岩波書店から刊行されていた『漱石全集』が、このたびの「第28巻 総索引」でもってようやく完結した。第一回配本から五年余、長かったようであっという間だ。
もちろん刊行開始時は仙台で購読していたから、去年東京に移ると決まったとき、不安だったのは、「せっかくあと一冊で『漱石全集』が終わるというのに、ここで予約購読解除をしてしまって大丈夫だろうか」ということだった。結局こうして無事に入手できたので、その不安は杞憂に終わった。
これと軌を一にするように、漱石関係の書物の新刊書も多くなったような気がする。そのなかで私はこの二冊を選んだ。いずれも第一線の国文学者によるもの。こうした評論を読むたびに、きまって漱石を読みたくなるものの、果たせずに終わるという繰り返しだった。
今回こそは、評論二冊を一気に読み、その勢いで漱石作品そのものに突入していこうと計画を立てている。まずは未読の「道草」あたりから。これからゴールデンウィークにかけての読書目標が決まった。【99.4.17】
世間がどのような評価をくだしているのか、まったくわからない目で、この本を手に取ったときの第一印象。
“露伴かなあ”
『一月物語』(いちげつものがたり)というタイトル、帯に書いてあるあらすじ、パラパラとめくって一見したところの言葉づかい…。露伴かなあ。
鏡花ともいえるし、巻頭には透谷の文章が引用されているから、透谷なのかもしれない。
まあ以上はあくまで印象。読後は変わるかもしれない。【99.4.17】
中公文庫『潤一郎ラビリンス』増巻で勢いにのる(?)中央公論新社が、今度は谷崎論を刊行した。題して「いかにして谷崎潤一郎を読むか」。
いかにしても何も、素直に谷崎文学の面白さを読む人なりに受け入れればすむ問題だとも思われるが、何か水先案内的な書物があると安心できるらしい。私がその典型的な人間だと思う。何を読むにしても、それに関して触れた文献をまず読んで、知識をたたき込んでおいてから読まないと気が済まない。手っとりばやく言えば、文庫本の場合の「解説」を先に読む、ということ。「うんうん。ここはそうだ」とわかったふりをしながら本を読む。
ところで本書の原型は、県立神奈川近代文学館にて1998年10月3日〜11月8日に開催された「谷崎潤一郎展」のために行なわれた三回の講演記録との由。これも見過ごしていた。残念。
新たな谷崎論を展開しているのは、佐伯彰一・種村季弘・島田雅彦・川本三郎・三浦雅士・河野多惠子の六氏。『谷崎文学と肯定の欲望』『谷崎文学の愉しみ』の二冊ですでに重厚な谷崎論を展開している河野氏の編だということに重ねて、種村氏が執筆(講演)されているということが本書購入の決定打となった。
編者の河野氏や佐伯氏をはじめ、種村氏も川本氏も三浦氏も、古くからの谷崎論者だという認識が私にはある。だから、島田雅彦がどのように谷崎を論じているのか(「性転換する語り手」)が第一に注目したいところだ。【99.4.9】
3月末に刊行された第8巻「綺想図書館」をもって、めでたく「種村季弘のネオ・ラビリントス」が完結した。青土社刊の著作集「種村季弘のラビリントス」から20年。その間にも多数の著書を上梓され、なかには現在入手困難なものもあったゆえに、その意味で新著作集刊行の意義は大きかったといえる。
たとえば『一角獣物語』や『ヴォルプスヴェーデふたたび』などは、収録されたことによってはじめて読むことができると喜んだ読者も多いかもしれない。
ただ種村ファンとしては物足りないところ、疑問に思う点がないわけではない。
まず全体の編集方針。
刊行前に出されたパンフレットには、この8冊は「第一期」と銘打たれてあったが、最終配本が出た時点でその言葉が本のどこにも見あたらなくなってしまったこと。「第二期」として収録が期待される未収録著書があるだけに、企画があるのかどうか、聞きたいところだ。
次に内容の編集方針。
テーマ別編集という点が新著作集のセールスポイントのひとつだったわけだが、それゆえ旧著作集収録のエッセイも解体されて再録されたこと。文庫化されているからあえて新著作集に収録しないという単行本があるのなら、文庫化された単行本収録のエッセイをバラバラに再録することにどのような意義があるのか。
以上の点は、種村氏の著書が、いまでは河出文庫やちくま文庫で多く再刊されたはいいが、一部品切れで入手が困難になっているという点に大きく関係するのではないかとひそかに推測している。結局は版権の問題か。だとすれば読者として残念このうえない。
この問題は、収録を期待していたものの収録されなかったエッセイがまだ多数あることとも関係する。私が期待していたのは、種村氏が編んだちくま文庫『泉鏡花集成』各巻に氏が執筆されたエッセイ群が今回の第8巻に収録されることにあったが、残念ながら未収録のまま。
ちくま文庫の他の本に執筆された解説でも収録されたものがあるのだから、これは版元の筑摩書房の意向なのだろう。筑摩書房側で早期にこれら鏡花関連エッセイをまとめられることを切に希望したい。【99.4.5】
