Homeへ                           お便りインデックスへ


 猿之助&歌舞伎ファン広場 


お便り   3 2 1   5 へ


  NO4】  


さあ、三代目・市川猿之助一世一代の『義経千本桜』
三役通し公演が開幕しました。!!

歌舞伎ファンなら、猿之助ファンなら絶対に見逃せない、瞼の裏、心の奥底に
しっかりと焼き付けておきたい
五十年先、或いは後に生まれていれば決して出会えなかった
珠玉の舞台・・・・
目の当たりにできた幸せな観客として、是非あなたのご感想をお聞かせ下さい。



Kumikoさんの気持、よーっくわかります。でもわたし、実は15年前、入院している主人をほっぽり出して、京都グランドホテルで開かれたおもだか会主催の(猿之助さんを)囲む会に出かけたことあります。もちろんただの検査入院で、心配なかったからなんですが、さすがにいまでも夫にはこのこと、話していません。
あの時が素の猿之助さんを見た(大勢のファンの中の一人としてチラチラって感じだったから、お会いしたというよりは、やっぱり、見た、という感じですネ)最初だったのですが、側にいらした時どうしても
目をみることが出来なくて、お口の辺りばかりみていたらしく、帰ってからいくら思い出そうとしても、青々とした髭の剃りあとと、キリリとした唇しか思いだせませんでしたっけ。(ハハハハ・・・)

「同窓会で名古屋方面へ・・・」 が中日劇場だったり、「講習受けに・・・」が歌舞伎座行きだったこともありましたネ。
今年二月、 義父が倒れた時は、さすがに父の容体が一番気掛かりではありましたが、次の瞬間頭をよぎったのは、やはり「ヤバイなァ・・・七月公演!」でしたもんネ。(罰あたりな嫁でスミマセン)
ホントに自慢じゃないけど、ずーっと、ウソつくなんてこと皆無の妻、嫁をやってきた私でした。
それが猿之助さんの虜となってからの15年、重ねたカワイイ(どこがー!?)ウソの数々・・・
だって、同じ舞台を二度も観るなんてことは「考えられない!」っていう夫なんですよ〜。まして三度、四度となるともう家庭争議モンですから、家庭円満のための「ウソも方便」ということで・・・・
それにしても「ヤマトタケル」公演で、また3つ4つその数が上乗せになりそうなのは確実で、ああ〜、ホントに罪深いわたしです。
1998年9月6日/Kanoko S




初日が開いてからメールしようと思ってましたが、今「翔・お便りのページ」を読んで、接続したままキーボード打ってます〜〜。
「猿之助修羅舞台」って絶版なんですか? 私、昨年の巡業公演のロビー(たしか茅ヶ崎)で文庫本を買いました。(PHP文庫/初版は大和山出版社から84年に出たようですが、文庫は94年7月が第一版です。)PHP文庫の方へ問い合わせるといいのではないですか?
猿之助さんの歌舞伎に対するすべての想いが込められていて、歌舞伎観始めの頃は明確に言語化できなかった私の想いすべても、ここにある!(と、相変わらずオーバーな私です ^ ^;)と、嬉しくそしてなぜかちょっぴり切なくなりながら、何度も何度も読み返した本です。
今でもすぐ手の届くところに置いてあります。(表紙カバーは<赤い襦袢>の忠信)
9月初旬は奇跡的!?に仕事がオフです。5日はもちろん、<朝いちばん!>のフライトで大阪に飛びます〜〜!!
PS:YASUKO.Sさん・・・同じ名前のよしみでよろしく〜〜m(_ _)m〜〜<W>より。(猿之助さんの妹さんとも同じ名前ですよん!)
1998年9月3日/ Yasuko W




先日、市の図書館へ猿之助さんの『猿之助修羅舞台』を探しに行きました。前から読みたくてあちこちと探していたのですが、絶版になっているらしくなかなか手に入りません。そのうちに「まあ、ええか」という気になって(私はなんでも「まあ、ええか」なんです)諦めかけたんですが、やっぱりどうしても読みたくなって、図書館まで出かけて行ったというわけなのです。吹田市の図書館には案の定なかったのですが、他市より取り寄せてくださるということでした。

私は前のお便りでもちょっと書きましたが、勘九郎さんが好きで、だから当然歌舞伎も好きではあったのですが、『松竹座』が出来るまではそんなには劇場へ足を運ぶというほどでもありませんでした。
まして猿之助さんなど( ごめんなさい )、私のイメージはあまりいいものではありませんでしたし、ハッキリ言って“問題外”って感じだったというのに、自分でもこの気持ち、わからないんですけど、ハマッタんです。完全に。なんでかな・・・??

何年か前の南座で『素襖落』を見た時、その踊りのうまさ (うまい、と言うような言葉だけでは表現しきれないんですけど)に、「へぇー!」と思って、「あれが猿之助か・・・」と思ったことはあったのですが、それだけでした。それが去年『カグヤ』を見てから完全にイカレてしまったんです。
『カグヤ』 そのものは、芝居としてはなんかちょっと物足りなくて、私としては絶賛ということではなかったんですが。花道の猿之助さんに吸い込まれて行ったんです。
そしてそれは日がたっても色褪せず、猿之助中毒にかかったようになってしまいました。

それからは、いちおう公(おおげさやナ)には勘九郎ファンということになっているので、(もちろん今も好きですよ)内緒で猿之助情報を漁りました。
まして今、私42才(自分でも歳を考えると目眩がします。20才くらいのつもりなんですから)で独身とはいえ、周りからは冷静だとか、落ち着いているとか(ただ、行動がニブイだけなんですが)言われているのに、猿之助さんにハマッタなんて、家族にも言えません。だから、そーっとです、そーっと・・・。
歌舞伎が好きなのであって、決して猿之助にハマッタのではない、というスタンスで、さりげなく猿之助さんの舞台を見ていました。12月の歌舞伎座、6月の名古屋、7月の歌舞伎座 etc。
「〇〇さん、このごろ猿之助の舞台よう見にいかはりますねえ」と言われても、「そう?たまたまやね」なんてスマシていました。

でも 『翔』 を読んで、北前さんと電話で話して、「人間、狂うことも大事やなあ」と思いました。素直に好きなもんは好き!ということも大事やなと、思い知りました。
そんな気持ちをみんなが率直に表現している『翔』は本当に素晴らしいファン誌だし、猿之助さんはいいファンを持っていらっしゃるなあーと思いました。
“追っかけも” がまんするよりドンドンした方が体にいいヤン。健康法のひとつや。と妙に納得もしまた。
これからは「私は市川猿之助さんのファンです」と、堂々と言って、劇場の楽屋口で出待ちをしている人をみても、「私はあんなことはしないわ」(なんでこういう時は東京弁になるネン)なんて思わず、素直に舞台を追い続けていきたいと思います。

なんかわけのわからんことばっかり書いてますけど、今の気持ちです。 もう一度お手紙を書かずにはいられませんでした。北前さんは、こんな人ばっかり相手にしていらっしゃって大変だと思いますが、ちょっとがまんしてくださいね。
それから、『翔』のバックナンバーは他にありますか? 5号と8号は先日いただきました。在庫のある分があればお譲りいただきたいのです。
もっと、もっと読みたいと思います。もっと、もっと、猿之助さんのことを知りたいと思います。
1998年9月2日 / Yasuko S
【編集部・北前より】=ぜんぜん大変なことなんかあらへんよ〜。こういうお便り読むと、文句なく幸せな気分になれるから、ホンマに大好きなんです。皆さんが「翔」を読んで「ウンウン」「そうや、そうや」と楽しんでくださるのと同じように、笑ったり、肯いたり、感動したりして読んでいます。このぺージに遊びにきて下さる人、みんな同じ気持ちで読んでるはずやと思ってます。
最近とみに嬉しいお便りが増え出して、「だんだん面白くなってきますネ」なんて声も聞かれ、それもとても嬉しいです。皆さんのお陰やねえ〜。ありがとう〜〜。
あ、「翔」の件ですが、6号は回覧用があります。但しいま出払ってますので、1ケ月ほどお待ちください。自分で言うのも何ですが、この6号は、一番根性を入れて作ったモンなんですよね。他にも回覧を待って貰っている方がいらっしゃるんですけど、たぶん「ヤマトタケル」公演中にはお届けできるはずです。




初めてお便りさせて頂きます。
私は現在44才。新潟で歯科医を細々とやっております、二十数年来の猿之助ファンです。。

私が初めて猿之助さんの名前を知ったのは、昭和39年頃、家にあった女性月刊誌に載っていた数枚の写真とコメントでした。テレビドラマの出演シーンと、テレビ局の中の写真、そして昨年祖父と父を亡くした等の話が載っていたのですが、大変に印象的で、子供心に(たぶん11才くらいでしょうか)“この人はスゴイ人ではないんだろうか”と思い、歌舞伎役者・市川猿之助という名前を覚え込みました。
けれども歌舞伎はまるっきり見たことはなく、高校時代、クラブ活動で演劇をやるようになってからも歌舞伎には関心がありませんでした。新潟に歌舞伎がやって来ても見ず、新劇ばかり見ていました。歌舞伎は古臭いもの、と思い込んでいましたから。

大学は神奈川の方でしたので、歌舞伎座もかなり近くなったのですが、やはり新劇、ミュージカル(四季のものが多かった)、アングラばかりを見ていました。
この間、新劇関係の雑誌は読んでいましたので、≪猿之助の宙乗り≫ 等が話題になったことなどは知ってはいましたが・・・。
そのうちいつしか新劇にも飽きてきて、“何か面白いものは・・・そうだ、歌舞伎を見てみよう”と思い立ったのです。
先ずごく簡単な入門書を買って読み、クラスメートに一人だけ吉右衛門ファンがいたものですから、切符の買い方を教わり、銀座の三越前では通行人に「歌舞伎座はどっちですか?」なんて尋ねて、やっと歌舞伎を見始めました。

猿之助さんの舞台は、昭和51〜52年位からでしょうか、『宇和島騒動』 『白浪五人男通し』『再岩藤』『小笠原騒動』『双生隅田川』『金幣猿島郡』『伊達の十役』等々・・・。
数多くの舞台、数多くの役者さんたちを見続けているうちに、私にとっての“一番”はいつしか猿之助さんになっていました。ほかの人の舞台では味わえない、どうしようもない熱気というか、パワーというか、その面白さに取りつかれ、試験の合間をぬって劇場へ通ったほどでした。
チケット代ひねり出すのに、食うや食わず(?) 。あの頃は食事代も洋服代も全てチケット代に化けてしまうような毎日を送ったものです。

53年に新潟に帰り、もう歌舞伎には行けないほど多忙になり、やがて結婚。二人の子供、夫、そして仕事と、ますます多忙になる中で、それでもどうしても猿之助さんの舞台が見たくなった時は、1〜2年に一回くらい、子供を弟に預けたりして出かけていました。
昭和62年新橋演舞場のニューディレクション歌舞伎 『義経千本桜』 も拝見。中でも『吉野山』は、いつもの装置とは違い、迷い込んだら出られなくなりそうな恐ろしいほどに美しい桜の闇が舞台一面を覆いつくし、舞っている人間がそのままのみこまれてしまいそうな・・・大変印象的な舞台でした。知盛の件もとても面白く、もう一度あの舞台をやることがあったら、ぜひぜひ見たい!!と思っています。
あの時は当時4才だった娘も一緒に見たのですが、源九郎狐が本性をあらわすところや、桜の花びらを拾い集めたことなどを今も覚えていると言っています。パンフレツトを久しぶりに繰りましたら、まだ数枚の花びらが入っておりました。
子供たちが少し大きくなってからは、母や子供たち連れで 『リューオー』 『千本桜』『ヤマトタケル』『オグリ』等々を見てきました。お陰で中3の娘はすっかり歌舞伎好きとなり、9,10月も大阪の『ヤマトタケル』を見に行きたいとわめいています。
いま、この手紙を書いている最中も横にいて、『翔・8号』 の藤山直美さんの件を笑いころげたり、ウンウンうなずいたりして熱心に読みふけっています。

遅まきながら、最近やっと猿之助さんの後援会にも入会をいたしました。
新潟では歌舞伎好きと言うような方は殆ど皆無で(少なくとも私の周囲は)、長い間家族以外に歌舞伎のこと、猿之助さんのことを話題にできる場はありませんでしたから、猿之助さんが役者として最も輝かれる年代に入られたいま、見られるだけ、見ておこう!そして心おきなく語り合いたい!、そんな心境になっているものですから。
『翔』 の皆様、全国の猿之助ファンの皆様、またいろいろとお聞かせ頂ければ幸いに存じます。
1998年8月31日/ Keiko O




翔の皆様、そして猿之助ファンの皆様、お元気でいらっしゃいますか。
私が猿之助丈の舞台を見たのはこの7月が始めてでした。十年くらい前に一度だけ歌舞伎を見たことはあるのですが、それ以来、まったく歌舞伎には縁のない日々を過ごしてきました。
そんな私が今回歌舞伎を見ようと思い立ったきっかけは、友人が金毘羅歌舞伎のお茶子さんにボランテイアとして参加して、そこで体験した歌舞伎の楽しさをいろいろ聞かせてくれたことからです。ちょうど長野のいとこの家に遊びに行く予定があったので、東京経由に行程を変更して、本場の歌舞伎座で歌舞伎体験をしようと計画をたてました。その時の私にとって出演者や演目はなんでもよかったんです。
どうして7月にしたかというと、ただ歌舞伎を見るだけで東京に立ち寄るのではもったいないから、7月だとバ−ゲンの季節でもあるし、ショッピングと歌舞伎の二つが楽しめる!という、今から思えばバチ当りな考えからでした。

だから猿之助丈のことは、名前しか知らないような、真っ白な状態でした。ただ、役者さんは素敵だろうし、衣装はきれいだし、目の保養になるかなあ、という程度の期待でしかなかったのです。
でも、違った。 目より心にきました。 何かが....わ−っと。
心の目が覚めたというか、なんというか・・・旨く言えないんですけど。 そしてあっという間に時間が過ぎてしまいました。
なんて素敵な舞台だったんだろう!! なんてスゴイ舞台なんだろう!!って。
私は昼の部しかチケットをとってなかったんですけど、どうしても続きが見たくなって、もうバ−ゲンなんかどうでもいいわ!と一幕見席に向かいました。

十年前に見たというのは、仁左衛門丈(もちろん当時は片岡孝夫さん)の「女殺油地獄」で、お話は分かるし、仁左衛門さんはカッコいいしで、思ってたよりはズッと面白いものだなあ、という感想は持ったのですが、それでおしまいでした。
でも猿之助丈の舞台は違いました。 もっと見たい!、また見たい!、もっと知りたい!!という気持ちが押さえられないのです。

いとこ宅から帰ってきて、インターネット上をウロウロするうち、ホ−ムペ−ジ「翔」の存在をしりました。何にも情報源のない地方のファンにとってはとてもありがたいホ−ムペ−ジです。
また、送っていただいた、8号の≪おっかけのすすめ≫を今度一緒に「ヤマトタケル」を見に行く友人に見せました。彼女はもちろん猿之助さんの舞台を見たことはないんですけど、”猿之助さんってファンの人からすごく愛されてるのね。読んでると、私もススキ作りに参加したかった!って気分になってしまった”と言っていました。私も同感です!!!
今はただただ9月の大阪の舞台を楽しみに暮らしています。四国は丸亀市から、もちろんこの「ヤマトタケル」だけを目当てに、日帰りする予定です。
1998年8月31日/ K . T より




もうすぐ9月ですね。心はすでに大阪に飛んでいます。ヤマトタケルは観ておりませんので、今からとても楽しみです。
ところで、NHK3チャンネルで放送しています「伝統芸能」で、『四の切』について渡辺保氏が解説しておりました。ご覧になりましたか?
「猿之助さんの宙のりで、空間が神話的に広がった。江戸時代の宙のりを復活させた功績は、非常に大きい」といったようなことを話しておられました。
とても嬉しかったので、お知らせいたします。
それから、突然のFAXでの申し込みにも拘わらず、「翔」をお送り下さり誠にありがとうございます。聞きしに勝る素晴らしさに、ただただ圧倒されながら読んでおります。一生大切に宝物と致します。

私は現在46才、二児の母。猿之助様との出会いは、2年前の「カグヤ」からです。それ以前は、歌舞伎は数回、友人に誘われれば観に行くけれど・・・という程度でした。
その頃、私は歌手のさだまさしさんの大ファンで、コンサートツアーではシドニーにまで出かけた程だったのです。そのシドニーで運命的とでもいうのでしょうか、猿之助一門のある弟子さんのお母様に
偶然出会いました。ミーハーな性格が幸いして(災いかもしれませんが)、いろいろとお話をしているうちに「是非拝見したいです」「どうぞいらしてください」ということになり、4月の新橋演舞場に出かけて行ったのです。
初めて観る「カグヤ」。私はブッ飛びました。これは一体何だ!
「見るべきほどのことは見つ。いざ死にめやも 」 これだけの舞台をみたのだから、もう死んでもいいとでもいうような・・・。泣き声が大きくならないように押さえるのに必死でした。
こんな世界があったのか! それ以来、私の追っかけの対象は、猿之助さんとその一門に移ってしまったのです。
皆様方のファン歴に比べればまだひよっ子ですが、七月の歌舞伎座にも随分と通い、いい歳をして恥ずかしいのですが(気弱になっては追っかけはできません!?)初めて出待ち、入り待ちまでしてしまいました。でも、猿之助様が出ていらっしゃると、固まってしまい、ただお車に乗られた後に手を振ることくらいしか出来ませんでした。

今回の三役通し狂言「義経千本桜」も、私にとっては初めて観るものでした。古典にも親しもうと五、六月も歌舞伎座に通い・・・。でもやはりどうしてもまだ途中で眠たくなってしまったりするのです。
ところが、古典中の古典にもかかわらず、七月は違いました。劇場全体がワァーッと動くような、客席の熱気が燃えているように感じるのです。
「吉野山」。思い出すだけで涙が出てきます。猿之助さまはミューズそのものではないかと思うのです。
そして権太のにくらしい程のかっこ良さ! あのきりりっとした目に見入られたら、きっと誰だって動けなくなってしまいます。
「四の切」。人間技とは思えません。宙乗りの時にしたたり落ちてくる汗が、キラキラと輝いて見えました。あの時の猿之助様には人間でも獣でもない、神さまが宿っているのではないかと思わせるものがあります。
楽日、二列目の席でたっぷりと堪能させていただきましたが、二度のカーテンコールの後、猿之助さんは狐手をしたままで手を振って下さっていました。スタンディングオベイションで私も余程立ち上がりたかったのですか、舞台の上からは客席がよく見えると聞いていたせいもあって、勇気が出ませんでした。猿之助様一世一代の「義経千本桜」、立って拍手をしたかった。それだけが心残りです。

