遠い旅



  宝石箱のなかから楕円型の中身の入っていないロケットを見つけて、エリスはほっとした。銀細工に色貴石の粒をちりばめた女物で、これはヘルムートの亡くなった母親のものを譲り受けた分なのだが、めったに外出もせずに装飾品には無縁で育ったエリスにとって、必要な物だった。
「では、これにあわせてお切りしましょうね」
 侍女の言葉に頷いて、髪の毛を切ってもらってロケットに収めた。
(どうか、ヘルムートさまを守ってください、ヘルムートさまのお母さま)
 ロケットを掌で包んでお祈りすると、旅支度をしているヘルムートの部屋に出向いた。

 おおかたの荷造りは終えて、ヘルムートは留守中について執事のセドリックに指示を出していた。ロビンやジンやレティーのようなヘルムートと特に気心の知れた使用人の何人かはヘルムートについていく。
「どうしたの、エリス」
 開け放った扉のそばで戸惑った風情で立っているエリスに気がついてヘルムートは声を掛けた。
「あ、あの、ヘルムートさま……」
「入っておいで」
 セドリックが下がるのと入れ違いに、ヘルムートの部屋に入ると、ふたりきりになった。
 ぎゅっと抱きしめてくれた。大きくてあたたかいやさしい手。しょぼんとしながら一緒に長椅子に座ると、ヘルムートが抱き寄せてくれた。
「エリス、そんなに寂しがらないで」
 困った顔をして頭を撫でてくれるのに、寂しいのを我慢してこっくりと頷いた。
「ヘルムートさま……」
「ん?」
「これ……持っていってください」
 銀の鎖に通したロケットを差し出すと、ヘルムートは怪訝な顔をした。
「どうしたの?」
「あのね、ヘルムートさまのお母さまの宝石箱からさがしたの……。わたしの髪の毛入ってるの。コレットがこういうのがお守りになるからって教えてくれて……」
 ぎょっとしたように顔を上げて、髪に触れてくる。
「きみの髪を切ったの……?」
「あ、あのね、たくさんじゃないの。ヘルムートさまのお邪魔じゃなかったら……」
 ヘルムートは黙ってロケットを見つめていたが、小さな手ごと両手で包み込んだ。
「エリス」
「は、はい」
「きみの手で、僕の首に掛けてくれる?」
 そっと蜂蜜色の髪を撫でて、銀の鎖をその首に掛ける。胸元にゆれるロケットを握って見つめて、ヘルムートは微笑んだ。
「……ありがとう。きみといつも一緒にいられるんだね」
 愛しそうにロケットにキスをして襟元からシャツの下にするりと滑り込ませると、手を伸ばしてきてエリスの首筋に触れる。
「首、もしかして痛かった?」
「あ、えと……はい……」
「ごめん」

 昨夜の首筋の痛みは赤い痣のようになっている。着替えの時に侍女の一人に言われてはじめて気がついて、エリスは柔らかい布で首にリボン飾りのように巻いてもらった。けれどどうしたんですかと侍女に聞かれて、恥ずかしくて真っ赤になってしまうと、侍女も察してくれたらしい。「旦那さまもしょうがないですわね、ほほほ」と笑っただけだった。

「エリス……、留守中のことはセドリックにまかせてあるから、心配しなくていいよ」
 ヘルムートはやさしく言った。
「きみの具合が悪くなって医者の手に負えなくなったら、ちゃんとオルスコットに連絡するように言ってあるし、あいつがどんなに無理を言っても指示を守るようにも言ってある。それに、もし寂しかったらセロンのきみの実家に泊まりにいってもいいよ。バーンズ嬢が泊まってくれるなら泊まってもらってもいいし。そのかわり、無茶はしないで」
「は、はい……」
「エリス……誰よりもきみを愛してるよ」
 ぎゅっと抱きしめながらヘルムートは囁いた。
「遠くに離れていても、僕の心はいつもきみのことを想ってる。だから、笑っていておくれ。きみが幸せだと僕も嬉しいから」
 その首に腕を回しながら頷いた。
「わたしも、ヘルムートさま、だいすき……。愛してます」
「うん」
「怪我とか、病気とか、しないで……」
「うん」
 頬をヘルムートの頬にくっつけると、大きな手が、優しい指がそっと頭を、髪をなでてくれた。瞬きをして涙を押し戻す。
「ヘルムートさま……」
 喉の奥に大きくつかえるものがあるのを飲み込んだ。
 ヘルムートが抱きしめる力を緩めて顔をのぞき込んでくる。無理やりに笑顔を作ると、微笑んできた。
「僕の泣虫さん、キスしていい?」
「は、はい……」
 軽く唇を触れ合わせる。もう一度。もう一度、もっと深く。もっともっと。ヘルムートの舌がエリスの唇を割って入ってくる。舌を絡まれ、吸われ、息が出来ないほどの激しいキス。
 気が遠くなりかけたエリスを抱きしめて、ヘルムートは深く息をついた。