好きな球団? うーん。アストロ球団だろうか。
『ドカベン』ももちろん好きだったが、それよりも熱中して読んでいたような気がする。データを見ると、72年から76年まで『少年ジャンプ』に連載されていたという。そのころ私は小学校前から低学年だから、連載で読んだのではなく、単行本で読んだと思われる。だんだん思い出してきたが、たしか床屋さんの待ち時間に読みふけったような…。『アストロ球団』を読みに床屋さんに行ったような…。
パラパラとめくってみたが、何とも懐かしい。
三段ドロップ。真似したなー。もちろん曲がらなかったけれど。
アストロ球場。こんな球場つくれるのかと思ったなー。でも今は各ドーム球場があるけれど。
この漫画に熱中して以来、メジャーリーグではヒューストン・アストロズが気になって応援していた記憶もよみがえってきた。アストロズの虹のような派手なユニフォーム。
なぜこんなに熱中したのだろう。大人になった頭で考えると、八犬伝%Iなストーリーに妙に惹かれたとおぼしい。体のどこかに痣のある超人たちを一人ひとり見つけて集団をかたちづくる。その過程が無性に面白かったような気がする。
細部はすっかり忘れてしまったので、ゆっくり読み直そう。しかし、アストロ球団のライバルチームとして、ロッテが出てくるところなぞ、時代を感じさせる(ロッテ登場は次の第2巻です)。ちなみに本書の存在は3月29日付朝日新聞夕刊の記事で知りました。【99.3.30】
書籍部で平積みになっている同書が目に飛び込んでくる。見たことのあるようなデザイン。見るとやはり田村義也氏によるもの。装幀は本を売るために大事なファクターだなあとつくづく思う。
帯を見ると、朝日新聞に連載されていたという。記憶にない。いかに自分がテキトーに新聞を読んでいるか。
目次を見ると、花粉症に代表されるアレルギー性疾患の話が。田舎者の私は、私より田舎者の妻とともに花粉症とは縁遠いが、いつかかるとも知れない。端で見ているだけだが、花粉症の人のつらさを知っているだけに、なるべく脇を素通りしていってもらいたい。
そしてさらに目次を見ると、「オウム病 小鳥に口移しは危ない」の見出しが。ちょっと前からこの病気は話題になっていたが、今更言われてもねえ。小学生の頃に飼っていた初代ダイスケ(ダルマインコ 外に逃げて行方知れず)、数年前、十数年生きて天寿を全うした二代目ダイスケ(オカメインコ)、それぞれに口移しで餌を与えていた私はどうなる。いつ原因不明の病で…なんて考えるとゾッとする。
知らないほうがよかったと思うことが、30年生きていて時々ある。これなどその典型か。
著者の藤田氏は寄生虫博士≠フ異名を冠せられる人。話題になった『笑うカイチュウ』はたしか文庫化されたはず。これも買おう。しかし、最近本を買いすぎ。もちろん読もうと思って買うのだから、頭がいくつあっても足りない。憑かれたように本を読み続ける、という季節がたまにある。それが今か。【99.3.18】
全12巻の予定で刊行を開始したこのシリーズであるが、思いのほか好評で4巻の増補が決まり、全16巻となったそうである。中央公論新社を救うのは、同社と因縁浅からぬ谷崎なのであろうか。
本冊で読みたいと思っているのは、「過酸化マンガン水の夢」。関西移住以前の作品によるアンソロジーのはずが、本作品は昭和30年に発表されたもので、いわば異例の抜擢というところか。編者千葉氏によれば、「大正期の谷崎作品に通ずるような幻想性が横溢し、『鍵』『瘋癲老人日記』の世界がすでに予告されている」から。その『鍵』や『瘋癲老人日記』を読んで一気に谷崎ファンになった私としては、読もう読もうと思って果たせないでいた作品だ。
ちなみに、増巻される4冊のラインナップは次のようになっている。
13 官能小説集(熱風に吹かれて/捨てられる迄/美男)
14 女人幻想(創造/亡友/女人神聖)
15 横浜ストーリー(肉塊/港の人々)
16 戯曲傑作集(恋を知る頃/恐怖時代/お国と五平/白狐の湯/無明と愛染)
タイトルもネタ切れになっているような、いないような…。
これら朝日文庫の新刊二冊は、いずれも単行本で購入している。それなのになぜ文庫版になっても買うのか。理由はいろいろある。
一、単行本に増補があったりする場合
一、文庫版になってあらためて読み直したい場合
一、装幀が綺麗な場合
一、ただ何となく
一、その他もろもろ
以前『美術という見世物』について書いたとき、まさかその木下氏が私と同じ大学に勤務されているとは知らなかった。単行本が刊行された当時は、兵庫の美術館にお勤めだったのだから。『美術という見世物』や『ハリボテの町』で見知っていた方が近くにいるというだけで、ミーハーの私は幸福である。そうした親近感があって購入した。だから、理由としてはその他もろもろになろうか。
いっぽう植島本は二つめ、読み直したいと思って購入。植島氏の考え方は共鳴できるところが多く、読んでいて一々うなずいてしまうのだった。