七月の嵐が去って、放心状態が続いた後、ようやく自分を取り戻しはじめたと思ったら、「翔」が届き、読んだが最後、また心ここにあらず状態の日々となってしまいました。
もっともっと猿之助様について知りたいと思っております。せっかく知ったばかりだというのに、八号で最終号とは、あんまりというのではないですか。まだまだ題材はたくさんあるはず。私に出来ることは何でもさせていただきますので、ぜひぜひお考え直しいただいて、どうぞ九号、十号とお続けくださいませ。
まだまだお話したいことは山程ございますが、この辺で筆を置かせていただきます。
1998年8月28日/Kumiko T

【編集部より】=こんなに皆さんに惜しんで頂いて・・・・幸せです。でも、それだからこそ八号で終わりにした・・・というところもあるんですよねェ・・・。




嬉しいメールありがとうございました。 
ワークショップでは、3日間とも参加者の方がほとんど客席を埋めて下さって、とくに最終日は、予約されてない方で初日、二日目と来られて3日目も来たいという方をどんどん受け入れたので、開場時刻前後には、立ち見が出たらどうしよう(立ち見はなし、という約束でしたので)とプロデューサーが心配するほどでした。溢れる心配をするなんて、プロデューサーにとってもこんな幸せなことはなかったでしょう。 制作と現場進行を統括していたディレクターさんも、成功裡に終わってほっとしておられました。若い女性ですが、いい経験を積まれたと思いますし、これからの大阪の舞台芸術シーンを活性化していく力になっていって下さるでしょう。 

これまでのワークショップは閉ざされていたわけではないけれど、実際には公開が最終日だけでしたから、セミクローズドといってもよかったのですが、今回は猿之助さん自身の積極的な姿勢があって3日間とも公開、しかも全日程テレビ局がはいり、3日のうち2日は豪華な講師陣のデモンストレーションや講義という、実に贅沢な内容でしたので、裏方のほうも従来のワークショップとはかなり異なりました。
私たちもこういう興行に近い形の行政イベントははじめてなので、いま考えると至らない点もたくさんあり、今後ワークショップからプレ事業としての公演へ、そしてセンターができてからの本公演へと展開していく上で、貴重な経験になりました。 
参加者がアンケートに書いて下さった回答も;
   「すばらしかった」
    「もう一度やってほしい」
   「毎年、せめて2年に一度やってほしい」
   「歌舞伎の面白さをはじめて知った」
   「こんなすばらしい催しを行政がやるなんて悪いけどいままで信じられなかった」
   「仕事で1日しか来れなくて残念、3日間とも来たかった」 ・・・等々、私たちに多少の苦労があったとしても、それを全部洗い流してたんとおつりがくるような、色とりどりの嬉しい感想ばかりでした。
でもやっぱりアンケート感想で見ると、猿之助さんと講師陣の固有名詞の力の大きさを感じさせる回答が多かったですね。また、歌舞伎ファンとしての多かったです。 

なぜ私たち企画者側が猿之助さんにお願いし、猿之助さん側も受けて下さったか、この共鳴、共振の部分に舞台芸術総合センターの理念があり、ただ歌舞伎だけ、猿之助さんだけ、というのではなく、わたしたちみんなのための新しい21世紀の舞台芸術をめざすという志の共有みたいなところで、講師陣、受講生、参加者、スタッフすべての線のまじわる点があるはずなのですが、なかなかそこまでいくのは難しいですね。 
それにしても参加者のかたでもこれだけ喜んで下さったのですから、ましてや、猿之助さんや右近さんや笑也さんたちあこがれの講師に直接文字通り手をとって朝はやくから夜おそくまで教えてもらった受講生たちが天にも昇る気持であったことは申すまでもないでしょう。 
彼らがいつかそう遠くない日に、大阪の舞台芸術総合センター(この名称はもっとなじみやすい名称に変わるはずですが)の檜舞台にもどってきてくれることを、私も関係者のはしくれとして心から願っています。 
NHKのBSでは編集してかなり長い録画中継をやるように聞いていますが、既に民間のテレビ局2局がニュースの中でとりあげました。単にワークショップがあった、というだけでなく、一方はクロフォードという外国人受講生を、他方は東華子さんという北海道から来た女性受講生をクローズアップして、わかりやすいストーリー性のあるニュースにし、猿之助さんへのインタビューも入れていました。

 しかし、(これはまったく私個人の感じ方ですが)私が報道に不満があるのは、この二局とも、大阪市がこういう催しを企画・実行したということを(私の聞き漏らしでなければ)ちゃんと言わなかったことです。
ワークショップがあったことを報道してくださること自体が一種の「協力」だと言われればそうなのですけれども・・・ マスコミは行政のいたらない点は批判しますし、それはそれで必要であり、彼らの使命の一つだと思いますが、よい点はなかなかきちんと評価しないんだなあと思います。

劇場をつくったり文化事業をやっていくということは、現在でも道路づくりや下水道整備などとちがって「必要不可欠」とは考えられにくく、財政が厳しくなれば緊急度が低いということで切り捨てられやすい分野です。それだけ逆に積極的・挑戦的な試みで、21世紀をみすえた行政の姿勢が問われるところで、私たち民間人の目でみても、大阪市はこの点に関してはよくやっていると思います。 
種々の制約の中で、大阪市が舞台芸術の拠点施設をつくる上で、その施設が建物ばかりの中身のない、使えない施設にならないように、長年の準備をし、ソフト優先ということを真っ正直に実行して、長期的な見通し(人材育成やノウハウの蓄積、人のネットワークの形成などの意図をもって)のもとに毎年やっているこの事業を、単に流行便乗の一過性の名ばかりの「ワークショップ」と同じような扱いしかできず、主催者の名さえ出ない報道が、プロフェッショナルな報道と言えるかな、と疑問に思います。 

私がマスコミの記者なら、だれもが思いつきやすい外国人や女性をクローズアップしてみせるといった手法ですませるのではなく、このワークショップの「違い」をきちんと報道することを自分の使命だと考えるでしょうし、むしろ報道を通じて支援したいと考えるでしょう。どこでも厳しい財政状況の中で、客観的な評価をすることが、どれほど中で苦労してこのような事業を支えている部局の人たちにとって力になるか、はかりしれないと思います。 
NHKはきちんとこのような事業の重要性を理解したから録画中継するのだと思うので、注視していきたいと思っていますが、私個人としてはいまのマスコミに本当に不信感を持っています。 
まあ、私が役所の人間ではないから、こういうことが言えるので、行政のかたはこんなふうに率直にマスコミ批判をすることができないでしょうし、また、私たちもそういうことは仰言いません。どんな批判でも甘んじて受け、評価されるべき仕事をしても「あたりまえ」視されて正当な評価を受けないこと自体にも甘んじる、というのが行政だとすれば、行政もなかなか大変な仕事だと思います。 

猿之助さんをはじめこれまで登場された野田秀樹、宮本亜門、デビッド・ルヴォーなどの一流講師、玉三郎さんたち初回のトークやシンポジウムの出演者まで、皆さんが協力的だったのは、みな大阪市がいままでにない理想を追及して、単に狭いローカルな損得ではなく、舞台芸術の世界的な交流と育成・振興を通して世界の舞台芸術に貢献するんだ、という強い意志を、こんどは本気でつらぬこうとしているんだな、ということを感じて下さったからだと思います。 

プロデューサーがいつも言っています。予算は厳しいし、相手に何の見返りもない、それでいて超一流の人に自分が依頼しなければならないとき、自分の武器は「未来」だけだ、と。
つまり将来こういうセンターをつくり、こういうことをやります、という夢、言い換えれば、長い間かかって練り上げてきたこの舞台芸術総合センターの理念にこめられた我々の理想とその実現にむけての強い意志や情熱だけ、「あなたも我々と一緒にやりませんか、このいい夢を見ませんか」ということだけだというのです。 
舞台芸術総合センターの話になるとついつい長くなりますね。では今日はこのへんで。
1998年8月27日 / Sei M




「翔」ご送付いただきありがとうございます。演劇界の8月号で知り、どんなものかなァ?と思いながらFAXしたのです。そして、本の到着。驚きました!!小冊子を想像していたものですから・・・。
表紙を撫でてみて、「切り絵?!」 目を近づけて 「手描き? まさか!」 そして内容もとても充実していて、着いた日はそのまま夜中まで読みふけってしまいました。(でもまだまだ読み切れない!)
猿之助さんに対するファンの愛がとても感じられる素晴らしい本です。そして、普通の人たちがこんなに“文章力”があるなんて!と、とても感動しました。

祖父が歌舞伎好きで、子供の頃(・・・遠い昔です )よく芝居に連れて行ってくれたこともあり、同年代のお友達に比べると、もともと歌舞伎は好きでした。でも大人になるにつれ歌舞伎からも遠ざかり、たまに南座の顔見世に行くくらいになっていました。
それが、昨年の松竹座開場。五月に勘九郎さんの舞台を見てからハマってしまったのです。
そして九月、初めてスーパー歌舞伎をみたのですが、衣裳の美しさ、舞台の豪華さに感激!
今まで「踊りの上手な人やなァ」 くらいにしか感じていなかった猿之助さんの舞台に大感動してしまいました。それまでも噂には聞いていたのですが、「ちょっとなぁ・・・」って感じで観たことがありませんでした。「どうして今まで観なかったのか!」ととても悔やんでいます。

以来、「猿之助さんの古典も観てみたい!」という思いに突き動かされて、12月の歌舞伎座、今年7月の歌舞伎座にも遠征。古典の舞台における猿之助さんの桁違いの輝きにさらにあてられてしまいました。
しま、少しずつ歌舞伎に関して勉強し始めているところです。八月のワークショップにも参加させていただきました。
歌舞伎俳優さんにはもちろんそれぞれの方にその方なりの魅力があり、好き好きだと思いますが、猿之助さんには他の歌舞伎俳優さんとはまた違ったスケールの情熱を感じます。今の私には猿之助さんのそのパワーがとても面白いのです。
『翔』は、本としては今回の8号で最終だとか、とても残念ですが、最終号でこの本と巡り合えたことを非常に幸せに思います。
これからは、インターネットのホームページでとのことでしたので、早速、弟に頼んで頼んでプリントアウトしてもらいました。そして、見つけました!「トーク&ディナーショー」!!
もちろん母の分と2枚チケットを購入。買ってから、こんなイベントはほとんど後援会の人ばっかりで、行っても疎外感を感じるかな?と少し心配ですが、夏の最後を飾るイベントとしては申し分ないと思いなおし、会場の片隅で楽しんでこようと思っています。(何着ていくの?)
最後になりましたが、すばらしい『翔』、本当にありがとうございました。
いつかどこかの劇場でお会いできることがあればいいですね。
1998年8月27日/ Yasuko S

【編集部より】=ホテル主催の「トーク&ディナーショー」ですから、後援会の人よりは一般ファンの方がむしろ多いと思いますよ。それと仮に後援会の会員が90%というような集まりに参加したとしても、疎外感を味わうなんてことご心配はいりません。なにしろ「猿之助さん大好き!」という点で心は一つなんですから、類は友を呼ぶの原則通り(?)、必ずお友達ができるはず。一人でファンやるより大勢でテンション上げる方が楽しい!これも真実ですよねェ・・・。



昨夜旅行から帰り6日振りに郵便受けを見たらなんと,待望の翔5号,8号が入っているではありませんか!
嬉しくてさっそく開けてみて,噂にたがわぬ中味の濃さに2度びっくり。
こんなに中味が濃いファン誌は他にない!と思います。それも手書きでよくぞここまで!と皆さんの熱意に胸が熱くなりました。
まだ5号の前半を読んだだけですが、乳母の方や学生時代の親友の方々のお話が面白くて、つい徹夜してしまいました。
でもこれを読むと猿之助さんて幼少の頃からご両親や乳母さんをはじめ多くの人達からこよなく愛されて育っていらっしゃったんですね。

私は仕事の関係上 「TA:交流分析」という心理学を勉強したのですが,それによると人間の人柄は幼少期にいかに両親をはじめ周囲の人からどれだけ十分な愛を受けて育ったかによって決定されるそうなのです。そしてそれが大人になってからの生き方に大きな影響を与えるのだそうです。
小さい頃に十分な愛を受けて育った人は、大人になってどんな困難にぶつかってもくじけないとか。
これは小さい頃「貴方は我々にとってかけがいのない存在なのだから、自分を粗末にしてはいけない」という意味の無言のメッセ-ジとして受け止めるからなのだそうです。
逆に十分な愛を受けずに育った子供は「お前なんかどうでもいい存在なのだ..」とのメッセ-ジを無意識に受取り,大人になって困難にぶつかると、自殺したり自暴自棄な生き方をしてしまうのだとか。 
とすると大人になって猿之助さんが次々に困難に打ち勝っていらっしゃったのは、やっぱり幼少期の育ち方が影響しているのかな...『
などと翔5号を読みながら思った次第です。
翔 8号もこれから じっくり楽しみながら読ませていただきます。どうもありがとうございました。
1998年8月27日/ Rubyより




7月の「義経千本桜」に関連してメールをお送りしたところ、北前さんやHanakoさんからのリアクションがHPにUPされていて、「まあ!大変!」と、少々驚きました。
特に、こちらのHPが『猿之助ファンの広場』なのにもかかわらず、玉三郎さんの舞台の感想がUPされるきっかけを作ったのは…ワタシね…、と思うと、ROMに徹しようか、とも考えましたが、Hanakoさんが「玉三郎様一筋のNagako.Y様」とまで言って下さったメールにはお返事するべきかしら、と思い書き込ませていただきます。

 セゾン劇場・<ミハイル・バリシニコフと坂東玉三郎 コラボレーション>には21日に足を運びました。演目はHanakoさんも書き込まれている通り、以下の4演目です。
1.「君が代松竹梅」
2.「小鼓、大鼓と笛による舞」
3.「アンスポークン・テリトリー」
4.「二人のカンタータ」
 「君が代松竹梅」は玉三郎さんが移動舞台でも踊られている御祝儀曲で、玉三郎さんの魅力が舞台いっぱいに満ちています。<キレイキレイの玉様>の本領発揮の舞台といえると思います。
 「アンスポークン・テリトリー」はバリシニコフさんのソロで、<跳ばないミーシャ>は映画「愛と喝采の日々」等のイメージが強い私にはとても意外でした。
 今回の舞台の席が2列目のほぼ真ん中というミーハーの極地(!?)のような席順で顔に刻まれた皺の一つ一つさえも目にしたこともある思いますが、バリシニコフさんも玉三郎さんも年を重ねていらっしゃるということを強く感じました。
そんなことは当然じゃないか!、と言われそうですが、玉三郎さんは永遠に美しくてキレイで…、バリシニコフさんの跳躍は永遠に鳥のようで…、と、ファンなら誰でも無意識の内にそう思いこんでいるところってありますよね。でも、彼らも自然の摂理としてそれなりの「老い」を背負っているという現実を見た思いがします。それは北前さんが、「<ヤマトタケル>も猿之助さんの年齢を考えれば、今回が一世一代…」と訴えられていることと同じではないのでしょうか。
でもその中にあっても挑戦する気概を決して忘れることなく舞台に立つ<役者魂>には頭が下がります。観客に感動を与えるためにどれほど真剣勝負で臨まれているか、ということに思いを致しちゃいました!。〜だからこそ、やめられないんですけれどね、追っかけを…!!〜

 「小鼓、大鼓と笛による舞」・「二人のカンタータ」は、今回のコラボレーションのメインといっていいと思います。
 どちらも玉三郎さんはご自身のHPで記述されていたように、バリシニコフさんに対して<光る陰・輝く陰>をイメージされているようでした。ただ率直な感想を言えば、バリシニコフさんがもっと光ると玉様の存在も生きたのではないかと思います。光と陰を演じている割には拮抗しすぎている感じはしました。
それでも鍛錬の賜物といえる均整のとれた肉体、超一流のダンサーが創造する異次元の世界は観客を魅了して余りあるものがあります。特に体の線をはっきりと出した衣装を身につけられた玉様はとても男性的でセクシー!…少々目のやり場に困りもしましたが、いつもと違う玉様を拝見出来て私は大いに満足しています。
 また中でも、迷いや苦悩を突き抜けた天空にある喜びを謳い上げた「二人のカンタータ」には、とても癒されました。女形の域を越えて<人間像>を演じ切る玉三郎さんに無限の魅力を感じずにはいられません!。この玉三郎さんの姿勢が<不世出の女形・玉三郎>の源泉だと、私は確信しています。
(と、猿之助ファンのHPにここまで書き込むと、本当に「ビョーキ」!?〜しかも重症!!〜だと、我ながら思ってしまった!) といっところでしょうか。
〜Hanakoさん、こんなものでよろしいでしょうかしら!?。〜
1998年8月25日/ Nagako Y

【編集部/北前より】= 「あらラ〜、ここにも危篤寸前の病人が〜」って、ニンマリ。Nagakoさん、ご遠慮なく玉さまを賛辞しまくってください。何しろビョウニンを見れば安心する私たちなのです。「赤信号、みんなで渡れば・・・」なんて感じとでもいうのでしょうか。
それに 「◯◯◯様命!」 というような熱烈ファンの語るに勝る役者論はないと思うので、猿之助さんのことじゃなくったって、みんな興味深く頷きながら読んだと思いますよ。



