呆冗記
呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。


人生激情 2
続 テロリスト

 前回に引き続き、実名サイト作成前にこの題名を使うことになるとは自分の不明を恥じるばかりなのである。やっぱり、「人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いて」いれば良かったのだが、前回、あまりの事件の大きさと、その後の日本政府の対応のあまりのまずさにあのように筆をとった。
 といっても、実名でない悲しさ。何十にもオブラートに包んで推敲を繰り返した結果、一部、誤解を生むような表現となった所がある。
 それで冴速さんから、メールをもらって飛び上がったと。そういう次第である。
 なんと、意味の取られ方が全く逆ではないか。その件について今回、追記、補足したいと思う。
 無記名書き逃げは私の望むところではないが、現在の仕事の状況その他を考えると、実名および住所表記は不可能に近い。しかし、間違いなく下記アドレスは私のものだ。ここへメールをいただければ、より深くご説明申し上げるし、また、私に明確な間違いがあれば、このサイトを借りてお詫び、訂正をさせていただきたいと思う。もしも、その過ちが致命的なものであれば、このサイトの閉鎖も吝かではない。実名は出せないがそこまで覚悟して以下のことを書かせてもらう。

E-mail to akira_uesugi@mug.biglobe.ne.jp

 だが、「どーでもいいやん。そんなこと」とここへ笑いに来られている方は以下の文章は読まれず次の莫迦話へと進んでほしい。

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 さて、前回、正規戦、不正規戦という言葉を使った。そしてテロは行為だと。まずはここから。
 戦争とは外交の一分野である。よって、戦争にはルールがあるのだ。
 そして、軍人は国を守るのが仕事だ。国。すなわち主権・国民・領域(微妙だな・・・。この順番も。民主国家ならば国民を守るのが第一かもしれないが、しかし、故意に主権を先頭に置く。それは、テロに対して妥協しないと言う考え方はここに端を発するのではないかと思うからだ。国民が国家第一という日本の現状では受け入れられない考えかもしれない。しかし、その割には日本では国民が大事にされていないような気がするのはどうしてだろう)
 この三つを守るために存在するのが軍であり、その構成員が軍人なのだ。それは戦争の相手国も同じである。軍人の立場は同じだ。正規戦とはこの軍人たちが争うのが本来の姿だったのである。このあたり傭兵たちが闊歩した中世ヨーロッパなどに於いては明確である。プロの軍人がルールに従って戦うのだ。それがやがて、常備軍となり、プロの軍人からプロの指揮官に指揮される通常人の軍隊の時代へと変化する。しかし、そうであっても彼らが戦う時代は戦争であり、戦う場所は戦場であった。宣戦布告による戦争の開始と、どちらかの降伏文書もしくは停戦文書の調印による戦争の終了。ここには戦争を行うのは軍人(終身であろうと徴兵であろうと)であり、戦争の時間と場所は明確だった。
 しかし、こんな正規戦の時代はやがて、総力戦の時代となって変質する。戦う場所は戦場だけではない。戦場に兵器や物資を送り出す後方の工業地帯の撃破は、戦場における敵軍戦力の低下を意味する。戦略爆撃の時代の始まりである。
 しかし、この戦略爆撃の最大の被害者である日本とドイツが、実はこの戦略爆撃の考案者であることは忘れてはならない。「重慶」と「ゲルニカ」。かたや零式戦闘機が華々しいデビューを飾り、かたやピカソがその惨劇を一枚の絵に託した出来事。これが全ての始まりだったのだ。
 また、産業革命以後の市民の誕生は、市民の精神の中にナショナリズムの萌芽を促した。すなわち、それまでの戦争は、王様を取られれば負け、政府が降伏してしまえば終わりであった。しかし、第一次世界大戦以降、たとえ政府が降伏し、傀儡政権となっても、軍もまた傀儡軍となっても、近代市民たる国民が、占領された国家の回復のために占領軍と戦う、という今まで予測も出来ない現象が発生したのである。
 彼らは軍人ではない。しかし、銃を持って戦う。そんな彼らとの戦いを、正規な軍人たちは不正規戦と呼び、彼らを不正規軍(ゲリラ)と読んだ。ただし、この不正規戦の銃口はあくまでも軍人に向けられるものであり、不正規であっても、彼ら武装した市民は時には武装反乱分子というくくりで処刑される可能性を背負いながら、彼らの認める戦争の時代、彼らの認める戦場で戦ったのである。
 むろん、この場合、ゲリラに組みするとして正規軍によって無関係な民間人も巻き込まれることは多々ある。しかし、この場合でも時間と場所(総力戦となってからは戦場ではなく、戦争を行っている国家の全ての場所)は限定されている。これが戦争だ。
 戦争に巻き込まれた民間人の苦衷は計り知れないが、ごく少数の社会主義国を別にした民主主義の世の中に於いて、その戦争を引き起こした政府を選択したのはその民間人なのだ。これにはいやもおうもない。時代の変化はほんの少しのずれから始まる。しかして、そのずれをほんの少しのずれの間に修正できなかったのはその国の国民に責があるのだ。
 時に、一時の熱狂。時に、一時の栄耀栄華。これに目を眩ませ選んだ結果なのだから。

