Pre-review of Books


■その1〜その20■ ■その21〜その40■


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毎日書いている「東京物欲見物欲漫筆」がほとんど買ってから読む前の本、つまりここで書くべきような本を取り上げているので、コンテンツを統合し、名前も「読前読後」と改めることにしました。これからもよろしくお願いします。


その60 文庫本スナイパー―坪内祐三『文庫本を狙え!』(晶文社)

文庫本が好き。坪内祐三さんの文章が好き。

ここまで条件が揃っておきながら、坪内さんの新著『文庫本を狙え!』(晶文社)を買わないわけがない。本書は『週刊文春』において、1996年から2000年まで足かけ五年にわたって連載された文庫本154冊の書評集である。

読まずにそのままにしておくことがどうしてもできなくて、つい読み始めてしまう。目次を眺めていると、私も購入している本や、この「漫筆」などHPで言及している本もあって、やはり好みが重なっているなあと思う。
というよりも、最近は坪内さんに導かれて読みたくなり、購入したり、また、面白そうな文庫本を買ってみたら解説が坪内さんだったり、遭遇率≠ヘかなり高いのである。

最初のほうを読んでいて、柴田宵曲・森銑三の『書物』について触れた文章があった。そこには、こんな森氏の文章が引かれてある。

余計な憎まれ口を叩くにも及ばぬが、文庫本ばかりを書架に並べてその量の殖えて行くのを喜んでいる人たちは、まだまだ書物好きとはいい兼ねるのではないかという気がする。(「形の大小」)

岩波文庫批判をしたあとの結びの文章だ。それがいまや当の岩波文庫で読むことができる。これが発表されたのは昭和23年。はたして今に森さんが生きておられたならば、上記の発言は訂正されるだろうか。

話を『文庫本を狙え!』に戻すと、本書はもとの連載のうちの第18回から第171回分をまとめたものだという。その前、つまり第1回から第17回までは、前著『シブい本』(文藝春秋)に収録されていると「あとがき」にはある。この『シブい本』は前々から買おうと思っていたのだが、そのままになってしまっていた。

ちょうどいい機会。神保町の東京堂書店に行ったら、たまたま紀田順一郎さんの新刊『神保町の怪人』の隣に署名入りの同書が並んでいたので、財布の中味と相談しながら購入してしまった。【「読前読後」2000.11.21を転載】


その59 期待の歌舞伎ミステリ―近藤史恵『ねむりねずみ』(創元推理文庫)

歌舞伎の世界、俗に梨園と呼ばれる世界を舞台にしたミステリといえば、第一にあげられるのが戸板康二さんの中村雅楽物≠フ一連の作品群だろう。そのほかにこのような作品があるのを寡聞にして知らない。

歌舞伎の世界には、日常わたしたちが暮らす世間とは違った、一種独特の決まりや慣習、言い回しなどが存在する。また、演じられる芝居そのものにも、わたしたちが知っている範囲だけでも「型」と呼ばれる決まり事があり、さらに役者から役者へと口伝でなされるような細かな所作などもあるだろう。いわばこれらは、芝居の数、役者の数だけ無数に存在するといっても過言ではない。

こうした決まり事などをトリックとして巧みに小説のなかに取り込むためには、その世界のことを十分に熟知していなければならない。歌舞伎ミステリ≠ェ、子供の頃から歌舞伎に親しみ、長じて劇評家の第一人者として名をなした戸板さんの独壇場であったことは、ある意味当然のことだったのである。

最近偶然、「梨園を舞台に展開する三幕の悲劇」という帯のコピーがある『ねむりねずみ』という小説を発見した。著者は近藤史恵さん。創元推理文庫十一月の新刊である。著者はこれまで数編の作品を発表しているようだが、どのような作風のミステリ作家なのか、まったく知らない。たんに歌舞伎の世界を舞台にしているということで、大いなる期待感を抱き、すぐさま購入した。

はたして戸板作品に匹敵する新しい歌舞伎ミステリ≠フ誕生となるか、読むのが楽しみである。【「読前読後」2000.11.17を転載】


その58 本の本―池谷伊佐夫『書物の達人』(東京書籍)

著者の池谷伊佐夫さんは、古書店の店内を上から俯瞰したユニークなイラストをメインに据えた古書店紹介の本『東京古書店グラフィティ』で、本好きの間には知られているだろう。もっとも私は、本書を購入してから、『東京古書店グラフィティ』の著者であることを知ったのだから威張れない。

本書は、日本の代表的な書物随筆、書物に関する書物をテーマ別に集成、紹介した書物である。見出しの一部を列挙してみよう。

達人たちの構え方/達人たちの斬り方/紙魚だらけの人々/書痴という人種/妻よりも本が大事と思いたい/枕頭にふさわしい本/旅とは頁をめくること/古書を追う人々/書物随筆はなぜタイトルが似てくるのか/隠れた読書人たち/快人アラマタあらわる/秋の夜長の露払い/本を生む現場から/本を飾る/あなたも古書店主に/本の登場する物語

数えてみると、全部で222冊の本が紹介されている。ちなみにそのなかで私が持っている本も数えてみたら、たったの27冊に過ぎなかった。ほんの十数パーセントではないか。本に関する本は好きで、結構買ったり読んだりしていたつもりなのだが…。まだまだ修行が足りない。

