最終部:暮れ往く朝
プロローグ:炎熱の記憶
紅蓮の業火に包まれ、灼熱の煉獄と化した独逸ザクセン州ハノーファー。
昨日までの生活も明日の希望も呑み込むように炎熱のドラゴンが街を蹂躙していく。
「街が融けていく…」
旋風が吹き荒れる坂から宮殿方向を見ながら泣いている少女が一人、シェズ・フィー。
時に1945年。
"妖精が少年と出会ったとき、永遠の孤独を捨てて共に老いることを選びました。
ですが、時の天秤は少年に試練を与えた、妖精が少女となるには少年の命を削り続ける業を背負いました。
そして、少女の灯火が消えるとき、少年の灯火も消えるのでした"
第壱章:並んだ傘
「…このように上空5000mにオホーツク側からの−30℃寒気団が太平洋側まで南下したことにより、
昨年より10日早い初雪となりました。この寒気団が当分居座るので関東地方は小雪が続く毎日と………」
朝食を終え、玄関に春香の見送りに行ったことでTVの天気予報が誰にも聞かれずに喋り続けていた。
今年は去年以上の降雪に見舞われると長期予報がされたことで、春香は雪深いクリスマスになるであろう
ことを今から楽しみにしているようだ。
「さて、洗濯、洗濯」
玄関先の照明を消して響子が部屋に戻っていく。
その玄関には澪が手作りしたリースが飾り付けられていた。
駸々と鉛色に埋め尽くされた空から粉を漉くように降り続ける粉雪。
一刻館へと続く坂道から見渡せば、まるで箱庭のような静かな景観が広がっている。
時計坂駅前では5時を過ぎたせいか人通りが増え、新しく出来た北口に流れが移ったとはいえども改札を
通る人の数はこの時間では変化が無かった。
その改札前で紅い傘を射して澪が草薙と待ち合わせをしていた。
今日、アルバイトは無いが、高校で所用があり遅くなっていたからだ。
「待った?」「ううん…、平気よ」
草薙は持っている傘を敢えて射さずに澪の傘の中に入った。
雪のように白い肌に緋色の瞳が映える。二人が射した紅い傘が雪景色の街に映えるように。
商店街に寄って夕食の準備と花屋でクリスマスローズを一鉢買い、一刻館に向かおうと踏切で通過待ちを
しているとスヌーピーのリュックを背負った小さなピンク色の傘が並んだ。
「春香ちゃん!?」
「あっ、おにいちゃん、おねえちゃん!
どうやら響子にお使いを頼まれたらしい。
夏休みに草薙と澪と一緒に旅行して以来、春香は手伝いを率先してするようになっていた。今日も足りない
調味料を買いに来ていたという。
「明後日はクリスマスイブだけれども、春香ちゃんは、願い事はもう決まったの?」
「うん、きまってるよぉ。お姉ちゃん達もきまっているの?」
「そうだね、ちょっと小さいけれどね」
さく、さく、と積った雪を踏締めながら坂を登り続けていると、風が出てきたようだ。
寒さが増していく、少し急ごうか――と前をぴょこぴょこ歩く春香を見ながら草薙が考えていると、不意に
全身の身の毛が与奪ほどの悪寒が貫いていく。
澪も同じく容易ならない事態が訪れようとしているのを感じた。
「うん?!」
場の変化を感じ取ったのか春香が立ち止まる。
「危ない、春香ちゃん!!」
澪が飛び出し両手で春香を掴むように草薙の下に引寄せた途端、空を切るような乾ききった音がした。
数瞬の間が静寂を緊張と共に引き連れ去った後、パシッと線を引くように道路が切断された。
「闘いを捨てたにしては動きのキレに無駄がないな」(声:若本規夫)
カチン、と刀を鞘に仕舞いこむ音がした数メートル先、雪降る中から朧緞帳をくぐる様に灰色の長い髪の
男が黒尽くめの姿で現われ出でてきた。
「再びこの地を訪れてみれば貴様達が住んでいたとはな」
居合抜きの構えをし、一閃で三人を両断するつもりらしい。
クォオン!!
草薙達の背後から藍色のスポーツカーが両者に割りこむ様に分断し、カウンターを当てて灰色の髪の男を
突き飛ばす。しかし、寸での間合いで回避し宙返りで後に飛んだ。
ガバッと上に開けられたドアの向うから豪奢な栗色の髪の女性が叫ぶ。
「さっ、早く乗って!!」
草薙と澪、春香を乗せた藍色のマクラ−レンF1GTRがバックに急発進し、スピンターンでその場を逃げ切った
後には藍色の髪をした男と、灰色の長い髪の男が対峙していた。
割りこんでドアを開けた際に飛び降りて灰色の長い髪の男の動きを封じていたのだ。
灰色の髪の男は細い切れ長の冷たい眼光を放ち、藍色の髪の男は緊迫感の無い目をしていた。
灰色の髪の男が刀剣を居合抜きし踏み込む!