 長々と説明してきたがこれら戦争とテロは全く異なる。
 テロには宣戦布告による戦争の時間的な区別もなければ、戦場もない。対象となるのは戦争状態にない民間人である。
 自己の目的を達成するために、無辜のまったく無関係な人間を巻き込むこのテロ行為は、たとえいかなる理由があろうと許されるものではないのだ。
 「己が信念に反する国家に生まれた不幸」「己が目的を妨害する国家に生まれた不幸」こんな理屈を認めることは出来ないのである。
 故に、テロリストに対する国家は断固たる処置をテロリストたちに与える。
 一切の交渉はない。
 なぜなら、彼らは外交の一部分である戦争のルールを一切守らない無法者なのだから。
 これはいかなる組織に対してもだ。確かに中東問題は、イギリス人の内股膏薬的な外交によってユダヤ人にも、パレスチナ人にもその地を与えるような条約が結ばれたことに始まったのは確かだ。
 戦争終了後、大英帝国は没落し、ユダヤロビーが発言力を増した米国によるパレスチナに対する裏切りとも言えるイスラエル建国。これが全ての原因である。
 しかし、だからといってテロは決して許されるものではない。
 故に、カウンターテロは時として残酷にさえ思える仕打ちを行う。
 カウンターテロ部隊がテロ組織のアジトへ突入。まだあどけなさの残る構成員の少年すら射殺した写真を過去に私は見たことがある。しかし、これは国家がテロに対して断固たる処置を行うと明言しているに過ぎない。
 また、この件ははっきりと確認できたわけでもないので、書くのは少しためらわれるが、かなり確実性が高い情報と判断して掲載すると、米軍戦闘機がスクランブル発進して、ハイジャックされた民間機を撃墜する命令を受けていたという情報もある。
 こんなこと、日本では想像もつかない話だろう。しかし、テロに日々対しているアメリカやイギリス、フランスなどでは当たり前のことなのかもしれない。民間機を自分の国の戦闘機が撃墜する。それがテロに屈せず、断固としてテロと戦うことなのだろう。
 しかして、日本は、過去に簡単にテロに屈した歴史がある。三菱重工ビルの爆破テロ事件。あの犯人をハイジャック犯からの要求で釈放したのがそれである。
 当時首相だった福田氏が、『人の命は地球よりも重い』というヒューマニズム溢れる発言をしたことを記憶している人はどれくらいいるだろう。
 テロに対しては弱みを見せてはならない。これは世界の常識である。
 戦争のルールすら守らないテロリスト。無法者の彼らに対して我々は決して妥協してはならない。テロと戦うというのはそういうことであるはずだ。しかし、日本は無法者に対して法の内側にある人間に対してするような妥協をしてしまった。
 これは、虐めと同じである。虐めは効果があると加害者が判断した瞬間から、幾度も行われるようになる。日本は、テロリストに対して、ハイジャック等、多数の人名をカタにした場合、簡単に屈する国家という烙印を押されてしまっているのだ。
 そんな国家の個人としての私たち。このことを私たちは明確に認識しておく必要がある。