本書のウリは、これら書物に関する書物の紹介だけにとどまらない。谷沢永一・目黒考二・紀田順一郎など、現代日本を代表する本読み≠フ書斎が、俯瞰図形式でイラスト化されているのだ。あの図を見ていると、その空間のなかに自分が立っているような錯覚を覚える。

最初から読み通すというものではなく、面白そうなところを拾い読みしたり、本購入の手引きにするなど、リファレンス的使用にも十分に耐えられそうである。【2000.9.24】


その57 この秋は迷いの秋―坪内祐三編『明治の文学』(筑摩書房)

坪内祐三さんが全巻の編集に携わった『明治の文学』全25巻が、この九月に刊行開始される。この企画を知ってから、刊行開始を楽しみにしていたシリーズである。ラインナップを見ると、収録作品をすでに読んでいる作家から、一部読んでいる作家、収録作品ばかりか、ほとんど作品を読んでいる作家、そしてまったく読んだことがない作家まで、様々だ。

さてこのシリーズを全巻購入するか、どうしたものか。一冊2,400円は少し高いかなあという印象だ。そのうえにこの秋から冬にかけて、同じ筑摩書房から『稲垣足穂全集』、新潮社から『新版三島由紀夫全集』といった、前々から刊行を待ち望んでいた全集が出るとあっては、購入に慎重にならざるをえない。だから、いまのところは面白そうな巻だけ部分的に揃えることになりそうだ。

けれどもその選択も迷う。すでに読んだことがあっても、坪内さんとともに編集を担当する「編集解説者」が魅力的であれば買いたい。読んだことがなくて面白そうだとも思えない作家でも、読まず嫌い≠ナ、だからこそ今回このようなシリーズをきっかけに読むと、新たな世界が広がるかもしれない。そんなこんなで全部買ったりして。
ともかく、以下にラインナップを一覧表にしてみる。◎が購入確実、○は購入の可能性大、△は思案中、×は購入しない予定、それぞれ記号を付けた。

 書名編集解説者 
1仮名垣魯文ねじめ正一
2河竹黙阿弥山内昌之
3三遊亭円朝森まゆみ
4坪内逍遙宮沢章夫
5二葉亭四迷高橋源一郎×
6尾崎紅葉斎藤美奈子×
7広津柳浪村松友視×
8泉鏡花四方田犬彦×
9徳田秋声荒川洋治
10山田美妙嵐山光三郎
11内田魯庵鹿島茂
12幸田露伴福田和也×
13饗庭篁村坪内祐三
14森鴎外川本三郎
15斎藤緑雨南伸坊
16島崎藤村・北村透谷堀江敏幸×
17樋口一葉中野翠
18徳冨蘆花・木下尚江松本健一
19石川啄木松山巌
20正岡子規中沢新一
21夏目漱石井上章一×
22国木田独歩関川夏央×
23田山花袋小谷野敦
24近松秋江・岩野泡鳴・正宗白鳥北上次郎×
25永井荷風・谷崎潤一郎久世光彦

やはり購入の第一基準は、「いま自分の蔵書で読めるかどうか」。漱石や露伴・鏡花などは、収録作品ほとんどが今の蔵書中にあるので、買う必要もないと判断する。もっとも鴎外もそれに当てはまるのだが、編者の川本さんのセレクトによる鴎外作品を読んでみたいので購入しようと思うから、基準といっても厳格なものではない。その点荷風・谷崎集も迷うところ。
いままで読んだこともないけれども、これを機会に…というのが、坪内編の饗庭篁村と中野編の樋口一葉。これに該当して迷っているのは、逍遙・秋声・美妙など。

本シリーズのセールスポイントは、坪内さんのセレクションや編集解説者との組み合わせばかりではない。林丈二・林節子さんによる脚注図版資料もまた楽しみだ。明治の新聞や雑誌に掲載された挿絵や広告から取ってきているという。こうした解説を参考にしながら読むのもまた一興。【2000.8.19】


その56 読み物としての予想コラム―寺山修司『競馬場で逢おう』(宝島社文庫)

競馬予想コラムは文学≠スりうるのだろうか。過去に自分が購入したレースを振り返るよすがにするという現実的目的が存在するならともかく、まったく知らない馬ばかりのレースのコラムなど、読んで面白いのだろうか。それより何より、すでに終わってしまって結果がわかるレースの予想、これは自己矛盾的な存在ではないか。

科学的データに基づいた予想を読者にわかりやすく簡潔に伝えるのがコラムの必要条件であろうから、そこに文学的表現は必要ないものと思っていた。

ところがそうした考え方をくつがえすような予想コラムが過去に存在したらしい。

寺山修司『競馬場で逢おう』(宝島社文庫)は、寺山が昭和45年から同47年まで報知新聞競馬欄に連載した予想コラムである。

だいたいまったく知らない馬ばかりの、過去の予想コラムを読んだって、さっぱりわからないわけだから面白いはずがない…、寺山だからこそ実現した文庫化だろう…、そんなことを考えて見くびっていたら、そうでもないらしい。パラパラとめくってみると、意外に面白そうなのだ。個別的なレースの予想でありながら、ときおり登場するレギュラーキャラクターがいる。一本筋が通っているのである。

以前寺山を取り上げたテレビの特集のなかで、寺山が登場したJRAのコマーシャルが流されたことがある。競馬場ほかの場所を歩く寺山の映像に、自らナレーションをつけている。その放たれた言葉にひどく感動して、鳥肌が立った。独自の競馬観をもった寺山の予想は、どのような方法で組み立てられているのか、気になるところでもある。