8月15日夜の部「右近の会」を見てきました。
第6会市川右近の会「仮名手本忠臣蔵」。「船弁慶」右近の静御前、知盛の霊の静と動を演じ辰之助の義経、段治郎の弁慶。
席が花道10列12で、右近さんの汗の滴りをはじめ皆さんの熱演を目の当たりに見れてなかなか良かったです。昨年はいがみの権太を右近さんが演ていました。7月に猿之助先生がいがみの権太を演じられましたが、いろんな違いが分って興味深かったです。
右近さんの会では出待までして、出演者の方々に「お疲れさまでした」 と声をおかけしたのですが、皆さん気持ち良くご挨拶を返してくださり恐縮してしまいました。
このところは「翔」のHPにお邪魔するほど、どっぷり歌舞伎にはまっております。
京都造形芸術大学の講義で若い数人のお友達にができ、今回の翔の会にも誘われ行ってきました。22日、翔の会新宿朝日生命ホールで夜の公演では、猿之助先生をはじめ関係者や若手の方々も熱心にご覧になっていらっしゃいました。
普段なかなか見られない、若手の皆さんの勉強会。
後見に右近さん、笑也さん猿弥さん等すごすぎる。笑也さんが後見で出るたび笑也ファンのお友達は大喜びでした。
4時から始まり、休憩なしで8時半ごろ終了したのですが、真剣に、取り組んでいる姿を見て、こちらも長唄、義太夫など、何となく眠くなるのものも最後までしっかり見て参りました。
「清元玉屋」 亮太朗くん頑張って、後見泣かせ(?)扇子を飛ばしていました。
笑野さん、今回の女形なかなかよかった。
「船弁慶」では薙刀を落とつたり、着物のひもが鬘にひっかかったりとアクシデントもありましたが、それもこれも含めてとてもいい勉強の場なのだと思います。
「長唄茶壷」 延夫さん笑太郎さんが大いに笑わせてくれました。
昼夜全席自由席3500円でしたが、見どころ一杯で、満席状態でした。
29日は歌舞伎座で市川団十郎さん親子を見にいきます。9月12,13は大阪へ「ヤマトタケル」を見にいきます。
歌舞伎を見に行くときは私、気分を盛り上げたくて、成るべく着物を着ていくんです。今回も、大阪にも着ていくつもりです。チケットが取れたら10月の千秋楽にも行きたいと思っていますし、10月は名古屋御園座へ仁左衛門さんを見に行く予定。とにかく歌舞伎漬の毎日です。
読みずらい、文章で申し訳ありません。それでは、またご報告致します。             
1998年8月24日 / お仕事中の美翠でした




こんにちは。YUKA蔵です。
今月号の後援会の会報"おもだかニュース"に、<道行>の襦袢の話が載っていましたよね。先月の歌舞伎座の<道行>で、中日あたりに襦袢の色が変ったというお話、個人的にはと〜っても気になっていたことだったので、あの解説をみてすっきりしました(*⌒_⌒*)
ニュースをご覧になれない方のために簡単に補足説明いたしますと・・・
猿之助さんは<道行>の際に使用する襦袢の種類を三通り持っていらっしゃるそうです。
1.義太夫の「吉野山」(猿翁十種)で使用する"赤地にみす縫いの大きな源氏車の襦袢"
※翔・7号の表紙はこの襦袢姿をモチーフにされています。
2.清元の「吉野山」で使用する"浅葱地に片輪車"の襦袢
3.梅幸さんと共演された時に使用した音羽屋型の"赤地に片輪車"の襦袢。
('90年1月の歌舞伎座にて使用。)
今年の7月は、「3」の襦袢から「2」の襦袢に変えられたというお話です。
私も個人的には、浅葱色の襦袢がお気に入りだったので、初日に昼の部を観た時は「なんで赤色なんよ〜?!」と不思議に思っていたんです。中日あたりで襦袢が変ったことをきいて更に「なんで変ったん?」って。
理由としては、宣伝用のイラストポスターが「3」の襦袢であったことと、中日で変えたのは気を変える意味もあって・・・とのことでした。
聞くところによると・・・清元の<道行>ってホントは、狐にぶっかえって引っ込む演出じゃないんですってね。(私はあんまり意識をしたことがなかったのですが)
あれは義太夫の時の演出だそうで。(当時、タブーだった文楽との共演を猿翁さんが初めてやられたらしい。)静御前の扮装も<四の切>のように赤姫の姿なんですって。
私はまだ歌舞伎の観劇歴が5年で、<道行>は他のものと比べて観た回数は多いと思うのですが、残念ながら義太夫のは観たことがありませんので、とても興味深く思いました。
観たいなぁ・・・やってほしいナァ。 7月に<道行>にハマりまくってしまって(-_-*)頭ん中で唄がぐるぐる廻ってたのがようやくおさまってきたなぁぁ〜って思ってたのに、またこんなお話を聞いてしまって、「観たい聴きたい病」が再発してます(;_;)とほほ。
BENちゃん(主人)のパソコンのスクリーンセイバーには未だに「海に兵船、平家の赤旗ァ〜・・・」なんてセリフが・・・(笑)
会社の古い方のFAXの受信音は<鳥居前>の引っ込みのお囃子の音に似てて、それに合わせてツケ打ちでもしよかなって感じやし・・・(^_^;)
アカン・・・これはきっと禁断症状やわ・・・(;_;)
早く「ヤマトタケル」を観なければっ!!(お薬お薬っ!)
あ〜ぁ、ホンマ待ち遠しいですねぇ・・・。
1998年8月24日/ YUKA蔵




うれしいお話を聞いてください。
「歌舞伎ワークショップ」がらみのお話なのですが、知人三人が三日間通しの聴講希望を出して希望通りの許可証を手に入れました。ところがそのうちの二人が仕事の都合で参加出来なくなり、折角の機会を逃すのは勿体無いというわけで、近所の主婦に進めたのです。
歌舞伎にも関心のない、ましてやワークショップって???という感じの人だったのだそうですが、とにかく一日目に参加。そして大感動!
二日目にはもう一人分も是非に!と希望して、高二の息子さんを引っ張って行かれました。
もちろん仕方なくついて行った息子さんですが、三日目は自分から進んで聴講。
この主婦が息子を引っ張って行ったのには理由があったそうなんです。数か月前から学校を休みがちになり、夏休みに入ってからはクラブにも行かず家に閉じこもり、たえずウツラウツラというような毎日を送っていたとか。このままでは夏休みが終わっても学校には行けないのではないか…って、それはそれは心配だったと。
一日目を聴講して、教える側、教えられる側双方の、命懸け!みたいな真剣さにうたれた主婦が思ったのは、もしかしたらこのワークショップは、冬眠しかけているような息子の心をハッと目覚めさせてくれるかもしれない…って。
で、その息子さんですが、いまクラブに出かけて行くようになったんだそうです!!
息子さんは何とも言わないそうですが、これってゼッタイに因果関係ありますよね。
まさに「泣き申さず候ては化し申さず候」じゃないかって、私勝手に決めて喜んでいます。
1998年8月23日/ Kanoko S




銀座セゾン劇場で、玉三郎様にお会いしてまいりました。Nagako.Y様は御覧になりましたでしょうか? 
第一部の幕が上がった時、玉三郎様は、もう舞台の上でポーズをとっていらっしゃいました。まったく動かないので、お人形を使った演出なのかと思ってしまいました。
君が代松竹梅の御殿女中姿は、本当にキレイでした。白地のお着物には、鳳凰の刺繍がございました。両袖に8羽?裾にも数羽ありました。キレイキレイ大好きの私は満足しました。
第2部は、ビックリしてしまいました。体にぴったりの袖無しのアンダーシャツに黒いスラックス、髪の毛は整髪料でピッタリなでつけていました。
題名は、小鼓、大鼓と笛による舞です。能舞をアレンジしたような感じでしたが私には良くわかりませんでした。(ゴメンナサイ)
第3部は、バリシニコフ様のソロ。
第4部は、デュエット?でした。このときの衣装はパジャマのような感じでした。(変な説明ばかりで申しわけありません)
髪の毛はいつもの玉三郎様に戻っていました。玉様の柔らかな動きと、バリ様の早い動きが対照的でした。
カーテンコールで御挨拶される玉三郎様の美少年のような笑顔がこれまた素敵でした。 
観劇前は、外国の方と共演、競演とのことなので、いろいろと期待をしていましたが、未熟者の私には、少々レベルが高過ぎたような気がしています。けれども、玉三郎様の意欲・熱意は理解したと思っています。 
ある事情(苦笑)により、最近は、玉三郎さんより、猿之助さんのお芝居をより多く観るようになってしまいました。そのお陰で、澤潟屋の美人姉妹?にも巡り会うことが出来たわけですが。
千本桜では、あまり活躍しませんでしたが、実力・将来性はヤマトタケルを御覧頂ければ、Nagako.Y様にもおわかり頂けると存じます。
何でも玉三郎様は笑三郎さんに御指導をされることもあるとか。以前は猿之助様のお芝居に玉三郎様が御出演なさっていたとか。もっと早くから玉三郎様、猿之助様の舞台を観ていればと後悔することも御座います。都会の皆様のように毎週劇場に通うことも出来ません。けれども何も知らない方よりは、北海道、九州の皆様よりは、幸せではないかとも思っています。 玉三郎様一筋のNagako.Y様や、猿之助様命のような北前様のようにはまいりませんが、今後とも、よろしく御願いいたします。
 御贔屓は 違えどファンの想い入れ 嬉し哀しの 浮き沈みかな  
1998年8月11日/Hanako




暑中お見舞い申し上げます。お忙しい中、メールをありがとうございます。
先日、HPにお邪魔すると、自分の打ったものが載っていて、びっくり、でした。また、北前様がそれについてのコメントを載せてくださったのをみて、また、びっくり、でした。ありがとうございます。
ケレンが特徴、 と聞いた時、それがどんなものなのか、実際に見てみるべきでした。
以前、週刊文春で読んだ対談によると、猿之助さんは”60歳定年説” を、唱えていらっしゃいました。それまでに観にいければ、間に合えばいいのだけど。
帰国した時は、もちろん観劇したいと思っています。(ヤマトタケルは無理ですが・・・・。)
切符が取れるかが気がかりですが、国際電話の方がかかりやすい、という噂を信じて、がんばりたいと思います。 (10時きっちりに電話するのが難しいのは、どこも同じ、という気はするのですが。実際、電話予約は受け付け開始日にまともにつながったこと、無いんで。)
それでは、今日はこの辺で。 また、HPお邪魔させていただきます。
1998年8月9日/ Saida




御無沙汰しています。
京都造形大学で行われた歌舞伎講座、大阪中座で行われた歌舞伎ワークショップを共に受講してきました。
同大学の教授である歌舞伎役者の市川猿之助さんが講師を、二十一世紀歌舞伎組が助手を務め、大学生及び一般聴講生に歌舞伎について講義するという、なんとも贅沢な講座で、講義の他に実技授業として歌舞伎体操や立ち回り、日本舞踊まで教えて貰えるという(実技指導は学生のみですが)非常に充実した授業でした。
歌舞伎も日舞も未経験という学生達は連日朝から深夜まで実技の特訓を受けていたそうです。
最終日には学生達が、実際に舞台化粧をし、衣裳を着ての発表会が行われました。大丈夫かしら・・・と緊張しながら観ていたのですが、たったの5日間の特訓とは思えぬ程、皆堂々としていて様になっていて、心配は全く無用でした。日舞を習い始めてまだ日が浅いわたしは、果たして彼ら学生達ほどちゃんと踊れるのかと自信がありません。
日頃怠惰な生活を送っている自分も、真剣に取り組む学生達、役者さん達のその姿に、忘れていた何かを思い出し胸を打たれました。”翔ばずにはいられないのです”、と憧れを持って話す猿之助さんの”未来は今にある”という言葉が勇気と自信を与えてくれました。
中座のワークショップは、役者を目指している人や演劇を勉強している人など、演劇に関わる人を対象にしたもので、講義内容は造形大の授業とほぼ同じでした。
中座の劇場はこじんまりとしていて昔の芝居小屋という雰囲気で風情がありました。
実際の舞台を使っての講義、実演とあって、その分、造形大の時よりも役者さんの動きが大きく見えました。
歌舞伎三昧と言うよりも、猿之助三昧と言いましょうか・・・。十分すぎるくらいのエネルギーを貰って帰ってきました。
胸の中はまだまだ熱いけれども、暦の上ではもう立秋です  HPの方には、<歌舞伎三昧の夏休み>の(その2)として贔屓の春猿さんについて、(その3)として<鳴神>の舞台の志明院へ行った模様を載せています。よろしければご覧ください。
1998年8月9日/ 赤目うさぎ

URL : http://member.nifty.ne.jp/AKAMEUSAGI/index.htm



こんばんは、のりのりです。 
ふと考えつき、勢いで始めた京都造形芸術大学レポートも、何とか終結することが出来ました。
 しかし実際にやってみると想像以上の苦労で、寝る間を惜しんでせっせとレポート書きに明け暮れる毎日・・・。学生時代でもこんなにハードなことはなかったと思います(笑)
本当はもっと色々と書きたいことはあったのですが、かなり割愛せざるを得ないこととなってしまいました。私のつたなく不完全な文章でも楽しみにしてくださった方々にはこの場を借りて御礼申し上げます。 
私は今回が初めての参加でしたので、色々とどたばたしてしまいましたが、今度はぜひゆっくりと参加したいと思っています(笑)
今後は歌舞伎に関するページを作成しようと思っています。歌舞伎を見たこと無い人に向けても歌舞伎を発信しているのが猿之助丈ですから、少しでも多くの人に歌舞伎を見て頂けるようなページが目標です。まだまだどうなるかはわかりませんが・・・。 
では、たくさんのアクセスを頂きまして、本当にありがとうございました。
1998年8月6日/のりのり


【編集部/北前より】= ありがとうをいうのはこちらの方こそですよ!
詳細な、しかもおもしろいレポートで、その上にリアルタイム(厳密に言えばそうとも言い切れないんだけど(笑)、でもあの頑張りは、スゴイ)というところが最高!
沢山の人にあの授業のすばらしさが分ってもらえたこと、とっても嬉しいです。
もっともっと書きたいことがあったのに、かなり割愛せざるを得なかったと悔しがっていらっしゃるみたいだけど、どんなに書く力のある人だって、あの授業のことを≪書き切る≫なんてこと出来ないんじゃないかな。だって、それほどスゴイ授業だから・・・。
来年はきっと一般聴講の申し込み者が随分と増えることでしょう。それもホントに嬉しいことですね。
ただその場合、ファンとして心してほしいことがあるんですよね。あそこは≪大学≫で、猿之助さん以下役者さん達は≪先生≫で、参加する目的は、あくまでも≪講義の聴講≫であってほしいなって。
ファンの数がドンドン増えると、中にはT P 0 の分からない人も出てきたりするもので、握手だ、サインだ、ツーショットだなんてことが大横行しだしたりすると困ったことになっちゃうでしょ。
運良くそういう嬉しいことにでくわせた!って人が三人や四人や・・・なんてうちは「おめでとう!よかったねェ!!」ってなもんですが、目にあまるまでになると、≪一般聴講≫そのものが無くなっちゃうことだってあるわけで、皆がその辺のことまで考えて参加してくれると最高だと思います。・・・なんて、小うるさい姑みたいなこと言っちゃいましたが、「ミーハーにも三分の理性」!って、大切でしょ。(あんたも、超ミーハーの身で、よう言うなァ〜・・・←―影の声)

それとHPの中に<歌舞伎に関するページ>を作りたいという点についても、運営の仕方によっては意識しないうちに問題を起こしてしまう・・・なんてことがあるんだってことをよく認識しておいてほしいな・・・と。
これはのりのりさんにというよりは、HPを作って、或いはインターネットのあちらこちらに登場して歌舞伎に関するいろんなことを発信したいと思っている方全員にお願いしたいというか・・・。不特定多数の人に向かって発信するということの≪怖さ≫には最大限に敏感でなくては、と思っています。
これは、HP開設以来、今年の八月で二年になる私が、あちこちのHPを覗いたり(もちろん自分の経験を通しても)切実に感じているお願いです。



行ってきました、京都!
一昨日帰京してから出るのはため息ばかり。あ〜〜〜、帰ってきたくなかったあ。感想なんて言葉にできない、できません。
一体あの空間はなんだったんでしょうか。猿之助先生の言葉に、頑張った学生たちに、その学生たちを暖かく見守り、発表会では走り回って彼らを支えた一門の方々に、私はこの5日間で、一体何回感動し、涙を流したことでしょうか。
その時の自分の心、邪念のない心、私自身が、なんと純粋だったことでしょうか。
「泣き申さず候ては化し申さず候」――人間は感動の涙を流した時、素直になり考える力と向上心が生まれる。この言葉を実感した5日間でした。
4日目の授業の後、その日の夕方に締め切った質問用紙を持って、明日の質疑応答時間だけでは全部答えられそうもないからと、自ら聴講生の間を回り、名前をきいてその人の質問用紙をたくさんの中から探し出し一つ一つ丁寧に答えて下さった猿之助先生。
全てのプログラムが終わった後でも、まだ質問に答えていない人がいたら来て下さいと、立ちっぱなしで答えていらした猿之助先生。
決して高飛車ではなく、またそんな時間から自分自身も何かを得ようとなさっているお姿に、私は改めて感動し、尊敬してしまいました。
猿之助さんも講義で出会いについて語っていらっしゃいましたが、人生は本当に出会いですね。
歌舞伎のプロである彼らに直接実技を習う学生をうらやましく思い、またそれと同時に市川猿之助という素晴らしい人と出会い、その人を師匠としている一門の人たちを、心からうらやましく思いました。
それに比べれば、私たちはそれを外から見ていただけのささやかな出会いだったわけですが、それでもここに来てよかった!彼らと、この時間と、出会えて本当によかった!!と感じました。
歌舞伎のことはよく知っているという人でも、参加する価値のある授業です。
精神的な洗礼を受けられる本当に素晴らしい時間です。
みなさんも機会があれば是非、是非、絶対!参加されることをお勧めします。
まだまだお話したいことは山ほどありますが、本日はこれにて…
1998年8月5日/ F.H.




