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四診(望・聞・問・切)
弁別・弁証の目的は臓腑・経絡・奇経の何れかにある気血の大過不及の存在を絞り込む作業です。この作業に一番重要で客観性がある情報は患者自身が訴える症状です。そしてその症状の発現している場所は更に重要な情報となります。症状が発現している場所が特定されるとそこを流れる経絡に気血の大過不及の何れかがあると予想できるからです。つまり体表・体幹内の流注を理解しておくという事は弁別・弁証するにあたって非常に重要です。複数の病症が同時に存在する場合でも一つか二つの経絡や奇経の上調和によって起こっていることがほとんどです。
また複数の経絡に病症が点在して一見脈絡の無いようにみえる場合の多くは奇経八脉の何れかの一奇経グループに含まれる場合が多いはずです。
望診 ; 患者の肌の色などを五行にあてはめて患者の体質や今の状態を推察します。ただし必ずしも色と証は一致しません。難経四十九難にはその理由が詳しく解説してあります。
「四十九の難に曰く、正経自ら病むことあり、五邪の傷る所あり、何をもってか之を別たん。しかるなり、憂愁思慮すれば心を傷り、形寒え、飲冷するときは肺を傷る。恚怒(の気逆上して下らざるときは肝を傷る。飲食労倦すれば脾を傷る。久しく湿地に坐し、強力して水に入るときは腎を傷る。是れ正経の自病なり。何をか五邪と謂うか。しかるなり、中風あり、傷暑あり、飲食労倦あり、傷寒あり、中湿あり、此れを五邪と謂う。仮令ば心病何をもって中風之を得たることを知らん。しかるなり、その色当に赤なるべし、何をもって之を言えば肝は色を主る。自ら入りては青きことをなし、心に入りては赤きことをなし、脾に入りては黄をなし、肺に入りては白をなし、腎に入りては黒をなす。肝、心の邪となる。故に知らんぬ当に赤色なるべし。その病、身熱し、脇下満ち痛む、その脈浮大にして弦。何をもって傷暑之を得たること知らん。しかるなり、当に臭を悪むべし、何をもって之を言えば心は臭を主る。自ら入りては焦臭となり、脾に入りては香臭となり、肝に入りては?臭となり、腎に入りては腐臭となり、肺に入りては腥臭となる。故に知らんぬ心病傷暑より之を得れば当に臭を悪むべし。その病、身熱して煩し、心痛、その脈浮大にして散。何をもってか飲食労倦より之を得たることを知らん。しかるなり、苦味を喜むべし、虚は食を欲せざることをなし、実は食を欲することをなす、何をもって之を言えば脾は味を主る。肝に入りては酸となり、心に入りては苦となり、肺に入りては辛となり、腎に入りては?をなす、自ら入りては甘きことをなす。故に知らんぬ脾の邪心に入りては苦味を喜むことをなすことを。その病、身熱して腰重く、臥すことを嗜み、四肢収らず、その脈浮大にして緩。何をもってか傷寒より之を得たることを知らん。しかるなり、当に譫言妄語すべし、何をもって之を言えば肺は聲を主る。肝に入りては呼をなし、心に入りては言をなし、脾に入りては歌うことをなし、腎に入りては呻をなし、自ら入りては哭をなす。故に知らんぬ肺の邪心に入りては譫言妄語をなすことを。その病、身熱して洒々として悪寒し、甚しきときは喘咳す、その脈浮大にして□。何をもって中湿より之を得たることを知らん。しかるなり、当に喜んで汗出て、止むべからず、何をもって之を言えば腎は湿を主る。肝に入りては泣をなし、心に入りては汗をなし、脾に入りては涎をなし、肺に入りては涕をなし、自ら入りては唾をなす。故に知らんぬ腎の邪心に入りては汗出て止むべからざることをなすことを。その病、身熱して小腹痛み、足脛寒えて逆す、その脈沈濡にして大。此れ五邪の法なり。」
舌診は細かく弁別すれば奥が深いのですが寒熱の有無程度を直接診るのに簡単な方法で便利です。例えば舌に血色が無ければ寒証で舌が真っ赤にしていれば熱証でその赤みの程度で寒熱の有無や度合いを判断できます。
聞診 ; 患者から発せられる音(声・呼吸音・咳)を観察して病状を判断するのですが古来解説されてきた五音の分類の他に西洋医学的に考察した情報を東洋医学的に考察することも有意義です。例えば咳のある患者ではその咳が湿潤か乾燥しているかを聞き分けます。
