遠い旅




 旅程の後半に控えている北の大国は、強権ぶりで近隣国の評判があまりよろしくない国だった。
 ついでにいうと、最近はヘルムートの手紙が一行の評判になりつつあった。毎日封筒をロビンに渡して切手も吟味の上で投函させていたので当然である。
「おい」
 訪問先の王室への返礼の夜会の時にこっそり声を掛ける。
「なに」
「そろそろ自重しろよ。痛くもない腹を探られるのはまっぴらだ」
 紫の瞳が細められた。
「おまえが間諜まがいのことをしてるとか疑われたら、友好親善がぶち壊しだろうが」
 シャンパングラスに視線をおとしてヘルムートは舌打ちをした。
「余計なお世話だといいたいところだが、そうだろうな」
「かわりにエリスちゃんに土産を買い込んでおけばいい。このあたりは琥珀も翡翠も採れるし」
 形のいい眉がぴくりと動いたが、ヘルムートは何も言わなかった。
 それでも、次の日もロビンが手紙を投函していたとリカルドは侍従から耳打ちされた。ヘルムートを見やると、肩をすくめてみせる。
「余計なことは書いてないよ。こっちの連中が検閲したってどうってことのない内容ばっかりだ」
「そうなのか?」
「普通の旅先の夫から新妻に宛てた絵葉書だよ。読みたきゃどうぞってなもんさ」
 不機嫌にいうと、ヘルムートはムッツリ黙り込んだ。

 次に到着したのは、件の大国の衛星国だった。
 歓迎の夜会には、大国の大使も来ていた。
「殿下には妃殿下との新婚生活を非常にお楽しみだとか」
「そうだな」
 大使は相変わらず若い女性たちに取り囲まれているヘルムートを大広間の向こうに眺めて頷いた。
「ご親友のラングレー公爵は、奥方を御国に置いてお供のようですね」
(ほら見ろ来た)
「公爵夫人は俺も妃も懇意だが、身体が弱くてね。この外遊に参加は無理だった。おかげで妃がむくれてしまってな」
「お美しい女性とお聞きしておりますが」
「美女とか美人というよりは、佳人という言葉が似合う女の子でね。あれの幼馴染なんだが、子どものころから身体が弱いらしい」
「では、公爵もさぞかしご心配でしょうな。——毎日、便りを欠かさないとか」
「大使も耳聡いな。溺愛とは公爵夫妻のためにあるような言葉だ」
 にやにやと笑いながら言うと、大使も「はぁ左様ですか」とにやっと笑った。
「だが若いご婦人方は、そういうことに頓着なさらないようですな」
「恋の冒険ってのはそういうものらしいな。まぁ一夜限りの火遊びだと、女性でも冒険のしがいもあるんだろう。大使に令嬢がいるなら火傷に注意するようにな」
 ヘルムートと遊んでも無駄な後悔をするだけだぞ。
 言外に含ませていうと、大使はちょっと表情を改めた。おや。
「なるほど、たしかに火傷には注意が必要ですな……失礼いたします」
 下がった大使を見送って、リカルドは首を捻った。
「……なんだ?」
「大使の娘がヘルムートに夢中なんじゃないの?」
 ジーナの意見に違和感を覚えた。
「いや、もっとややこしい立場の女が勝手に熱を上げてるのかもしれんな。あの顔だし」
「中身真っ黒ってのに、なんで誰も気がつかないんだろうね」
「綺麗な天使ヅラと爵位に夢中になってるからだろうさ」
「……エリスも気がついてないよ」
「エリスちゃんは鈍いから論外だろ。しかもあいつ自身がエリスちゃんにきらわれないように気をつけてるからな」
「なんで他の人にはそれだけの気配りしないのかな、ヘルムート」
 いやそれは違う、とリカルドは思った。ヘルムートが溺愛しているので悪魔が悪魔でなくなっているのだ。彼女の幸せのためなら自分が犠牲になっても不幸になっても構わないというほど溺愛しているのだから。
「……あいつは広く浅くって博愛の精神は持ち合わせてないからな」
 政にかかわるにはある程度の冷徹さは必要なのだが、ヘルムートのあの性格は向いているのだ。たぶん。

