Pre-review of Books


■最新のPre-review of Booksに戻る■


その40 八重洲ブックセンターの不可思議事―日下三蔵編『乱歩の幻影』

いま八重洲ブックセンターで開催されている「澁澤龍彦展」を見終わって(感想は「裏日録」にて)、文庫・新書のフロアをざっと流していたら、本書を見つけた。「乱歩の作品、趣味、性向、人柄等を題材とした小説」のアンソロジーである。

「双生児」の映画化など、乱歩の小説ほどメジャーで、話題に事欠かないものはないだろうが、いっぽうで、こうした「乱歩にまつわる小説」は決してメジャーとは言えまい。構成は以下のとおりである。

高木彬光「小説 江戸川乱歩」/山田風太郎「伊賀の散歩者」/角田喜久雄「沼垂の女」/竹本健治「月の下の鏡のような犯罪」/中井英夫「緑青期」/蘭光生「乱歩を読みすぎた男」/服部正「龍の玉」/芦辺拓「屋根裏の乱歩者」/島田荘司「乱歩の幻影」/中島河太郎「伝記小説 江戸川乱歩」 編者解説(日下三蔵)

いずれも著名な推理小説作家がずらり並んでいる。こんな小説があったのか…と思うような作品ばかりで、それを入手しやすい文庫という形で刊行するという試みは評価されてしかるべきだろう。とりわけ私としては、山田風太郎の「伊賀の散歩者」の収録が嬉しい。

ところで本書を購入するにあたり、不可思議なことがあった。まずその経緯を順序立てて説明してゆこう。

本書を「発見」したのは、実はちくま文庫の棚であった。ちくま文庫なのだから当たり前だが、平積みでなく、普通に棚に収まっていた。本書は9月の新刊なのである。だから、それを見た私は一瞬「ん?もう出たの?」と思って、本書を棚から取り出し、奥付をチェックした。1999年9月22日。まさに今日の日付になっている。しかしながら、今日書籍部で見たときには、ちくま文庫の新刊は並んでいなかった。そのうえに普通の棚に入っていたものだから、疑問に感じたわけだ。

ひとまず棚に戻し、すぐさま文庫新刊コーナーに移って、ちくま文庫9月の新刊が並んでいるかどうか、確認する。しかし並んでいたのは先月8月の新刊のみ。さきほど見た奥付は錯覚かと、ふたたび棚に戻って本書を取り出し再確認してみると、やはり今日の日付であった。いよいよもって変だ。

次に、本書の帯に印刷されている同時刊行のちくま文庫も入っているか確認する作業にとりかかる。川本三郎さんの『私の東京万華鏡』はない。あったらこれも買っている。上林暁の短編集『禁酒宣言』はあった。だから、『乱歩の幻影』だけが入っていたわけではないということになる。『私の東京万華鏡』は売れてしまった可能性もある。

もう一度新刊平積みのコーナーを見てみたが、やはりちくま文庫は8月まで。やっぱりおかしい。新刊なのだから、平積みにしてあって当然なのだが、一冊だけ、しかも普通に棚に収まっているというのは何事か。

実は八重洲BCでこうした体験をしたのは、今回が初めてではない。8年も前のこと、種村季弘さんのエッセイ集『箱抜けからくり綺譚』をここで入手したときのことを思い出す。

とある用事で東京に来ていた私は、帰りがけ八重洲BCに立ち寄ったところ、本書を発見し狂喜乱舞して購入、帰りの新幹線でさっそく読みはじめた。この本が出るということはすでに知っており、刊行を今か今かと首を長くして待っていたこともあって、八重洲BCで見つけたときは、「東京に来てよかった」と心底思ったものだった。

ところがこの本もまた、種村さんの他の本と一緒に普通の棚に収まっていたのである。しかも、当時住んでいた仙台で本書が新刊コーナーに並んでいたのを目にしたのは、東京で入手してからずいぶん日数を経過してからだったという記憶がある。東京と仙台との間の、新刊が書店に並ぶ時間差と考えるにはあまりにも長すぎた。だからそのときは、「八重洲BCに一冊だけ並んでいたのは、試し陳列≠フようなもので、これが売れたらたくさん入荷する、そんな試金石なのだろうか」と考えた。

そして今回の件があって、またまた同様の疑念がわき上がった。いったいこれはなぜどういうことなのだろう。【99.9.22】


その39 やはり、そうなのか?―池内了『天文学者の虫眼鏡』

「そっだなごど、あだりまえだべした」と言われると返す言葉はないのだが、天文学者・名古屋大教授の池内了(さとる)さんと、ドイツ文学者・元東大教授の池内紀(おさむ)さんは兄弟なのだろうかと前々から疑問に思っている。

名前のニュアンス、そしてお二人とも兵庫県出身、そのうえ顔も何となく似ている…。

このたび刊行された了さんのエッセイ集たる本書に何か手がかりはないかと、目次や参考文献をざっと眺めた。そうすると、「一〇 地球の上に朝がくる」の章が目についた。この章の参考文献には、紀さんの同名の著書が挙げられている。同書はいまちくま文庫で手に入る。

さっそくその章を開いてみると、了さんが「兄」に質問を投げかけたエピソードが語られている。いっぽうで、たしか、紀さんのエッセイ集のどこかで、「弟」がいたという話を読んだ記憶がある。やっぱり兄弟なのかなあ。 だとすればの話だが、兄はドイツ文学者、弟は天文学者、そしてともにエッセイの名手、何ともすごい兄弟なるかな。【99.9.20】