それにしても残念なのは、ついに朝日文庫もカバーの紙質を変えてしまったこと。何と表現すべきなのか、正確な言い方はできないが、コーティングされていない紙に変わってしまったので、傷つきやすくて好ましくない。【99.3.16】
あなたはイヌ派かネコ派か、とたずねられたら、私は迷わず「イヌ派」と答える。決して猫は嫌いでないのだが、犬が滅法好きだからだ。
東京に移って歩く機会が増えるようになって気づいたのは、東京では小型犬をよく見るなあということ。住宅事情がそうさせるのだろうか。
通勤の行き帰りに通り過ぎる家の犬、散歩でよく見かける犬たちに、私は勝手に名前をつけている。凝った名前ではない。黒毛ならクロ、パピヨンならパピー、小さな犬はチビ、低い声で吠える犬はバウ、単純なものだ。パグはみんなプーちゃんになる。名付けられた犬にとってはありがた迷惑だろうが、何もその名前を声に出すわけではないのでお許しあれ。
大の犬好きだから、犬の出てくるアニメ、ドラマに弱い。古くは「フランダースの犬」。最終回はいつ見ても泣ける。本書の著者中野孝次氏の『ハラスのいた日々』は単行本を読んではボロボロ涙をこぼし、文庫本を買っては泣き、ドラマ化されたのを見ても泣いた。
「ハチ公物語」は最初からお涙頂戴だとわかってはいるものの、見ると必ず泣きたくなるだろうから、テレビで放映されても決して見ないことにしている。
いまの住宅事情では、いつ「犬のいる暮し」ができるのか、想像もつかない。せめて道ばたであう犬たちとは友好関係を保ってゆきたい。【99.3.9】
歌舞伎座三月大歌舞伎夜の部の最後に配された「天守物語」を見に行くにあたり、その予習≠ニして、恥ずかしながら、はじめて原作を読んだ。
もとより本作品は、岩波文庫『夜叉ケ池・天守物語』(澁澤龍彦氏解説)、ちくま文庫『泉鏡花集成』7(種村季弘氏編・解説)の二冊で所持してはいたものの、手をつけかねていたのだった。
知識を仕込んで、実見した感想。
主人公富姫の玉三郎はさすがに綺麗だが、それより綺麗だと感じたのが、その妹分亀姫の菊之助だった。菊之助は前々から綺麗だなあと思っており、今回その期待もあったが、期待に違わぬ美しさ。
その亀姫がお土産に生首を持ってきて、そこからしたたる血を舌長姥がペロペロ舐めるくだり、それから生首を皆で鑑賞するくだりなどは、テクストを読んでいてさすが鏡花と思ったのだが、それが実際に芝居になると、現実味が薄いせいかユーモラスな印象で、場内からも随所に笑いがわきおこった。この笑いは、微笑ましい≠ニいった感じか。
中盤、富姫の恋の相手姫川図書之助(新之助)が登場するあたりから緊張感をまし、照明の効果もあって幻想的な光景がくりひろげられる。全体的にみれば面白いものであった。
鏡花といえば幻想的。月並みな印象しか持っていなかったが、今回「天守物語」を見た結果、そうした一面的な考え方は捨て去るべきなのかどうか、迷ってしまう。場内からおこった笑い、これを醒めた目で見る私と、同じく笑ってしまう私が同居している。
この笑いは鏡花が作品を書いた当初から意図していたものなのか、幻想的なテクストをナマの芝居にかけるゆえのギャップなのか…。演じる人間の数、それを見る人間の数ほど解釈は多様であろう。何も私があれこれ考える問題ではないか。
『泉鏡花集成』7は鏡花の代表的戯曲が収録されている冊である。「海神別荘」「夜叉ケ池」「山吹」など。今回「天守物語」を読んだついでに「山吹」を再読した。
初読のときはさっぱり理解できなかったが、何となくわかってきた。三島だったか、澁澤だったか、鏡花の戯曲のなかでは「山吹」がいいと発言していたように記憶しているが、それも何となくわかってきた。でも、実際上演されると、これまた笑いがおこるような気がする。
この冊には、戯曲以外にも、「瓜の涙」「伯爵の釵」「売色鴨南蛮」「みさごの鮨」「怨霊借用」など魅惑的なタイトルの短編も収録されている。鏡花という作家を見極めるためにも、読んでみようか。【99.3.7】
仕事帰り、三月二日からはじまったサンシャイン古書市に立ち寄った。東京に来て、古書市に行ったのは初めてである。
池袋駅前の猥雑な雰囲気のする通り(渋谷より猥雑に思うのは私だけ?)を抜けて、会場の文化会館に入ってその広さに驚いた。仙台とはくらべものにならない。いちおう隅から順繰りに棚を見て回ったが、見回りながらこう思う。
“古書市に必要なのは、お金と時間と体力”
いまの自分にはそのすべてが足りないのだった。無念。もう一度別の日にゆっくりと会場をまわりたいものだが、時間が許さないだろう。ただ得たものもあった。研究関係の新書・文庫三冊(実はこれが掘り出し物だったりする。フフフ)、それに、先代三津五郎のエッセイ集と『荷風全集』(旧版)の端本。
先代三津五郎は芸談だったかエッセイだったかがいいと、何かで読んだ記憶があって購入。また『荷風全集』端本の第13巻は、随筆集『紅茶の後』と『日和下駄』を中心に編まれたもの。『日和下駄』が入っているのを見て、購入を決意したが、値段は何と\200也。旧版の、しかも端本だからこそのこの値段。本棚に並べるとちょっと見映えが悪いが、この安さにはかえられない。