 見ている限り、ヘルムートはほどほどに愛想をふりまき若い女性たちをとっかえひっかえダンスをしていた。もしかしてそろそろ女遊びでもするのかと眺めていたが、そんな風情も見られなかった。
 翌朝話の種にしてみると、ヘルムートは肩をすくめた。
「えらく物騒なのはいたけど、それ以外は雑魚ばかりだったよ」
「なんだ、その物騒なのってのは」
「王家の姫君。婚約者持ちで、そのくせ火遊びに興味津々でさ。近寄らないようにしていた」
「ほう」
「かなり鼻っ柱が強くて、プライドも高くてね。女王様然としていたな」
 名前を聞くと、もうじき例の国の王位継承者の上位に嫁ぐ予定の姫君だった。ちなみにこの国の王家は件の王家の分家筋でもある。
「それでか」
 大使の話をすると、盛大な舌打ちが返ってきた。
「どこの国でも、馬鹿な女は馬鹿なんだな」
「だが、それに地位がついてるとなると面倒だからな」
「ああ」
 うんざりした顔で頷いた。「火の粉をかぶらないように注意するよ」

 しかしリカルドが見ている限り、ヘルムートは珍しく女難に巻き込まれつつあるようだった。
 行事での席では姫君の隣に座らされ、なにかというと女官を通じて呼び出され、パーティーでは単身であるためにエスコートを命じられる。
 なまじっか王家の一員であるために公爵位のヘルムートでは逆らうことも出来ない。
「エリスがこんな時に必要になるなんてね」
 ジーナがこっそりと呟いた。姫君の婚約者は本国にいるために文句も言われない。聞けば姫君はエリスと同い年らしいのだが、性格はエリスと正反対で我が侭驕慢なのである。日に日にヘルムートの機嫌が降下していくのが目に見えてわかる。
「今夜はいよいよ最終日だからな。まぁがんばれ」
 部屋で赤ワインをグラスに注いでやりながら慰めにもならない言葉をかけると、無表情な顔のなかでアメジストの瞳がじろりと睨み返してきた。
「最終日どころか、あの女、僕たち一行を追いかけて向こうにおしかけそうだぞ」
「まさか」
「向こうで会おうとか、とんでもないことを抜かした」
 リカルドは珍しく呆気にとられて絶句したが、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「なんだったら、ツバメになっても許すぞ。女経由で向こうを手玉に取れそうだったらな」
「僕がそんな趣味がないからお断りだ」
 きっぱりとした返事が返ってきた。「なんであんな女のツバメに。僕にはエリスがいるのに」
「おまえの誑しの腕なら、エリスちゃんを大事にしながらでも可能でも思うが」
「……殴られたいのか、リカルド」
「おまえ、最近気が短すぎるぞ」
 飛んできた拳を受け止めてたしなめると、盛大な舌打ちと共に、ヘルムートは拳を引っ込めた。
「まぁ兎も角、返礼の夜会さえやり過ごせばいい。今夜一晩の我慢だ」
「……わかった」

 だが、ことはそう簡単には終わらなかった。
 宴もたけなわになった頃、若い女性の金切り声が人々の目を集めた。
「ひどいわ公爵! どうしてそれをわたくしにくださらないの?! こんなにわたくしが好意を示しているのに!」
 全員がぎょっとして振り返ると、ヘルムートがバルコニーから部屋に入ってきたのを姫君が追いかけてきたところだった。
「わたくしのいいつけが聞けないって言うの?!」
 ヘルムートの優雅な足取りがぴたりと止まり、ゆっくりと振り返った。
「……姫君。失礼ながら、僕はあなたの臣下ではないのだが」
 僕はあなたの御父君の客の随員だとわかっておられるのか?
 ヘルムートの顔は、いつもの微笑みを浮かべた天使の表情ではなく、冷酷な裁きの天使のような無表情だった。
「バルコニーで申し上げたことをここでもくりかえしますか? これは僕の身体の弱い愛しい妻が、旅先での僕の無事を願って、お守りとして僕の死んだ母の形見に自分の髪を切って入れてくれたもの。人に見せるものでも、ましてや譲るものでもない」
 ヘルムートの声は低いものだったが、全員の腹に響くようによく通った。
「僕にしてみれば妻が寄り添ってくれてるようなものだ。それを欲しがるとは……我が侭にも程があるのでは?」
 どうみてもヘルムートが激怒しているのは明白だった。
 リカルドがちらりと傍に立つ主賓の国王夫妻を見やると、棒を飲み込んだように固まっているのがわかる。
「なによ……なによ! いらないわよ、そんなもの! 公爵なんて大嫌い!」
 金切り声で叫ぶと、姫君はヘルムートに向けて片手を振り上げた。全員がぎょっとした中でパシンと頬が鳴る音がした。続いて泣き声と駆け去る靴音が。
 ヘルムートは赤くなった頬を一撫ですると、静まり返った広間の中、リカルドたちのところに静かにまっすぐ歩いてきた。
「……姫君にご無礼致しました。お許しください、陛下」
 恭しく頭を下げられて国王が狼狽えるのが丸分かりだった。
「ああ、いや……公爵、申し訳……ないな。そ、そのような大事な品を姫が欲しがるとは……。こちらも後で姫を叱っておくゆえ……水に流してほしい」
 ちらりとリカルドが侍従に目配せすると、慌てたように頷いて手の止まっている楽団に演奏するように促した。