藍色の髪の男は紙一重で身を後ろにずらし、逆に踏み込んでいく。
「久し振りだな、彌娑笥」「真打の登場だ、シェン」
ガンッ!!、周囲を震わす震動と轟音の中、鍔迫り合いを繰返すシェンと彌娑笥。
「残念だが、私は忙しい、故にディアナの人形、ナディアの子の始末が先だ。また会おう、流浪の騎士よ」
コートを翻して彌娑笥は翳りの虚空に消えた。蹄鉄を踏むような音を残して。
「母様!」
F1GTRに急いで乗り込んだ澪の第一声は驚きであった。
中央席(マクラ−レンF1は横3人乗り)に座るドライバーを見て驚いたのである。
膝下丈のスリットの深いタイトスカートと着丈の短い革ジャケットが起伏に富んだ躍動する肉体を引立て
ている。豪奢な栗色の長髪、磁器のように透き通った肌、そして深く憂いを湛えた緋色の瞳。手足が長く、
細い首筋と同じく引き締められた腰のラインが豊かな胸と尻を強調している。
母様といっても本当の澪の母ではない。
ティア・ファー、シェズ・フィー、そしてフェイ・フォーを育んだ意味での母である。
巧みなドライビングで横滑りするように雪道を走り、一刻館に遠回りして三人を送り届けると
「またね」と言い残して坂を下っていった。
「初めて会ったのに、何だか、懐かしい感じがするよ、澪」
これから大変な事が起きるのを予感しながら草薙は春香に言い聞かせた。
「春香ちゃん、僕と澪は春香ちゃんを守るからね、だから、この事はまだ黙っていてくれないかな」
「どうして? 恐かったのに」
「あの恐い人はね、春香ちゃんが強いか試しているんだよ、サンタさんが来てもいいのかをね」
第弐章:夏の想い出;
早朝4時過ぎ。梨畑の中をそおっと歩いていく草薙、澪に春香。眠い瞼を擦りながら春香が問う。
「どこぉ?」
涼しげな眼で見回した澪が手で指し示す。「こっちね」
前日、園主の許可を貰い、蝉の羽化を見に来ているのだ。
「その木だね」
草薙が指さした先、幹の中程に焦げ茶色の蝉の蛹が背を揺らしている。
「もうすぐだよ、見ててご覧」
ゆっくりと背を割り、殻の中から這い出るように白い体の蝉が表れてきた。
同じ幹の上や下にも抜け殻が幾つも遺されている。
近くの木でも脱皮を始めていることを初老の園主が手で示す。
ゆっくりと畳まれていた羽が伸ばされ、次第に体も色付きだしていく。
「蝉はね、木の下で5年から6年かけて大きくなって、夏の暑い盛りの陽が昇る前にこうやって木に
登って羽化するんだ。
そして、空を飛んで、啼き馳らして交尾の相手を見つけて死んでしまうんだ」
「死んじゃうのぉ?」
「ええ、そうよ。7日ほどしか生きていられないのよ」
「ななにちだけ? みじかいんだ」
柔らかい羽が固まり、ピンと伸ばして飛び立とうとしているのを草薙が手で包み込むように捕まえる。
その手をそっと春香の手に重ねる。
「怖がっちゃダメだよ、春香ちゃん。
この蝉はね、今日から7日の間を精一杯生きていくんだ。
動いているよね、これが生きていくことなんだよ、もがいて必死に飛ぼうとしているよね」
「これを忘れないでね…」
乗せていた手を外し、小さな両手を春香が掲げると、蝉は一鳴きをして何処かへ飛んでいった。
別の日
渓流に架かる釣り橋の前で春香は躊躇し、今にも泣き出しそうになっていた。
「こ、こわいよぉ、こわ、い…」
先に渡り終えた草薙を見ても、袂で待っている澪を振り返っても、手を引いたり抱きかかえたりして
渡らしてはくれない。板張りの細くて貧弱な人一人の幅しかない吊り橋を春香自身で歩いて渡りなさい
と云っているのだ。
恐る恐る怯えながら一歩、また一歩とゆっくり渡りだしていく。
下を見れば怖い、でも一人で渡らなければならない。次第に涙が溢れんばかりに目を濡らしていく。
とうとう怖くて手をついて四つん這いになり膝をつき、下を向きながら進み出してしまう。
「顔を上げて、前を見て」
澪の叱責が飛ぶ。
8メートルもない長さが春香には無限の長さに感じられる。
風でほの少しばかり橋が揺らいだ。
「…!?…」
怖さが頂点に達してしまいその場にうずくまり、遂に眠ってしまった。
春香が気付いたとき、草薙におんぶされて林道を下っているところだった。
「春香ちゃんは途中までちゃんと渡ったからね」