 という前提を元にして、前回の最後のまとめを補足しながらもう一度記したい。

 日本はテロリストにとって過去に簡単に屈した格好の標的なのだ。日本がテロにあわなかったのは彼らの利害に関係しなかっただけである。それなのに、小泉首相は米国の行動に追従する談話を発表している。
 しかし、その発表はアメリカにテロ行為をしかけたテロリストたちの標的となることを意味することをどれだけの人々が理解しているだろうか? テロ活動によって、大きく歴史が動いてしまった。このことは間違いない。しかし、我々はこの動きを、この大きな揺れを常時のものにしてしまってはならないのだ。断固としてテロと対決していかなければならない。そして、その対決の結果、テロで歴史は大きく動いたが、その動きは修正されたという結果を作り出さなければならない。それは間違いない。しかし、声たか高にその名乗りを上げた国は、史上もっともテロに弱腰の国なのだ。
 欧州の国々が微妙に距離を置く中、日本の突出ぶりはどうしても目立つ。
 おそらくは、彼らにとってはこの事件は騒ぐことでも何でもないのだ。騒ぐことがテロリストの自尊心を満足させることに他ならないことを理解しているのだろう。
 しかし、日本人は何もわかっていないのではないだろうか・・・。
 テロを理解していないこの国は、騒ぐべきでないときに騒いでいるのではないだろうか?
 かくいう私も何がわかっているのだろうか? 私の家族が突然巻き起こった爆発に巻き込まれたとき、私はしっかりとテロに対して立ち向かうことが出来るのだろうか。
 ハイジャックされた飛行機に家族が乗っていても、テロには屈しないと言う原則を守る日本国政府を応援できるのだろうか? 自分が乗っている飛行機がハイジャックされても、その機体を撃墜しに自衛隊機がスクランブルをかけてきたとしても、取り乱すことなくテロに対して妥協することなく生を全うできるのだろうか。
 人と人の間の闇は斯様に深いのだろうか?(この行は、パレスチナの歓喜のシーンについてのものだが、これに関しては補足で触れる)
 今後、あの第二次世界大戦すら「古き良き時代」と思われるような凄まじい新しい戦争の時代が始まることは間違いない。
 しかし、どれほどの日本人がそのことに覚悟しているのだろう。かくいう私にも覚悟はあるのだろうか? 
家族を失ってもテロに対していくという覚悟が。自分の命を失ってもテロに対していくという覚悟が。
 もはやこの覚悟は架空でも何でもない。かもしれないレベル、架空の覚悟ならだれでもできる。しかし、これからは、9月11日以降は、起こりうるレベル、現実問題の覚悟を決めねばならないのだ。
 しかし、いやもおうもない。結論は自明のことだ。テロに妥協はない。
 そのことをしっかり日本国民の一人一人が考えなければならないのである。

 

 と、まあここまでしっかり突っ込まなかった私も悪いのだ。確かに前回の文章では冴速さんのメール。

 「だから上杉君のいじめられるのがいやだから黙っていじめを見ている、的発言には少し残念です。気持は分かりますが」

 という誤解の発生する余地があったのだろう。
 私の心の中での結論があまりにも自明。「たとえ現実に、家族や自分が巻き込まれても、テロに妥協は許されない」があったので、本当に自分の家族や自分が巻き込まれた場合でも、そのように行動できる覚悟があるのだろうかという問いかけで終わったつもりなのだが・・・。言葉足らずになってしまったのであろう。(あんまり莫迦話サイトで結論を大々的に振りかぶるのもなと思ったことは反省しています。「振りかぶらないなら書くな」。これを今後の教訓にさせてもらいます。冴速さん。どうもありがとう)

 しかし、現在、マスコミも個人も政府や国家の対応ばかり問題にしている。
 最大の問題は現実として自分たち一人一人に降りかかってくることなのだ。自分の家族が犠牲になってもテロには断固たる態度を取ることが出来るのか。日本人に問われているのはそのことなのだし、そして、断固たる態度は絶対に維持しなければならないものなのだ。

 現実にそうなってしまったときに、その覚悟はあるのか? 日本人。そして個人としての私。

 今、現実の問題としてテロの世紀は始まってしまった。その中で個人がどう対応するか。そのことをぼかしているような政府やマスコミが支配する国で、私たちは覚悟を決めなければならない。
 もう一度言おう。テロに妥協は許されない。
 ただ、本当にその場で覚悟を決められるか? 自分が巻き込まれたときには結構あきらめもつくが、家族が巻き込まれたときは取り乱しそうで怖いかもしれない。それでも、そのことも含めてしっかり覚悟を決めないとならないのだ。

 ただ、人間ってそんなに捨てたもんでもないと信じたい。

 昼下がりの公園、とことこ歩く幼児の笑顔を見ながらそう考えた。

 補足
 「現在の情報化社会は、その画像を何度も伝える一方で、パレスチナの民衆が驚喜している様子をも映し出す・・・。」
 そう、前回記述したが、この件について、「テロの成功を喜ぶパレスチナ人」の映像も情報操作だ、という説が出ている。
 (http://www1.jca.apc.org/aml/200109/23570.html)

 詳細はそのアドレスに譲るとして、しかし、この情報操作が本当だとしたら、今回のテロ事件で死亡した被害者を冒涜するもの以外の何物でもないような気がする。先にも言ったが戦争とテロは完全に異なる。戦争というルールの中で謀略は必要だろうが(油まみれの鳥は汚い手だが、戦争のルールの中ではアリだろう)ルールなきテロの世界で必要なのは断固たる意志だけだ。下手な謀略は彼らに付け入るスキを与えるだけではないのだろうか。(00,9,19)


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