呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。
鋼鉄の少女たち
というわけで、『鋼鉄の少女たち』の話になるのである。はっきり言わせてもらって。私はこの作品、ダメである。好きだし、単行本は買い続けるだろうし、このテイストでOVAなんぞ出てしまったらおそらくは絶対に限定版購入かましてしまうだろうが、ダメである。痛いのだ。痛すぎるのだ。どうもダメなのである。どうしてであろうか。
相田裕氏の「GUNSLINGER GIRL」も同様に少女達が苦難の道を歩む物語である。更に、あっちはおそらくは薬の副作用で明るい明日は来ないことははっきりしている。記憶を失い、少しずつ壊れていく少女達。(それどころか同人誌版の『外伝』(こっちが本編なのか? 先に書かれたとも聞くし)では最後、もう、ド暗のラストが待っているという話もある)
こっちはもしかしたら、史実のソ連のように侵略者を追い払ってめでたしめでたしというラストが待っている可能性は皆無ではないのだ。
しかし、ダメなのだ。
これは「GUNSLINGER GIRL」が義体というタームによって主人公達が架空の存在であるとこれはあくまでもファンタジーであると主張しているのに対して、「
鋼鉄の少女たち」も架空の歴史ではあるがそれは今より過去であり、そしておそらくモチーフは第二次世界大戦。この大戦争の中での少女達の戦い。これが痛すぎるのである。
言ってしまうならば、ファンタジーの殻が薄すぎて、オブラートの役目を果たしていないのだ。
たとえばだ。『出撃っ! 猫耳戦車隊』(伊吹秀明)のように同じ戦車と少女という取り合わせでも、『ネコ耳』。これだけで随分と違う。
ネコ耳である。ネコ耳なのだ。これでファンタジー、ばっつんばっつんである。
確かに、あれも色々と痛い描写はあったが、読者はこちら側で安逸を貪ることができる
「ふーん、ネコ耳なんだ。大変だね作者も・・・」
といった感じである。
しかし、『鋼鉄の少女たち』にはそれがない。確かに一部の少女達、エオナ中尉(そして、ダニエル殿下も)は見事なエルフ耳であるし、レタ軍曹の耳は獣耳のようである。(のわりには、ミリア一等兵や、カリン一等兵は普通の耳なのだ)
だが、文章と漫画というメディアの違いも有ってか、それはファンタジーであることを主張しきることができない。
彼女たちはどう見ても、人間の少女達なのだ。
そんな少女すら戦いに送り込まねばならない絶望的な現状。いや、将校はいい。すべて理解した上での行動だろう。しかし兵達は、『あまりもの』として戦場に送り込まれているのだ。たとえ、いかに御下劣(褒め言葉)ギャグを散りばめたところで、それは全体の悲壮感を色濃くこそすれ、薄めはしない。
更に、物語はどうしようもない事実さえも提示する。
「戦場に理性を求めることは砂漠に水を求めることよりも難しい」
これは新谷かおる氏のマンガ『砂の薔薇』のデビジョンMの隊長。薔薇のマリーの台詞だが、それがそのままこの物語によって突きつけられる。
第二章の捕虜の問題がそうである。傭兵による捕虜の虐待及び人身売買。小林原文氏のマンガならば、あのタッチの絵でそう言うことが描かれるならば、まだましだ。
しかし、しけたみがの氏の女の子達には、その事実は重すぎるのだ。
今後、物語はどうしようもない方向へ転がり落ちていくとしか思えない。そんなどうしようもない世界で彼女たちは果たしてどうなってしまうのか。決して全員が幸せな日を迎えることはないのだろう。その事が、どうにも鬱が入って仕方がないのだ。
やっぱり私は根性なしのハッピーエンド中毒。
巻末の『ぼくの考えた鋼鉄の少女設定 その1』丸山トモヒロ氏が描くところの『更迭の少女たち』。
10才以下の戦災孤児の少女兵で編成したのはいいが、あまりにもいたいけだったため、涙と鼻水で指揮官が訓示を告げられなくなり、関係者を交えての写真撮影の後、部隊は出撃することもなく解散。現在この少女たちは孤児院で平和に暮らしているという。
というネタにしみじみしてしまう根性なしなのである。(03,3,1)