これだから古書市は見逃せない。【99.3.2】
告白すると、実は私は旅をすることも稀な出不精だし、温泉という場所に大きな価値を見いだす人間でもない。
もちろん旅に出ることがあったら、せっかくの機会なので楽しもうという気持ちが沸くし、温泉旅館に泊まることがあったら、朝風呂につかったりもする。つまりは自発的に動こうとしないだけである。
という人間であるけれど、他人の書いた旅行記などを読むのは好きな部類に属する。こうした私のような人間はさしてめずらしくないと思われるが、いかがなものだろう。
数ある旅行記のなかでも、とりわけ好むのは、やはり種村氏のそれと、池内紀氏の著作であろうか。両氏とも旅好き温泉好きで、私とはおよそ対極にあるといっては大げさか。
どこかの温泉場に行こうとしたとき、もし種村氏池内氏のエッセイを思い出したら、それを読み返して踏まえるべきポイントをしっかりと頭に入れる。旅はその予習を追体験するに過ぎない。澁澤龍彦的旅のやり方。
だから今回の『温泉徘徊記』も楽しみな一冊。名著『日本漫遊記』を柱に、『晴浴雨浴日記』『人生居候日記』から関連するエッセイを組み合わせて編集されている。しかし個人的には、もっと単行本未収録のエッセイを…というのは私だけであろうか。
東京に移って初めて八重洲ブックセンターに行った。仙台にいた頃は、東京に来るたびごとに立ち寄って、買いそびれた文庫本などを買い漁り、帰りの新幹線でビールを飲みながらそれらを読んだものだった。こうした習慣は東京駅に近いという地の利によるところが大きいが、日本一といわれる文庫本の品揃えが、文庫好きを吸い寄せたというべきだろう。
ところが東京に住むようになって、皮肉にも来る機会がめっきりなくなってしまった。逆に東京駅の周辺に来ることがそもそも少なくなってしまったからだ。
それでその久しぶりの八重洲BC、案の定興奮しながら書棚の上から下、左から右と目を走らせまくった。時間がなく新刊・文芸書の1Fと文庫の5Fしか回ることができなかったのが残念だったが、書棚のあちこちで見いだした「読みたい本」を見つけては財布と相談しているうちに時を忘れた。
上の二冊が選りに選った結果残った。種村訳の『狂気の王国』は98年9月刊。知らなかった。情けない。帯には「スイスの精神病院を舞台にくりひろげられる異色探偵小説」とある。種村氏が探偵小説の翻訳をなさるのははじめてではあるまいか。その種村氏が選んで訳出した探偵小説だからこそ読みたい。
もう一冊花輪氏の『悪夢五十一夜』。花輪氏は仏文学者で国学院大学教授。その花輪氏の創作集で、短編五十一編を収録した、二段組670頁を超える浩瀚な書である。本書に収録されている短編のうち半分足らずは、すでに新潮文庫『悪夢小劇場』『海が呑む 悪夢小劇場2』の二冊となって刊行されている(いまは品切れ)。私はこれらを『幻想文学』誌のブック・レヴューで知り、早速購入した。内容は「ふしぎな話」「不条理な話」と言えばよいだろうか。帯の惹句を借りれば、「日常の向側 無意識の裡に潜む 異界への招待状」である。
それらの文庫が刊行された頃、このうちの何編かを原作としてドラマ化がなされたと記憶している。おぼろげだが、「世にも不思議な物語」系のシリーズタイトルが付けられていたはずだ。覚えているのは本書の第一夜として収録されている「ちりぢごく」。主婦が車を運転しているうちに方向感覚を失い、恐怖に陥るというもの。沢田亜矢子が主婦役を演じていたと思う。
「あとがき」「初出一覧」を見ると、文庫未収録の作品やつい最近発表された作品も含めてまとめられていたので、購入することに決した。5600円はちと高いが、読んで楽しむことができればそれでよいだろう。
坪内祐三氏は、いま私がもっとも注目している書き手である。
といっても本書『靖国』が初めて購入した坪内氏の著書で、好著といわれている『ストリートワイズ』は書店で手に取りはしたものの、パラパラとめくってみてその余りの対象の広さに買うのを躊躇してしまったほど。
なのになぜ注目かというと、このところ私が好んで購入する本の解説を書いていたり、登場したりで、そのお名前を頻繁に目にするようになったからである。内田魯庵や石井研堂の文庫、あるいは『古本屋月の輪書林』(高橋徹著、晶文社)など。
帯の惹句「靖国神社。それはかつては「文明開化」の東京に出現した、超モダンでハイカラな空間だった―」、目次の章タイトルに埋め込まれた言葉たち「大村益次郎」「河竹黙阿弥」「遊就館」(この場所は内田百間の小説のタイトルで知った)「勧工場」「力道山」「柳田國男」。靖国神社という表象を、あっと言わせる斬新な切り口で捉え直していそうで、読むのがとても楽しみである。【99.2.1】
いま読んでいる『池波正太郎の銀座日記〔全〕』(新潮文庫)は、作家池波氏の日常生活を綴った日記であるが、それでいて食べ物や都市に関する滋味あふれるエッセイにもなっている。