みっきいまうすといいます。はじめてメールします。
京都芸術大学の集中講義の後、若干、熱っぽい気分で。

歌舞伎、そんなに見てるわけでもないんです。見たことあるのは猿之助、顔見世、前進座くらい。で、この5日間の講義聞いて歌舞伎見に行こう、見るなら猿之助!!
あの、うんと昔に「ヤマトタケル」を南座で、地下鉄の難波降りて、地上に出たとこの劇場で「骨寄せの岩藤」を見ただけ。後は何見てるか定かでない顔見世の色々。
講義終了毎に質問書いて、1日目は質問の仕方しらないもんだから、大学宛メールした。
今日、質疑応答日。教授に直接質問してしまった。感激!!
質問したのは歌舞伎のせりふ、ナレーション(というかバックの歌)。 あるところは聞き取れるけどあるところは聞き取れなくてイライラする。私だけが世界からシャットアウトされた疎外感で楽しんでいたのに絶望してしまう。どうすればヒヤリング出来るのか?能のようにいっそ全て判らないなら気にならない、音楽気分でいられるけど。
教授、台本を読めばいい、国立劇場なら台本一緒に売ってるんだけど、とのこと。
え、そうなの。歌舞伎の台本なんて考えたこともなかった。今度、歌舞伎見に行くときは台本読んで、且つ持参しよう。
ここからは翔の皆さんに質問。国立劇場に行く見込みはない私です。歌舞伎の台本ってどっかの図書館にありますか?チケット手配してから台本探すことになるけど。出版社等、教えて下さい。出版されてなくて雑誌等に載ってるんでしょうか?買うと高いもんですか?
これからはちょくちょく、おじゃましょうと思っております。宜しくお願い致します。       
98/08/03  みっきぃまうす




千本桜が終っても、澤潟屋フィーバーはおさまらない。
京都造形芸術大学の歌舞伎講座に続いて、大阪では市民フォーラムとやらが開催されている。この後も、笑三郎の会、右近の会、翔の会と、忙しいことである。
取り残された田舎親父は、時代遅れを承知の上で、千本桜の感想を書くことにした。

◇鳥居前で、忠信は、御名、御着背長を賜った。名誉なことには違いないが、単純に喜んでばかりはいられないことだったと思う。御名を賜ったとは、義経と名乗れということであり、敵の目をあざむく陽動作戦のオトリ・影武者になれという意味が隠されていた、と考える。そして、イザとなれば義経として死ななくてはならないのだ。非情なり義経である。
◇華やかな道行きの場でも、兄・継信の討死にが語られる。合戦を表現する、足を踏み鳴らした歯切れの良い踊りは、御大が得意とするところであり、小生もニコニコして見ていたが、内容は厳しい。継信は、身を盾にして義経をかばい、矢を受けて死んだのだ。兄弟そろっての身代わりとは、哀れである。
◇しかし、いかに忠義とはいえ、追われる義経の身代わりになれるものであろうか?小生は、佐藤兄弟には主従の立場以上の信頼・友情・キヅナがあったと考える。このキヅナは、少年時代に、みちのくの原野で生まれ育ったものであろう。共に学び、共に遊び、鍛えあった仲間であり、苦楽を共にした心の友であり、兄弟であったと思う。兄を懐かしむ忠信の踊り・・御大は胸中に何を思い浮かべていたのだろうか?
◇そこへ登場したのが逸見藤太である。見るからに三枚目だ。が、なんと、段四郎旦那ではないか!リズムに乗った台詞と軽妙な動き。小生は、段四郎旦那の芸の広さに今更ながらビックリしてしまった。藤太は洒落た台詞で笑いを添える。その後、狐の術を使い、使われて、御両人とも楽しそうであった。≪兄弟の力を合わせた、澤潟屋の千本桜≫心に残る最高の名場面であった。

そうである。段四郎旦那もまた座頭を勤めるだけの実力を備えた人なのである。猿之助の多方面にわたる活躍・・歌舞伎役者、舞台芸術家、自主興行、弟子の育成、文化活動・・と背中合わせで奮闘する段四郎を忘れてはならない!!
経済界で名高い、本田技研の本田・藤沢、ソニーの井深・盛田、の名コンビと比較して、優るとも劣らぬ澤潟屋兄弟。人生の朱夏である。
残された課題は、若旦那衆の実力向上であろう。個性・持ち味を生かし、精進をして頂きたい。
“競い合い 励ましあって若獅子よ 想いをつなぎ 宙(ソラ)に翔(ハバタ)け”

“ミーハーも老若男女 勢揃い心晴々 いついつまでも”
とかなんとか言いながら、Yさんの御案内で、入待ち、出待ちを体験。小生は、大方のファンの皆さんは御行儀が良いなあと感じた。笑也さんが人込みを通り抜けて行ったり来たりした時も、誰も邪魔をしたりはしません。家内は、一門の皆さんの服装が落着いていると驚いていた。
◇常連さんには、どうもそれぞれの定位置(?)があるようだ。
◇入待ちの時、猿弥さんの奥さんの顔を見そこなってしまった。残念。
◇葵太夫さんの熱烈ファンもいたようだ。
◇楽屋口の正面にワンボックスカーが止まった。御大のお帰りだ。運転手は笑野さん、露払いは笑三郎さん+一名。護衛は春猿さん。ワンボッスカーのドアを閉めると楽屋へ戻っていった。
御大は出待ちの人の多さに驚いたようだが、笑顔を見せていた。
有楽町に向かった。入り待ち〜通し観劇〜出待ち。フルコースの体験は、我々夫婦には二度とない、一世一代の思い出となった。それしても・・・疲れた。
◇追伸=安徳帝を女性にしたのは、フィクション性を強調するためだったような気がする。平安時代以降、女帝がいない謎に興味のある方に、梅原先生と井沢元彦先生の本を紹介します。『梅原猛著・海人と天皇・上下』『井沢元彦著・逆説の日本史・1〜3巻』
1998年8月 3日 / しっぺい太郎




遅ればせながら、『義経千本桜』千秋楽の観劇報告をします。
今回の三役完演について澤瀉屋は、「これが最後、一世一代のつもりで取り組む」とおっしゃったように、まさに「極付」だったと思います。
澤瀉屋のいくつかの芸談を読んでみると、「四の切」については平成7(95)年2月の大阪新歌舞伎座、「忠信編」については平成8(96)年12月の歌舞伎座公演がそれぞれ「極付」だとおっしゃっています。
贔屓としてはちょっと寂しいような気もしますが、澤瀉屋にとっての『千本桜』は至芸の域に達し、これで完成したと言ってもいいのではないでしょうか。

舞台の内容ですが、私自身も何度か投稿しましたし、新聞各紙や「演劇界」などに専門的な劇評が載っていましたのであえて触れませんが、ただ「知盛」に対する評価については少々納得がいきません。
「権太」や「忠信」についてはこぞって絶賛されていましたが、「知盛」については「三役の中では猿之助の芸風から遠く、一番課題が残る」という評価が目に付きました。それに対して理路整然と反論するほどの知識や観劇経験はありませんが、どうも先入観にとらわれすぎているような気がします。
私は「知盛」自体初めて観たのですが、そこには品格やスケールの大きさが存分に発揮されていたと思いました。皆さんはどう思われたでしょうか?私は涙が出るほど感動しました。

さて、千秋楽について。昼夜通しで観たのですが、もうこの日は序幕から異様な雰囲気だったと思います。大詰「四の切」を迎えると、それは緊張感と相まって頂点に達しました。定式幕が開き、柝が入ると一斉に「具足屋」「延夫」と声が掛かります。大向こうさんの数の多さに驚きましたが、この日は腰元が出てくるところでも「段之」「芝のぶ」と声が掛かり、とにかく圧倒されました。
そして「宙乗り」。ここは「演劇界8月号」の「見物席」に非常に的確な文章が載っていましたのでそれを抜粋させていただこうと思います。「観客は三役をこなすために全力疾走で取り組んでいることを知ってるからこそ、目の前で孤軍奮闘している猿之助その人に感動するわけである。だからこそ上演開始から十時間を過ぎた頃、義経から初音の鼓を受け取った狐忠信が言う最後のせりふ『はや、おさらば』が他の役の同じせりふと違って、猿之助自身への別れの挨拶となり感動は最高潮に達しながらグランドフィナーレの宙乗りへと進んでいく。そして高く翔ばたく神々しいまでの猿之助の勇姿に拍手を送りつつ幕となるのだ(小林順一さんの投稿より)」
「宙乗り」の最中、2階下手の照明室の中に亀治郎さんの姿を見ました。

もちろん「宙乗り」が終わっても拍手は鳴り止みません。
しばらくして、定式幕が開きます。お待ちかねの「カーテン・コール」です。
空舞台にまず笑三郎さんが、続いて右近さん、そして澤瀉屋の登場です。衣裳が「毛縫い」に変わっていました。
観客からの拍手に答える澤瀉屋の目に涙が浮かんでいたようにも見えました。観客席を見渡したあと、澤瀉屋が「思わず」と言ってもいいと思うのですが、「合掌」をするように胸の前で手を組まれたのです。それは、まさに「神々しいまでの勇姿」だったと思います。
定式幕が閉まりますが、拍手のヴォルテージは高まるばかりです。観客は3階まで総立ち。あの歌舞伎座が「スタンディング・オヴェーション」になるのですから、それはもう凄まじいものです。
再び定式幕が開きます。2度目のカーテン・コール、今度は三人板付きです。澤瀉屋が標榜する、役者と観客が「演劇空間を共有」した瞬間を感じました。
澤瀉屋が狐の形で可愛らしく手を振ると、緞帳がおり、ようやく終演となりました。
以上、千秋楽の報告ですが、どうも文章にすると野暮になってしまいますね。
ともかくあの日は夢のようでした。少しでもあの感動が伝われば幸いです。
また、メールを出します。それでは。
1998年8月2日 / Tatsuji Y




「猿之助さん、というと<狐忠信>に代表されるケレン・宙乗りといったイメージしか私にはなかったので、無念を体中に漲らせながら入水する知盛や、小悪党の愛嬌に満ちた権太は非常に新鮮に映りました。猿之助さんて芸の幅がこんなにも広い方だったんだ・・・なんて(とても失礼なことを思って)感動しておりました」
「偏見や先入観のなんと恐ろしいことでしょう。今回の『義経千本桜』を拝見しなければ、私の市川猿之助像は、ず〜〜っと、<宙乗りの猿之助>のままだったと思います」  
先日来のNagako.Yさんのお便りといい、今日のSaida さんのお便りといい、残念というか、切ないというか・・・。
この偏見や先入観というやっかいで得体の知れないものを相手に、猿之助さんはズーッと闘っていらして、しかもそれは、押しも押されもしない大立者となられた今になっても、やはりまだ消えることなく尾をひいているのですねえ・・・。

(歌舞伎の危機が叫ばれた 続けていた時期も) 他の役者さんや評論家(実は世間も)の多くは、歌舞伎の方法論を、固定し変わるはずもない自明のものとして、芸談として語られるレベル、範囲内での工夫や苦心に終始していただけでした。(最近の劇評の中でも上村以和於氏が同様のことをおっしゃっています)
それに対して猿之助さんは、ひとり明確な意識をもって、「歌舞伎を歌舞伎たらしめているものは何か!?」という歌舞伎の根本、限界を探るための実験を三十数年もの間果敢に繰返してきたのです。
それは歌舞伎再発見のための、孤独で血の滲むような実践でした。
けれどもこういうあり方って、猿之助さんが初めてというのではなく、江戸、明治、大正と、歴代の役者さんたちにとっては、むしろ当り前のあり方だったはずなのでは。(歌舞伎狂言の種類の多さを思っただけでも推し量れることではありませんか)
そうして時代の風と切り結び、したたり落とした結晶が 「猿之助歌舞伎」であり、「スーパー歌舞伎」であり・・・・。
ただ、他の役者さん達が成し得なかった「〇〇〇歌舞伎」と賞賛される歌舞伎の創造者となる一方で、猿之助さんには選ばれたものの宿命というか、文化芸術の世界にあるまじき狭量な偏見、先入観という理不尽なものとの長い闘いが待っていました。
しかし猿之助さんはそれを甘んじて受けても、役者であるとともに創造者でもあるという、真の歌舞伎役者として生きる道を選ばれたのでしょう。

けれど、猿之助さんと猿之助さんの創り出す歌舞伎の世界を愛してやまない私たちにとって、<宙乗りの猿之助>と言われ、<普通の歌舞伎と違う>と言われることは、あまりにも哀しい・・・、あまりにも切ない・・・。
先入観に影響されて、未だ猿之助さんの舞台を観たことがないという多くの人たちに対してファンが願うのは、本当に<宙乗りの猿之助>か、<普通の歌舞伎>とどう違うのか、自分の目で確かめてみてほしい!そうして自分の感性で好きか嫌いか(良い悪いじゃなくネ)を決めてほしい!!という、その一点です。
そういう意味でとても残念でならないのは、Saida さんが、昨年の七月歌舞伎座公演を見逃されてしまったことです。昼は歌舞伎史上初めてという「夏祭浪花鑑」の完全通し、夜は猿之助歌舞伎の中でも三本の指に入るんじゃないかという「當世流小栗判官」の通し上演という贅沢さだったのですもの。
世界でも例がないと言われる、28年目を迎えた猿之助奮闘公演(昼夜ともに座頭を勤める)も、猿之助さんの年齢のことなどを考えると、終了にむけて秒読み段階に入っていると言える昨年、そして今年だったのです。
いまさら言ってもせんないことですが、私が悔しがっても尚更どお〜 ってことありませんが、ほんとにほんとに「Saida さ〜ん、デッカイ損をしましたよ〜〜!!!」

同じ損を繰返さないために、9、10月に帰国される予定はないのですか? スーパー歌舞伎もご覧になりたいとおっしゃっていますが、それなら何といっても「ヤマトタケル」が一押しです。
スーパー歌舞伎は全て一から創り出していくという舞台のため、初演は何に限らず粗削りです。(もちろんその粗削りという部分も魅力の一つではありますが)
そういう意味で「ヤマトタケル」は再演の度に練り上げられ、深められ、豪華で、且つ澄み切った宝石のような舞台となっています。
さらに、「千本桜」の三役完演並みに過酷な舞台であることと、十六才の少年時代から晩年までを演じなくてはならないということで、全編を猿之助さんのタケルで通す「ヤマトタケル」は、おそらく今回かぎりになるかもしれないのです。そういう意味で七月の「義経千本桜」同様、一世一代の「ヤマトタケル」になると思います。
まさか、「ヤマトタケル」を観るために帰国してえ〜 なんてことはさらさら言いませんが、もしも帰国される予定があるなら、ぜひぜひ観劇もスケジュールの中に加えてほしいな・・・と。
長い書き込みになりましたね。話し出すと止まらない性格なもので、おゆるしを。
1998年8月 2日/ 編集部 Miyako.K




北前様 メールをありがとうございます。こちらにも(アメリカ)送っていただける、とのこと。喜んでおります。、8号と5号を1部づつでお願いいたします。
さてご質問にあった”観たこともない(歌舞伎を? 猿之助さんを?) のに、なぜHPを”に対する答えは、<猿之助さんを>と言う意味です。
歌舞伎自体は好きで、何度か観ています。 インターネットが出来るようになってから、役者さんのセクションを探すと、数が少なかったので、全部見てみたんです。

「翔」 を読んでみたいと思ったのは、内容が面白かったからです。 それプラス、日本にいる頃、TVでちらっと見た「オグリ」に惹かれたこと。HPの観劇の感想を読んだことなどがきっかけです。
私は 元々、役者さんに限らず、人物自体にすごく興味がある方なのです。
ですから、舞台を見るのと同じ位、評伝を読むのも好きで、 5、8号を、というのは、それが理由です。
HPは、猿之助さんの舞台の様子が分かる、お便りのバックナンバーが沢山見られる、というのは、すごくありがたいです。これからインターネットを始める方のためにも、是非これは続けて頂けたら、等と勝手なことを考えております。いまは舞台を見に行けないので、皆さんのお便りで、せめて雰囲気を楽しみたいと思っています。
後、もう少し 「翔 」本誌の内容がHPで見られるといいな、と思いました。

行こうと思えば見に行けた東京時代より、今の方が、観たい、という思いが強いのは、やっぱりHPのお陰です。
(猿之助さんを観たことがないのは、去年の7月時点では、普通の歌舞伎と違う、と聞いて、観ようという気が起こらなかったためです。オグリは観たかったのですが、予定があいませんでした。)
「翔」の編集、発送、HPの更新、とお忙しいことと思います。 いつもHP、楽しみにしています。
1998年8月 2日/Saida




七月の「千本桜」は、熱狂、興奮のうちに幕を閉じてしまいました。感想を書こうにも言葉が見つからず(今度ばかりは何故か皆さんその様ですね!)、いまだに、あれは何だったのか、もしかして幻を観てたのかも・・・なんて思ってるんです。
そして、今日の昼休みに、更新されたホームページを覗いたのがいけなかった〜〜!
舞台を思い出してしまって、もう午後は仕事にならないですよ〜〜!
それでもってトイレで泣きました。何だか分からないけど涙が出てくる〜〜!
言葉では表現できないけれど、これが七月の猿之助さんを見続けた私の感想の全てです。
熱いものがビシビシ発せられていて、最前列で観た日なんて、まともに受けてクラクラしました。
キャーとか、ヒィーとかを通り越して、辛いというか、疲れるというか・・・だって、眠れなくなるんですもんね。

7/8 に舞台芸術セミナーへ参加しました。金井大道具の社長・金井俊一郎氏が「千本桜の舞台美術について」と題して語ってくださるというのでとても期待していたのですが、物語について大いに語ってくださっているうちに時間がなくなってしまって、お目当ての美術関係についてのお話はあまり聞けませんでした。ただニューデイレクションの「吉野山」や、「大物浦」の船合戦の場のスライドが映し出された時は、そのあまりの美しさにあちこちからジワと溜め息がもれていました。
ぜひ実際の舞台で拝見したい!!と願っていますが、金井社長のおっしゃるには「何万個という花を作るなどということは、現在では不可能でしょう」ということでした。
スライドに映し出された夢のように美しく幻想的な装置を見て、ああ、この一つ一つの花々を「翔」の皆さんたちもお作りになったんだなあ〜と思って、なんかジ〜ンとしてしまいました。
やっぱり、本当に、もう無理なことなんでしょうか・・・・。

それから、これは右近さんの茶話会で聞いた話ですが、テレビ出演のために舞台を離れていらっしゃった時に「早く舞台に戻りたいですよ〜!」と言ったら、猿之助さん、もう満面に笑みを浮かべて「そうだろう!そうだろう〜!」って感じで、とっても嬉しそうにしていらしたそうです。いかにも猿之助さんらしい。やっぱり心底舞台がお好きなんですねえ〜。
また、太秦の撮影所にカツラ合わせに行ったら、「おもだか屋大好き!」 という床山さんがいらして、壁という壁は全て猿之助さんの写真で埋め尽くされていたんですって。
因みに吉右衛門さんがいらっしゃる時には、ゼ〜ンブはがして、また別のを貼るんだそうですが。(笑)
1998年8月1日 / Mami.H




先ほど思い切ってお電話したらお留守でしたので、お便りすることにしました
昨年久々にお出しした手紙が、「翔」八号の手紙編に間に合って本当によかったと思っています。
手紙編の中に自分の一文を見つけた時は、嬉しくて、飛び上がらんまでに喜びました。

「翔」、よくぞここまでお作りになったなあと感嘆しております。自分も本作りに手を出して、その難しさをイヤというほど知ったので、ただただスゴイ!と思うばかりです。私が作っていたものは、今にして思えば若気の至り、思い上がりもいいとこだったと、穴があったら入りたい気分です。また逆に、無我夢中で突っ走ることの出来るエネルギーが、あの頃は私にもあったんだなあ…と、懐かしかったりもするのですが。
一気に読んだ七、八号についてですが、思うこと、書きたいことがあり過ぎて、かえってお手上げ状態になってしまい、なかなかお便りも出来ず今日に至ってしまいました。