追記 やはりそうだった

ホームページを見てくださった方から情報をいただきました。私の予想どおり、了氏が弟で、紀氏が兄だそうです。日外アソシエーツ『現代日本人名録98』で確認できるとのこと。胸のつかえがおりました。ありがとうございました。【99.10.4】


その38 本に呑まれた夏休み――池内紀『はなしの名人』ほか

山形の実家に帰省するにあたり、そこでゆっくり過ごすための本5冊程度を選りに選ってリュックのなかに詰め込んだ。ところがこのなかで読んだのは2冊ほど。では何を読んでいたのか。答えは、山形の地元で購入した本、である。いったい何のためにいそいそと本を選んだのか。

さて山形に帰ってみると、ちょうど家の近くにBook Offというリサイクル・ブックの店が開店したばかりだったので、何気なく立ち寄ってみた。こうした店は、ふつうの古書店にくらべると買取価格は安いしとりわけ良質な本を置いているわけではないのだが、品切文庫本などを選別せずにそのまま安価で並べていることが多い。もちろんそれが狙いではあった。

するとあることあること。ザクザクと宝を掘り出してきた。たとえば旺文社文庫内田百間『王様の背中』を\100で。これは百間唯一の絵入御伽噺集であり、すでに持っているのだが、\100につられて買ってしまった。欲しい方がいたら差し上げます。

これに味をしめて別の店にわざわざ車で遠征、ここでも河竹登志夫氏の講談社文庫版『作者の家』(ただし二冊中の一冊のみ。「第二部」を探しています)など、いい文庫本をせしめてきた。もうこうなったら止まらなくなり、新刊書店の八文字屋に散策ついでに立ち寄り、東京でも買えるのにと思いつつ新刊書を2冊購入。山形で購入した本は、単行本・文庫あわせて10冊を軽くこえる仕儀と相成り申し候。

宅配便で東京に送り返すダンボール箱の中身は、お土産などを差し引いて本当は軽くなるはずが、逆に重くなってしまうことに。妻から「自分で店に持っていって送ってきなさい」と愛想をつかされる始末。夏休みは本に呑み込まれたの巻でした。【99.9.5】


その37 泉鏡花文学賞へのこだわり―京極夏彦『嗤う伊右衛門』

第25回泉鏡花文学賞(1997年)受賞作の本書がノベルズ版(新書版)になったので、さっそく購入した。どうせなら文庫にしてくれればいいのにと思ったのだが、ノベルズ版で400頁近い大作、文庫にしたらさらにぶ厚くなるだろうし、価格も1000円と、文庫にしてもさほど変わらないかもしれないので、まあ仕方ないかと納得する。
この本の趣向として面白いのは、ちゃんと紐の栞が付いているにもかかわらず、「京極夏彦オリジナルデザイン」と銘打たれたお札風の紙栞がついていること。表には「満願成就」と書いてあり、大きさは普通文庫や新書に付いてくる栞よりひと回り大きい。

さて、私は、澁澤龍彦の名品『唐草物語』が第9回の同賞を筒井康隆の『虚人たち』と同時受賞していることから、泉鏡花文学賞というものに興味をもった。出版社主催たる芥川賞・直木賞、三島賞、川端賞などと違い、金沢市が選定主体であることも独特で、好ましい。内容も泉鏡花の名を冠するだけあって、幻想的な作品が選ばれることが多い。

そうしたこともあって、泉鏡花文学賞受賞作という理由だけで買い集め、読むようにつとめてきたのだが、ここ数年ちょっとそれもご無沙汰の状態になってしまっている。『嗤う伊右衛門』購入を機会に、これまでの受賞作と私の購入・未購入、既読・未読をチェックしてみたい。

 
年度作品名作者名所持読了備考
11973産霊山秘録半村 良角川文庫
翔ぶ影森内俊雄×角川文庫
21974悪夢の骨牌中井英夫×講談社文庫
31975甘い蜜の部屋森 茉莉×新潮文庫
41976誘惑者高橋たか子×講談社文庫
51977怪しい来客簿色川武大角川文庫
草の臥所津島佑子××
61978海星・河童(ひとで・かっぱ)唐 十郎××
71979消滅の光輪眉村 卓××
プラトン的恋愛金井美恵子××
81980わが魂は輝く水なり清水邦夫××
雪女森万紀子××
91981唐草物語澁澤龍彦河出文庫
虚人たち筒井康隆中公文庫
101982抱擁日野啓三××
111983光る女小檜山博××
121984海峡/八雲が殺した赤江 瀑×角川/文春
131985殺意の風景宮脇俊三×新潮文庫
141986シングル・セル増田みず子××
151987アマノン国往還記倉橋由美子×新潮文庫
シュージの放浪朝稲日出夫××
161988折鶴泡坂妻夫××
キッチン吉本ばなな福武文庫
171989野分酒場石和 鷹××
深川澪通り木戸番小屋北原亞以子××
181990泥汽車日影丈吉×
191991踊ろう、マヤ有為エンジェル忘れた
201992駆ける少年鷺沢 萠××
彼岸先生島田雅彦
211993喪服の子山本道子××
221994該当作品なし
231995夢の方位辻 章××
241996フルハウス柳 美里××
アニマル・ロジック山田詠美××
251997嗤う伊右衛門京極夏彦×