これまで私は、池波氏の本というと同じ新潮文庫の『江戸切絵図散歩』を購入した覚えがある。いまパッと書棚を見まわしても見あたらないところをみると、それはダンボール箱の底深くに沈んでいるに違いない。それ以外池波本はついぞ購ったことがなかったのであった。
しかし本書で私の池波文学に対する見方が大きく変わった。池波氏の本を読みあさる一年になりそうな予感がする。
ところで、本書にかぎらず、私は日記が好きである。これは、形式的な条件によるところが大きい。要するに、好きなときに途中で読むのを休むことができる、ということ。小説などになると、ある一定の区切りまでいかないとなかなか本を置くことができない。その点日記は、私のような集中力の乏しい人間でもすぐ中断でき、読書を再開するときにはその前からの粗筋を思い返す必要はない。
内容もとびきり面白い日記に出会うとどうなるか。一気に読み終えたい衝動に駆られるいっぽうで、読み終えるのが惜しくて、ちょっと読むとすぐ栞をはさんで小休止する。間を置いてふたたび手に取り、またちょっとだけ読んで読むのを止す。ちびちびと…。ちょうどいま読んでいる『池波正太郎の銀座日記〔全〕』がそうである。もったいない。でも読みたい。なかなかそうした気分になる本は少ない。
思いつくままに「読むのが惜しい」と感じた日記の書き手をあげると、筒井康隆、高橋源一郎が頭に浮かぶ。両氏の日記は、いくぶんの虚構がまざっているにしても抱腹絶倒の日常生活を読む楽しさがあるし、そして何より同じ時間を生きていることの共通認識がある。これが山田風太郎の『戦中派不戦日記』や内田百間の『東京焼尽』となるとそうはゆかなくなる。確かに面白いのだが、読み進めるには小説を読むのと同じような根気がいる。
「読むのが惜しい」という経験はなかなか味わえないだけに、大切にしたい。【99.1.27】
1月24日(日)の新聞テレビ欄を見て、ちょっと心にひっかかったことがあった。
NHK教育テレビ「新日曜美術館」のなかに、「奇想の展覧会」という文字を発見したからだ。これは、ほかならぬ去年七月に河出書房新社から刊行された種村季弘氏の著書のタイトルであった。
大河ドラマを見終わってすぐにチャンネルを教育テレビにかえると、果たして予想どおり種村氏がテレビに出演されている。
現在、中京大学においてその種村氏の著書『奇想の展覧会』で取り上げられた芸術家たちの作品を展示しているのだそうで、その会場にてご自身が趣旨などをお話になっていた。動く種村季弘≠見たのは初めてなのだが、その闊達自在な文章とは違った、静かで端正な話し方にイメージのズレを感じた。ちょうど種村氏の署名本を入手したとき、墨書で丁寧に書かれたお名前を見たときの印象と同じ。
あっけにとられて、詳しい展覧会情報を控え忘れてしまった。美術関係の雑誌や、インターネットで情報収集を試みたけれども、得られるものはなし。いま出ている美術関係の雑誌を当たるのでは、遅きに失したというところだろう。それにしても肝心の中京大学のホームページにも記されていなかったのは残念。
そこで思いきって中京大学にメールを出してお尋ねしたところ、担当キュレイターの森本悟郎さんから早速展覧会の詳しい情報を頂戴しました。森本さんに感謝申し上げます。興味を持たれた方のためにも、その情報を転載します。
会期:1月9日〜2月27日
休館日:日曜・祝日・2月1日〜5日
開館時間:平日 9時〜17時/土曜 9時〜12時30分
会場:中京大学アートギャラリーC・スクエア、C・スクエアプラス
〒466-8666 名古屋市昭和区八事本町(やごとほんまち)101-2
Tel:052-835-5669 Fax:052-835-7139
交通:名古屋駅−(地下鉄東山線で1駅目)−伏見−(地下鉄鶴舞線で8駅目)−八事
八事駅1番出口から徒歩約3分/中京大学センタービル1階
入場無料
出品作家:赤瀬川原平/秋山祐徳太子/池田龍雄/一原有徳/井上洋介/梅木英治/片山健/川原田徹/菊畑茂久馬/木葉井悦子/清原啓子/九谷興子/桑原弘明/合田佐和子/篠原有司男/清水晃/杉本典巳/スズキコージ/田中信太郎/谷川晃一/長岡国人/中西夏之/野中ユリ/平賀敬/森ヒロコ/横尾忠則/横尾龍彦/吉野辰海/吉村益信/四谷シモン/渡辺隆次
これだけの作家の作品を集めながら、入場無料なのが信じられない。
ついでながら、「奇想の展覧会」情報を集めているなかで、偶然高崎市美術館にてポール・デルヴォー展が開催されていることを知った。これまた行ってみよっと。【99.1.26】
老齢の紳士やご婦人方で大混雑の歌舞伎座の、しかしながらそこだけはなぜかゆるりとした空間である一幕見席で、吉右衛門の「梶原平三誉石切」(石切梶原)に酔いしれた。ぼんやりした頭で外に出てみると冬の銀座は思ったより暖かく、気持ちのいい青空である。その足で地下鉄を乗り継いで渋谷に出る。そこで腹ごしらえのためラーメンをすすって、いざ今日の目的地「芦花公園」に向かう。
まず最初に、なぜいま徳冨蘆花なのか、説明しておかねばならないだろう。
