遠い旅



 月の半ばも過ぎた頃から、ヘルムートからの手紙は届いていたけれど、どことなく味気ないものに変わってきたのをエリスは感じた。絵葉書は相変わらずだったけれど、封書は薄くなって、風習や文化やちょっとした出来事は書いてきてくれたけれど、旅行の道行きや滞在している街の話は見られなくなった。
(ヘルムートさま、飽きちゃったのかなあ)
 でももしかしたらお土産話にとっておいてくれるのかもしれないし、ヘルムートから見たら退屈な風景なのかも、と思ったりもした。
 新聞や雑誌の社交欄では一行が歓迎されているのは相変わらずで、ヘルムートが訪問先の王侯貴族の令嬢たちから秋波を送られてきているのも相変わらずのようだった。並み居る美女たちに取り囲まれながらダンスをしているという記事で、エリスは手紙の薄さも相まって寂しさと悲しさで胸が詰まりそうだった。
 自分はヘルムートに愛されているはずだけれど、実際に美しく教養高く健康で華やかな令嬢たちと一緒にいたら、エリスとの結婚がつまらなく思えてきたのかもしれない。
(ヘルムートさまに会いたい……)
 仲直りの印にと、本職の画家に描いてもらったふたりが並んでいる肖像画の、ヘルムートの姿を見つめながらエリスはほろほろと涙を零した。心がすれ違っていた頃も寂しかったけれど、それでも同じ屋根の下と思えば、大好きな人の姿を垣間見れるだけでも心は慰められていたのに。今はその人は遠い異国の空の下で、声を聞くことも姿を垣間見ることも出来ない。
(ヘルムートさま……早く帰ってきて……)
 旅立つ前夜に首筋にヘルムートがつけた赤い痕は、もうすぐ消えようとしていた。首筋を鏡で見るたびにあの夜の甘さを、ヘルムートの愛を思い出すけれど、それが消えたらヘルムートの愛も消えそうな気がして、エリスの心は怯えていた。

 そんなある夜、エリスはヘルムートの夢を見た。
 庭を歩いているはずが急に白い霧に包まれて、風に霧が飛ばされたあとには、湖のほとりに立っていた。
(あれ……?)
 セロンの実家の脇の湖に似ているような気がして、エリスは首を捻った。ふと見渡すと、離れたところに人が俯いて立っていたが、その後ろ姿がヘルムートにそっくりで、エリスはどきりとした。そろそろと近づくと、やはりヘルムートで。
(ヘルムートさま……!)
 急ぎ足で近寄ると、ふと顔を上げて振り返ってきた。
『エリス』
 美しい顔に寂しそうな笑みを浮かべて、ヘルムートが両手を広げてきた。
「ヘルムートさまぁ……っ」
 べそをかきながら腕の中に飛び込むと、抱きしめてくれたはずなのに、その腕の力を感じない。
「ヘルムートさま……?」
 見上げると、アメジストの瞳が寂しそうに揺れていた。
「どうしたの……?」
『エリス……ごめんよ』
 心臓がとまるかと思うほどの衝撃だった。なぜ謝られるのか。やっぱり自分は……
『ごめん。僕は……』
(やだ)
 上着の袖を掴もうとして、するりと手から袖が抜ける。
「……や……っ、ヘルムートさま……っ」
 追いすがろうとして、追いつけない。ヘルムートは湖の上に立っていた。湖に入ってでも、と思うのに、エリスの足が動かない。金縛りに遭ったように身体も動かない。
『きみを愛している。きみの幸せを……』
 湖面に霧が流れてくる。
「待って、ヘルムートさま、や……っ」
 見えなくなってしまう。零れる涙どころではなく、エリスはかぼそい声で叫んだ。
「いやっ、……ヘルムートさま……、行かないで……行っちゃいやぁ……っ」

「——奥さま!」
 揺すぶられて、エリスは息を喘がせながら目を開けた。
「大丈夫ですか、奥さま。ひどくうなされて……」
 眦から涙が零れているのがわかる。
「あ……」
(ヘルムートさま……)
 伸ばした手を、だれかの暖かい手が握りしめてくれる。
「へ、ヘルムートさま……」
 やっと息をつけるようになって囁くように呼ぶと、やさしい手がもう一度、ぎゅっと握りしめてくれた。
「旦那さまの夢を見られたのですね。大丈夫ですか?」
 涙で歪んだ向こう側から、侍女の一人が心配そうにのぞき込んでいた。
「あ……ありがとう」
 やさしい手が嬉しくて、礼を言うと、侍女は微笑んできた。
「いいえどういたしまして。ご気分はいかがですか?」
 深呼吸をして微笑した。
「……大丈夫。もう朝?」
「はい。いつもよりちょっとお早いお目覚めですわ。夢を見られたせいでしょうけれど」
 身を起こすと、ちょっとまだドキドキしていた。息を整えながら涙の痕を手の甲で消すと、ベッドから下りて着替えを手伝ってもらう。顔を洗って身支度を整えると、食堂に下りて朝食に向かう。
 毎日ひとりぼっちの食事だけれど、厨房の使用人たちがエリスを慰めようと工夫を凝らして美味しい食事を作ってくれている。料理長が料理のしかたを説明してくれるのを聞きながら食事をするのも楽しみだった。時々、食卓の脇にヘルムートからの手紙が届けられていたりして、食事のあとでゆっくり読むのが一番の楽しみだった。
 今朝は絵葉書が朝食の席に数枚届いていた。そういえば最近はまとめてお手紙が届くよねとエリスはちょっと微笑んだ。遠い国からのせいか、まとめて週に一度程度に王都に届くらしい。あとでゆっくり見ようと思いながら、気になってしょうがない。
(だめだめ、お行儀悪いもん……!)
 絵葉書を見ないようにしながら、果物にヨーグルトをかけたものをスプーンで掬う。エリスは小食だから、身体のことも考えていろんな料理をちょっぴりずつ食べるようにとお医者さまからも言われている。ヘルムートは時々それこそ鳥の餌ほどの食事を見て、「僕の小鳥さん」などと呼んで笑ったりもする。からかわれて恥ずかしいけれど、でもヘルムートがエリスを大事に思ってくれるのもわかっているから不満にも思わない。