こうまとめてみると、34冊中15冊しか持っていないことが判明した。いかにも中途半端。読んだ本となるとさらに少なくなる。買ったかどうか、読んだかどうかすら忘却の彼方のものも(『踊ろう、マヤ』)。また気づいたら集めてみようかな。【99.8.25】


その36 未知への期待―淡島寒月『梵雲庵雑話』

新刊予告で淡島寒月の本が岩波文庫と平凡社東洋文庫からそれぞれ刊行されることを知った。淡島寒月…。明治の文人というくらいの知識しかない。それも、むかしアルバイトをしていた古書店で明治大正期の文人の人名索引・目録を作成する仕事を任されたことがあったから、かろうじて知っていたという程度。

こうやって違う形で同時期に著書が出るということは、「未知の領域」へ踏み込む絶好のチャンスになるものだ。まず安価な岩波文庫版のほうを購入する。

この時期の文人のことだから、山口昌男氏が何か書いているに違いないと踏んで、書棚から『「敗者」の精神史』をひっぱり出して目次を眺める。ビンゴ。それも淡島寒月とその父椿岳の二人にそれぞれ一章ずつあてて、かなりの紙数を割いている。ということは本書がきっかけになって淡島寒月再評価の機運が盛り上がったとおぼしい。内田魯庵といい、恐るべし山口昌男氏。

さっそく両者を取り上げた章「軽く、そして重く生きる術」(椿岳)・「明治大正の知的バサラ」(寒月)を読む。この時期の政治家や学者文人たちは意外なところで交友があったりして、こうした小伝を読むのは非常に楽しい。

椿岳・寒月父子も例外ではなかった。内田魯庵はじめ、画家川上冬崖、同じく高橋由一、写真師の草分け下岡蓮杖、伊井蓉峰、依田学海、幸田露伴、人類学の草分け坪井正五郎、巖谷小波など、知った名前が次々登場して、面白いことかぎりない。また、寒月が井原西鶴を再評価した中心人物であることも初めて知った。

山口昌男氏の椿岳・寒月父子評。「富国強兵・立身出世の時代に生きながら、その何れのイデオロギーにも与することもなく、しかも世をすねたりすることもなく、飄々と、そして淡々と、自らもこの世を愉しみつつ、人も愉しませ、時代の面白き部分とはちゃっかりと対話して、低エントロピーの生き方を貫いた、或る種の人生の達人」(同前書、101頁)。【99.8.22】


その35 カフーな日々≠ヘ終わらない―吉野俊彦『「斷腸亭」の経済学』

どうやら永井荷風の日記『断腸亭日乗』は、それを読む人をして「この日記を材料に一つの軸で何か書いてみたいなあ」という気を起こさずにはおかないようだ。
たとえば川本三郎氏は「荷風と東京」というテーマで『断腸亭日乗』を縦横に使って論じている。またたとえば松本哉氏は「荷風終生の愛人」というタイトルで幾人もの荷風の愛人を列挙して論じている(『永井荷風ひとり暮し』)。

荷風読書強化(半)月間≠熾カ字どおり半月を過ぎたのだが、なお荷風関係の面白そうな書物が出ており、終わりそうもない。生誕120年、没後40年という節目の年の威力。

安岡章太郎氏の『私の墨東綺譚』(墨はさんずいあり)は、箱入りで挿絵や写真も豊富に掲載された、活字の大きいゆったりした組みの瀟洒な本である。しかしながら職場の大学書籍部で探したものの、見つけられなかった。広告で見たその日に書籍部に行けず、その間に売れてしまったのだろうか。でもその後再入荷した形跡はない。そもそも入荷していないのだろうか。書籍部に対する不信感が芽ばえた。

先週末の新聞で本書『「斷腸亭」の経済学』の広告を見つけてチェックしたものの、こうした経緯もあって、入荷されたかどうか、半信半疑であった。
新刊コーナーにはなかった。「まさか。やっぱり…」。ひょっとしたらと思ったのは、タイトル。「経済学」の文字がある。念のため経済学のコーナーに行ってみる。なかった。まあ当然だろう。あったら恐い。結局、きちんと日本文学の新刊の場所に置いてあった。少しは不信感が払拭された。予想していた以上に浩瀚な本だ(約530頁)。

副題に「荷風文学の収支決算」、帯コピーに「エコノミストが迫る画期的評伝」とあるように、『断腸亭日乗』を金融・経済という視点から読み解いたものらしい。読み通すのは骨が折れそうだが、読み通さないことにはカフーな日々≠ヘ終わらない。【99.8.3】


その34 三冊めを買う勇気―吉野孝雄『宮武外骨』

古書即売展で宮武外骨の甥吉野孝雄氏が著わした『宮武外骨』の河出文庫旧版を見つけ、購った。売価100円。実は、同じ旧版と、それに改訂を加えた新版をすでに所持しているから、これで三冊めということになる。なぜすでに持っている本を購入したのか。自らその心理といきさつを説明したい。

そもそも宮武外骨のファンになったのは、ちくま文庫で文庫化された赤瀬川原平氏の『外骨という人がいた!』がきっかけだった。外骨の強靱な反権力の姿勢と、それを茶目っ気たっぷりに表現してみせる編集能力、パロディ精神に一気にとりこになってしまった。もちろん赤瀬川氏の語り口の絶妙さがあったからこそ、このように感じたわけである。
それ以来外骨に関する書物を買い集め、読みあさった。そのなかに吉野氏が著わした本書と、『過激にして愛嬌あり』(ちくま文庫)も含まれていた。