 夜会が終わってから、リカルドはヘルムートを部屋に呼びつけた。
「で?」
 部屋着に着替えたリカルドは、部屋の奥の寝台の上に座っているジーナの興味津々な視線は無視してヘルムートを見やった。
「どうもこうも」
 向かい合う長椅子に座ったヘルムートの説明はこうだった。
 例によって姫君のエスコート役を言いつけられてうんざりしていたヘルムートは、「ちょっと風に当たってきます」と断るとバルコニーに逃げ出した。香水臭い女たちに囲まれているのも限界だった。胸元からロケットを取り出してエリスのことを思ってため息をついていたら、どうやら追いかけてきた姫君にそれを見られ、見せろとねだられた揚げ句に譲るように強要された。
「それで、断ったんだな?」
「当然だろう」
 女物のロケットは繊細な細工物で、ヘルムートが肌に付けていたこともあり、年頃の姫君の物欲をそそったらしい。あろうことか胸元から引ったくられ、細い銀鎖はちぎれて姫君の手に収まった。その手首をひねり上げて奪い返すと、憤然としてヘルムートは広間に取って返したが、そこで騒ぎとなったらしい。
「そんな大事なものを、宴席で出すな」
「女どもを投げ飛ばしていいっていうなら、出さなかったさ」
 リカルドは肩をすくめた。
「まぁいい。先方も恐縮していたし、痛み分けって事だな。ただ、今後は注意しろよ」
「ああ」
 胸元のポケットからちぎれたロケットを取り出してヘルムートはため息をついた。
「無くさなくてよかった」
 違うだろうと突っ込みたかったが、リカルドはあえて言うのをやめた。

 翌日、リカルドたち王太子夫妻一行はなごやかな雰囲気の中で出発した。例の姫君は気分がすぐれないとかで欠席していたが、あえて誰も触れなかった。
「先導役として殿下とはこれから我が国の王都までご一緒させていただきます」
 その日の夕方、宿とした貴族の城館で大使が挨拶すると、リカルドは鷹揚に頷いた。
「貴国は色々と興味深いからな。公爵にもいろんな話を聞かせてやってくれ。奥方への手紙のタネが無いとぼやいていたからな」
 話を振られたヘルムートは片眉を上げたが、頷いた。
「そうだな。貴国の文化は北国で僕たちの国とは大分違うだろう」
「奥方さまはどの様な話題がお好みですかな」
 笑みを浮かべて大使が尋ねると、
「妻は子どもの時から寝ついてばかりでね。だから外のことをなんでも知りたがっている」と返ってきた。
「ほう……」
「そうだなあ、子どものころから絵を描いているので綺麗なものも好きでね」
「絵をお描きになるのですか。珍しいですな」
「最近は屋敷の庭の風景画ばかりだが……。そうだ、気持ちのやさしい昔話や童話も好きだな」
 ふっとヘルムートの表情がやわらいだ。口許に笑みを浮かべ、眼差しが優しくなる。大使は呆気にとられて目をしばたいた。
「……そうですな。お国の言葉に直したそういう本が無いかどうか、さがさせましょう」
「それは、妻もさぞ喜ぶだろう」
 大使の秘書官が声を掛けてきたので、大使は「失礼」と断ってそこを離れた。
「……公爵は奥方のこととなると非常に機嫌がよくなるな」
 大使は秘書官に呟いた。「ところで、姫はあれからどうだ」
「それが、どうも殿下に早馬でお手紙を出されたようです。まだお怒りはおさまらないようで」
 大使は顔をしかめた。「前々からわがままな御方ではあったが。殿下も血気盛んな方だから、先が思いやられるな」
「国王陛下がお叱りになったようですが、まぁ今まで甘やかされていらしたために、わかっておられないようです」
「……まったくこまったものだ」
 ため息を漏らすと大使は顎髭を撫でた。
「ああそうだ、公爵夫人への贈り物を用意せねばならんのだよ」
「宝飾品か何かですか?」
 秘書官が身構えるのに、首を振った。
「いや、向こうの言葉に直させた、我が国の民話や昔話の本、というのがあるかどうか調べておいてくれ」
「は? はあ」
 秘書官は怪訝な顔をしたが頭を下げた。




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