※「漫筆」2000.6.3から転載


その55 何度でも楽しみましょう―吉野孝雄『宮武外骨』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

宮武外骨を語るのはこの人しかいない、という吉野孝雄さんが、またまた外骨に関する評伝を上梓された。すでに河出文庫になっている『宮武外骨』が総合的な評伝、そしてちくま文庫の『過激にして愛嬌あり』が「滑稽新聞」時代の評伝として、それぞれ一定の評価を得ているのにもかかわらず、である。もっともいまの言辞は嫌味ではない。たいへん楽しみなのだ。

「あとがき」によれば、吉野さんご本人も、依頼があった当初は躊躇されたらしい。ところが、河出の『宮武外骨』から約20年を経て、「若いときにはとらえにくかったものが見えてきた」うえ、「新しい事実もあれこれと判明してきて」「この際、もう一度外骨の全体像についてまとめておくことも必要なのではないか」という考えにいたり、本書の出版に結実したということだそうだ。

私は河出版『宮武外骨』文庫化、さらにいえば赤瀬川原平さんによる『外骨という人がいた!』文庫化以後の外骨ファンでしかないけれど、また新鮮な気持ちで外骨に接することができるのが嬉しい。外骨の評伝を読むと、彼の反骨反権力魂が体内に注入されてくるようで、精神的な活力が出てくるのだ。

本書の目新しい点は、新発見の日記をもとに、第二次大戦時の外骨の動向に関して一章が割かれていることだ。外骨日記…、うーむ、原本を見てみたい。【2000.5.25】


その54 ホームページを開いて良かった―花輪莞爾『石原莞爾独走す』(新潮社)

ホームページを開設してから、不快な気分になったことはほとんどない。「良かった」と思うことばかりである。散策や酒席をともにしながら、共通の話題を語り合えるような友人が、この一、二年で増えた。ホームページを開設しなかったら、一生知り合うことなどなかったのだと考えると、縁とは不思議なものだと思わずにはおれない。

このような不思議な縁というか、自分にとっては大きな幸運に違いないと思われる出会いがほかにもまだある。学生時代にたいへんお世話になった(ご迷惑をおかけした、と言うべきか)とある先生を媒介に、花輪莞爾さんとメールを交わすようになったのである。

以前HP開設まもない頃、花輪さんの小説集『悪夢五十一夜』(小沢書店)に触れたことがあった。それを目にした先生が、同僚(同じ大学・学部)の花輪さんに、私のHPの存在を教えてくださったのである。それ以来何度かメールをやりとりさせていただくという幸運に恵まれている。今まで愛読していた作品の作者と、メールとはいえ何らかのやりとりをするというのは、滅多にない経験だけに、いまだに夢のようだ。

さてこのたび、花輪さんが新著『石原莞爾独走す 昭和維新とは何だったのかを新潮社から上梓された(3800円)。750頁を超える大著である。『悪夢五十一夜』にまとめられた幻想小説の書き手という顔は、花輪さんの多面的な活動のひとつに過ぎない。そもそもご本職はフランス文学の先生、ランボーの訳者なのである。その他『猫鏡』など猫に関するエッセイもあって、今度は石原莞爾なのだ。

フランス文学の先生がなぜ石原莞爾の評伝を執筆するに至ったのか、そもそも花輪莞爾と石原莞爾、名前が同じなのは偶然なのか、それとも何か関連はあるのか、そういった点は、興味を持たれた方ご自身が本書を手にとって確かめていただきたい。

本書に惹かれたのは、石原莞爾が山形(庄内)出身ということで「歴史好き少年」であった頃から気になる存在であったということのほか、花輪さんの石原莞爾に対面する姿勢に共感を覚えたからだ。

石原莞爾将軍も、ざらついた歴史にうもれるか、美化する向きもある。ムザムザとそうさせてはならない。あの時代のご立派な仏壇の飾りを、剥ぎとってとっくり観てやろうではないか。

と花輪さんは述べる。山口昌男氏は、『「挫折」の昭和史』(岩波書店)のなかで、

石原莞爾という人物は死後四十年を経た今日でも、その評価未だ定まらぬ存在である。作家たちの石原像も然りで、同一人物から正反対の結論を認めることができる。

と述べるように、論者によって肯定、否定の振幅がとても大きい人物であることに、かねがね興味をもっていた。そうした石原莞爾像を、この花輪さんの大著が裸にしてくれていそうで、読むのが楽しみなのである。山口氏の『「挫折」の昭和史』と併せて読んでみると、果たしてどんな石原像が浮かび上がるのであろうか。【2000.5.6】


その53 プロとアマの違いを超えて―渡辺保『劇評家の椅子』(朝日新聞社)

歌舞伎を初めて見るという友人と一緒に「雪暮夜入谷畦道」を見たとき、その友人から、「歌舞伎の演目はいったいいくつくらいあるのか」と尋ねられ、返答に窮してしまった。それから心当たりを調べてみたものの、いくつあるのか、いまだに回答を得ていない。新作が出たり、旧作が少しずつ改作されたり、大作から一部分だけが独立したり、演目の数え方自体が難しいのではないかと、初心者たる私は思う。

このようなときに頼りになるのは、『歌舞伎事典』もそうだが、渡辺保さんの一連の著作だ。渡辺さんは劇評家の第一人者で、良いものは良い悪いものは悪い℃ョの歯に衣着せぬ物言いによって、歌舞伎を見るポイントをわたしたちアマチュアに教えてくれる。