「七号」は、京都造形芸術大学講義レポートの「感動伝授手習鑑 」 が圧巻!
いつもながらの猿之助さんのパワー。それを受け止め見事に投げ返した生徒の皆さん。さらにそれを追いかけ、<特集>として完璧に再現してみせた「翔」の手腕。感動ものです、まさしく!
「六号」に対する反響も興味深く、特にMKさんの「アンチ猿之助考」は、かつての自分のことを言われたようで笑ってしまったのですが、本当に笑うに笑えない話です。
あの頃NHさんに、「あなたはもうアンチ猿之助なんだから、認めなさい!」と言われても、頑なに否定していた私ですが、やっぱりアンチになっていたのだと今なら思えます。
猿之助さんに魅せられて、どうしょうもないくらいに大好きになって、猿之助さんを求める一心で劇評集だの研究書だのの類を読み漁ったのだけれど、何時の間にか自分の目ではなく借り物の目でしか舞台を観ることが出来なくなっていき、猿之助さんの本当の姿が見えなくなりました。
いつか、「屈折しまくってしまった…」と北前さんに言われたことがあるのですが、それは本当にそうだったという気がします。

「八号」は、何といっても「追っかけのススメ」と藤山直美さんゲストの「猿様恋狂輪集会」がスゴイ!!
こんな風にトコトン追いかけられたら、幸せだなあ〜としみじみ思います。
そして懐かしい名前、新しく見る名前、投稿の内容に、それぞれの皆さんの人生、時の流れまでが見えて、これだけの長い時間を猿之助さんと共に皆が共有してきたという事実にまた別の感動も覚えました。

落ち込んだり、悶々とした時には「翔」を取り出して読みます。猿之助さんや皆さんのエネルギーをわけていただいたような気がして幸せな気分になれるからです。
かつて猿之助さんや歌舞伎に注いでいたエネルギーは、信州の空の下で、日常生活の諸々と幼児二人の子育てと、そして点訳ボランティアに殆ど使い果たしてしまうという平凡な毎日を送っています。
最近は殆ど手紙を書くことさえもなくなってしまい、便箋を入れた文箱から「おもだか」の透かしの入った便箋を見つけた時は、涙が出てしまいました。
1998年8月1日 / Mamiko.T




今年6月から、インターネットを始めて、歌舞伎関係のHPを探している時に見つけて以来、良く拝見させていただいています。
実際の舞台は見たことが無いのですが、是非、「翔」を見てみたいと思い、お便りさせていただきました。
現在、アメリカにいるのですが、申し込みは、可能でしょうか?お手数ですが、お知らせいただけないでしょうか。
1998年7月31日/Saida

【編集部より】= 「翔」の輪が日本だけじゃなく海の向こうまで広がって行く・・・なんて嬉しいことではありませんか。これまでにもドイツや台湾に「翔」が旅立ったことはありますが、アメリカは初めてです。
ぜひぜひお読みください。そしていつか必ずホンモノの歌舞伎を、生の猿之助さんの舞台を体験してほしい!と思っています。



RUBYさんって、もう猿之助さんのことを観続けて三十年にもなられるんですね。
先のお便り(7月26日付け)にもあった、猿之助さんを三才の頃からご存知だというTさんにしても、いいなあ、羨ましいなあ・・・って心から思ってしまいます。
私はまだ僅か十年のファン歴しかなくて、猿之助さんの舞台からうける感動の強さ(?)は変わらないと思うのですが、感動の深さというか・・・上手く表現できないのですが、何かそういったものについては、とてもかなわない気がしてなりません。
猿之助さんの不遇(?)時代を共に過ごしていらっしゃれたなんて、ともに泣き、共に闘っていらっしゃれたなんて、本当に羨ましい。
例えば、同じ満員の盛況を見ても、私の 「うわぁ、満員!やったァ!!」って感じに対して、RUBYさんは「ああ、よくぞここまで..」と感無量になるとおっしゃるわけで・・・。ああ、やっぱりかなわない・・・。
いまだに<猿之助の宇宙>を体験したことないという不幸(!)な人たちに比べればズーッと幸せなのだけれど、遅れてきたファンであるということが、本当に口惜しい私です。
古くからのファンの方、猿之助さんの若かりし頃をご存知の方、あたらしいファンのためにいろいろと
思い出話なども教えてやってくださいませ〜〜〜。
1998年7月31日/アツコ




初めまして。いつも上司,同僚の目を盗んでは「翔」のHPを拝見しております。そして皆さんの猿之助さんを思う情熱とパワ-に圧倒されております。

私が初めて猿之助さんの舞台に出会ったのは確か昭和45年頃だったと思います。あの頃から、猿之助さんのファンを大切にする姿勢や舞台にかける情熱,真摯なお姿は少しも変わりませんね。
でもあの頃の評論家の先生方は、猿之助さんの舞台を褒めるのは誰かに禁止されているのではないかと思う位、辛口の批評ばかりで (非難と言った方がいい位の)、なんでこんなに面白い舞台を誉めないのかと、くやしい思いをしておりました。
あの頃は歌舞伎を見る人も私のまわりにはいなくて、ましてや「猿之助? 誰それ?」という感じで、そんな舞台に夢中になっている私は“変人”と思われておりました。
だから今みたいに一座だけで舞台が組めて、満員の盛況をみると、「ああ、よくぞここまで..」と感無量となり、まるで無事に成長した息子を見る母親(?)みたいな心境になることがあります。
だから「翔」の皆さんのように大いなる愛で猿之助さんを応援している人が全国に沢山いるのは我がことのように嬉しいです。そしてこの輪がもっともっと広がることを願っております。

前置きが長くて申し訳ありませんが、 そんな皆さんの愛と情熱の結晶である「翔」を私も是非読んでみたくなりました。まだ入手可能でしょうか? あれば是非一部送っていただきたいのですが。
ニックネ-ムはRUBYと申します。みなさま、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
1998年7月31日/RUBY

【編集部より】= なんかこの頃 「はじめて書き込みます・・・」 という方が増えて、ホント嬉しいです。
「大いなる愛で猿之助さんを応援している人の輪が、もっともっと広がることを願っております」ってのも、その通り。そしてこのHP「翔・・・」がそのお手伝いの一端を担っているなら、こんなにうれしいことはありません。
というわけで、猿之助ファンのみなさ〜ん、男も女も、老いも若きも、インテリもミーハーも心は一つ。、お便りジャンジャンお寄せくださ〜い。
あっ、そうそう。「翔」はいまのところ8号と5号があります。ぜひお読みになってみてください。そしてもちろん感想なども楽しみにお待ちしています。



はじめまして。日刊演劇マガジンの方にも書き込みをした“ポー”と申します。
ちょっと私の書き方が悪かったようで、もしかしたら誤解されてしまったかもしれないのですが、 50本以上確かに今年はお芝居を見ていますが、元々私は小劇場・ストレートプレイ系しか見ない人間でした。なので50本はそちらも含めた数なのです。
とは言ったものの、猿之助さん関係も今年は龍神伝1回、オグリは中日劇場も入れて3回、7月は夜の部4回、昼の部2回見ています。6月も3回歌舞伎座に足を運んでいますし、充分初心者にしては“ハマリ”なのかもしれません。
元々、猿之助さんのお芝居を見ようと思ったきっかけは横内謙介さんなんです。私は横内さんと横内さんの劇団のファンなので、これは見てみなければと思ったのがきっかけです。
その結果、充分ハマリましたので、「ヤマトタケル」も9月、10月と遠征する予定です。さらにまた、9月10月は歌舞伎座、御園座、国立劇場、コクーン歌舞伎にも足を運ぶつもりです。多分このペースでは本当に1年間で50回行くのはあながち無い事でもないでしょう。
いずれにしても、これまで色々な芝居を見ましたが(去年は本当に100本見てます)、歌舞伎は敷居が高くて敬遠していたのです。
それを一気に開眼させてくれたのは猿之助さんで、今は他の予約していたストレートプレイを売ってでも「楽日」を見たいと思うほど歌舞伎にひかれています。自分でもびっくりです。
スーパー歌舞伎が歌舞伎初体験だった私ですが、古典歌舞伎にももちろん充分魅力を感じています。あの独特の言い回しがすごく音として快感だと6月の時点で思いましたので、7月は全く抵抗なくリピーターできました。
元々小劇場系の歌舞伎を好きな人達のお芝居が好きでしたので、馴染みやすかったのだと思います。
楽日は何といいますか ―― 歌舞伎とかジャンルを超えて、舞台としてゾクゾクする瞬間というのがたまにあります。上手いとかそういう観念も飛ばして――私としてはそういう感覚を久しぶりに感じて本当に嬉しかったのです。
去年お芝居にのめりこむきっかけになったある舞台(小劇場系)でも同じような感覚でした。こういう事は理屈ではないので、本当に観客としては嬉しいのです。
そんなわけですから、『ヤマトタケル』、もう絶対に行きます。大阪在住の友人にも9月10月は遊びに行くからと宣言しております。
・・・・でも、本当に猿之助さんってバイタリティー溢れる方ですよね。同じテンションでついていけるように、体調整えて見に行こうと思っています。
翔のHPにもちょくちょく遊びに来させていただくつもりですので、どうぞこれからも色々歌舞伎や猿之助さんの魅力について教えてください。よろしくお願いいたします。
1998年7月28日/ ぽー




翔スタッフさま本日、「翔」を仕事先に転送してもらい受け取りました
目の当たりにした「翔」は、何と華麗でそして、やさしくて、愛情深くて、皆さんの猿之助さんに対する愛がきらきらと溢れだすようなそんな感じ(^^)
まだ、すみずみまで、読むことができないで、おりますが、わたしの宝物のひとつとして大切に読ませていただきたいと思います。本当にありがとうございましたm(__)m

ところで、先日、私は、オペラ・ファンで、そして、演出家、猿之助さんのファンと書きましたが、長年の夢というか、いつもオペラ仲間の友人に言っていることなのですが、私には猿之助さんの演出で、「ワーグナー」物が観たいという望みがあります。
これは、猿之助さん演出の「影のない女」を観劇して以来、そして、猿之助さんの舞台を拝見する度に願わずにいられないことなのです。
「影のない女」観劇の休憩時間に、まじかに小粋な洋服姿の猿之助さんと遭遇、そして、カーテン・コールに舞台に現れた猿之助さんは、素敵な羽織袴に変身され、その優雅なご挨拶と姿に会場から、ため息と演出のすばらしさに「ブラボー」の嵐が...今でも、その時の感動を忘れることができないでいたりします(*^^*)
わたしが入っている「新国立劇場」の会報「The Atre」6月号に猿之助さんのインタビューが掲載され、やってみたいオペラとして、ワーグナー、そしてモーツアルトの「魔笛」を上げてらっしゃって、もううれしくて、迷惑もかえりみず回りに「ねっ、ねっ」って、見せたりしておりました(*--*)
わたしは、日本が世界に発進することができるオペラ演出は、猿之助さんこそと想い、そして夢が叶うことを、願ってやみません。
長くなって、しまいましたので、6月号のインタビュー記事の要約は、後ほど、改めてメールさせていただきます。
また、私は7月公演千秋楽チケットをもちながら、所要のため、どうしても観ることができませんでしたが、姪っ子と姉が代わりに観劇。感動!の電話が入ってきました。
7月公演、終わってしまって残念ではありますが、今は、京都の歌舞伎講座がとっても楽しみな私でもあります。それでは、皆様、本格的に暑くなって来た今日この頃、ご自愛くださいませ。
1998年7月28日 / 翠真




(北前美耶子様) とてもお心のこもった嬉しいお返事、ありがとうございました。今日のメールはHPにUPしていただくというよりも、より個人的にお送りしたいな、と思いまして書き込みをさせていただきます。
《 ということなのですが、私だけが読むのではなく、もっと沢山の方にも読んで貰いたい!と思ってしまうお便りで、やっぱりUPしてしまいました。Nagakoさん、ゴメンなさい》 ******************************************************************************

> ファンにとって一番残念で切ないのは、ケレン・宙乗りといったイメージ、色眼鏡でしか
> 猿之助さんを見ない歌舞伎ファンが未だに多いということなのです。
> ケレン・宙乗りは、猿之助さんの数ある演出法の中の一つ、演技術の中の一つに過ぎないというのに。
> それから、今の段階では猿之助さんだけが特出して見える・・・というご意見、全く同感です。それはもう本当にその通りで、その点が猿之助さんの不幸であり、歌舞伎界の不幸であり、観客の不幸だと思います。
> 貴女が愛してやまないのは玉三郎さんではありますが、私たちは本質的にとてもよく似た者同士なのですねェ・・・。
> 何だか、文章の一行一行が、スーッとそのまま心に染み込むような気がしました。
> 『義経千本桜』、ご覧いただいて、本当に本当に良かったです!!!  

この北前さんのお気持ちは、痛いほど私の胸を打ちました。  
世間一般の見方(先入観、ともいえましょうか…)として、<市川猿之助>といえば、 「ケレン・宙乗り」といわれ、私が「スーパー歌舞伎」に興味を持たなかった第一の理由 も、−どうせ「ケレン・宙乗り」のオンパレードだろうから−といった気持ちからでした。  
では、猿之助さんの舞台を目にしたことがないのか、というと何年も前にはなりますが、ちゃんと観ているのです。一体、当時は何を観ていたのやら…少々情けなくなりますよね。 
それで、「失礼かしら…」と思いながらも正直な感想を書かせていただきました。なのに、「ありがとう」とまで言っていただいたことに感動すると同時に、北前さんのメールからも感じ取れる厳しい現実があるな、とも思いました。
偏見や先入観のなんと恐ろしいことでしょう。今回の『義経千本桜』を拝見しなければ、私の市川猿之助像は、ず〜〜っと、<宙乗りの猿之助>のままだったと思います。  
でも、世間一般が猿之助さんに対して偏ったイメージを持ってしまうことを「切なく」さえ思うという、北前さんはじめ沢山のファンがいらっしゃることは、「猿之助さんの幸せ」ですよね。 

といったようなことを、−何故お伝えしたくなったか−というと、ワタクシが<愛して やまない(という嬉しい言葉を書いていただくと、非常に照れてしまうワタクシ!?です が…!?)玉三郎さん>にも、同じような偏ったイメージが確立されていることを私は、やはり悲しく思っているからなのです。  <キレイキレイの玉三郎>とでもいいましょうか。
確かに玉三郎さんは綺麗です。それは誰もが認めることだと思います。また、<キレイキレイの玉様>のファンの方が実際にたくさんいらっしゃることも事実です。 
けれども、その美しさは玉三郎さんのたぐいまれな天性の才能と飽くなき精進によって培われた卓抜した演技力・演出力の賜物である、と私は確信しています。
そしてその豊かな才能は、歌舞伎の女形にのみ発揮されているわけではありません。俳優として舞踊家として演出家として映画監督として遺憾無くその実力は示されているのです。  
しかし、それが「見えない」ことが(人が)多すぎる現実に、時として思わず深いため息をついてしまうことがあります。
何故って、<キレイキレイの玉三郎>は永遠に続かないし、綺麗なだけでは人は結局飽きてしまいますもの。  
そしてまた、斯く言う私自身も「お人形は写真で見ていても綺麗だから」という気持ち から一時、玉三郎さんから離れました。今では到底考えられないことですが、本当にそう思ってトン、と舞台に何年も足を運ばなかったんです。−その間にも玉三郎さんは勿論、舞台に立っていらしたし、多くのことに挑戦もしていらっしゃいました。……後悔をどれくらいしても始まりませんよねえ…!?。  
そんな私がもう一度、玉三郎さんに目覚めたのは、舞台ではなく意外にも映画でした。 (でも、それも映画館で観たわけではなく上映から3〜4年も経った後のビデオを観たのですから、私がいかに玉三郎さんから離れていたか、がおわかりいただけると思います)
『ナスターシャ』のムイシュキン侯爵を演ずる玉三郎さんに非常な衝撃を受け、私の中の <キレキレイな玉三郎>像が音を立てて崩れた瞬間から、猛然たる玉様の「追っかけ」を再開しました。
それからはまさに空白の部分を取り戻すように嵌っています。  

ですから、たとえ贔屓の役者は違っていても、北前さんたちのように<宙乗りの猿之助>の奥の本当の猿之助さんをしっかりと見ていらっしゃる方に出会うと、その感性をとても 尊敬すると同時に、私はその感性を育てるのに時間がかかったな、とちょっぴり悲しくもなります。
が、ある時玉三郎さんが「たとえ、歌舞伎を観なくなる時期があったとしても、また「あっ、そうか」と舞台に足を向けるようになる−それでいいんじゃないか、と僕は思います。」と仰った一言にとても救われたことがありました。  
また、北前さんのような方に「似たもの同士」と言っていただいたこと、とてもとても 嬉しく、素直に喜びました!。  
その北前さんが猿之助さんだけが飛び抜けていらっしゃる今の現実を「観客の不幸」だ、と言われたことにも、ハッとさせられました。本当にその通りだと思います。  
今の状態では猿之助さんがこの世を去られたら全ては水泡に帰してしまうし、それは、玉三郎さんにも言えることなのです。
だからこそ、猿之助さんも玉三郎さんもお弟子さん方の育成に真剣に取り組んでいらっしゃるのでしょうが、人材育成は大変な情熱と忍耐を必要とする労作業です。
それを思うと、猿之助さんや玉三郎さんがお元気な姿で舞台で活躍されることを、ただただ祈る気持ちですし、次代の役者衆を育てる一翼を観客が担うのであるならば、やはりその一隅に居て50年後も(もしかして、まだ生きているかもしれないから!?) 歌舞伎を楽しめる世界を、多くの歌舞伎ファンの皆さんと守り育てていきたい、と思っています。 

*******************************************************************************   長い下手な文章になりました。貴重なお時間を使わせてしまって申し訳ありません。 でも、書かずにいられなくて思わず手が動いてしまいました!。  
これからは、何かの機会があれば、<スーパー歌舞伎>も拝見してみようと思います。 また、新しい発見も出来るかもしれないし…。 今年は天候が不順です。お体、大切に良き夏をお過ごし下さい。
1998年7月27日 / Nagako.Y  

                       



終わってしまいました...。涙、涙、涙...。
「劇場は、明日へのエネルギーを得るところ」猿之助さんはいつもそうおっしゃいますけど、なんだか魂抜かれて仕事手につかないわ、ボーッ。
千秋楽の舞台は、盛り上がって、とってもとっても素晴しかった!!!
でもね、最後にちょっぴり嫌なことがあって、なんだかがっくり落ち込んでしまいました。

終演後、いつものように出待ち。楽はいつもそうですけど、ものすごい人でした。
松竹の偉い方とのお話しがあったとかで、いつもより遅かった猿之助さんのお帰りのときも、大勢がワーッと群がり、押包んでしまったので、私たち控え目組は、これまたいつものように、ちょっとはなれた車道の脇に立ち、猿之助さんのお車が前をいき過ぎるほんの僅かな一瞬を待っていたわけです。
で、いよいよ車が動きだし、前に来かかったとたん、一人の女性が横からすごい勢いで割り込んで、なんと、私たちの前に立ち塞がっちゃったんです!遠い地方からたった一回の観劇のためにはるばる出かけて来た、なんて人もいたのに。ほんの僅かな一瞬を心待ちにして、同じように長時間待っていたファン同士だというのに。
おかげで私たちには猿之助さんの エ の字も見えず・・・。
いっくら猿之助さんに夢中だからって、他のファンの気持ちを踏みつけにしていいってことはありませ
んよねエ〜!?