といっても理由はすこぶる単純なものだ。今年に入って読んだ本のなかで、すでに二度ほど蘆花に出会い、彼のひととなりに興味をもった。ただそれだけの話。
ひとつは氏家幹人氏の『江戸の性風俗』(講談社現代新書)。そのなかで蘆花は、夫人との性生活をあからさまに日記に綴っていた人物として紹介されている。そこにはなまなましい日記の一節も引用されているが、元来日記(文学)が好きな私としては、そうした日記を蘆花が残していることすら知らず、その内容とあいまって驚いた。
澁澤龍彦が『思考の紋章学』中の「ウィタ・セクスアリス」のなかで、荷風の『断腸亭日乗』を引き合いに、日付の上に時おり付してある「・」(ナカグロ)は荷風の広義の性的生活に関係あるのではないかという指摘をしている。氏家氏の本のその部分を読んだとき、真っ先に思い浮かべたのがその澁澤の指摘であった。
いまひとつは奥本大三郎氏の『本を枕に』(集英社文庫)。そのなかの「夏・水・土・懊悩」と題する一文は、まさに蘆花の『みみずのたはこと』をフューチャーしたもので、そこで語られている蘆花の自然のなかでの生活に興味を抱いた。
その帰結が今回の芦花公園行きとなる。
もとより「芦花公園」という名前自体は、東京に住む以前から気にはなっていた。というのも、以前、京王線沿線の某遊興地に遊びに行ったとき、その通過駅としてこの名前があったからだ。初めてこの駅名を見たときは、「あしはな…ん?」と戸惑い、それが徳冨蘆花の「芦花」であるのかなと気づくまでに少しの時間を要した。
1998年9月のこと、テレビ東京系土曜夜に放映されている「出没!アド街ック天国」で千歳烏山を取り上げたとき、その第三位に「芦花公園」がランクされたのを観て、ああやっぱり「芦花」とは徳冨蘆花で良かったのだと喉のつかえがとれたように感じた。今回芦花公園を訪れたいという気分なる素地は十分にあったというべきだろう。
前置きが非常に長くなった。さてその芦花公園である。
地図でその場所を確認すると、北は烏山、東は八幡山、南は千歳台という地名であるうえに、芦花公園のある住所は「粕谷」であるから、三方を小高い台地に囲まれた一段低めの窪地を想像していた。ところがいざ行ってみるとそのような起伏を感じない。京王線「芦花公園」駅の一つ手前の八幡山駅から、環八を南下するルートをとったのだが、そうした交通の大動脈と、周囲に林立する都営アパート、マンションの群れに、高低の感覚が鈍らされているとおぼしい。
現住所東京都世田谷区粕谷1丁目20番1号に芦花公園はある。その中核部分は「蘆花恒春園」として整備され、なかには記念館も設けられて書斎の文房具や自筆原稿などが展示されている(無料)。そこでもらったパンフレットによると、蘆花がいとなんだ農園等の敷地は、蘆花の死後愛子未亡人により東京都に寄付され、都は昭和13年に公園として開園している。恒春園の中には、前述の記念館のほか、蘆花の書斎「秋水書院」「梅花書屋」や未亡人の居宅も公開されているのだが、ちょうどいま、屋根の葺き替えなどの改修工事中で見ることができなかったのは残念だった。
その蘆花旧邸の裏手には、蘆花の墓所があった。つまり蘆花は、四十以後に移り住み、晴耕雨読の生活をおくったその土に帰したのである。また、記念館の前は鬱蒼とした竹林で、そこから切り取られたらしき青竹が事務所の前に数本立てかけられ、「青竹踏み」用にと供せられていた。残念ながら背負っていたリュックに入りきらず、持ち帰ることは断念せざるをえなかった。
恒春園をあとにして環八に出るためには、だらだら坂を下ることになる。ということは恒春園もまた「谷」ではなく、小高い台地の一端に位置していたというべきだろう。右手には、「彼(蘆花のこと…金子注)の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡である。型の通りの草葺の小宮で、田圃を見下ろして東向きに立って居る」と蘆花が書いた粕谷八幡宮がある。もちろん今は社殿は新しいし、八幡から見下ろしても田圃など一つも見あたらず、環八をひっきりなしに行き交う自動車が目に飛び込んでくるだけである。
それでも環八から一歩入った恒春園の辺りは、「閑静」が言葉通りに感じられる場所で、こんな所に住んで、犬を飼って、芦花公園を散歩させたいなあと思うことしきりであった。もし将来私がこの周辺に移り住むことがあれば、それは蘆花の影響であると思ってください。
最後に、蘆花がこの地に移住した頃の風景を、蘆花の文章で見てみよう。【99.1.23】
彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字粕谷の南耕地と云って、昔は追剥が出たの、大蛇が出て婆が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林を、明治近くに拓いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前株を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊に疎な方面である。就中彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸の方へ唯一件、加之小一丁からある。田圃向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞がれて見えぬが、南と西は展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。(「低い丘の上から」より)
第一に思ったのは、愛犬(飼犬)をめぐる一連のエッセイ群がとても面白く、私がこれまで読んだ動物を扱ったエッセイのなかでは、内田百間の猫随筆集『ノラや』と双璧をなすのではないか、ということ。すでにこうした試みがなされているかもしれないが、このなかから犬に触れたものだけをピックアップして、アンソロジーを作っても面白かろう。
犬猫がペット≠ニして人間によって一方的に愛玩される現今の状況とは大きく異なり、家族の一員として遇する反面で自然と共生させている(むろん現代は、安全面衛生面でこうしたことは困難だという事情はある)。だからこそ近所の犬たちと牝犬の奪い合いを演じて生傷を絶やさないし、近所で飼っている鶏を喰い殺して飼主に迷惑をかける。挙げ句の果てに甲州街道で車に向かって吠えまくり、ひき殺される。蘆花は哀惜の情に満ちた文章でそれを綴りながらも、ただひたすら嘆き悲しみ泣き叫ぶのではなく、冷めた目も持ち合わせている。
思い出すと、芦花公園ではゴールデンレトリバーとシベリアンハスキーの大きな二匹をつれながら散歩している人や、ボールを遠くに放り投げ、愛犬を全力疾走させて戯れている人も見かけた。犬好きの私としては、心から羨ましいと感じる瞬間であった。
正直言って読んだかどうか忘れてしまったのである。この『帽子収集狂事件』を。去年このシリーズ(乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10)の一冊で出た『Yの悲劇』の場合は、何回も読んだことがあって犯人も大まかな筋立ても覚えてはいたが、細部はすっかり忘れており、新訳で読んであらためて感動した。このことはオモテのページの「最近の購入本」でも書いたのでご参照ください。
本書の場合、同じ忘れたといっても程度が違いすぎる。表紙裏のキャプションに「密室以上の不可能トリック」と書いてあるのを見ても、トリックが思い出せないし、ページを開いて巻頭に配されている、舞台となったロンドン塔の見取り図を見ても、ロンドン塔を舞台にしたカーの小説を読んだ記憶がないのだ。もしかしたら読んでいないのかもしれない。
そう思って、講談社江戸川乱歩推理文庫52の『続幻影城』を引っぱり出す。このなかに収録されている「J・D・カー問答」と、続く「クリスティーに脱帽」の二篇は、繰り返し繙読して、乱歩が推奨するカーとクリスティーの小説を読んだものだった。
前者の「J・D・カー問答」のなかで、『帽子収集狂』は第一位グループのなかに挙げられている。その他『皇帝の嗅煙草入』も一位グループ。パラパラと眺めると、『皇帝の嗅煙草入』は思い出した。ああそうだ。密室以上の不可能トリック。○○○が△△△の□□□□を◇◇◇◇するやつ。確かに早川文庫で読んだ。
ということは、『帽子収集狂』は忘れたのじゃなくて、やっぱり読んでいない?
ことほどさように忘れやすい性格はこんなところからミステリを楽しむことができるのです。つまらないミステリなら、読んだことを忘れていて再読しているうちに思い出すと、それまでの時間を無駄にしたと悔やみたくなるけれど、『帽子収集狂』レベルの極上ミステリの場合はそれを許せるどころか、忘れてしまっていて良かったと、自らの忘れっぽさを誉めてやりたくなるのです。【99.1.21】
『種村季弘のネオ・ラビリントス』も本書で六冊目を数えることになった。今まで刊行された五冊のテーマを並べると、怪物の世界、奇人伝、魔法、幻想のエロス、異人。そして今回の第六巻は「食物読本」。『書物漫遊記』『食物漫遊記』を柱に編まれた冊であり、私にとって待望の冊でもある。
「種村季弘は「漫遊記」シリーズに尽きる」。これが私の持論である。もちろん入り口は澁澤口(!)だから、『怪物の解剖学』あたりにまず度肝を抜かれ、『ペテン師列伝』の語り口の虜になり、最後に行きついたのが、ちくま文庫に収録されている一連の「漫遊記」シリーズだったのだ。そのときは残り物という感じを抱いていたのであるが、一読してそれが誤りだと気づかされた。これこそ真骨頂なのである。
私は書物は「あとがき」や解説から読むタイプで、本書も川本三郎氏の執筆になる解説から読みはじめたのであるが、それを読んで目から鱗が落ちる思いをした。川本氏はこのようなテーゼで種村論を語りはじめる。
種村さんに女性の読者は少ない