 ミルクティーを最後に飲むと、食卓でゆっくりと絵葉書を見ていく。ヘルムートは北にある国を訪問中らしい。日付順に見ていくと、最初のものは「王都はもう初夏の季節なのに、こっちはまだ春みたいだよ。そのかわり緑が綺麗だよ。草原もきみの瞳みたいな色なんだ」と書いている。絵葉書もたしかに緑の美しい草原に民族衣装に身を包み、馬にまたがる人々が集っている絵だった。
どこかの城を描いた二枚目には「今日は季節外れの吹雪だったよ。毛皮の外套を持ってきて正解だった。ただジーナの歳とった太っちょの女官に貸す羽目になったけどね。女性たちはみな衣装を着膨れて、ジーナに体を暖める魔法をかけられてもまだ震えているよ」と書いてあって、エリスは思わず微笑んだ。
三枚目の「夜会で相変わらず女性陣をあしらうのが面倒だよ。おかげで向こうの男性陣には恨まれっぱなし。別に僕は女性にもてなくていいんだけどなあ。僕にはきみがいさえすればいいんだから。きみのくれたお守りに毎晩キスしてるよ」には思わず胸がときめいてしまった。その絵葉書は、その国の伝説か何かなのだろう。女性の姿の天使がとても痩せた老人の頭に王冠を授けている絵だった。
「アレイスターおじいさまみたいなおじいさん……」
 ふと、レスターの亡くなったおじいさまを思い出した。アレイスターおじいさまはこんなに痩せてはいなかったけれど、この絵の老人のように清冽な空気を纏っていることがあった。だいたいそれは、レスターに魔法について語っている時で、それをよくわからないままに傍らで聞きながら、エリスは魔法使いも神殿の神官さまと同じように心が清らかなんだなあと感じていた。
 それにしても、封筒に入った手紙が今回はついに来なかったのにちょっとがっかりした。ヘルムートは忙しいのだろうか。最後の日付を見直すと十日ほど前で、数日前の新聞の社交欄によるとあと二カ国ほど回って帰ってくるはずだった。

 食堂を出て部屋に戻ろうと廊下に出ると、玄関ホールが騒めいていた。
(なんだろう……)
 もしやヘルムートからの手紙でもとどいたのだろうかと、絵葉書を胸に抱きながらホールのほうに歩いていくと、女中の一人が小走りにやって来るのが見えた。
「どうしたの?」
 声を掛けると、女中ははっとしたように立ち止まった。
「お、奥さま……」
「お客さまがいらしたの?」
 ヘルムートは留守なのだけれど、それならセドリックかエリス自身が応対しないといけないだろうと思いながら尋ねると、女中は「はい、王宮からお使いの方が。いま執事さんを呼びに行くところです」と返事をした。それを見送ってホールに出ると、従僕の一人が「あっ」と叫んで飛んできた。
「お、奥さま……」
「わたしがお相手したほうがいい? それともセドリックにまかせたほうが……?」
 ちょっと緊張しながら従僕に尋ねると、「ラングレー公爵夫人でいらっしゃいますか」と脇から声を掛けられた。そちらを向くと、中年の紳士がシルクハットとステッキを片手に緊張の面持ちで立っていた。
「はい……」
「私は子爵の○○と申します。早朝から申し訳ございません。宰相閣下の火急の使いとして参りました」
「宰相さまのお使いのかた……」
 エリスは首を傾げた。舞踏会で出会った矍鑠とした老人を思い出す。
「公爵夫人、お気をたしかにお聞きください。実はラングレー公爵閣下が……訪問先の○●国の宮廷で刺されたとの連絡が昨夜王宮に——」
「……ヘルムートさまが……刺された……?」
 聞きなれない言葉に、思わず復唱してしまう。ヘルムートさまが刺された……刺された……?
 じわじわと言葉の意味が心に沁みてくる。刺された。ヘルムートさまが。ではあの夢は。今朝の夢は——!
「奥さま……!」
 膝から力が抜ける。頭の中が真っ白になって、心が痛くて目の前が暗くなった。



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