本書『宮武外骨』は外骨の正統なる評伝≠セから、赤瀬川氏の著書や、その後河出文庫から刊行された外骨関係の書物のように、外骨の著作の面白さを直接伝えるものではない。生真面目すぎるほど硬い本だ。旧版文庫もたしか古本で購入し、読んだはずだ(このへんからしてすでに怪しい)。その後表現などに訂正をほどこした新版文庫が出たときも、もちろん購入した。

外骨編集になる『滑稽新聞』『スコブル』などの雑誌が抱腹絶倒なのは申すまでもないことだが、それと同じくらい興味を持ったのは、外骨と東京大学との関わりにあった。有名な話だが、外骨は昭和初年から戦後80歳を過ぎるまで東京大学法学部付属明治新聞雑誌文庫の主任・嘱託という地位についていた。そしてこの明治新聞雑誌文庫は赤門入って左手の史料編纂所の下(半地下)にある。つまり現在の私の職場のすぐ下で、かつて宮武外骨があくせく働いていたのだ。畏敬する先人と同じ建物を職場としているということだけでも幸せを感じる。

明治新聞雑誌文庫の前で外骨を撮影した写真が数葉残っているらしく、本書252頁にその一枚が掲載されていた。これを見たら、いてもたってもいられなくなってしまったのだった(ほかに『谷根千』47号にも別の写真が掲載)。
持っているのであれば帰宅してからその写真を見ればすむと思われるかもしれないが、段ボール箱のどこかにしまわれたままで、見つけだせないでおり、目に見えるところに本書を置いておきたかった。これが買ってしまった理由の第一。第二の理由は、すでに持っている旧版より綺麗だったこと、第三の理由は100円という安さ。

私が購入してしまえば、誰か見知らぬ人が外骨という人物と出会うチャンスを奪い去ってしまうことになる…。外骨の魅力を多くの人に知ってもらいたい…。同じ本を三冊買ってどうする…。たった100円の本書を手に取りながらしばし買おうか買うまいか逡巡した。結局「たった100円だから」と思い切って購入してしまった。
もしこの本を是非とも欲しい、読みたいという方がいらっしゃれば、お譲りすることにやぶさかではありません。【99.8.2】


その33 相撲と私―澁澤龍彦『狐のだんぶくろ』

自らの少年時代をつづったエッセイ集『狐のだんぶくろ』のなかの一章「なつかしき大鉄傘」において澁澤龍彦は、自分が少年時代いかに“相撲博士”だったかを、数々の力士のしこ名を並べたてながら嬉々として語っている。
なかでもご自慢なのは、双葉山が70連勝を安芸ノ海に阻まれた一番を目の前で見ていたというエピソードであろう。もちろんここで澁澤龍彦が「大鉄傘」と呼ぶ国技館は、旧両国国技館のことである。

東京に来て、一度は見てみたいと心に期しているのが大相撲だ。澁澤龍彦ではないが、私も子供の頃はたいへんな相撲好きで、幼心に大人になったら力士になりたいとまで考えたこともあった。もっとも体が大きいわけではなく、むしろ軽量のほうであったから、友人たちと相撲をとるときはもっぱら技能派で、たとえば当時で言えば故栃赤城関のような相撲取りに憧れていた。相撲に関する本を読んで、友達や妹相手に「網打ち」や「すそ払い」、「逆とったり」などの技を練習したりもした。

さて、このほど名古屋場所で優勝した出島関が大関を手中にした。新聞には「武蔵川時代到来」の文字が躍っている。実は、私が子供の頃に一番のファンだったのが、この武蔵川親方、つまり横綱三重の海関だったのだ。なかなか渋いと思われませんか?

しかも、私でさえきっかけは忘れてしまったのだが、三重の海関が関脇だった頃からずっと応援していたのである。一度大関から陥落したときがあって、たいそう落ち込んだものだった。もちろんメジャーどころが決して嫌いなわけではなかったのだが(でも北の湖はご多分に漏れず好きではなかった)、この「関脇時代からの三重の海ファン」というのは、私のひとつの自慢になっていた。去年久しぶりに小学校・中学校時代の旧友と飲んだときにも、彼らから、私の影響で三重の海ファンになった、という話が出て、ああそういう時代もあったと懐かしさをおぼえたものだった。

というわけで、引退してからもひそかに武蔵川親方、ひいては武蔵川部屋のファンを続けていた私としては、二子山部屋時代を脅かすほどになったことを素直に喜びたい。そして、澁澤龍彦のように国技館で思いっきり力士たちを応援してみたいものである。座布団を投げるとストレス解消になるんだろうなあ。【99.7.21】


その32 荷風読書強化(半)月間―松本哉『永井荷風ひとり暮し』

荷風に関する文庫本が立てつづけに刊行された。表記の本(朝日文庫)と江藤淳著『荷風散策』(新潮文庫)がそれだ。もっとも、ただこの二冊が刊行されたからといってすぐさま「荷風読書強化(半)月間」というスローガンを思い浮かべたわけではない。