この発言は、種村氏ご自身が編集者から言われた言葉だという。そんなことよりも、確かにそうかもしれない、いや、確かにそうだ、と、ポンと膝を打つ私がいた。澁澤に女性読者は多かろうが、よく並び称される種村季弘に女性ファンが多いといった話は聞いたことがない。さすが川本氏、いいところに目をつけると妙に感心する。
自分自身の過去をかえりみても、女性に対して澁澤を薦めたことはあるが、確かに種村本を薦めたことは皆無だ。
いささか単純かもしれないが、そのキーが「漫遊記」シリーズにあるのではあるまいか。「下町あたりの横丁や路次の安酒場でコップ酒や焼酎を飲むのが好きな、そして、そういうことを書くのが好きな場末の酒仙=v。これが川本氏の種村評。この点が澁澤とは決定的に異なる資質であろうし、私が女性に薦めたことがないのも、ここにひっかかりがあるからかもしれない。この場末の酒仙≠フ文業の代表選手が、一連の「漫遊記」シリーズなのだ。
こうなると、先の私の持論「種村季弘は「漫遊記」シリーズに尽きる」は、「女性読者の少ない」種村本の特質をズバリ突いているのではとほくそ笑むいっぽうで、男である私がたどり着いた、当たり前の結論だという気がしないでもない。【99.1.14】
今日(98.1.13)の朝刊の広告を見て、早速購入を決定。
本書が収められた祥伝社文庫は、もちろん大書店に行けば見つけることができるだろうが、それだけの余裕がないものの本日中に入手したいと考えている人間(=私)にとって、いかに効率的に探し当てることができるかが問題となる。
キオスクにあるに違いないと踏み、通勤時、乗車駅のキオスクに飛び込み、探す。しかし、祥伝社文庫はあるものの、勝目梓・南里征典系の小説しか見あたらない。さすがにノンフィクションで固めの本は置いていないとあきらめる。それでもあきらめきれず、ホームのキオスクにある文庫のラックをくるくるまわして確かめるが、やはりなし。
大学の生協書籍部では、祥伝社文庫そのものを置いていない。仕方ないか。帰途、電車を降りて駅前の某大手スーパー内にある書店に向かう。意外にこうした書店はマイナー文庫を取り揃えている場合が多い。これまでも書籍部にない文庫はたいていここで購入できた。
そこでもまた悲劇。祥伝社文庫、それも本書と同時に刊行されたノンフィクション文庫はあったが、肝心の本書は見つからず。気になったのは、三冊ずつ平積みされたそれら同時刊行文庫の一角に、ちょうど一冊分ポッカリと穴があいていたこと。「ひょっとしてこれが私の探していたもの?」と悔しさがわき、「絶対に今日中に見つける」と決心する。
でもその後、意外に簡単に見つかる。駅前のビデオレンタルを兼ねた某書店にて探し当て、勇躍購入。一安心。これからはこの書店でマイナー文庫を見つけよう。
さて内容。著者による「まえがき」には、「過去を捨てさりながら発展してきた東京では、その捨てさられたものたちを通じて歴史が刻まれている。だから「失われた名所」を観光すれば、そこに歴史が現われる」という方法論が開陳されている。本書はそうした「失われた名所」の探訪記である。広告を見てほぼ想像したとおりの内容である。取り上げられているスポットは、例えば、浅草十二階、日本橋白木屋、巣鴨プリズン、谷中五重塔、小塚原刑場、本郷菊富士ホテル、吉原、玉の井など。聞いたことのあるようなメジャーどころが多かったのは少し残念だ。聞いたことのないような「名所」というのは形容矛盾だから、仕方がないことか。ともかく苦労して入手したゆえ、期待も大きい。【99.1.13】
『甲賀忍法帖』のカバー装画を担当しているのは、天野喜孝氏である。繊細なタッチで天女のような女性を描く、というのが私のイメージ。天野氏は同じ講談社の文庫シリーズ「江戸川乱歩推理文庫」のカバー装画も担当されており、天野氏と言えば私はそれを第一に思い浮かべる。
話がそれるが、この「江戸川乱歩推理文庫」。乱歩の全集を二度にわたって刊行してきた講談社が、それらに未収録のエッセイなどをも拾い集め、乱歩の全文業を網羅すべくスタートさせた文庫シリーズである。私が大学二、三年の頃だったかに出たと記憶しているから、もうかれこれ10年あまり前のことになる。この「乱歩文庫」は全冊持っており、出た都度読んで、それ以来猛烈な乱歩ファンになったのだった。それが、講談社文庫の目録を見るとどうやら全冊品切(絶版?)らしい。もちろん今でも、乱歩の作品は、初出の挿絵も付けた創元推理文庫や、春陽堂版全集を底本とした春陽堂文庫で読むことができるのだが、それとは若干の異同があるという講談社版(もとは桃源社版)が読めないというのは何とも残念である。
それはそうと、乱歩文庫のときも思ったのだが、私個人的には、乱歩も風太郎も、天野氏の装画ではしっくりこないのだ。乱歩のばあい、春陽堂文庫のオドロオドロしい装幀もまた行き過ぎのようで、創元推理文庫版あたりがちょうどいいような気がしているが、果たして山田風太郎にふさわしいイメージとは何なんだろう。古書店でバイトをしていたせいか、山田風太郎=角川文庫版のイメージがあるのだが…