この渡辺さんの新著『劇評家の椅子』が刊行された。メインとなっているのは平成七年から十一年における歌舞伎評で、全体で三百頁にわたる本書のうちの三分の二、二百頁強を占めている。いまからこの部分を読むのがとても楽しみ。

ところで、本書の帯には、次のような渡辺さんの文章が印刷されている。

私は月々歌舞伎を見ているが、同じ演目をくり返し見てもあきないのは、その都度そこに思いがけない新しい発見があるからである。ある日突然見なれた風景が全く別な見え方をする。新鮮な驚き。どうして、今までこんなことを見逃していたのか、そう思うことが多い。こういう出会いがあるから歌舞伎は面白い。

以上の文章が本書のどこに収められているのか、「あとがき」にも見あたらず、いまのところちょっと見当がつかない。それはともかく、上の渡辺さんの文章は、プロの劇評家だけでなく、素人のわたしたちが歌舞伎を見ての感想にもぴったりと当てはまるのではあるまいか。

一度見た演目を繰り返し見るというのは、配役によったり、演じる役者の解釈による表現の違いによったりしながら、少しずつ違ってくるからにほかならない。この違いが、それぞれの演目の見るべきポイントになるのだろうと思う。【2000.3.29】

〔補遺1〕山口昌男さんによると(『敗者学のすすめ』)、渡辺さんは金融恐慌の発端になった渡辺銀行一族の末裔なのだそうだ。
〔補遺2〕現在渡辺さんは活字ではなく、インターネットで劇評を公開されている(渡辺さんのホームページ


その52 都市の魅力から川の魅力へ―鈴木理生『江戸の川 東京の川』(井上書院)

東京駅地下の八重洲地下街にある古書店「八重洲古書館」にて本書を見つけた。
先日同じ著者の『江戸はこうして造られた』(ちくま学芸文庫)を読んで、いままで味わったことがなかった角度からの江戸・東京論に新鮮な印象を受け、それで著者略歴に記してあった本書が記憶に残っていたのだ。

ところが本書元版の刊行は1977年(私が購入したのは1989年刊の新装版)。帯には、「巨大都市東京の成立を〈水系〉の観点から解明した本書は、〈都市論〉〈東京論〉のパイオニアとしてひときわ輝く存在である」という陣内秀信さんの推薦文が印刷されている。
つまり私は、東京本の読書のほぼ最終的局面に来て、〈東京論〉のパイオニア≠スる本書に逢着したとおぼしいのである。

本書を店で見つけたとき、すぐに購入しようと思ったわけではない。
第一に、ページをめくってみて、挿入図版を見て購入欲をくすぐられた。というのも、いま住んでいる家の近くに古隅田川の旧流路があって、そこがいまや足立・葛飾両区の区境になっており、それを本書で勉強できるだろうという期待があるからだ。先ごろ、夜にこの流路を辿ろうとして歩いているうち、いつのまにか道を外れてしまい、今後再訪を期そうと思っている。
また、常磐線綾瀬駅付近の足立・葛飾区境が極端にうねっていて、これもまた本書の挿入図版で古隅田川の旧流路であることが判明した。こうなったら、本書を読み勉強して、流路探索をするしかないであろう。

そのうえ、第二に、値段を確認しようとしたら、値札に「サイン入り」という文字を見つけてしまったのも大きい。すぐさま見返しを確認すると、「九〇年三月五日」の日付と作者のお名前がブルーブラックの万年筆で書き込まれていた。別にサイン入り本収集をしているわけではなく、そこに重い価値観をもっているわけではないが、ここでこうしたサイン本にであったのも、何かの縁であろう。
値段もサイン入りという付加価値がありながら1100円とお買い得だ。以上二点で購入決定!

でも、近いうちに文庫化されるような予感が…。【2000.3.4】


その51 東京と戯れる二人の写真家―荒木経惟・森まゆみ『人町』/鬼海弘雄『東京迷路』

ほぼ同じ時期に、東京(主に下町や場末)を撮影した写真集二冊が刊行された。
写真家の考え方や写真集のコンセプトは正反対であるにもかかわらず、写真からくみ取ることのできる雰囲気がはからずも似ているような気がするのは私だけだろうか。

一つは荒木経惟さんが谷中・根津・千駄木、いわゆる谷根千≠フ街並みとそこで暮らす人々を撮り、そこに森まゆみさんが文章を書いた『人町』、もう一つは鬼海弘雄さんが東京の下町や場末の街並みを撮った『東京迷路』だ。

この二人の生い立ちと、写真集のコンセプトを比較するとたいへん面白い。
荒木さんは東京の下町荒川区三ノ輪出身、生粋の東京っ子。千葉大工学部写真印刷工学科卒業。大手広告会社電通にカメラマンとして入社後、フリーに。
対する鬼海さんは山形県出身で、山形県職員をはじめ様々な職を転々としたのち、マグロ船の乗組員をやめ、二十代後半から東京の写真を撮り始めたという。

荒木さんは、都市東京を撮るさいの理念を次のように述べる。

「町を撮ることは、町にいる「人」を撮ることなんだ。(…)東京というのは人がいることなんだ」
「人間を撮らなくちゃだめだと思うね。人間と町とのまざりあいを一番撮るわけ」
「谷根千は、いちばんほっとする場所である。そういうところにはいい人がいるはずだ、というのでやったんだ。(…)谷根千は東京の田舎ですよ。そこに惹かれるのは今温かみが欠けているから。東京は青山、銀座、新宿……。ごちゃごちゃ新旧がまざりあう魅力がないと。それでも進んでいってる感じがないと東京じゃないね」(『東京人』2000年3月号のインタビュー)

