事の起こりは些細な勘違いからだった。
平時はもとより戦時に於いては情報を征するものが勝敗を征すると
誤解の経緯はこうである。
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「全員に集まって貰ったのは他でもない、緊急の事態が発生した」
ラシュリは受け取った暗号電文の内容から要点をまとめて説明し、中隊が
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動きがあったのは午後3時を過ぎた頃だった。
言っても過言ではない。
このため、各国は自国に有利不利関わらず様々な情報を得るために
諜報活動を惜しみなく実施しているが、入手した情報の精度は発信元の
意志ではなく伝達・分析する側によって左右される事が多い。
今回の事件の発端もそういった些細なミスによって大きくなっていった。
事件の中心人物となるのは、帝圏科学技術省のランドルフ・エーリット
博士であり、博士の亡命とその背景が騒動の火種を大きくしたのである。
ランドルフ博士は科学技術省内重化学部門の重責であったが兼任として
帝圏原子力委員会化学班委員長をこの3月末まで務めていたことが、
誤解の第一要因であった。
博士は、実際には帝圏内の電力事情が慢性的な不足症状を示している為、
軍需工場への電力供給が不足すると物資生産の遅滞になり、延いては戦力の
低下に結びつくのを避ける為に既存の水力・火力発電に頼らない施策の原子
力発電を推進する中心人物であった。
「博士が委員を辞任したのは委員会内部の権力闘争によるもので原子力発
電を偽装した核分裂反応弾の製造を巡る対立と機密漏洩の処分である」と。
事実、帝圏は核分裂反応弾の開発を行っていたが博士はその計画には全く
関与せず実際に計画の中心人物はレンゼネン・エックハルト博士であった。
核分裂反応弾の開発計画は巧妙に偽装され、実体が判明したのは戦後であり、
連合の諜報活動に不備があったのではなく、帝圏の機密保持能力が高かった
のである。
或る日、帝圏内の電信を傍受を行う諜報部門にてレンゼネン博士から発信
された暗号電文を解析した内容に原子力発電の実現方法の記述があった事と
姓名のスペルがよく似ていたのでその諜報部員が送信者の名前をランドルフ
博士と報告した。
ラシュリを叩き起こした。
暗号電文内容を一別するやいなや、中隊全員を食堂に集めるように命令した。
巻き込まれる事態の予想を簡潔に述べあげた。
一つ、帝圏の科学者がローテンブルグへと抜けて亡命する。
二つ、経路は山頂へとケーブルカーで登りロープウェイでこちらに降りてくる。
三つ、連合の工作員と共に逃避行を行うがその際に帝圏の工作員が奪取を試みる
可能性が高い。
つまり、この町で帝圏と連合との工作員同士の戦闘が発生する可能性が高く、
どちらか、もしくは両方からの攻撃を受ける可能性が非常に高い、と。
「なんですか、シュワリンクさん」
今まで以上にピリピリと緊張感が隊の中に張り詰めていく中で不安の陰が顔に
浮かんだ春香をシュワリンクが呼び止めた。
「念の為にこれを持っていて下さい」
そう言って渡されたのは38口径のリボルバー拳銃だった。
「本当ならもう少し口径の小さい護身用の自動拳銃を渡したいのですが、
狙いがそれれば元もこもありませんし、運悪く弾詰まりを起こした場合では
冷静に対処できないでしょう」
「でも、私――」
「充分、それは分かっています
ですが持っていると持っていないのとでは違います。
最後の手段だと覚えて於いて下さい」
「でも」
「それと注意ですが無闇に銃を抜いて持たないことです。
工作員が相手になる場合、下手をすれば銃を持っていることで撃たれる
危険もあります」
「でしたら尚更私には」
「その引き金の重さを自分の命の重さと考えて下さい」
山頂近くのケーブルカー駅と展望山荘との間でパスッ、パスッと数発、
サイレンサーで消音された銃声が交差した。
中肉中背の男二人と女一人に挟まれるように亡命する羽目になった博
士がいた。ロープウェイ山頂駅に着くと一行を待ち受けていた男三人が
手招きし乗車を促した。
ケーブルカー麓駅からの連絡でロープウェイは運行を取り止めていたが
男達が再開させたようだ。
冷たい小雪混じりの薄雲が山頂付近には垂れ込め、春香たちの先行きを
暗示するようだった。