就寝前のつれづれに“読書予定本”の山の上のほうにあった『荷風散策』を何気なく手に取り、読みはじめた。「やはり荷風の作品にはいろんな魅力があるなあ」などと思ったとたん、川本三郎氏の大著『荷風と東京』が読みさしのままであることに気がついた。購入後読みはじめたものの一度中断し、再度読み出したが二度目の中断をしたまま現在に至っていた。読みはじめたのはちょうど一年前あたりらしい。サイレンススズカが勝った昨年の宝塚記念の外れ馬券が栞がわりにはさんであったからだ。(もちろんサイレンススズカ流しで買ったのだが、ステイゴールドを外していたのだった)

それで『荷風と東京』はようやく読み終えた。この勢いで『荷風散策』に入っている。ただ『荷風と東京』の緊張感に比べれば、引用部分が多く、間延びした印象は否めない。まあ内容の論評はおくとして、そのうえに『永井荷風ひとり暮し』が出たものだから、いよいよ「荷風読書強化(半)月間」となる。「強化月間」としてしまうには七月はすでに半ばを過ぎた。「強化(半)月間」のゆえんである。【99.7.15】

追記 シブサワーナ日々特別編:カフーな日々

荷風の小説、とりわけ『墨東綺譚』(「墨」はさんずいあり)を読んだのはいつだろうと思って過去の日記にgrep検索をかけたら、下の記載に逢着した。

1989年(平成元)5月31日
晴。先週金曜日にあった卒論構想発表の直前の頃から無性に本(勿論論文以外の)を読みたくなり、『高野聖』『仰臥漫録』等を読んでいる訳であるが、今日、昨日から読み始めていた荷風の『墨東綺譚』を読了す。先に『断腸亭日乗』を読んでいたせいか、どうもこの小説の内容と『断腸亭日乗』に記されている荷風の日々の記録とがオーバーラップしてきて、ノンフィクションのような感じがした。隅田川沿いの描写が絶妙で、この風景を知らない私でも、その風景が焼き付いてくるようであった。この作品が初めて読んだ荷風の作品であり、私の好みに合うものであった。やはり『墨東…』から入ったのが良かったのか。

これは私だけの性癖ではないだろうが、研究に行きづまったり、追いつめられたりしたとき、無性に別のことをやりたくなることがある。当時学部4年の私は読書がその逃げ道であった。このときは鏡花や子規、そして荷風を読んでいたわけだ。

江藤淳氏は『荷風散策』のなかで『墨東綺譚』を、「エッセイ風の小説」と評しているが、21歳の私もこの小説から「ノンフィクションのような感じ」を汲みとっている。「隅田川沿いの描写が絶妙で、この風景を知らない私でも、その風景が焼き付いてくるようであった」と書いた私は、10年後に隅田川を頻繁に訪れることができる場所に住むことになろうとは予測もしていなかった。

いま、当の岩波文庫版『墨東綺譚』は、他の岩波文庫と一緒の箱に入って、段ボール箱の山の一番下に沈んでいる。“荷風読書強化(半)月間”のうちにすくい上げて再読したい。

追記その2 永井荷風と東京展

私のような“カフーな日々”を送っている人間におあつらえ向きの企画がはじまる。

「永井荷風と東京展」
東京都江戸東京博物館(03-3626-9974)
7/27(火)〜9/5(日) 10:00〜18:00

今年が荷風生誕120年、没後40年だからだろうか。“荷風読書強化(半)月間”の締めくくりに何ともふさわしい企画である。


その31 優柔不断の弁―赤瀬川原平『優柔不断術』

“Internet山形県人会”「お国自慢アカデミィ」中の一項目「山形人」に、次のような記載がある。

野暮で真面目。陽気で素朴。忍耐強い。封建的。芸文に長けている。縄文系。手先が器用。口べた。等々...

山形人である私にそくしていえば、半分程度該当するかなあというところ。野暮、素朴、忍耐強い、口べた…。「山形人」全般ということではなく、個人的に言うと、ここに「優柔不断」を加えてもいい。

優柔不断であることがわかっていて、自分でもそういう自分にイライラするから、なるべく自分で判断したくない。できれば他人まかせにしたい。ヴィリエ・ド・リラダン風にいえば、「判断? それは召使に任せておけ」である。
とは開き直りながらも、召使に任せるほど自分は偉くはなく、やはり優柔不断であることに負い目はもっていた。

ところがこのたび、「老人力」の造語で一躍時の人となった赤瀬川原平氏がまた新しい理念をひっさげて書き下ろしの本を上梓された。名付けて『優柔不断術』。そうか…。優柔不断もひとつの「技術」「方法」なのか…。とかく世間でマイナスに評価されがちな価値観を180度転換させてしまうところに、快著『老人力』との共通点があり、赤瀬川思想の真骨頂がある。

南伸坊氏の手になるカバー装幀にも印刷されている冒頭の一文から、いきなり衝撃的だ。

ぼくは、自分でいうのも何だが、優柔不断の能力には恵まれている方だと思う。

優柔不断が「能力」だって?この一文で世の中の優柔不断人間は救われるのではあるまいか。【99.6.27】


その30 人生観を変える食物誌―上野敏彦『塩釜すし哲物語』

とてつもなく美味しい食べ物を口にしたとき、それまで自分が食べていたレベルとのあまりの隔たりに呆然としてしまう。食物観がガラッと変わった瞬間だ。ちょっと大げさに言ってしまうと、人生観が変わった瞬間と言い換えてもいい。