この際だから言っちゃいますが、この女性に限らず、この頃出待ちのお行儀が悪すぎるような気がしてなりません。あれだけの舞台を勤めて、疲れ果てていらっしゃるに違いない猿之助さんに、サインをねだったり、時にはツーショットをお願いするような人までがいて、あんまりじゃないのでしょうか。
最近のこういう傾向は、猿之助さんのところだけじゃなく歌舞伎の役者さんの周り全般に言えることのようですが、やっぱりみんなして心しなくちゃならないことじゃないかと思っています。 
入り待ち、出待ちは今に始まったことじゃなく昔からあったことではありますが、馴れ馴れしく近づくなんて人もなく、憧れと畏敬の念をもって奥ゆかしくお送りしたものでした。
何だかうるさいおばさんみたいだけど、出待ちするなら最低限のルールは守りましょう、お互いに。 
1998年7月27日 / Kyouko O.

編集部より=うーム、むつかしい問題ですねぇ・・・。結局はTPO感覚と思いやりの問題なんでしょう。
役者さんへの思いやり、同じ立場のファンに対する思いやり・・・。私たちも心しょう〜〜。




ああ〜、とうとう終わってしまいまいました。昨夜もまだずーっとずっと「行きたい、行きたい、もう一度観たい!」と思い続けていて、今日になってもまだ、「あ・・・そろそろ楽屋入り」とか、「いま幕があいた・・・」とか、「きっといまごろはカーテンコールの真っ只中・・・」とか、終演の9時30分を過ぎる頃まで、心は完全に歌舞伎座でした。
そして本当に終わってしまったいま、後悔だけが胸を浸しています。
地域行事の主役なんかほっぽり出しても、夫にイヤミの2つ3つくらい言われても、子供にシメシがつかなくたって、やっぱり、やっぱり行けばよかった!!!
二度とはない、三役完演の千秋楽の猿之助さん一世一代の舞台を、もう一度しっかりと瞼の奥に焼き付けておくべきだった!!!って。
そう言えば十年前の「義経千本桜」(三役完演)時も、行きたい思いが抑えられなくて、お風呂の中でジャブジャブ顔を洗いながら泣きましたっけ。
今回はさすがに十年歳をくっただけあって、ジャブジャブ顔を洗いながら泣く・・・なんてことはないけれど、ただヒタヒタヒタヒタ・・後悔の念が押し寄せる・・・・。

15、16日に上京し、両日とも通しで観劇。
圧倒されて、うちのめされて、感動にむせび泣いて、言葉を失いました。
なにを書いても 「足りない! こんなうすっぺらな表現じゃダメ!! 」って。そのうち、私ごときが感想を述べるなんて、「もったいない」という気さえしてきて、本当に書けなくなってしまった・・・・。
この深い深い感動を、キッチリと猿之助さんにお伝えしたい! 否、お伝えしなくちゃ!!と思うのに、ブッ壊れた頭じゃ作文能力ゼロですもンね、それさえも出来ませんでした。
そのことも、また、後悔、後悔、後悔〜〜〜。

静岡にお住まいのファンTさんから電話が入りました。80才半ばのご婦人ですが、おっしゃることの一つ一つにファンとしての年月の重さ、深さが本当にしみじみ溢れているんです。
Tさんが猿之助さんをはじめてご覧になったのは、何と猿之助さん3才の頃だったとのこと。歌舞伎座のロビーで、お母様の高杉早苗さんに手を引かれていらっしゃったらしいのですが、Tさんのおっしゃるにはーーー
「ちっともじっとしていない元気な坊やでネ、ああ、この方が将来のおもだか屋をしょって立つ方になるんだわ・・・と思って。でも、こう申しては何ですけど、あんまり可愛いって感じでもなくって、とてもこれほど大成されるだろうとは思いませんでしたの」
禅宗の由緒あるお寺に嫁がれて三人の子の母となられたTさん、好きな歌舞伎からも遠ざかり、15〜16年の間はひたすら子育てと厳格な寺の暮らしに溶け込むための苦労に明け暮れられたとのこと。
ところが突然のご主人の死。そこから針のムシロのようなTさんの毎日がはじまりました。あまりの辛さに、三人の子供と一緒に「いっそ死んでしまおう・・・」と考えたことも二度や三度ではなかったとか。
やがてそんなTさんにも唯一の逃れ場所が出来ました。
17、8年ぶりに観た猿之助さんが、予想だにしなかった輝くばかりに華のある青年役者となっていたことに大感動、勝手に子供たちと同年代の猿之助さんを四人目の子供と心に決め、年に数回、誰にも告げずコッソリと隠れて舞台の猿之助さんを観続けることに決められたのです。
「お芝居のお話などしても、私の周りには誰一人理解してくれる人がいませんでしたから、舞台のことも猿之助さんのことも決して口には出せませんでした。本当にあの頃は毎日毎日が口では言えないほど辛いことばかりでしたけれど、猿之助さんを観続けることで、どれだけ救われて参りましたことか・・・」Tさんにとってある時期、猿之助さんは本当に生きる支えだったとおっしゃるのです。
「そういうこと、猿之助さんにお伝えになったことがありますか?」 とたずねると、「わたくしも間もなく地下に行かねばならない歳になって参りました。来年はもうないかもしれません。それでせめて、
“長い間勇気と元気を頂きました”とお礼を申し上げたくて、この間の地方公演でこちら(沼津)にいらした時にも出かけたのですけど、やっぱり何も申し上げずに帰ってまいりました」と。また
「お手紙にしようかとも思いますけれど、いまはもう手が震えて字が上手に書けませんの。もう充分に生かして頂きましたし、子供たちも立派にやっていますから、心残りはありませんけれど、猿之助さんにお礼も言わぬままに地下に行ってしまうのかと思うと・・・」
白内障で視力も弱っていらっしゃるのですが、七月の舞台も (息子さんに伴われて歌舞伎座に出かけ)ご覧になったといいます。
「何年か前から、“これが最後かもしれない”と思って観るようになりましたけれど、今年はもう手を合わせるようにして拝見して参りました・・・」

Tさんの猿之助さんに対する思いの深さ、年月の重さ。 だからこそ、言葉にならない、伝えきれない
とおっしゃるのもよく分る気がして、受話器を握ったまんま、チョット貰い泣きしてしまった私です。

ああ〜、たかが舞台、されど舞台。やっぱり、やっぱり観に行くべきでした。

1998年7月26日 / Miyako.K



私も亀ちゃんファンです。今月の舞台も、もう完璧でワクワクしちゃいました。亀ちゃんが舞台に立つと、そこだけスポットライトを浴びたようにクローズアップされるんですよね。私は亀ちゃん子役時代の、『雙生隅田川』における、叔父さんを食うほどの宙乗り・早替わりを見て、将来の猿之助はこの子だなと確信しました。その子がさらに磨きをかけて、再び皆さんの注目の的になっていると思うと、何だか自分がジジババになった感じです。私は早く亀ちゃんによる猿之助歌舞伎を見たいです。亀ちゃんの話しに終始してゴメンナサイ。      
1998年7月26日 / うさちゃん




皆さん、こんにちは。亀治郎さんの評判がとても良く、嬉しく思っている今日この頃です。
亀治郎さんは今年三月に大学を卒業なさって、この四月から「真の歌舞伎役者の道」を歩み始めました。卒業以来、古典歌舞伎の最初のお役お里」は記念すべきお役であると思います。
月の最初の頃は、教えに忠実になさっている、という印象でしたが、段々亀ちゃまらしさが出てきて、15日に拝見した時は、お里」をご自分の物になさった、という印象を私も持ちました。
亀ちゃまの「ビビ、ビビ、ビイー」では、大好きな弥助さんとの祝言でご機嫌の、可愛いお里への好感と、そのお里」をなさる亀ちゃまへの感嘆とで、どよめきともなって客席中が引き付けられていましたよ。
亀ちゃまは、本当に身のこなし、しぐさがとても美しく、何ともいえぬ雰囲気が漂っています。特に指先は要注目です。「わかおもだか」亀治郎さんの新たなスタートを祝福してやみません。
明日はついに千秋楽をむかえます。猿之助さんの一世一代の舞台の楽日、感無量ですね。しっかりと目に焼き付けてきます。
お月様も、ねやしゃんしたので私も、明日に備えて、寝ましょう、寝ましょう。それでは失礼いたいました。
1998年7月25日 / Takako.M
編集部= そういえば、「江戸ぐるめ」さんのHPでも亀治郎さんのお里のこと、特筆して誉めていました。美しい手(指)のことについても・・・。やはりみんな同じこと感じているんですね。




消化不良の私を救ってくださる日刊演劇マガジンへの書き込み、そして、ご親切なメールまでいただきまして、本当にありがとうございました。友人にもさっそく教えてあげようと思います、彼女も気になってると思いますので。
おっしゃるとおり、近頃ではすっかり歌舞伎の虜となり、少しでもたくさんの歌舞伎の舞台を見に行って、いろいろな演目や多くの役者さんの演技を見ようと励んでおります。(時間とお金の都合がつく限り・・・テレビという手もありますし)
私は東京育ちの埼玉在住で、3月からずっと毎月歌舞伎座に行かせていただいています。(本当は1月2月も見たかったのですが、甘くみていた私はチケットをとれなかったのです。)
また、おとといは、全国を巡行中の左團次さんの「松竹大歌舞伎」を練馬区文化センターというところまで見に行きました。出し物は「毛抜・口上・二人道成寺」、とってもおもしろかったし、きれいでした!!
また、8月には歌舞伎座八月納涼歌舞伎に、9月のコクーン歌舞伎も行かれそうです。

さて、猿之助さまの舞台は、本当に感動しました。できることならもう一度見たかったけれど、毎日一幕見席も満員御礼らしいですね。そうだろうなあ、と納得しちゃいます。
お恥ずかしいですが、猿之助さまが大学の教授でいらっしゃるというのは知りませんでした。大阪の歌舞伎ワークショップの見学、すごーい魅力です!!休みの都合がつけば絶対行くところなんですが、残念ながら今回は行かれそうにありません。
↑このような機会がまたあれば、次こそ行かせていただきたいと思います。きっとまたありますよね。

私が初めて歌舞伎を見たのは京都の南座での顔見世興行です。神戸の友達が私より一足早く歌舞伎に夢中になり、暮れに遊びに行った時、彼女に誘われていったのです。最初は半信半疑でしたが、行ってみてびっくり、こんなにすごいものをなぜいままで誰も教えてくれなかったのか!!帰ったら、絶対歌舞伎座に通うことを心に決めていたのでした。
関西歌舞伎というのがどういう役者の方だか、まだ勉強不足でわかりませんが、雁治郎さまはそうですよね、初めての人だっただけに(?)とってもファンになりました。すごく、可愛いんですよね、こんなことを言って失礼でなければ。
と、いうわけで、私には関西にも歌舞伎友達がおりますので、必ず行きます。猿之助さまの講義をお聴きしたいです。
そして、「ヤマトタケル」も是非是非行きたいと思います。(あ〜、もう前売り開始なんですね。)その時は、またいろいろ教えてくださいませ。よろしくお願いいたします。本当にすばらしい情報をありがとうございました。またお便りいたします。
1998年7月24日/ うさぎ




亀治郎さん良かったよ!
京屋のファンの方から、「お里は芝雀の方がいい!」と書かれていましたが、確かに7月の最初の方は、研究熱心な亀治郎さんらしく、色々な方のお里を研究したからか、ご自分のお里になっていなかったような気がします。
でも千秋楽近くにもう一度見に行ったときは、芝雀丈のお里でも福助丈のお里でもない、亀治郎さんの「お里」ができあがっていて嬉しくなりました。 おもだか屋のファンに限った事ではないでしょうが、熱烈ファンというのはなかなか、役者の悪い点を指摘しない(「恋は盲目」ってやつかもしれませんが)というところがあります。
ですからこのページに色々な方がきてくれることは、おもだか屋一門全体の発展にもつながって好いことだと思いました。
1998年7月23日/ Syunichirou.K




チケットをお願いしてあったのは、後半戦は22日と千秋楽だけだったんです・・・本来は!!
でも、18日にご挨拶だけ・・・と出待ちに行ったあと、19日はやっぱり特別な日!(観客のテンションも高そうだし!)ひと幕だけでもと思い、四の切の幕見に行ったら、満員御礼札止め!!ということで、幕見も立ち見も補助席もとにかく「これ以上人を入れたら危険」(私が、「あと一人、どうにかなりませんか〜〜。」と泣きついた社員さんから出た言葉!)というくらいの盛況でした。

「この舞台とはもう二度と出会えない。」という想いに抗えず、20日より毎日通います。
舞台は本当に生物・・・。今日(21日)の夜の部はまた一段と良かったです。(すでに何度か観ている数人の知人も言ってました。)具体的な感想は千秋楽を観てから、メールさせて頂きたいと思いますが、6日の印象と大きく変わっているのが、忠信のお顔(化粧)がおかしいと感じたのは隈取りの赤(朱色というのかしら?)が薄くて(←一番輪郭側のあたり)、お顔のメリハリがいまひとつだったような気がしたんですが、(その日だけそうだったのかもしれないけど)今は、鳥居前の忠信もとてもカッコいいです!
序幕も上手く言えませんが、柔らかいまとまったお芝居になっていると思いました。(6日は説明的な芝居という感じを受けた。)
毎日劇場を後にする度に、(楽までまだあるにしても)「この舞台、このたった今目撃したものとは二度と出会う事はない。」とその時間を共有した喜びと同時に、寂しさも感じたりします。この昂揚感が瞬時に過去になってしまうことに対して。毎日幸せをありがとう!と泣き出したいような気持ちを抱えつつ、舞台と向かい合ってます。
この3週間の休暇の間、歌舞伎座そして造形大AND大坂のセミナーと、勝手に「史上最強の休暇!」(^−^)vと名づけてるのですが。(時節柄ちょっと危ないですか?こんなワタシ・・・ ^ ^;)
でも、芸術ってある種狂気の創造・創出みたいな部分あるでしょう?
狂うなって言う方がムリですわ、猿之助さん!!
こんな美しい、激しい舞台に魅せられて、どうやってみなさん正気を保っているのでしょうか?
では、みなさん、もうチケットは完売です。当日売りと幕見に賭けて下さいっ!
1998年7月22日/ YasukoW .




久方ぶりにメールさせていただきます。  
5月に『翔・8号』に感動して手書きの感想をお便りいたしましたら わざわざ抜粋までして下手な感想文をHPに載せてくださいました。却ってお手間をとらせたな、と恐縮することしきりでしたが、その時北前さんが「7月には舞台を見てほしい」と言った趣旨のコメントを添えていらっしゃったので、〜ではっ!〜 と、今回何と12〜13年振りに猿之助さんの舞台を堪能! ―― しかも幸運にも 7/19のチケットが入手でき、約10時間もの間、”猿之助ワールド”を楽しむ ことが出来ました。 ――ので、その感想文をお送りします。  

一言で言えば《 圧倒! 》されました。  
19日は「通し狂言を昼夜を分かたずに楽しむ」と言った新趣向の舞台だったこともあるのでしょうが、何よりも客席が隙間なく全てビッシリと埋まり、役者と観客の呼吸がぴったりとあっている舞台は本当に久しぶりでした。――仁左衛門さんの襲名披露興行に期待をしすぎる程期待をして足を向けたものの残念ながら<忘我の境地> に浸る程ではなかったし、私にとっては< 誰に何と言われようが第一の玉様 >が新境地を見せられて観客に衝撃を与えた6月の歌舞伎座でも空席があり、うねるような熱気は口惜しいながら余り感じられなかったことを思うと、19日の舞台は、初めて<歌舞伎>に身が震えるような感動を覚えた時のことを思い出させてくれました。
  
それも偏に猿之助さんの「死闘」と呼ぶに近い気迫溢れる舞台の賜物なのでしょう。 
梅雨時の蒸し暑い7月の1ヶ月間を殆ど舞台に立ち通しで過ごされることは並大抵で は出来ないことだと思います。座っているだけの私達でさえ「疲労感一杯!」なんですものね。それが50代も後半の齢でしかも座長としての重責を負いながら客席全てを巻き込まずにおかない猿之助さんの凄さを実感しました。皆さんが<嵌る>気持ち、 わかる気がします。  
特に『義経千本桜』の三役完演は今回が見納めであり、噂によれば7月の「猿之助 奮闘公演」も間もなく目に出来なくなると言われており、その上「歌舞伎座移転」のニュースが流れていると言った状況下での舞台であれば、客席のお一人お一人の気合いの入れようも常ならず〜!?、になるのも当然! ―理屈抜きのいい舞台でした。 
  
中でも私の中に残ったのは<碇知盛>と<いがみの権太>の二役。
猿之助さん、というと<狐忠信>に代表されるケレン・宙乗りといったイメージしか私にはなかったので、無念を体中に漲らせながら入水する知盛や、小悪党の愛嬌に満ちた権太は非常に新鮮に映りました。「猿之助さんて芸の幅がこんなに広い方だったんだ・・・」なんてとても失礼なことを思って感動しておりました!。  
勿論、<狐忠信>は真骨頂でいらっしゃると思います。宙乗りの時の客席の沸き返りように歌舞伎の醍醐味を改めて感じました。
移動舞台の<鷺娘>等で観客をも共に異なった時空に連れ去る玉三郎さんの舞台に、ひたすら酔いしれてカタルシスさえ感じている私ですが、玉様以外の舞台で久々に異次元に入り込んだ気持ちになりました。  
これからは「21世紀歌舞伎組」の皆さんがもっと成長されればより面白い舞台になっていくのだろうと思います。今の段階では私の目には猿之助さんだけが突出してしまわれているような … 特に女形の皆さんが「大女」なのには、えっ!と言った感じで、猿之助さんや右近さんがとても可愛く見えてしまいましたから …。でも、 課題があるから成長も出来ますものね。これからが楽しみな皆さんです。 ―といったところでしょうか。  

本当はもっと書きたいことがあるはずなのに上手に言葉にならないのがもどかしい気がします。やはり目にすることが一番ですよねえ!。 ―まだご覧になっていない貴方!、急ぎ歌舞伎座に足を運ぶべし! ―(但し、3階席は完売状態です。ご留意の程を!)
1998年7月21日 / Nagako.Y                        