また喘息症状があって呼吸をするのがつらい場合、吸気がつらいのか呼気がつらいのかを確かめることも有意義です。難経四難によれば「呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る」とあり、吸気の場合には腎の病症で呼気の場合は肺の病症であると判断できますから喘鳴を聴診して吸気・呼気の何れに雑音があるかを確認したり患者本人から呼気時に辛いのか吸気時に辛いのかを聞き出したりして診断に役立てます。
「四の難に曰く、脈に陰陽の法ありとはなんの謂ぞや。しかるなり、呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。その脈、中にあり。浮は陽なり、沈は陰なりゆえに陰陽という。心肺はともに浮、何をもってかこれを別たん。しかるなり、浮にして大散なるものは心なり。浮にして短□なるものは肺なり。腎肝はともに沈、何をもってかこれを別たん。しかるなり、牢にして長なるものは肝なり、これを按じて濡、指を挙ぐれば来ること実なるものは腎なり、脾は中州、ゆえにその脈、中にあり、これ陰陽の法なり。脈に一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰あり。この如きの言、寸口に六脈ともに動ずることありや。しかるなり、この言は六脈ともに動ずること有るにあらず。いわゆる浮沈、長短、滑?なり。浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、□は陰なり。いわゆる一陰一陽は脈来ること沈にして滑なるをいう。一陰二陽は脈来ること沈滑にして長なるをいう。一陰三陽は脈来ること浮滑にして長、時に一沈なるをいう。一陽一陰は脈来ること浮にして□なるをいう。一陽二陰は脈来ること長にして沈□なるをいう。一陽三陰は脈来ること沈□にして短、時に一浮なるをいう。各々その経の在る所をもって病の逆順を吊づく。」
問診 ; 四診の中で最も重要で時間をかけて診察しなければならない診察法です。患者が訴える症状を具体的に出来るだけ細かく聞き出します。例えば患者が喉が痛いと訴えて直ぐに肺の病症と決めつけるのは軽率すぎます。まず痛みが持続性なのかある一定の条件でのみ傷むのか、持続性であれば拍動性があるのか緊張やひきつりがあるのか確かめる必要があります。喉の痛みが鼻の奥なのか舌の根元の方なのかはたまた耳の奥に近いところなのかを確かめることによってふ調和を起こしている経絡を絞り込むことが出来ます。関節の痛みの場合などは動作によって増悪するかどうかどの動作によってそれが顕著に現れるか痛みの部位に関しては痛みの部位がどの経絡流注にあたるかも確かめなければなりません。これらの問診は如何に経絡流注を把握しているかによって絞り込みできる範囲が違ってきますので体表面だけの流注に留まらず体幹深部の流注も把握しておくと便利です。また臓腑の働きを知っておくことは病症の弁別に欠かせません。例えば頭痛においては胃の下降作用が上手く働かなくなった為に吐き気や頭痛の症状が出ることがあります。もちろん頭痛はその他にも肝・胆・膀胱・小腸・督脈などの病症としても現れます。時に複数の経にわたって病症が出ることもあります。また病症が精神的要因で現れたり物理的要因で現れたりと同じようにみえる頭痛でも細かく問診していくとその要因は様々です。従ってそれらの要因によって治療に選ぶ経穴も違ってきたりします。またその症状が精神的要因によって現れている場合にはカウンセリングの技術も出来るだけ備えておく必要があります。東洋医学的に言えば心の問題が生じると生体内の気の調整が円滑に行われなくなって様々な症状が現れてきます。この様なときに適切なカウンセリングが行われると一時的にでも気の調和がとれるはずです。そしてその積み重ねは無視できません。また患者の状態を治療家が今現在どのように診てどのように治療していこうとしているかの説明、いわゆるインフオームドコンセントも大切です。また多くの患者は東洋医学の概念はあまり詳しく知らない人が多いのですが反して西洋医学に関しては広く知られていることが多いので東洋医学的に説明するだけでなく西洋医学的に診るとそれがどう言うことであるか、またその場合に東洋医学が出来ることは何かと言うこともできるものは説明を加えると良いと思います。