それが本書で取り上げられた寿司屋「すし哲」で寿司を口にした時だった。

とある先輩の引越しをお手伝いしたあと、ご苦労さんということでその先輩に連れられ、仙石線にゆられて塩釜へ行き、すでにこの頃から噂では聞いていたすし哲へ初めて入った。そこで“本日のおすすめ”の握りを口にした瞬間が忘れられない。「いったい今まで食べていた寿司は何だったんだ?」という衝撃。

たしかそのなかに、いまや回転寿司ではレギュラー・メニューと化した感のある「えんがわ」があった。私は生まれて二十数年にして初めて「えんがわ」と出会い、その何ともいえない歯ごたえに魅せられて現在に至っている。回転寿司ではまずえんがわが流れていないかを探す。最後もえんがわを注文する。

さて、「すし哲体験」があまりに衝撃的だったこともあって、後日両親が仙台に来たときに連れていったのだが、行列店だけにかなりの時間待たされた挙げ句、味も初めてのときのような感動もなく、また、さらにその後ビルを建てて店が立派になった様子を見て、「人気店の凋落」と勝手に思いこんでしまっていた。

本書のような書物が出るところを見ると、どうやらそれは私の勘違いだったようだ。もう一度訪れたい店である。【99.6.14】


その29 反実践的・反現場主義的―澁澤龍彦編『エロティシズム』

先日の“古畑任三郎”の前口上で、「アームチェアディテクティヴというのは、現場に行かずに肘掛け椅子に座ったまま事件を解決する」うんぬんという話が田村正和の口から語られていた。
このような反実践的な、反現場主義的な意味の形容詞をほかに探すと、“アームチェア”から少しばかり行動範囲が広がった“書斎の〜”という言葉が思いあたる。

本書『エロティシズム』は、もとは雑誌『ユリイカ』の臨時増刊として1971年に刊行されたのだが、そのとき、本書を手にした稲垣足穂が「書斎のエロティシズムだ!」と喝破した話はあまりに有名だ。のちに1973年に単行本となって本書が再刊されたさい、編者澁澤龍彦はこの足穂の発言に異を唱えるどころか、逆に我が意を得たりとばかり自慢げに「あとがき」にこのエピソードを記している。

今回この単行本がそのまま上下二冊で文庫化された。『ユリイカ』臨時増刊版を持っているので購入するかどうか迷ったが、河出文庫の澁澤シリーズは漏れなく購入している手前、そのまま無視することができなかった。ん?単行本は持っていないよな?段ボール箱の奥深くに澁澤本があるので、確認できない。忘れてしまった。

ところで“書斎の〜”という形容詞を付けた雑誌が最近登場している。『書斎の競馬』がそれ。“書斎のエロティシズム”にしろ“書斎の競馬”にしろ、意外な組み合わせであるが、何となく納得させてしまう語感をただよわせている。かくして書斎としての頭脳のなかにしまいこまれている記憶・データから、馬券は生みだされる。【99.6.7】


その28 よくある話―林望『東京珍景録』

よくある話し―とは本書の内容のことではない。本書購入の経緯のことである。

以前“その23”で八重洲地下街にある古書店について触れたが、そこで購入したのは本書の元版(『リンボウ先生東京珍景録』)なのであった。売価1,500円。新潮文庫今月の新刊に本書が並んでいるのを見たとき、一瞬頭がくらっとした。古書で購入したとき、六月の文庫新刊情報を得ていてもおかしくなかったろうに。でもそれも一瞬だけで、すぐに「よくあること、よくあること」と自分をなぐさめた。実際よくあることだから。

もちろん購入。収録写真のキャプションが全面的に書き換えられたほか、泉麻人氏の解説が加わっているし、何より影山徹氏による装画がいいからだ。

単行本で購入した本が数年後に文庫本となって再刊されたとき、だいたいそれも購入する。「お金のムダ」と言われようがそれが私の流儀だ。そしてハードカバーの旧版はまとまった時点で古本屋に売却する。装幀がいい、内容が好きなど、旧版に愛着がある場合、新版になったときに大幅に補筆がなされた場合、売却せずに旧版・新版ともに残す。それが私の流儀。だから部屋には文庫本が山のように積まれることになる。

文庫本で読みたい本、ハードカバー(単行本)で読みたい本、初版で読みたい本、全集版で読みたい本、書物にはそれぞれの性格がある。私は基本的に、読めるならば何でもいいのだが、書物によってはこだわりたいものもある。【99.5.31】


その27 奇しき縁―『ユリイカ』1999年6月号「特集村山槐多」

久しく記憶の底に澱んでいた作家や作品が、書物の世界を経巡っているうち、ふとした偶然のきっかけで再浮上してくることがある。

最近森まゆみさんの『明治東京奇人傳』を読んでいたら、夭折した画家である村山槐多が田端・谷中・根津界隈に住んでいたという記述に接した。最近好んでその方面を歩き回っていただけに、私は興味を示さずにはいられなかった。

村山槐多という人物の存在を知ったのは江戸川乱歩のエッセイによってである。乱歩偏愛の画家で、自宅応接間に槐多の「二少年図」という絵を飾っていたほどだ。さらに槐多は「悪魔の舌」をはじめとする怪奇小説数編を遺していることも知り、さっそくそれらがまとめられている『村山槐多全集』(一冊本、弥生書房)を購入した。いま調べてみるとこの全集は、増補版となって出ているらしい。

