雑記26:恐怖のざるそば(1998.12.07)
それはある暑い夏の日の出来事だった。私は昼食をとるため、とある
蕎麦屋に足を運んだ。
”ガラガラーッ”(戸を開ける音)
「いらっしゃいっ!お一人?」
「ええ。適当に座っていい?」
「どうぞっ!」
元気のいい主とこんな言葉を交わしながら入り口からすぐのテーブルについた。
「日替わり、ざるでお願いします。」
そばかうどんか、熱いのか冷たいのかざるなのか、良くありがちな日替わり定食をざるで頼み、定食が出てくるまでいつものように
店のあちこちを観察し始めたのだった。
キョロキョロ見回してみた。何の変哲も無い普通の店だ。さて、
次はお客の観察だ。ざっと店内を見渡してみる。普通のサラリーマンがほとんどだ。
「なんだ、つまらんな。」と思った時、奥まった席に
一人ポツンと座っている外国人を見つけた。古代ギリシャの彫刻像のような感じの白人男性だった。
「一人で蕎麦屋に昼食とりに来るなんて、日本での生活も長いんだろうなぁ。」なんて思いながら何気なく見ていると彼の注文の品が運ばれてきた。彼の注文、それは
ざるそばだった。
「おまちどうさまっ!」店員さんの元気な声に軽く頭を下げて応える彼。ちょっとぎこちない。
「おやっ?」私は見逃さなかった。その彼のちょっとした仕種から
「はは〜ん、あまり日本には慣れてないな。」と見取った。
私の観察眼は正しかった。テーブルの上の
ざるそばを前に彼は
固まっている。どうやら食べ方が分からないようだ。辺りをキョロキョロ見回してみても誰も
ざるそばを食べていない。というか、
日替わりのざるを食べている人はいるのだが、見た目(盛り付けや器)が全然違うので彼も
自分の前にあるものと皆が食べているものが同じ物であることに気付いていないようだ。
ここでちょっと説明しよう。その店の
日替わりのざるそばは小さな四角いざるに盛り付けてあって、
付け汁は初めから小さな器に入れられた状態で客に出される。
ところが
単品のざるそばは丸い大きなざるに盛りつけてあり、
付け汁は徳利に入っていてその徳利に
蓋をするように付け汁を入れる器がかぶせてある形で運ばれてくるのだ。
お分かりいただけたであろうか
?彼の前には
ざるに盛られたざるそばと、あたかも
蓋がしてあるように見える徳利、そして小さな皿に申し訳程度に盛りつけられた
薬味が並んでいるのだ。
日本人なら何の躊躇も無く徳利の上に被せられた器を手に取り、徳利の中の付け汁を器にうつして薬味を入れ蕎麦をつけてすすることだろう。しかし、彼にとっては
初めて見るもの(だろうと思う)ばかりだ。どうしていいのか分かるはずも無いのだ。
では、なぜ
ざるそばなんか注文したのだろうか
?ふとそんな疑問が頭を過ぎる。日本に来て間も無い外国人になったつもりでメニューを見てみる。すると、
メニューの中で唯一平仮名だけで書かれているもの、それが
ざるぞばだっだ。
独り納得しながら再び彼を見やる。
「どうするのかな?ちょっと観察してみよう。」今振りかえると申し訳ないことをしたと反省しきりだが、その時私は困っている人を見ながら
助け船を出さずに観光船に乗ってしまったのだ。
*****
じっと目の前の
ざるそばを見つめる彼。と、意を決したのか徳利を手にして被せてある器を取り外した。
「よし、今度はそれに徳利からつゆを注ぐんだぞ。」
私の心のなかの応援を他所に、彼は今
取り上げた器を伏せる形でテーブルに置いた。どうやら完全に
”徳利の蓋”と思っているようだ。
そして徳利の中を覗き込み、
”うんうん”と大きく肯いた。
次の瞬間事件は起こった。
彼は徐にその徳利をざるの上にかざすと
一気に上からざるに向かって中のつゆをぶちまけたのだ。
「ウーッ!○×▲◇*$■●!」
彼の声が店内に響き渡った。みんな一斉に彼の方を見る。中には立ちあがって何事が起こったのか確認しようとしているオヤジもいた。
しかし、彼はそんなことを
気にする余裕など無かった。
黒い半透明の液体が
ざるの下から次々と流れ出てくる。そしてその止まるところを知らない流れはテーブルの端まで来ると
彼のズボンの上にイグアスの滝さながらに流れ落ちる。
立ち上がろうとする彼。しかし彼のすぐ後ろは壁であり、椅子の背もたれは完全に壁にくっついている。そう、
立ち上がることが出来ないのだ。
しかたが無いので今度は横へ出ようとする彼。しかし体の大きな彼には日本の蕎麦屋のテーブルと椅子の組み合わせはあまりにも
自由を拘束しすぎていた。更にその組み合わせは、自由を拘束するのみならず追い討ちをかけるかのごとく
彼を攻撃したのだ。
横に出ようとする彼。それを妨げるテーブルと椅子。それでも何とか逃げようとする彼。何とか
右足は黒い流れから逃れることに成功した。しかし気が焦っている。右足と同時に、いや右足より早く既に体は通路へと傾いている。あとは左足を通路まで持っていきさえすれば黒い流れから逃れられる。しかしテーブル&椅子のタッグチームは
それを許さなかったのだ。
彼はテーブルと椅子の両方にしこたま左足をぶつけ、バランスを崩して
通路へ倒れるようにころがり出た。しかし
出たのは上半身だけで
下半身はしっかりテーブルと椅子に捕まったままだった。
ざるの下からの流れは容赦無く彼の腰の辺りを襲った。さらに
彼の手に握られたままの徳利から流れ出たもう一つの流れ.....これは床の上に出来た支流であるが.....が彼の上着を茶色く染めていったのだった。
テーブルの上には何事も無かったのごとく、伏せられた器と薬味、そしてまだ手を付けられていないざるそばが静かにのっていた。