切診 ; 切診で一番重要な診察法と言えば脈診です。脈診には脈状診と脈差診があります。脈状診は患者の状態を知るうえでとても意義のある診察法です。また予後の判定、ドーゼ量などの治療方針を決めていくのにも有意義です。さらに毎回の治療の評価を脈状診によって終了時に行うことは絶対怠ってはいけません。脈差診は六部定位脈診が一般的で難経の六十九難などにみられるような陰陽、五行、相生、相剋理論に基づいた診察法でいわゆる経絡治療における代表的な脈診法です。脈状診も脈差診も習熟するにはどちらもたくさん数をこなして経験を積まなければなりませんが後で述べる私が考案した「簡易脈診法」を使えば初心者でも比較的正確に脈差診を行うことが出来ます。
次に腹診の西洋医学との違いは西洋医学では腹壁の下にある臓器を間接的に手で触れて腫瘤をみつけたりすることが主な目的ですが東洋医学では腹を上腹左右、心窩、臍周囲、下腹、下腹左右に分けてそこに五臓を割り当ててそれぞれの部位の状態を観察します。観察する項目は熱感・冷感、硬結・軟弱、乾燥・湿潤、膨隆・陥凹、圧痛などです。また腹に分布する経絡、経穴も併せて観察します。また腹部には募穴が分布しておりこれを観察し治療点とすることもあります。また鼠径部や下腹部では中央から任脈、腎経、脾経、胃経の順に経脈が流注しているのでそこを観察したり治療点に求めたりします。
次に切経ですがこれは患者が訴える場所の付近を循る経絡を観察したり病症から判断して流注上に何らかの変化を観察できる可能性のある経絡に沿って病症に適合する所見がないかを観察します。所見とは熱感・冷感、硬結・軟弱、乾燥・湿潤、膨隆・陥凹・圧痛などです。また更に絞ってその病症に関わりがありそうな要穴を観察したりします。切経に関しても体表の流注を良く知っておくことは当たり前ですが体表より深いところの流注を把握しておくことも弁別において有意義です。
「自動調整機能」の維持に重要な働きをしている気は一般的概念では正気と邪気が存在すると考えられています。しかし私自身は正気と邪気の区別はなく存在するのは気ひとつであると考えています。つまりその大過不及によってその及ぼす影響が違うだけで過呼吸時における血中酸素分圧の上昇が人体に及ぼす影響と同じことだと考えています。
具体的に言えば大過の時は気が多過ぎて正常に機能できず人体に不調和を起こします。このような状況にあるところの気を一般には別の物として邪気(実邪)と呼んでいますが元々は正気と呼ばれる気と何ら代わりのないものだと考えます。また不及の時も気が足りないだけなのですが足りないことで起こっている状況をあたかも何か特別の物が存在して起こしているように考えて虚性の邪などと区別したりしていますがこれも全く同じ気の現象のひとつだと考えます。
つまり一般に言う正気とは気が人体に都合の良いように働いている時の気の状態を指して言っていると考えます。したがって正気も邪気もどちらも全く同じ物でその人体への働きかけの違いによって呼び方を変えているだけと考えています。
ところでここで論じてきた邪気は厳密に言えば内邪のことです。『内因なければ外邪入らず』という言葉がありますが、では内因とはどんなものかを一言でいえば『気の大過不及の状態が体内に起っている状態』を指します。つまり内因があれば元々それだけで病症を発現し易くなっているところに更に体内の気のバランスを崩すようなストレスが外から加わると病症も更に出易くなります。また既に在る病症は更に増悪する可能性が出てくるということになります。
バランスの崩し方は『更に大きく大過不及が進む』場合と『体内の気の総量が更に減少してしまう』場合と『その二つが同時に起こる』場合があります。
『内因なければ外邪入らず』というのは体内においても元々程度の差はあれ大過不及があったり気の総量が少なかったりすると外界の刺激によって更にバランスを崩し病症が出易くなるということであって、もし体内において大過不及がなかったり仮にあっても気の総量が十分あれば病症は出にくいということをあらわしています。
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