いっぽう鬼海さんは、都市東京を撮るさいの方法論を次のように述べる。

「人物に肖像が成り立つんだったら、場所や街など空間のポートレートも成り立つんじゃないかと思ったんです。人物を具体的な背景で撮ると説明的になってしまうから、無地の背景が必要でした。『東京迷路』の場合、人物がいるとスナップショットになってわかりやすいものになるから、人を入れないで生活の影を写そうと思いました」(種村季弘・松山巌両氏と鬼海氏の鼎談「「東京迷路」をめぐって」『東京人』2000年2月号)
「歩く地域が主に下町に偏ったのは、小路の絡んだそれらの町を徘徊していると、それぞれの町の体温がじかに伝わってきて、親しみを覚えるだけでなく、まるで体内を巡る毛細血管にもぐり込んだような錯覚を覚えたからだ」(『東京迷路』「あとがき」より)

そして両者の東京に対する思い入れはそれぞれ次のとおり。

「結局アタシは東京生まれで東京育ちだから、東京に対して無意識になっているわけよ」(前掲荒木さんのインタビュー)
「東京というメガロポリスの土着的地域≠歩き回って、物≠セけで語った≠アの『東京迷路』は、昭和40年に山形から上京して来た私の、ひとつの「東京物語」であるとも言える」(前掲『東京迷路』「あとがき」)

この対蹠的な二人の写真家が撮った東京の姿は、東京の多面的なありようをまざまざと見せつけていると同時に、ついつい個人的な体験にひきつけて鑑賞してしまう誘惑に満ちあふれている。ひとつは、私の好きな町とそこに住む人を東京生まれの人が撮った写真集、いまひとつは、同じ県から同じ東京に移り住んで同じような下町を好んで歩く人が撮った写真集。
しかしながら、次の荒木さんの言葉は、二人の東京を撮るときの姿勢として共通するものがあるのではなかろうか。

「要するに東京と戯れているんだろうね。対話まではしていないけれど、なんか感じあってるんだ」(前掲荒木さんのインタビュー)【2000.2.16】


その50 読む事典―『新訂増補 歌舞伎事典』(服部幸雄・富田鉄之助・廣末保編、平凡社)

いまから17年前に刊行された『歌舞伎事典』が新訂増補版になって出たので、さっそく購った。写真・図版満載、各項目も豊富なうえに解説も詳細で、初心者にはたまらない事典だ。歌舞伎に関する知識がどんどん増えて楽しい。

この「事典」は、引く≠スめにあるのではなく、読む≠スめにあるといってよいだろう。すでにひととおり通して拾い読みしてしまった。今後も何度頁を繙くことになるであろうか。値段(8000円)以上にお得な書物だ。

以下に引用する「馬」の説明をみよ。

今日舞台で使用されるほとんどの馬は、前脚と後脚の〈馬の脚〉役の役者二人が馬体の中に入ってかつぐ仕組みにできている。人が乗る胴体部分を鉄骨で組み、その周囲を竹で四つ目に編み、麻でつないで軽量に仕上げてある。さらに全体を紙貼りにし、へちまを膠で貼った上から焼鏝を当て、馬の骨の凸凹、肉付の高低など実物に似せてこしらえる。首は伸縮自在で曲がるように、籐の輪で提灯胴につなぐ、全体をビロードまたはフランネル(駄馬)の布でおおい、目は玉眼、たてがみと尾は本物の毛を用いる。(…)〔湯川弘明氏執筆〕

この詳細さ!
歌舞伎に出てくる馬がまるで眼前に立ち現れてくるようではないか(逆に具体的すぎてイメージできかねるという話もあるが…)。【2000.2.5】


その49 「十四代」に反応してしまう私―里見真三『賢者の食欲』

山形県村山市の高木酒造が醸造している「十四代」という幻の名酒≠ェある。一般の酒屋ではなかなか手に入らないのだ。去年の三月、それまでは名前すら聞いたことがなかったのだが、そのとき初めて口にして以来、すっかりその味にはまってしまった。それ以来何度か口にしたが、初めてのときに感じた印象は変わっていない。
それ以来、「十四代」という言葉に対する反応が鋭くなってしまった。足利十四代将軍義栄、徳川十四代将軍家茂…。

さて、先日購入した岐阜女子大学教授里見真三氏のエッセイ集『賢者の食欲』は、食にはうるさかった文人を中心とする著名人の、食へのこだわりについて語ったミニ評伝集成である。私はこのようなミニ評伝的書物が大好きだ。
本書で取り上げられている人物としては、たとえば、獅子文六、内田百間、徳田球一、志賀直哉、古川ロッパ、斎藤茂吉、正岡子規、徳川夢声、入江相政、青木正児など、バラエティに富んでいる。そうした本書をパラパラとめくっていたら、「十四代」の文字が目に飛び込んできたのだった。

昭和五年に『蕎麦通』という幻の名著≠著わした村瀬忠太郎という、「江戸本流の技を持つ、伝説の手打ち名人」についての章に「十四代」は登場する。村瀬の技を受け継いだ一人に、山形萬盛庵の先代ご主人がいて、さらにそうした「東北農村流」の技を親子三代で磨き上げた「あらきそば」があるのが、「十四代」を醸すための水が湧く農村なのだという(だからこの本で直接「十四代」を取り上げているわけではない。念のため)。「十四代」に「あらきそば」…。うーむ。山形人にとってはこたえられない組み合わせだ。

