[偕楽園] [好文亭] [浪華梅] [水戸八景]

往時をしのぶ  
開園物語

水戸黄門で有名な水戸藩第二代藩主、徳川光圀(義公)とともに「義烈両公」として尊敬された烈公斉昭。藤田東湖や会沢正志斎といった軽格武士たちに推され第九代藩主となった。

1830(天保元)年から1844(弘化元)年5月、幕府から罷免され謹慎の身となるまで、藩政改革を実施、内外の危機に対処した。教育の振興、武備の充実、貧富の差を少なくすることを目標とした土地政策など、幕府諸般の改革に先駆けて思い切った政治を行った。この改革は、明治維新に少なからず影響を与えたと考えられている。

偕楽園は、斉昭が1833(天保4)年藩内を視察し、南に千波湖が見え、紫峰筑波山や大洗方面が遠望できる現在の地に遊園を作ることを決め、自ら造園計画を練って創設した。1841(天保12)年から造園工事を開始。翌42年に同園本園、桜山および丸山が開園した。同年には詩歌管弦の催しなどをし、家中の人々とともに心身の休養を図るため、園内に好文亭も建設した。

偕楽園の名称は、中国の古典である「孟子」の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」という一節から採ったものだという。同園は家臣や領民が自由に遊び、休息するための施設で、人としての健全育成に必要な心身の保養地とされた。前年に開館し、優秀な人材の育成を目的とした藩校弘道館とは、全く正反対の意味合いを持つ。

開園当初、斉昭が日頃最も愛好したという梅が約200種類、数千本植えられていた。現在は3000本ほどに減ったが、春になると咲き誇り、今なお訪れた人々に安らぎを与えている。


好文亭

好文亭は、梅の別名「好文木」に由来している。二層三階の好文亭と北につながる奥座敷からなり、一般に総称して好文亭と呼ばれている。三階を楽寿楼と呼び、前面に千波湖、西方はるかに筑波山が眺められる。1945年の水戸空襲により焼失したが、55年から三年かけて復元された。好文亭内部の主なところを紹介する。

奥御殿

奥御殿は入り口から向かって左側の茅葺きの平屋の建物。菊、桃、つつじ、桜、萩、紅葉、松、竹、梅、清の十室からなる。

太鼓廊下

好文亭と奥座敷をつなぐ唯一の通路で、烈公の案により、外からは窓であることが分からないように工夫されている。

御座の間

藩主が来亭したときに、用務や政務の一部をした部屋。隣接している東広縁で敬老会が開かれる際には障子を開け、集会の人々と直接話したこともあったという。

西塗縁広間

御座の間の西側に隣接し、三十六畳ほどの広さがあり、音曲の催しなどが開かれた。天井には杉皮の網代(あじろ)張りが施されている。杉戸には、八千字の韻字(いんじ)が書いてあり、漢詩などを作るときの辞書代わりにされた。

対古軒

好文亭や茶室に招かれた客の待合室にあたる。烈公の詠歌で「世を捨てて 山に入る人 山にても なお憂きときは ここに来てまし」と彫られている。これは古今和歌集にある「世を捨てて 山に入る人 山にても なお憂きときは いづち行くらむ」に答えた歌で、部屋の名前の由来になっている。

何陋庵(かろうあん)

簡素清朴な草庵風の茶室。外の長押(なげし)に烈公筆草書体で「何陋庵」の額がある。床柱には鹿児島県屋久島のツツジの古木が用いられている。

楽寿楼

好文亭の三階を楽寿楼という。どこからも眺めが最高。三部屋あり、北側の二つの小部屋は、休憩所や酒茶を賄う所。奥に階下の料理室で作ったお膳や酒肴を運搬するリフトがある。

待合い

茶室への招待客が席の準備まで控えた所で、全国的に極めて珍しい腰掛け式になっている。茶対、茶説などの額は茶道を行う者の心構えを説いた烈公自筆の書。


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