廿日市の木地屋
 廿日市木地屋の初見は寛文年間(1661〜1672)の廿日市町絵図にみられ、全国の木地屋支配をしていた蛭谷の氏子駈帳をみていくと、延宝7年(1679)に3名で稼業していた木地屋の名前がみられる。これら以外に西中国山地の吉和村(廿日市市吉和)で挽造活動をしていた木地屋の一部が、廿日市に移住して町木地屋となって廿日市の木工細工隆盛の源流となったものと思われるのである。
  廿日市は佐伯郡の中心地として繁栄し、また、広島城下にも比較的近く大きな消費地を抱えており、木地屋は木椀や木鉢などの生活用品から轆轤を使用して色々な挽物細工を工夫生産していたものとみられるのである。これらのうち傘用轆轤と廿日市十露盤の生産は廿日市の特産品として著名であったことが記録されている。。

  これら吉和村から移住した木地屋の菩提寺である洞雲寺には5基の墓碑が残されており、また、過去帳や位牌などにもこれらの木地屋の名をみることができる。
碁を入れる碁噐は小倉姓の家で昭和50年(1975)前後まで作られていた。 上平良の大原講中で使用していた講中膳のセットで明治37年(90)に作られたものである。
| 廿日市の木工 中国新聞 緑地帯掲載 木地屋の足跡を追って