山形といえば、斎藤茂吉にも一章がさかれており、茂吉が大の鰻好きであったというエピソードも語られている。読むのが楽しみな本なり。【2000.1.22】


その48 文庫の香り・文庫の活字―岩波現代文庫の発刊

「本格派文庫宣言」という売り出し文句をひっさげて、岩波書店が新たなシリーズを打ち出した。文庫好きの私としては、これによって、今まで以上に良質の書物が文庫になることが予想されるから大歓迎だ。

初回のラインナップも魅力的な書目が目白押し。とりあえずこのなかから5冊を購入。小宮豊隆『中村吉右衛門』など、今までその書物の存在すら知らなかったものや、山田太一編『土地の記憶 浅草』など、特色あるアンソロジーも含まれており、本好きとしてはたまらないシリーズになりそうである。

ところでこの岩波現代文庫を購入して、内容以外に気に入った要素があった。「装幀」と思う向きもあるかもしれないが、実はそうではない。装幀も白をベースにしたシンプルなもので、たしかに好ましいが、それ以上に気に入ったのは、活字が精興社であることと、本の匂いがいいこと。

「読めれば、活字などどうでもいいじゃないか」と思われるかもしれないが、私はそうではない。手にとってページをめくってみて、活字が精興社であるかどうか、だいたい判別することができる。そして精興社だった場合、まずホッとする。説明できないが、活字の雰囲気がいいのだ。
次に匂い。岩波現代文庫のページをめくってみて、いかにも新刊文庫という紙の甘い香りが素晴らしい。これも感覚的なもので説明不能であるが、ほかに新刊文庫の香りが好きなものをあげると、講談社文芸文庫河出文庫。これらの文庫を思い出されてわかっていただける方がいるかもしれない。でも、ここまでくると文庫フェチ≠ニいわれるのだろうか。【2000.1.14】


その47 明治人の好む顔―倉田喜弘『芸能の文明開化―明治国家と芸能近代化―』(平凡社選書)

平凡社選書新刊の本書を購う。ちょうど明治期の歌舞伎(黙阿弥・團菊左)や落語(圓朝)に興味を抱きはじめていたおりから、飛びついた。
パラパラとページをめくると、本書141頁に、劇聖≠ニ崇められた九代目市川團十郎が「勧進帳」の弁慶の衣装を身にまとっている写真が掲載されている。

国立劇場のパンフレットなどには、その時々に上演されている演目の過去の写真が掲載されており、九代目團十郎と五代目菊五郎の写真が含まれていることが多いから、この二人の顔は目に焼き付いている。この二人の顔はひょろ長いうえに、わけても團十郎の顔はいかついので個性が強すぎ、とても劇聖≠ニ称されたり、團菊左≠ニ並び称されるような役者だったとは思えないのだ。

まあ歌舞伎役者の善し悪しを判断する材料には、面構えのほかにも「肚」や「口跡」などの重要なファクターがあるから、顔つきだけで一概に役者の善し悪しを判断できない。そして当然のことながら、現代のわたしたちが好む顔と、明治の人々が好む顔にはかなりの隔たりがあったのだろうと思わざるをえない。

でもやっぱり團・菊の二人は、顔が長く大きくて、イメージとして時代物・世話物どちらの姿も想像しにくい。くわえて女形の写真を見ると、なおさら「合わねー」と思ってしまうのは私だけだろうか。
そういえば芥川龍之介の顔も長くて、内田百間からバカにされていたということを思い出した。【99.12.21】


その46 黙阿弥索引をつくろう―小林恭二『悪への招待状―幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ』

集英社新書が発刊された。個人的に一番期待していたのは上記小林氏のものである。さっそく購入して一読したところ、「三人吉三」(未見)を中心とした叙述であった。

歌舞伎に魅せられてまず取り組んだのは、概説書や歌舞伎に関する著作を読むことだった。このなかで、河竹登志夫氏・渡辺保氏などの黙阿弥に関する著作と出会った。それはそれ自体で面白かったのだが、歌舞伎座などに何度か足を運んで、実際の黙阿弥芝居を観るにつれて、すっかり黙阿弥のファンになってしまった。「髪結新三」「加賀鳶」のなんと爽快なこと。

歌舞伎座などで黙阿弥の芝居がかかることを知ったとき、まずやるのは、以前読んだ黙阿弥関係書を当たって、どんな内容であるかを確かめ、その作が黙阿弥の作品群のなかでどのような位置づけにあるのかを調べることである。河竹氏にせよ渡辺氏にせよ、かなりたくさんの作品に言及されているので、そのなかから目的の作品を探し出すのに骨が折れる。こんなときに便利なのが索引なのだが、そのいずれにも索引はない。

今回小林氏の本が出ると聞いて思ったのは、本書を読みながら言及されている作品を拾ってゆき、ゆくゆくは河竹・渡辺両氏の本も再読して、私製の「黙阿弥作品参照索引」をつくろう、という計画である。実際のところ、本書はほとんど「三人吉三」への言及に尽きており、黙阿弥作品の参照には適しないものではあったが、索引を作ろうという意欲は消えたわけではない。完成するのはいつになるかわからないが、コツコツとやっていこう。【99.12.5】


その45 書名で早合点は禁物―戸板康二『浪子のハンカチ』(河出文庫)