さてそうして槐多は私の記憶の海のなかで再浮上のきっかけをつかんだ。それを決定的に水面に引っぱり出したのが、今回見つけた『ユリイカ』の特集号である。順番が入れかわって、たぶん最初に『ユリイカ』を見たのならば、「ふーん」と思うだけで、購入までには至らなかったかもしれない。森さんのエッセイという第一段階があったからこそなのだと思う。

今回の特集号には、全集未収録作品「魔童子伝」(怪奇幻想小説らしい)と未収録エッセイが翻刻され、高橋睦郎氏と酒井忠康氏による対談はじめ諸氏のエッセイによって、画家・詩人・小説家としての槐多が多面的に浮き彫りされている。挿入図版によれば、乱歩蔵「二少年図」は世田谷文学館に寄託されているとのこと。一度この目で見てみたい。【99.5.26】


その26 スカトロジー・アンソロジー(上)―林望『古今黄金譚 古典の中の糞尿物語』

ついに平凡社も新書の刊行を開始した。ライブラリーに新書と「いったい大丈夫なの」と余計な心配もしたくなるが、まあ読む側としては楽しい内容の書物が増えればそれにこしたことはない。

さてその002番という期待を背負って投入されたのが本書である。スカトロジー(scatology)すなわち糞便趣味であるが、もちろん私はそうした嗜好をもちあわせているわけではない。ただ、それに触れた書物は気になってつい買い求めてしまう。

なぜか。

人間誰しもが毎日その行為をするに違いないのだが、いっぽうでこうした行為はきわめて個人的な、他人の目から秘匿すべきものという道徳観をわたしたちは植え付けられている。スカトロジーに触れた書物はそうしたタブーから解き放たれているという意味で、すぐれて明るく、開けっぴろげで、楽しそうなイメージがある。この明るいイメージ、開放的なイメージが好きで買うのかもしれない。

本書林氏の糞尿物語≠ヘそのサブタイトルにもあるように、日本の古典を材料としている。目次を眺めただけでも、古典には尾籠な話が多いものだなあと思う。もとより糞尿の話は洋の東西、時代を問わないから、日本以外にもたくさんある。“品切れ文庫本の世界”に場所を移して、それらのアンソロジーを紹介しよう。いざ。【99.5.24】


その25 齢重ねてわかる本―森鴎外『渋江抽斎』

恩師の口から「鴎外の『渋江抽斎』は年をとらないとその良さがわからない」といったニュアンスの言葉が語られたとき、脇で聞いていた私は深く共感して思わずうなずいた。「年をとらないと良さがわからない」だったか、「年をとったら良さがわかる」だったか、「若いうちはわからない」だったか、正確には忘れたが、いずれにしても我が意を得たり≠ニいう心境だったことは確かだ。

もちろん私はまだ『渋江抽斎』の良さがわかっていない人間だから、えらそうに内容を語ることはできない。これまでの私の経験上、「そうかもしれない」と想像するにすぎない。

これまで私は二度、『渋江抽斎』の読破を試みたことがある。最初は中公文庫版が出たとき、二度目はちくま文庫版鴎外全集が出たとき。その都度数十ページで頓挫した。二十代の身空では『渋江抽斎』はまだ早い、ということか。

石川淳のように絶賛する論者もいて、鴎外作品の最高傑作と褒め称えられているいっぽうで、史伝というジャンル全体まで広げてあんなものどこが面白いという人もいる。その価値判断のボーダーラインとなるファクターは必ずしも年齢によるものではなかろうが、ともかくまずは読まなければはじまらない。
このたび岩波文庫版が改版されて新しく刊行された。今度こそ。【99.5.18】


その24 再読のきっかけについて―池内紀『街が消えた!』

我が書棚の一角を占める池内紀コーナー≠ぼんやりとながめていたら、帯の背の部分に印刷されていたコピーユニークな建築探偵小説に目が止まった。心が動かされてやおら本書を手にとり、パラパラとめくってみて驚いた。
本書は西片町・赤字坂・大和村・城南住宅・学園都市・黒沢村・桜新町・目白文化村・常盤台・佃島・雑司ヶ谷・田園調布・浅草・音羽町・巣鴨の15箇所が舞台の連作小説である…ということにあらためて気づかされたからだ。

本書が刊行されたのは1992年7月。新刊のときに購入して、通読した記憶は確かにある。ただ記憶にあるのは、ほのかにエロティックな(という高級な表現よりはむしろエッチな)描写がたまらなく良かった、ということだけ。池内さんの小説はときおりほのかにエッチな描写がさりげなくさしはさまれていて、結構好きなのだ。

それから7年足らず…。そして東京に移って1年余り。何度も散策したり、訪れたりした場所が舞台ではないか。あらためて再読の意欲がわく。
座右に積み重なった読書予定本≠フ山がまた一冊分高くなった。
読書のきっかけとは突然予期せぬかたちでおとずれる。【99.5.18】


その23 大書店は本好きを落ち込ませる―林望『リンボウ先生東京珍景録』他

“その9”で「大書店は本好きを狂わせる」話を書いたが、そのときおもむいた「大書店」とは八重洲ブックセンターだった。今回もやはり同じく八重洲BC(以下BCと略)の話。
今回の目的は、とある必要があっての地図探し。目的のものは見つかったのでニンマリなのだが、どうせ来たんだからと、またぐるっと主に1Fを見て回った。そのうちに二つのことで落ち込むことしきり。