 昼前、いつもと同じ頃にヘルムートはお供を連れて王宮に出掛けた。このまま王宮に泊まって明日の早朝に外遊の一員として出発するのだ。
「いってらっしゃいませ、ヘルムートさま」
 がんばって笑顔で言うと、ヘルムートもにっこりわらって「うん」と言った。
「お土産、楽しみにしてて。毎日手紙書くからね」
「はい。ご無理なさらないでくださいね」
「大丈夫だよ。お守りも貰ったからね」
 頬にちゅっとキスをすると、「じゃあ行ってくるよ」と言って馬車に乗り込んだ。
 エリスが顔を赤らめながら手を振ると、窓から手を振り返してくれながら、ヘルムートは旅立っていった。

 ****

 絵入り新聞には、リカルドとジーナの王太子夫妻と、国一番の美形と名高い旦那さまの出発する挿し絵が載っていた。王宮の周りには、朝から美男美女を見ようと見物人が押し寄せていたらしい。
(すごいなあ)
 たしかにヘルムートさまも王子様もジーナさまも綺麗だ。三人ともエリスのことを「可憐で可愛い」と褒めてくれるけれど、あの三人といっしょにいたら自分がみずぼらしく見えることをエリスは自覚しているので、やっぱり一緒でなくてよかったかな、とちょっぴり悲しく感じながら考えた。

 ヘルムートからは本当に毎日手紙が届いた。絵葉書に走り書きしたものが多かったけれど、同じ国の中でも出掛けたことのないエリスにはよその土地の景色は珍しくて嬉しかった。子どもの時にヘルムートが送ってくれた絵葉書も取り出して見直したり、図書室の大きな机に地図を出してもらって、毎日眺めたりしていた。
 外遊の一行が国境を越えた頃から、絵葉書だけではなく、膨らんだ封筒に毎日書いた手紙がたくさん詰まって届くようになった。どんな風景か、どんな服装の人々なのか、どんな風習や文化の国なのか、いろいろ知らないことを書いてきてくれるヘルムートの手紙が楽しみだった。時には、押し花が挟まっていたりもした。絵葉書や封筒に貼られたきれいな切手もエリスには珍しい贈り物だった。こちらからは返事は書けないけれど、でもエリスはヘルムートと心がつながっていると感じていた。

 屋敷には、コレットがたびたび泊まりがけで遊びにやってきた。そんな時に持ってきてくれるのが、外遊の一行について書かれた雑誌や新聞の社交欄で、そこでも王太子夫妻に次いでヘルムートが話題の的になっていた。どの国でもヘルムートの美貌は注目の的で、その彼だけが妻を伴わないで随行員になっているのは、妻が病弱だからだとか、身重なのだとか、夫に劣らないほどの絶世の美女でヘルムートが溺愛しているためだとか、揚げ句には新婚でも美女好きの王太子がヘルムートの美しい妻を愛人にしたがっているのでそれから隠すためだとまで書かれていて、コレットは大笑いし、エリスは当惑するばかりだった。
「でも、あなたの旦那様が奥さんをだいじにしてて今回は連れて行かなかった、っていうのは事実だから、そこのところは良かったじゃない」
 記事を読み終わるとコレットは笑った。
「王太子殿下の結婚式と舞踏会にあなたが出たのは正解だったわね。でなけりゃ、まだ公爵は離縁して独身になったとかなんとか書かれるところだったわ」
「でもわたし、美人じゃないし……」
 落ち込んでいるエリスをコレットは呆れたように眺めた。
「あら、公爵と対等に張り合える美女なんてこの世にいないわよ。でもエリスは可憐で可愛いと思うけど。結婚式の時もとっても綺麗だったし」
 そうかなあ、と思う。
「最近は幸せそうで顔色もいいし、あんまり寝込まないし、ますます可愛らしくなってきたわよ」
 テーブル越しに、ちょんと頬を指でつついてくる。エリスは美人の点数が厳しいわねえと笑うコレットは相変わらず姉のようだった。


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