リサイクル書店Book Offで文庫本を探すときの私流作法。
1.著者名の五十音で整理された棚の「あ」から順番に見てゆく
2.興味のある著者の部分は丹念に眺める。
3.ただし興味のない著者はとばし、その文字の最初のところに、その字で始まるが、札を差して一つのまとまりを成すまでにはいたらない作家の文庫本が雑然と入れられた箇所を丹念に眺める。

最近歌舞伎にハマっていることもあって、劇評家で推理小説作家でもあった戸板康二氏の著作を気にするようになった。先日Book Offに行ったとき、戸板氏のコーナー(ちゃんと独立している)を眺めていたら、河出文庫の『浪子のハンカチ』という本が目に飛び込んできた。昔の河出文庫は、著者別に色を変えるわけではなく、背だけを見ると白地にオレンジ色の縁取りで統一してあって、一発で河出文庫と判断できるのだ。それに昔の♂ヘ出文庫は、実にマイナーないい本を出していたので、そのデザインを目にしたら、いちおうチェックしないわけにはゆかない。

タイトルを見た瞬間は、「NHK朝の連続テレビ小説の原作本かなあ」というとんまな印象をもったのだが、棚から取り出しカバーに印刷されている紹介文を読んで一驚、明治大正期の有名な文学作品をテーマにした連作小説であった。これは思わぬ掘り出し物。すぐさま「買い」である。タイトルで早合点は禁物なり。

有名な話であるが、すでに劇評家で名声を確立していた戸板氏に、江戸川乱歩が推理小説執筆を要請し、出来上がった「團十郎切腹事件」でなんと直木賞を受賞している。その後に執筆された「文芸ミステリー」が本書というわけだ。解説に初版単行本の写真が掲載されているが、そこには「明治大正名作異聞」という副題がつけられている。

ちなみに収録作品8篇と、そのもとになった「明治大正名作」とは以下のとおりである。

・「浪子のハンカチ」…蘆花「不如帰」
・「酒井妙子のリボン」…鏡花「婦系図」
・「「坊ちゃん」の教訓」…漱石「坊っちやん」
・「お玉の家にいた女」…鴎外「雁」
・「お宮の松」…紅葉「金色夜叉」
・「テーブル稽古」…菊池寛「父帰る」
・「大学祭の美登利」…一葉「たけくらべ」
・「モデル考」…花袋「蒲団」

以上のなかでは、恥ずかしながら、半分どころか漱石と鴎外くらいしか読んでいないので、「浪子」と聞いて「NHK朝の連続テレビ小説」しか思い出せないのは当然である。あとは「お宮の松」「美登利」でかろうじて原作がわかった程度。情けない。 まあともかく、内容は良質のミステリーのようだから、読むのを楽しみにしよう。【99.11.16】


その44 読書相関図が広がった話―北村薫『空飛ぶ馬』『夜の蝉』

ある場所で毎週お会いする方と、ふとしたきっかけで色々な話をさせていただく機会があった。

聞くとその方は、私など足下にも及ばない本読み≠ナ、しかも読む本の多くが私と重なっている。思わず本の話で盛り上がった。こうした方から薦められる本が信用のおけるものであることは、申すまでもない。

その方から、北村薫さんの本を薦められた。北村薫という名前を聞いたとき、「ああ、あの『マークスの山』の…」と口に出したが、それは高村薫さん。まったく意識にとどめない名前であった。この作家の、創元推理文庫で文庫化された、女子大生と噺家が探偵役のシリーズがたいへん面白いという。

昨日、近所のちいさな古本屋で、第二作品集『夜の蝉』をさっそく見つけ、嬉々として購った。でも、シリーズ物であるからには、やはり第一作品集から順序正しく読まねばならないだろうと、今日職場の書籍部にて第一作品集『空飛ぶ馬』を購入する。カバーや扉に印刷されている推薦文を読むかぎり、たしかに読む気をそそる、私好みの作品群かも。

このような契機で好きな作家が新たに加わるのは、たいへん素敵なことだ。私の「読書相関図」が広がって、読書の傾向がちょっとスライドする。心地よい瞬間。

北村薫という作家に興味をもたれたむきには、デザイン・センスが素晴らしい東京創元社のホームページをご参照いただきたい。【99.11.8】


その43 かなたのカフカより―池内紀『カフカのかなたへ』

この作家はこの作家の影響で読みたくなった…というような相関図を心覚えのためにつくっておこうと期して、かなりの年月が経過した。

今月は子規月間にしようと言いながら、いま池内紀さんの本を立てつづけに読んでいる。『カフカのかなたへ』文庫版を読み終えた。『ユリイカ』連載時から知っており、単行本も購い、文庫が出ても購った。いま単行本を書棚から取り出してパラパラとめくってみると、文庫版には収録されていない多くの図版(肖像写真・ノート等)が掲載されている。池内さんの本ではおなじみの田淵裕一さんの装幀で、素敵な本だ。文庫版を買っても手放したくない。

カフカは誰の影響で読みはじめたのだろう。そう思って過去の日記にgrep検索をかけてみた。澁澤龍彦の名著『思考の紋章学』中の一編「オドラデク」だろうと踏んで、「紋章学」で検索してみた。…(検索中)…ビンゴ!