一人三役という言葉にだまされてはならない。知盛は3役。権太は2役?忠信は、鳥居前・道行・本物・化身忠信・狐の本性の5役。実質は8〜10役となる。
これほどのものを、一日の公演の中で演じ分けをするのは元々無理があ る。演劇作品としての完成度を評価基準にすれば、道行や狐の本性に120点をつけたとしても、10×100=千点満点にはならないかもしれない。
しかし、市川猿之助の多種多様な、多彩な魅力を、芸の力を、歌舞伎に対す る愛情を、ファンに対する愛情を、芸術家・市川猿之助の総てをさらけ出した芝居である。無機質な点数で評価したり、枝葉の演技をトヤカクいったりするのは言語道断である。
一世一代、最後のチャンスとして一人三役に挑戦してい る御大の心を、素直な気持で、しっかりとうけとめなくてはならない。
食堂で昼飯を食べている時、宙乗りの源九郎狐が目に浮かび、目がしょぼつ いてきた。なあに、しっぺぇ太郎の作文だろうとか、例のクサイ表現だとか思われてもしかたがないが事実である。
席に戻ってしばらく迷っていたが、ハラ を決めて家に電話をした。その結果・・・トンデモナイコトになってしまった!!
千穐楽のチケットが取れてしまった。 2週連続して上京しなくてはならないのだ。これでは、親父の権威はガタ落ちである・・・
ワッハッハッハッ(女房は笑い声まで成田屋に似ている)心配す るこたないヨ。親父の権威なんぞ、ハナからありゃあしないんだから・・・
身か らでた錆ゆえ、返す言葉もなかりけり。あとは野となれ山となれ・・・
1998年7月21日 / しっぺぇ太郎




猿之助ファンの皆さん御元気ですか。
病気のおばあちゃんも御元気になられたそうで、よかったですね。
さて、11日に昼、17日に夜の部を観てきた感想を早速述べさせてもらいます。
数年前の歌舞伎座での『義経千本桜』を観た時には、『大物浦』の場面はボーとして観ていました。知盛の舞いも入水もあまり印象に有りませんでした。
しかし、やはり猿之助丈がやるとすごいの一言になってしまいます。特に、知盛が運命を受け入れて覚悟する場面には感激しました。宗十郎丈の典の局もさすがですね。
それから『道行き』で狐の本性が顕れる所などはまさに絶品ですね。演劇の評論家諸氏の中にはやりすぎだとか、ケレンが過ぎるなどと批評する人がいますが、そういう人には観て欲しくない!とさえ思ってしまいます。歌舞伎は市井の娯楽であって、大衆に支持されてこその芸術であるという事を解っていないのではないのでしょうか。
横道に外れてしまいましてすいません。
『鮨屋』も、最後の『四の切』も、観れば感激雨あられ。これで見納めとは残念至極に存じまする。
どの役をとっても、普通の役者なら三役どころか一役で精根尽き果ててしまうような熱演でした。市川猿之助という役者に出会えて、また今回の舞台を観る事が出来て、本当に良かったと思います。
もう少し文章の表現力が欲しい。言いたい事の半分も表現出来ない自分がもどかしいです。

話変わって、翔を少し読みました。あまりのボリュームなので中々全部は読破出来ていませんが、関心するやら呆れるやらの内容ですね。藤山直美さんへのインタビューは、ビデオがあれば観てみたいほどの面白さでした。
8号でおわりと言わずに出来る限り続けて皆を楽しませ泣かせて下さい。期待している人は大勢いると思います。

猿之助丈の芝居を観る事は、心の栄養です。
もっともっと、栄養が欲しい。
春秋会もあるし、三国志も早く観たいですね。
ところで、僕のメールネームですが、最初に観た『小栗判官』での宗十郎丈の役柄から≪矢橋の橋蔵≫にしたいと思います。
1998年7月21日 /矢橋の橋蔵




通し(19日)は最高の舞台でした。
「鼓を貰い歓喜に咽ぶ子狐が大空を翔ける」いつものあのクライマックスシーンが殊の他素敵でした。
猿之助丈のあの仕草あの笑顔、それは演技とか観客サービスとかを超えたもののように感じていました。丈は勿論観客にファンに観劇の喜びを与えるものですが、それ以上に丈自身の歓喜を観た気がしたのです。「この人は、この日、この時、自分の絶頂を感じてはる」と。
大事を成した男の子供に返ったようなクシャクシャの笑顔、男の胸にもこたえるものでした。今でも「あの日、あの時」に同席出来たことだけでも有り難く勿体無く思います。同じ時代に生きてて良かったと素直に喜べるものです。

この通しの日は考えて見れば異様です。見も知らぬ1800人が身動きもままならぬまま一日中缶詰にされるのですから。寝台車に乗れば青森まで行ってしまいそうな時間は正に猿之助ワールドへのツアーでした。氷の壁に丈の大写真が填め込まれ、模擬店も出て、「俳優祭」ならぬ「猿之助祭」でした。
観客も休憩時間はラジオ体操でもするべきじゃないか?と肉体的苦痛をかこつものだったでしょうが、58歳の丈がほとんど出ずっぱりで「三役完演」なのですから文句はありません。
「一日中でも観たい」観客が集まれば、舞台は演者と観客が作るものである以上、この日の大成功はハナから決まっていました。

そして其の通りの異様な盛り上がりでした。
丈の「気合入れて行け!」の指示があったかどうかはともかく、「若旦那にあそこまでやられては」的な緊張感が脇にまで隅々行き渡り、隙のない観る方も気の抜けない舞台でした。
芝翫さんまでが実に若く綺麗に見えました。冷静で手堅い芸風の亀治郎ぼっちゃんお里も「亀ちゃん、どないしたんや!」というくらいキャピキャピ弾けていました。花四天もきびきびしてて、一頃乱れてたトンボが綺麗に切れてました。化かされも「あんなに頭振ったら鼻血出るぞ」というくらい一生懸命でした。久し振りの右近さん、若い役で声が裏返ると勘九郎さんみたいな声・・・。
各人が持ち場で一隅を照らすとこんなに凄くなるんやと感じました。 私はこれ1回こっきりですから、通しの日の選択は間違いなかったと喜んでいます。

次は9月大阪松竹座で「ヤマトタケル」です。(右近の会もあったか・・・)
実はヤマトタケルは親孝行なんて恥ずかしくてよーせーへん私が初めて、「エエもん観せたる!」と両親を連れて行きます。親父があまり乗り気じゃないよーですが、どんな風に猿之助丈の舞台を観るのか、楽しみです。
丈は歌舞伎座の後、京都芸大・大阪ワークショップ・軽井沢・・・と超過密スケジュール。「三役完演」のお疲れが残らないことを祈ります。
1998年7月20日 /BEN ちゃん




猿之助ファンのみなさん(いえいえ特にファンじゃないけれど、という方も)もう、ご覧になりましたか?まだご覧になっていない方がいらっしゃったら、「はやく、はやく観にいらっしゃい!!」と叫びたいほど素晴らしい舞台です。仕事や、のっぴきならない私用など、いろいろあっても、そんなのほっぽり出してでも飛んで来て見てほしい!!!!
文才がないもので、どんなにすばらしいか、どんなに嬉しい舞台か、上手に表現出来ないのが悔しいけれど、とにかく「この舞台を観落とした人は不幸!可哀相!!」って思えるんです。
それほど特別な、確か 「奇跡の舞台」 って表現していた方がいましたが、本当にそう!!!
「・・・表現する言葉がない」 って嘆いてもいらっしゃったけど、これも同感、同感、同感〜〜〜。
幸せごはんさんだって、2日に観て、感想として文章にまとまるまで10日かかっていらっしゃるのは、ヤッパリ観た直後は心がパンク状態になってしまって・・・ってことなんだと思う。
もちろんこれは単に好みの問題ですが、私は特に昼の部がこたえられません。銀平、知盛、忠信とも、声を失う程の美しさです。「端正」って言葉は真に猿さまのためにあるようなもの。
共演の芝翫さん、宗十郎さんが、きっちり、そして見事に猿さまを受けてくださるから、さらに猿さまのオーラが輝きを増して見えます。
例の騒動で興味を持って・・・なんて人も来ているかもしれませんが、今回の舞台の猿さまを見れば「ムリもない・・・」ってみんな思うでしょう。というより新たなストーカーが生まれちゃってもおかしくないくらいに“魅せる”猿さまでした。
1998年7月17日 / ヒナ子




祖母へのお見舞いにと送ってくださった『翔』、今日受けとりました。ありがとうございました。
祖母は、おかげさまで順調に回復し、明日、家に帰ってくる予定です。
86才にもなって、もうお金を持っていてもしかたがないとか言って、残りの人生とお金を歌舞伎につぎ込む決心をしたようです。
どうやら、東京での『義経千本桜』まだ、あきらめていないようです。歌舞伎座で倒れても本望だろうと、わたしたちももう好きにさせてあげようと言っています。
祖母が病院から帰ってきたらまっ先に『翔』を見せてあげようと思っています。本当にありがとうございました。
1998年7月15日 / 病気のおばあちゃんの孫

                   




初日(2日)は通し(昼は一等、夜は3階)で観ました。2回目(9日)を観た夜の部でも全然パワーダウンしてないところが、さすが猿之助丈!。
初日では久々の鳥居前の忠信に「かっこいい〜(*^^*)」って素直に思い、丈では初めて観た渡海屋銀平の扮装を観てまたクラッときて、碇知盛も大迫力で「すっごいかっこいい〜(*^^*)」って思い、忠信と静の道行ではとても息のあったコンビにまたまた「今までの中でで一番いいわぁ〜。ふ〜っ。」てな感じで昼の部は終わったのでした。
そして続けて観た夜の部。
権太がまた、愛嬌があるのにくにくしくていい!「今まで観た中で最高の権太だわ〜。」って、クラクラッ(@_@)。 どうして普段はあんなに物静かなノーブルな方のに、あんな下卑た野太い役ができるんだろうか…(- -;; )?? 身代わりに仕立てた妻子との別れの場面も情感があって良かったしねぇ。
その上おなじみ川連方眼館。
観る度観る度に、狐姿が可愛くなって来ている気がする… (^^;)。「やっぱり十八番の忠信が一番だなぁ〜」って、また実感。宙乗りで引っ込む時の桜吹雪で、観客の「おおっ〜」って声がかぶさると、なんだかこちらまで誇らしいような気分になります←アホやね〜(^^;)。
渡海屋も椎の木も今までは全部観てるのがつらくって、知らないうちに白河夜船状態になってしまうことばかりでしたけど、猿之助さんだと気迫とこっちの思い入れも全然違うからなのかしら…、ものすごい吸引力があるから没頭して見続けていられます。ほんとに命削って舞台に立っていらっしゃるんですねぇ〜。
何かの記事で、ただ演じるだけでも三役は大変ですっておっしゃってたけど、ただ演じてるだけじゃなくって見事にちゃんと演じ分けていて、あの気迫は凄いです。 
結局三役どれがいいかなぁ〜って考えると、どれも甲乙つけがたい! 新鮮なとこで権太かなぁ〜。
2度目に観た9日の日は、最前列だったので、能面のような表情にならないように気をつけてっていうか(^-^;;)、…それ以前に絶対きっとデレデレな顔して観ていたことだと思います。舞台から見てたらさぞかしマヌケだろうなぁ〜(笑)。 
でも私は最前列も出待ちもタマにでいいです。ごちそうはいつも食べてたらありがたくなくなるしネ。
例の判決で考えましたけど、好きな人を怯えさせるって、どういう心理状態でそんなこと出来るんだろう…。そういうことが出来る神経って不思議です。
私は劇場だけの逢瀬でいいです。ま、そうは言ってもタマには羽目はずす時があるのでエラそうなことは言えませんが…(^^;) 。 
今月はファンはちゃんとは一日通しでお付き合いしなきゃいかんかなぁっても思いますが、なにぶん他の用事でも忙しい月になってしまって(^-^;;)、通しは2日間だけで、あとは昼夜どちらかでちょこちょこ観させていただきます。でもそれでも観終わったあとはヘロヘロですね〜。猿之助パワーについていくのはそれくらいハード!
…さ、次は14日の昼の部を最前列←3階の(^^;)で観ます。 
最近お気に入りの亀治郎さんのお里は娘役らしい愛嬌が出ていて可愛かった〜。弥助を見て目がキラキラするところがマル。なんだか背が伸びた気がするのは気のせいですか? 
芝翫さんの弥助も、弥助から維盛に変わるところなんて絶品。道行きの静も言うことナシですし。
他では猿弥さんの猪熊大之進、吉弥さんの弥左衛門、段四郎さんの梶原景時も良かったです。 

そういえばお久しぶりのBENちゃん、なんかお嘆きモードのようでしたが、その後いかがですか?
1月にYUKA蔵さんと囲む会に出たおり、会の終了後まだまだ余韻でボ〜ッとしているわたしに引き替え、ごはんの支度などに気を巡らせている彼女の姿には若いのに出来てるなぁ〜って感心したものですよ。
今月は猿之助ファンにとっては大事な月なんですから〜、まあ、笑って見送ってあげてくださいね。あなたの幸せは私の幸せってなもんです(死語か?)(^^;) それでは、また。
1998年7月12日 / 幸せごはん




歌舞伎ワークショップがいよいよ近付いてまいりました。
見学希望の葉書も1000通を越えて、3日間通しをご希望の方もかなり多くいらっしゃるようでなので、のべで数えると大変な数になりそうです。(ディレクターのほうで、日ごとに異なるややこしい希望隻数を勘定しているはずです。)  
これに、講師の関連の方やオーディションに参加した方(残念ながら受講できる人数の関係で合格にできなかった青年たちにも、ご家族友人連れてぜひ見学にいらっしゃいとプロデューサーが声をかけましたので)、それに市関連の方その他を含めますと、連日ほぼ「満員御礼」的盛況という状態になりそうです。 
ワークショップとはいえ、3日間のうちまるまる2日間は、いわば猿之助さん一座のデモンストレーションですし、中座の御協力が得られて、道頓堀中座でやる、ということも、これまでのワークショップのような小学校の体育館といった機能的な場所でやるのとはまた違った歌舞伎にふさわしい雰囲気を盛り上げていることは確かだと思います。 
スタッフのはしくれとしては日が迫るほどに緊張して、楽しみが大きかっただけに、今度はそのぶん段々不安も大きくなって、どうかスタッフ側の大きな失敗の無いように、無事に終わってくれますように、とえらく消極的な、しかし切実な願いが心をしめるようになってきました。
いずれにしてもすばらしいワークショップになるはずですので、ご期待ください。
1998年7月12日 / Sei.M




待ちに待った『翔』(8号)が届きました。いつもいつも大きな感動をありがとうございます。
今回もやはり笑いが満載なのに、何故かあちらこちらで一杯泣いてしまいました。
それから私の拙い文章が「手紙編」に載っていたこと、驚きました。あれを書いたのは多分4年くらい前じゃなかったかしら?・・・などと考えて、あの頃の心のゆとりをもう一度取り戻したいと思いました。
あれからいろいろとあって、大好きなお芝居にも行けない日々が続きました。
でも猿之助さんのことを忘れたことはありません。
応援の仕方は人それぞれですから・・・私はこれからも今迄通り人知れず深くしずかに応援しつづけるファンでいられればと思っています。
1998年7月12日 / Kyoko.O




翔5号!!!
市川猿之助という人物を理解するための資料として、これ以上のものはないと思いました。成績表、卒論、道中日記?まで載せてあるとは!!何故、このようなことが可能になったのか、そちらの方が気になります。
それはそれとして・・・≪人を知るには、その友を見ろ≫と申します。恩師、御友人の方々のお話を読み、御大の人柄がよく分かりした。
社会の要職にある方々が、有形無形の御支援を続けられていらっしゃるようです。これが、孤立無援の状態から、今日の『大』をなすに至った秘密のひとつでしょう。
また、インタビューをされた翔のスタッフの皆様は、この方々のざっくばらんな暖かさにビックリされたのではないでしょうか?多分、この方々も相当なミーハーだからだと思います。そして、役者にとって、ミーハーが大切であることを良く知ってらっしゃるからでしょう。 
翔5号を読んで、小生の学生時代のことを思い出しました。
当時は、歌舞伎役者が大学に入ったことが話題になりました。慶応は市川団子。早稲田は市川染五郎。妙な早慶戦だなどと。
学生達は、染五郎という名前は役者らしいが、団子とは変な名前だと言っていました。
・・ちなみに、小生は高麗屋と同じ年です。(ゴツン)痛ぇなあ・・だからどうしたのさ。アタシだって美人女優の○○さんと同い年ダヨ。ナニサ!・・・夫婦そろってピンボケでございます。 
当時の雑誌・週刊誌で見る御大は、髭が濃く、目つきが鋭く、歌舞伎役者としてはあまり成功しないだろうと思っていました。
小生が、市川猿之助をハッキリと意識したのは、昭和43年に初めて宙乗りをした時です。その後も伝統の心を現代に調和させようと、チャレンジを続ける御大に注目をしていました。
その後、梅原先生の神々の流竄に巡り会い梅原ファンになっていました。そして、ヤマトタケルの上演となり、ますます関心は高まりました。 
しかし、田舎住まいでもあり、芝居見物など思いも寄らないことでした。3年前に次男が高校を卒業し、家を離れました。既に親はなく、我が家は家内と二人きりになっていました。
たまたま、中日劇場でヤマトタケルが上演されることを知り、観に出かけました。後は、お話しするまでもないでしょう。
少しずつ深みにはまってきたようですが、年令もあり、ミーハーには未だなり切れていません。(ゴツン)痛ぇなあ・・気取るんじゃないヨ。とっくの昔に、なっちまってるくせに・・・だそうです。ハイ。     1998年7月11日 / しっぺぇ太郎 




はじめて、「翔」にやってきました。
わたし、もともと京屋さんのファンなんです。今まで猿之助さんは、あまり好きではなかったのですが。
しかし、まあ、きょうの「義経千本桜」を観て、世界が180度変わりましたね。猿之助さんのあの情熱、芝居ひとつひとつにかけるエネルギーは底知れぬものがありますね。
今回のあの <事件> も、しょうがないかもしれません。
でもね、京屋ファンのわたしから一つだけ言わせてもらえば、すし屋のお里は芝雀さんのほうが断然いいと思います。亀治郎さん、一生懸命に勤めてはいますが、恥じらいが無さ過ぎるのでは・・・。
若さゆえのことかもしれませんが、もう少しその辺りもお勉強を。
1998年7月11日 / Eiji. K




