第六話:猫と我がファミリー   丸山洋子著


 我がファミリーと猫との関係は、まだファミリーが形成される以前まで遡る。当時、弘前大学の学生だった現在の私の夫、友裕は、住んでいたアパートの錆びかけた鉄の階段で一匹の猫と出会った。彼は、その野良猫とは思えない上品な容貌や仕草にひかれ、餌をやったりしているうちに、遂には時々泊めてやる仲にまで発展したようだった。雌猫なのに「猫山君くん」と名付けられた彼女はその後も度々彼の部屋を訪ねていた。が、ある日いつもの「ニャオ」という声にドアを開けると、なんと隣の住人が「ミケ、おいで!」と猫山くんを部屋に入れるのを目撃してしまった。その時友裕は『そうか、隣では彼女はミケになりすましていたのだな』と妙に感心したという。

 そのうち猫山くんはかわいい子を産み、その献身的な母親ぶりには誠に心を打たれるものがあったようであるが、その子猫達にも遂に親離れの時期が訪れた。このまま野良猫にするには忍びないと思った友裕は二匹の子猫を、『御歳暮』と書いたダンボール箱に入れ、自転車で、ある知人の家へ持って行ったのだった。その家の夫婦は快くお歳暮を受け取り、猫達は末永く幸せに暮らし、その家の娘は数年後に友裕の嫁としてもらわれていった。

 その娘とは、現在の私である。

 さて、その後猫とのかかわりもなくなり、息子が三人次々と産まれ、仕事と育児に追われているうちに十年余の歳月が流れた頃、友裕のオランダ留学に伴い、家族で彼(か)の地の運河沿いの古い一軒家暮らす事になった。健太郎9歳、康太郎7歳、翔太郎5歳になっていた。そこへ現われたのが漆黒の毛に覆われ、神秘的な緑色の瞳を持った猫であった。一目で彼女にひかれた我が家族、特に三男翔太郎は、殊の外可愛がり、彼女も何度か家に泊まったり庭でのバーベキューパーティーに参加したり「ヤマト、ヤマト」と呼ばれていたが、ある日立派な首輪をつけて現われ、間もなく姿を消した。本当の飼い主が外泊の多さを不審に思って監禁したのだろうと推測されたが、その時既に翔太郎の頭にには猫の魅力がしっかり擦り込まれたようだった。

 一年間のオランダ生活を終え、富山に戻った私達は(当時友裕は富山医科薬科大学助教授だった)、そこでまた忘れられない猫と出会うのであった。「かわいい子猫が何匹かいるから、あげるわよ」との近所の方の言葉に一も二もなく「欲しい!」と答えた翔太郎、は白と茶のぶちの雌猫を選び、晴れて、正式に我が家の猫がやって来た。とても活発なその子には「ポテチ」と名付け、顔を何箇所もひっかかれながら寝る時も一緒という入れ込みよう。ポテチは我が家のアイドルとなったが、日がたつにつれ、やはり大変気品のある、容貌・性格のよい猫に成長していった。やがて彼女の妊娠に気づいた私達は出産を心待ちにしていたが、遂にその日が来た。「ママ、大変、なんか出てきたよ!」との翔太郎の声に、これから先は見ないでそっとしておこうね、ドアを閉めて数時間後、のぞいて見るとすっかり母親の顔になったポテチが五匹の子猫にお乳をやっているところだった。「チーコ」と名付けた一匹だけを残し、あとの四匹の里親を捜す事になった私達は友裕の提案で、護国神社のフリーマーケットに持っていき、なんと全員の里親を見つけたのだった。

 その後何年も続くはずだったポテチとチーコと我が家族の生活がたった一年半後にぶっつり断ち切られるとは・・・・・・・!原因は私に訪れた思いがけない喘息。発作が起き始めて一年後の激しい発作。、即入院となった私へ医師の冷酷な言葉。「猫が原因です。手放さない限り退院はできません。一晩病院で泣き明かし、子供達にはママの命と引き換えだから、と友裕が説明し、納得させたが、もう6年生になっていた健太郎も、4年生の康太郎も、もちろん翔太郎も男泣きに泣いたという。しかし、今でも猫達との暖かい交流は皆の心の中にしっかり生きている、と私は信じている。これがもう飼うことのできない猫と我がファミリーの歴史である。

(新潟県医師会報 平成10年2月号  No575掲載)


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