いまからほぼ10年前の89年11月9日にさかのぼる。雑誌『幻想文学』誌所載の森村進氏のエッセイに触発されて、『思考の紋章学』(河出文庫)と、露伴の『二日物語・風流魔』(岩波文庫)を購っている。後者はリクエスト復刊の生き残り≠ナ、大学生協書籍部の棚のすみにひそんでいた。パラフィン紙のみがかかった時代のものだ。いま思うとラッキーだったというべきだろう。

さて、翌日10日から11日にかけて、カフカよりさきに、『思考の紋章学』の影響でエドガー・アラン・ポーの「楕円の肖像」「告げ口心臓」「陥穽と振子」を読んでいる。そして13日、書籍部から池内さんが訳した岩波文庫の『カフカ短篇集』を購入、その日のうちにオドラデク≠ェ主人公の「父の気がかり」と、取り上げられることの多い寓話「掟の門」を読んでいる。幼稚な感想で恥ずかしいが、「どちらも難解で、思わず頭を抱えてしまう。しかし正確には分からないけれども、なかなか惹きつけられる」などと記している。

その後「判決」「田舎医者」「雑種」「流刑地にて」などを立てつづけに読んだ。また、同じく『思考の紋章学』所収「ランプの廻転」の影響で、同18日に柳田國男の『遠野物語』を読み終えている。

この当時は大学四年生で、ちょうど卒業論文執筆の時期にさしかかり、行きづまって逃避したい頃合いだった。澁澤、カフカ、ポー、柳田國男…。私個人の読書史のうえで、その範囲が澁澤のおかげて飛躍的に拡大した、ターニングポイントとなる時期であったことは間違いない。懐かしきかぎりなり。【99.11.7】


その42 マイ・ベスト・オブ・岩波文庫―幸田露伴『幻談・観画談 他三篇』

谷譲次の『踊る地平線』が岩波文庫に入ったことに対して、「岩波が谷譲次を入れるなんて…」とある種の感慨を禁じえなかった。天下の岩波文庫に、こうした異色の作家の作品や幻想文学作品が入ったとき、「あの岩波が…」という妙に感心したポーズをとるのが好きなだけなのだ。

岩波文庫のなかで好きな一冊を挙げよと言われれば、私は、露伴の『幻談・観画談 他三篇』を挙げることに躊躇しない。先日の種村氏の講演の影響もあって、久方ぶりにこれらの作品を読み返した。

「幻談」の語りの妙、「観画談」の間然することのない引き締まった文章と幻想性は超一級品、エッセイ「骨董」における片鐙の金八≠フ挿話は初読時以来頭にこびりついている。また「魔法修行者」における「魔法修行のアマチュア」として挙げられる細川政元と九条稙通の人物的魅力。「蘆声」だけ少し異質だが、ベスト・アンソロジーに近い編成だ。これに「土偶木偶」が入っていれば…。

本書が刊行されたのは90年11月。9年前のことになる。そのとき岩波文庫は「幻想&ファンタジー」というフェアをやっていて、本書のほかに百間の『冥途・旅順入城式』(解説種村季弘氏)、牧野信一の『ゼーロン・淡雪 他十一篇』(解説堀切直人氏)が同時に刊行されるという素晴らしい企画であった。このときに購入して読んだおりの感想が当時の日記に記してあった。

露伴「観画談」「骨董」を読む。(…)特に、「骨董」はその導入部を読んだ途端、「これは澁澤だ」と思ったほど、澁澤龍彦の後期のエッセイとその展開が似ていて、語り口もまさしく澁澤龍彦の手法であった。というよりは澁澤龍彦のエッセイの手法は露伴からヒントを得たと言えるのだろう。これなら露伴も好きになれそうだと感じる。

澁澤龍彦の名著『思考の紋章学』に収録されている「時間のパラドックスについて」の筋から露伴に興味をもった私として、さもありなんという感想である。【99.10.22】


その41 歌舞伎座はどこにあるの?―福田国士『地図から消えた「東京の町」』

銀座4丁目にある歌舞伎座に行くことを称して、「木挽町に行く」と言う人がいる。最近それを知った。洒落たもの言いだと田舎者の私は思い、その言い方に憧れる。私も今度からそう表現しよう。

本書でも木挽町については触れられている。17世紀半ば、ここ木挽町に河原崎座ができ、のちに森田座に吸収され、葺屋町(日本橋堀留町)の市村座、堺町(日本橋人形町)の中村座とあわせて江戸三座≠ニ並び称されるようになる。
その後幾たびかの転変をへて、いまその故地に歌舞伎座が建つ。だいたい歌舞伎を観るようになったのはつい1年余り前、それまでは歌舞伎座がいまの銀座にあることを知らなかったどころか、「歌舞伎町」にあるものだとばかり思っていた。恥ずかしい…。

ところで本書ではほかに、現在の東京大学のある本郷7丁目が、昭和40年まで文京区本富士町と呼ばれていたことにも触れられている。これもまた最近別のきっかけで知ったばかりの事実だった。私の職場の昔の封筒にその住所が記載されていたのを偶然見つけたのである。そのときはなぜこのあたりが本富士町と呼ばれていたのかわからなかったが、本書の記述でその疑問も氷解した。駒込富士浅間社のことなのだそうだ。なんだ、そこなら以前訪れたことがある。

いまその界隈で「本富士」の名前を残しているところに、警視庁本富士警察署がある。東大本郷キャンパスの南側、春日通りに面しているこの警察署は、先日ひょんなことからマスコミにとりあげられることになった。麻薬で逮捕された某歌手が拘留されていた警察署として。「えっ、そこにいたの」と、そのニュースを聞いたとき驚いたものである。【99.10.15】