本日、ゼミの講義で『義経千本桜』の解説がありましたので、かいつまんでご紹介します。

【序幕】「堀川御所」は新しい演出になります。通例の川越太郎の出てくる展開はなかなか理解できにくく、現在まで定型が出来ないのも、もともと欠陥が多かったからだそうです。
澤瀉屋でも公演の度に改訂を重ね、今回はこういう形に落ち着いたと言うことらしいです。
「鳥居前」の忠信は松緑さんがもっとも荒事で、また延若さんはもっとケレン味が強かったらしく、澤瀉屋はその中間に位置するそうです。
延若さんは舞台中央の木が割れて登場するといった演出をされていたとか。

【二幕目】「渡海屋」
について前回ちょっと変なことを書いてしまいましたので、改めてご説明します。文楽の方では銀平と義経一行が顔を合わす場面がありますが、歌舞伎では通例一切合わせません。これは銀平から知盛に扮装替えするためで、さらにお柳の長台詞などを入れて時間稼ぎをします。
ところがゼミで見学した今回の舞台稽古では、ほんのわずかですが銀平と義経が顔を合わせた後、中央の暖簾から引っ込んでいったんです。そしてお柳の長台詞があって、上手障子屋台から知盛の登場となったわけですが、ここで中断。やはり扮装替えの時間が足りなくなる可能性があると言うことで、結局通例の演出になってしまいました。 
「大物浦」で知盛は「清盛が女子を男子と言い立てて、皇位に就けた。この神を欺いた神罰が一族に下った」と言います。明治以来現在まで、この台詞を言うのは澤瀉屋だけだそうで、通例はカットされます。
いわゆる「安徳天皇は実は女帝だった」という伝説に基づくもので、原作には書かれていますし、江戸時代はそのまま上演されてたそうなんです。ところが維新以後、皇室に対する不敬に当たるという理由でカットされてしまい、習慣化してしまったそうです。
研究ご熱心な澤瀉屋だからこそ、より江戸に近い形でやられると言うことです。
「安徳帝の女帝説」については渡辺保著『千本桜−花のない神話』(東京書籍刊)に詳しく書かれています。

【三幕目】「道行」はゼミの先生も最高コンビだとおっしゃってました。

【五幕目】「すし屋」の権太は松緑さんの型をもとにやられてるそうです。芝翫さんは、弥助と維盛の演じ分けが大変お上手だとのこと。
またこれは余談ですが、芝翫さん、教えるのが大変お好きで、また大層お上手だそうで、亀治郎さんはつきっきりで習っているそうです。以上が本日の講義で聞いた『千本桜』の解説になります。

最後に少々私見を述べさせて下さい。
無い物ねだりというか、無理なものは無理なんですが、やはり「花矢倉」が観たいですね。
かつて一度も上演されなかったものを、原作を大幅にアレンジして復活された、素晴らしい場だと思うんです。
豪華な大道具、めくるめく立ち回り、ふりしきる桜等々ヴィジュアル的な美しさもさることながら、何と言ってもドラマの展開上の謎に解決が施され、話が完結するというところが僕は好きなんです。
敵味方、ゆかりの人々が居並び、双方引張りの見得で見せる大団円です。それぞれが宿命を背負って別々の道に旅立っていく姿を非常に象徴的に見せてるとは思いませんか?
ここには滅びゆく「美」があり、また人々が離散していく戦争の虚しさや無常観、さらには江戸歌舞伎特有のいい加減な歴史解釈やご都合主義、そんな相反するあらゆるものが詰まった、これぞ「江戸歌舞伎」だと思うんです。
また、観られる機会が来ることを心待ちにしています。それでは、しばらくは夏休みに入ってしまいますが、また情報がありしだいメールします。
1998年7月9日 / Tatsuji.Y




今日、7月6日、昼夜で観劇してきました。今月最初の観劇です。
そして、さっそく翔に来てみた訳けですが、BENちゃん(お久しぶりです ^ー^)の、身に覚え大アリのスルドイお言葉・・・・
楽屋待ちは時間の許す限りしたい!最前列はお金とチケット運がある限り座りたい!と思う私にとっても、<事件>は他人事ではありません。
私の周囲の人にとっても他人事ではなかったみたいで、4日に帰国したのですが、留守電やFAXに知人からのメッセージがいくつも・・・(^^; 、…
自分の創造力や芸術的感性の欠如を、財力で埋め合わせる(?)パトロン(パトローネ)のような存在に結構憧れているので、これでお金持ちに生まれていたら、私も相当ヤバかったかも!?『酒と薔薇と観劇の日々』なーんていうのが理想です。(まっ、この理想はどう考えても叶いそうもないので、実現に向けての努力はしていませんが・・・)でも、日常からの逃避ではなく、観劇は私の日常の一部(半分?)であるとは思っています。と、今回は舞台を観る前に、ちょっと驚くことがあってふつふつと考えたりしていますが。

で、舞台ですが、名古屋遠征が叶わなかった私にとって、本当に久しぶりの観劇。しかも思入れたっぷりの千本桜です。(この演目に思い入れのある方は多いと思いますが・・)
何を観ても美しく・・・と言いたいところですけど、鳥居前の忠信のお顔、なんだかいまひとつのような気がするのですが?私の気のせいでしょうか?
それから海外バージョンともまた違った形でテンポアップされているようですが、堀川御所、鳥居前、かなり早かったですよね?もちろん、時間的制約もあるので全場面たっぷりやる訳けにはいかないと理屈では分かっていても、もう少し情緒(?)に浸る間が欲しかったです。

序幕、笑也(静御前)の踊りから始まり、思わず、オグリを思い出してしまいましたが(笑也さん、ごめんね)これ、笑也さんと春猿さん逆でも良かったのでは?(笑也ファンとしては、静御前を勤められるのは嬉しいですが)笑也さんは、若葉内侍の方が断然良かったです。品格と落ち着きがあり、ぴったりでした。
二段目は話しの本筋にではなく、子供・動物に弱い私は、安徳帝の台詞にぐっときてしまう( : : )のでした。
知盛は(私の記憶が確かならば)以前観た時のものの方がもっと迫力満点だったと思うのですが。

道行はもう、大・大・大好きで、(私が観始めた頃は児太郎さんが相手役で、扇を投げて、ナイスキャッチ!パージョンもかなり好きなんですけど。)物語性の明快な踊りや音楽もいいし、幻想美があって、洒落もある!だんだん狂ってぶっかえって狐になるあたり、私も猿之助さんの妖艶さに官能モード突入!
狐忠信を演やせたら日本一!世界一!宇宙一!!もーたまりませんっ!!!

そして、鮨屋ですが、これがまたホントいい男で、今まで絶対忠信!と思っていたのだけれど、この権太はいいですよ〜〜〜。セクシーです。(あっ、これは完全に視覚的な意味なんです・・・^^;)
亀治郎さんが、また妙にふっくら色っぽくて、大恋愛(←現実的に)でも!?しているのかしら・・・と思ってしまうほどでした。久しぶりに舞台を観たので、お芝居よりついつい役者さん自身を見つめてしまうんですね。

今日の四の切は、猿之助さん、ちょっとテンポを落としていらっしゃるように思いました。でも、まだまだ通いますから、また違う日もあるでしょう!
私、花屋倉も出して欲しかったです。蛇足という見方もあるようですが、あの最後の♪さらば、さらばおさらばと〜〜(でしたっけ?)と別離していく場面と、お芝居を観ていた時間と自分が実際に別れゆく相乗効果で、なんだかじ〜〜ん、とくるんですよね。諸行無常・・・(ちょっと違うか〜!?)そして、ツケが打たれ、キマる瞬間・・・。あー、あの場面を観終わってこそ、客席を立つ気持ちになるのですが。(あれ以上やったら猿之助さんブツ倒れてしまいはるでェ〜、って分っているくせに、もう!欲張りな私!)

毎日暑い・・・といってもその暑さを味わう暇もないような日々を過ごされる猿之助さん。
どうぞ今月の舞台もご無事で!!
1998年7月8日 / Yasuko




猿之助狂の妻をもちて・・・
北前さん、皆さん、お久し振りでございます。自分とこのHPの運営で手一杯なものですから、不精してしまいました。
さて、待ちに待った「猿之助三役完演」の歌舞伎座7月が始まっています。うちのYUKA蔵も完璧に舞い上がってまして、初日は当然会社休んで行き、今日4日も、19日も、千秋楽も(それ以外は聞いてませんがこまめに行くんでしょう・・・笑)。
まあオグリを三十数回見たとかの女性にはかないませんが、普通のOLでどうしてそこまでという限界にチャレンジ!のつもりなんでしょうか。私は19日の通しの日のみで、それでも贅沢やと思っていますが。
幸せには三つあります。「してもらう幸せ」「出来る幸せ」「してあげる幸せ」。前半分が子供の幸せ、後半分が大人の幸せであることは言うまでもないことです。
三役完演の猿之助丈はあとの半分に全力を尽くしているでしょう。観客は「見せてもらう幸せ」にばかり浸っていたのでは困ります。
猿之助丈がよく言われる「泣き申さず候ては化し申さず候」は「感動」の大切さを言うものですが、感動とはその字の通り「感じて動く」ことに他なりません。ちゃんと動いていますか?感じているばかりならそれは「依存症」に過ぎず、その時の心地好さや非日常性から抜け出せないアル中シャブ中と大差ありません。
舞台の猿之助丈との出会いは「躍動」の気をもらってあなたが発奮してこそ意味があります。「猿之助丈の舞台観る為に仕事我慢しよう」じゃありません。「猿之助丈の頑張りに負けないように、仕事に家事に育児に頑張ろう」というものでなければなりません。どうか、「してもらう幸せ」を貰ったら周りの人に「してあげる幸せ」で返して下さい。
ストーカー事件の裁判結審を伝えるワイドショー、何だか猿之助歌舞伎のPRのようだったそうですが、うちのYUKA蔵も出待ち族ですんで「おまえもよー似たもんやんけ!」なんて言ってます(笑)。
チャレンジし続ける人を見て、少しでも自分の人生にチャレンジしてくれれば・・・と願っているのですが。みなさんは如何でしょうか。
1998年7月04日/BENちゃん

編集部より=うムまァ・・・ほんとにお久しぶりですゥ〜。酷暑のお盆に帰省したら、懐かしい幼友達が訪ねてきてくれた、みたいな嬉しい気分です。(けったいな例えやなァ・・・)
それにしてもBENちゃんの悩みは日ごとに深まっている・・・って感じですね。
≪「してもらう幸せ」を貰ったら周りの人に「してあげる幸せ」で返して下さい。≫という件など、胸にグサリとくる人、結構たくさんいることでしょう。
分かってる、分ってるねん。分ってはいるんやけど・・・、とりあえず明日観に行ってくるわあ〜なんて。




凄絶でした。きれいでした。ああ、適当な言葉がない!
10年焦がれた舞台を見ました。
あこがれの、「銀平」も見ました。一日たっぷり、丸々猿之助さんを見ました。
でもって、表現する言葉がないの。
「よかったあ〜!、きれいだったあ〜!..」 何回も何回も、そればっかり繰り返してます。
あの方にはやっぱりほんとに、羽根があるんですね...(ちょっとあぶないかな?)
皆さん、自分で劇場にいって、この、“奇蹟の舞台” を見てください。…それしか言えない。 
1998年7月03日/ Kyoko O
.

編集部より= 今日は他にもファックスや電話て゛初日を観た人たちから感想が入ったんですが、申し合わせたみたいに誰もが「はあァ…、ふうゥ…」状態で、言葉を失ってしまってるんです。10分くらいの電話の中で20回くらいも「よかったあ〜!」、「きれいだったあ〜!.」を繰返した人もいましたね。
あの人他に何か言うてたかなあ…?



わたしは歌舞伎には全く知識がありません。
今日お便りしたのは、病気のおばあちゃんにかわってです。 86才になる祖母は大の歌舞伎ファンです。来週も早朝の新幹線に乗って東京でのお芝居を観にいくはずでした。昼の部と夜の部両方観るのだと言って、それはそれは楽しみにしていました。
ところが、病気などめったにしない祖母が今日肺炎のため入院しました。すっかり元気をなくし、その落ち込みようといったらありません。病気のためではなく、もちろん大好きな猿之助さんに会えなくなったからです。祖母の唯一の元気の素が歌舞伎なのです。
日頃は、頑固で憎らしいことばかり言う祖母ですが歌舞伎を最前列で観た時は、役者さんと目が合ってドキドキした!などとまるで、少女のようです。
6日のお芝居、前から2列目の席が空いていたら、それは、そこに座るはずだった祖母の席です。
祖母の気持ちが猿之助さんにつたわりますように。
1998年7月02日/ 病気のおばあちゃんの孫




日本大学芸術学部を卒業後、今は大学院に在籍していますが、そのゼミで舞台稽古を見学できるという幸運に恵まれました。
というわけで、もう初日が開いてしまいましたが、1日の舞台稽古の様子をご報告します。
1日は通し稽古という形で、段取りを中心にさらりと進んでいましたが、それにも関わらずこの公演がいかに凄いものであるのが伝わってきました。
まずは、一門の成長ぶりです。春秋会以来の古典ものですが、みなさん芸の深みや貫禄のようなものが出てきた気がしました。
そして、「一世一代」とおっしゃるように、澤瀉屋ご自身の気迫はさらにすさまじいものでした。順を追ってご説明しましょう。 

【序幕】話の全体が理解しやすいように、どちらの場もコンパクトにまとめられていました。「堀川御所の場」は新しい構成らしいのですが、ここが唯一の出番となる春猿さんが何と言っても美しい。春猿さんの魅力がたっぷりの場だと思います。
「鳥居前」は澤瀉屋の忠信が素晴らしい。正直不思議な色気が感じられました。

【二幕目】「渡海屋の場」に少々手を加えたらしいのですが、そのため銀平から知盛への扮装替えの時間が足りなくなってしまい、かなり試行錯誤をなさってました。この話し合いには宗十郎さんまでも加わって随分お困りのようでした。ちなみに知盛の扮装になったときの澤瀉屋は最高にいい男です。
「大物浦」はお察しの通り圧倒されますよ。 

【三幕目】「道行」については完璧です。とにかく隙がない。ご両人の踊りはもはや至芸の域にはいると思います。また今回は幕切れの狐六方もありますし、最高です。 

【四幕目】「椎の木」「小金吾討死」は昼夜ぶっ通しで観ると、私には少々辛い場でした。展開上必要な場なんですが、内容の割には長く、申し訳ないのですが睡魔に襲われてしまいました。

【五幕目】東京の型の「すし屋」の澤瀉屋は格好いいですよ。また芝翫さんの弥助は上品で、飄々としていて、何となく愛嬌があります。ただ、途中が少々だれるかもしれません。 

【大詰】はもはや何も言うことはないと思います。これもまた至芸の域でしょう。
ただ、右近さんの義経には問題があるように僕には思えました。何と言っても芸風が「らしく」ないんです。どう考えても門之助さんがやるべきだと思うんですが。
まあそれはそれとして、今回は宙乗りの最後に引っ込むときにスモークではなく桜吹雪が蒔かれます。美しいですよ。
直後に3階のロビーで澤瀉屋にお会いしたんですが、随分お疲れのご様子にもかかわらず、「お疲れさまでした」とお声を掛けたら、笑顔で会釈して下さいました。これは嬉しかったです。以上ご報告ですが、とにかく素晴らしい舞台です。ご期待下さい。

追伸です★
舞台稽古のとき、役者さんが客席で観ていらっしゃることが多いんです。亀治郎さん、春猿さん、それに勉強熱心で有名な笑三郎さんの姿をよくお見受けします。
笑三郎さんは宗十郎さんが出られてるときには、時に合わせて台詞を口にしたり、本当に熱心に観てらっしゃいます。
前回の「忠信編通し上演」ときの静を演じる宗十郎さんの演技を食い入るように見つめていたお姿が印象的です。確かに笑三郎さんの芸風は宗十郎さんのような古風なところが持ち味ですね。
今回の笑三郎さんの静もまたいいですよ。
1998年7月02日/Tatsuji.Y




猿之助さん一世一代の『義経千本桜』三役通し公演の開幕おめでとうございます!!!
これからの一ヶ月間は、一日の休みもなく、朝から夜の九時過ぎまで猿之助さんは舞台に立ち続けられるんですね。ああ、胸が痛い・・・。
そんな≪トライアスロン≫みたいな舞台、「もう、やめてぇ〜!」って叫びたいくらいの私だけど、「ああ、この日を何年も何年もまちごがれていたのよォ〜!」というのも私で、ファンって残酷・・・。
今日の初日は、どうなんでしょう。なんか仕事も手につきそうにないなァ。こんなことなら、やっぱ初日のチケットもとっときゃよかった。
1998年7月02日/ Tomoko.N




ひぇー!!「熱すぎた想い/芸能人おっかけ“排除”」なんて朝刊の見出しに思わずドッキーン!
なんか、自分のこと言われたような気分でしたよ。ファンなら誰だってこの見出し、チョット胸痛む感じで読んだんじゃないのかなあ・・・
でもよくよく読んでみたら、私とはぜーんぜん境遇の違う人の話でしたネ。なんたってスッゲエーお金持ちらしい!まずはこれが大、大、大違いなわけです。
でもお金持ちだったってことがその女性にとっては災いだったのネ。いくら猿之助さんに恋焦がれていても、私みたいにビンボーじゃあ、連日最前列の席で観劇なんてできっこないし、ましてや同じホテルに宿泊しつづけたり、外国の公演先にまで出没するなんてことは夢のまた夢ですもん。
だけど、本当に舞台の猿之助さんって58才だなんて信じられないほど綺麗でカッコよくってセクシーですよネ。そりゃあそんな熱い舞台を、連日昼も夜も間近で凝視し続けてオーラを浴びまくっていれば、誰だって少々はおかしくなっちゃうんじゃないかなあ・・・なんて。
ほっ・・・ビンボーで、よかった・・・・
でも七月の奮闘公演を直前にひかえて、各紙にはデカデカ出るし、ワイドショーだってあっちでもこっちでもやってたし、宣伝になったことは確かかもネ。
一年以上も音沙汰なかった神戸の女性からも、早速、「七月、久しぶりに観たいからチケット取ってね」なんて連絡入りましたもん。
ただ、朝日新聞のあの写真!!もうちょっといいのあっただろうがー!!本物の猿之助さんって、素顔も涼やかで理知的、インテリの極みって感じなのに、(りんごさんの言うように、ずんぐりムックリを否定はしないけど)、よりによって、あれじゃあ、まるでどこかのヤッちゃん系って感じじゃない。
ホントにホントに、許せん!!!
1998年6月30日/Makiko.Y