というのは、自分が知らないうちに面白そうな本が続々出ていた…ということ。つまりこのところめっきり新刊本の情報収集力が落ちてきたわけ。これは、雑誌の新刊ニュースやら「今月出る本」を見なくなったわけではなくて、頻繁に書店に立ち寄る回数が減ったため、それらで情報を集めてもフォローせずに忘却の彼方へ…ということだ。
もうひとつは、そうして見つけた買いたい本≠ェ思うように買えなくなったこと。もちろんこれはたんに財政的な問題なのだが、それに加えてスペース問題も抱えている。あーあ、宝くじでも当たらないかなぁ。

BCに行くために東京駅の地下にある八重洲地下街を通り、久しぶりにそのなかにある古書店にも立ち寄った。表記の本を購入。ほかに目をつけた一冊は、昔購入したのだが、自分の部屋には見当たらない、でも今のうちに買っておきたい(手もとに置きたい)本だった。まだ段ボール箱の中か、引越のときに古書店に売り払ってしまったかのどちらか……判断に迷うところだったけれど、買うのを控えた。帰宅してから段ボール箱をひっくり返して探したら…、見つかった。良かった。900円損せずに。

BCで目当てのものを購入し、かつ落ち込んで、東京駅の構内に入ると、つい駅弁とビールを買って新幹線に乗り込み、「あ゛ーっ」と一息つきたい気分になってしまった。これって条件反射?とにもかくにも、こういうときの駅弁とビールほどおいしいものはない。【99.5.12】


その22 忘れたころにミシマ―三島由紀夫『青の時代』

いま、三島の『青の時代』を読んでいる。電車に乗っている時間が短く感じるほど、面白い。
ハマりやすい性格の私だが、三島は好きだが連続して読んだ経験があまりない。三島を何冊も読みつづけるには、それなりのパワーが必要だ。

だが、年に一、二度、三島を読みたくなるときがある。新潮文庫のオレンジ色の背表紙が目から離れないときがある。去年はそれで『宴のあと』を読んだ。今年はいまがその時期にあたるだろうか。

私は三島の読者としては本流ではない(と思う)。逆説的だが、『豊饒の海』四部作から入ったといえばそれがわかってもらえるだろうか。
乱歩の影響で戯曲『黒蜥蜴』を読み、澁澤が文庫の解説を書いているから『音楽』を読み、仙台のご当地小説≠セから『美しい星』を読み、筋の面白さに惹かれて『命売ります』を読んだ。

そのいっぽうで、代表作と称される『金閣寺』『禁色』『鏡子の家』も読んでいない。オレンジ色の前で立ち止まるとき、かならず『禁色』や『鏡子の家』を一度は手に取り、今後こそはと思うことがないわけでない。その厚さが購入を躊躇させるのだ。『金閣寺』は、将来きっと読むときがくるだろうからいまはいいや、と勝手な判断でいつも先延ばしの憂き目にあっている。

私はまた、文体や言い回しの影響をきわめて受けやすい人間だ。卒論を書いている当時、たしか三島を読んでいて、そのなかに「揣摩臆断」などという普通は使わないような言葉を好んで使っていた。三島の影響。いまになって振り返ると恥ずかしい。
ああ。こう書いているうちに、『美しい星』を読みたくなってきた。【99.5.10】


その21 いまから心配してどうする―石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』

ある必要から大書店に行ったところ、棚配置などの巧妙さについのせられて、関係のない本まで購入してしまった。それでも自制して、買うのは二冊にとどめた。

「その20」『漱石の記号学』を取り上げた石原千秋氏は、最近別の面でも注目すべき書き手になっている。それが本書『秘伝 中学入試国語読解法』だ。個人的に友人から本書の存在を教えてもらってはいたものの、書店で目にするのははじめて。パラパラめくってみて、購入を即決。

本書は、石原氏ご夫妻が令息とともに中学入試と格闘した記録(第一部)であり、さらに全国難関中学の国語入試問題を解析した試み(第二部)である。これをたんなる受験戦争との格闘記録、教育論として読んでもよかろうが、何といっても注目されるのは、漱石研究で著名であり、かつ、ある教科書の編集委員でもある国文学者が、国語の入試問題に正面から挑んだ点にあるだろう。帯に記されたコピーもその線でおしている。

学級崩壊の中にいた長男とともに難関中学受験に挑む。丸暗記でも詰め込みでもない、真実の躾と学習法がここにある。(帯から)

個人的にいうと、最近長男が生まれ、これから東京という大都市のなかで彼をどのように育てていけばいいのか…ということを考えていた矢先のこと、大学の教員という似た立場で、かつ東京における、それも「息子」の受験対策という見事にこちらの漠然たる悩みと合致したのが本書であった。
もっとも私たちがそうした立場になるのは、あと十数年後、その頃時代はどう移り変わっているか、皆目見当もつかない。こんな時期からああだこうだと悩んでいては、先輩のお父さんお母さんから笑われるに違いない。
「とりあえず野球とサッカーを教えて、部屋には乱歩や漱石の本をさりげなく置いといて…」なんて考えを捨て去る日が来るのは近いのか?【99.5.5】