則り、神仏混合を分離し、僧侶が神社に奉仕することを廃し、神官をもって之に当たらせ水戸藩領内には一郷一鎮守社の制度を推進し、一郷一社の鎮守は、急度崇敬いたし、これをたておくべしと上令した。
一方領内の吉田神社や静神社には、復興の令を出し、古寺名刹の復興に力を注ぎ、名僧知識を招聘して、復興援助をし、諸宗を振興し、僧風を厳粛な気風に改めた。
光圀公は、このようにして社寺改革を断行し、水戸藩家士には葬式を僧侶の手から開放し、自由に葬ることを許し、葬祭の簡素化を図り経費の節減を指針せしむるため、文公家礼より葬祭儀略を撰び、これを編纂して家士に与えた。
寛文6年(1,666年)4月、下市に居住する家士には酒門墓所(坂戸村)を、上市に居住する家士には常磐墓所(常葉村)を開設して与えた。
| 酒門共有墓地に眠る志士 |