「一人でね、良くできたわよ」
安堵感に包まれた春香は再び深い眠りに入っていった。
12月23日午後3時前
クリスマスの買い出しに家族で来ている五代達。
イブのパーティーは茶々丸で例年行っていたが、マスターの都合と草薙達と五代達だけなので今年は
一刻館で行う事にしていた。
「今年は草薙さん達だけど、御剣さんやティアさん達も来るから随分賑やかになるわね」
「随分二人には春香の面倒を見て貰っているし、御剣さんにはきちんとお礼をしないといけないな」
クリスマス/歳末セール催事場はプレゼントや歳暮の購入客でごった返して春香ははぐれないように
背伸びをしながら響子達の後をついていく。
「これなんか、どうかしら」
響子が衣料品売場でカーディガンを手に取り五代に見せる。
落ち着いた色合いが草薙と澪に似合いそうである。
「そうだね、いいんじゃないかな」
「そうね、あ、春香、これ買ったら次はクリスマスカードを買いに行きましょうね」
「はぁ〜い」
第参章:流転
独逸ハノーファー、現地時間午前8時過ぎ
「それじゃあティア、フェイ、出発しようか。
今からならイブの夕方には日本に到着できる、な。忘れ物はないかい?」
コートを着込み、揃いのベレー帽を被った二人がカラフルなリボンでくるまれた箱を手に取る。
「お、それは−」
「春香ちゃんへのプレゼント」「私のもよ」
ティアとフェイにとって10月に日本に行った際に会って以来である。
二人の顔色も良く、この分では綾小路(シェズ)の体調も良いのだろう、そう考えながらユーリが
玄関を開け、3人が表に出たとき、冷凍室に入ったような肌を刺す緊張が周囲を満たした。
「残念だがパーティーの先約は取り消して頂く」
ガジャン、と蒸気機関車が走り出す際の動輪とコンロッドが軋むような鈍い打ち付け合う音が響き、
見上げれば、彌娑笥が長刀:鉄砕牙を振り下ろしてくる。
ユーリは咄嗟に退避するが両断され、粉砕された元乗用車の残塊に跳ね飛ばされてしまう。
「闘いを忘れた人形は血で贖って貰おう」
両脇にティアとフェイを抱えて何処かへと去っていく彌娑笥。
爆発炎上するその場には春香へのプレゼントだけが残されていた。
東ヨーロッパ某国
内戦が続く中、民族浄化と称される虐殺が政府軍と民兵により次々と町を、村を、潰していた。
周囲を包囲し、動くもの全てに銃撃と砲撃と爆撃が絶え間なく行われ、ナパーム弾による消却が、今まさに
始まろうとしていた。町中心部、教会脇の広場に難民を集め、脱出を図ろうとしているシェンとミレイにティア
とフェイの声が響く。だが、二人は動けない。
「なんて事だ」
爆炎が町を呑み尽くす寸前、光と共に人々は消えた。
「これを投与して治療を続ければ、何とか持ち直すかもしれん」
分析結果から生成された試薬を受け取った御剣がヴァイパーに乗り込む。
「有り難う御座います」
この薬が何とか効いてくれれば――はやる気持ちを抑えきれずに一刻館に向かおうとエンジンをかけ、
留守録されたメッセージを再生する。
「…御剣、俺だ…二人が攫われた。そっちも、あぶ、な、い…」
「どうしたの?澪!?」
目眩に眩んだように膝を落とした澪を抱きかかえながら草薙が問い掛ける。
容態が悪化したのか? 不安が脳裏をよぎる。
「わ、私は、大丈夫、平気、何か、過去を呼び起こすような闇に包まれたの、一瞬、」
「まさか、ティアとフェイに何かが…」
その途端、携帯が鳴り響く。
「はい、草薙です。琴乃さん? はい…、えっ? 判りました、すぐ行きます」
電話を切り、事態を澪に話す。
「なんてことなんだ…」
第四章:閉じゆく空
「吹雪いてきたわね」
天気予報では夜半にかけて大雪にみまわれるらしい、と伝えてきている。窓外も結構積もってきており、
踏み締められていない新雪が次々と地上の景色を覆い隠していく。
「草薙さん達、遅いわね」
夕食の支度をしたままで出掛けたことの書き置きには帰る時間を書いていない。
電話も、鳴らない。
時計が10時を回る頃、眠そうな春香に響子が寝なさいと諭そうと声を掛けた直後、玄関が開く音がした。
「あ、帰ってきた」
「え?」
響子には玄関が開く音が聞こえなかった。
てくてくと戸を開け、玄関へ小走りする春香。
しかし、そこには誰も居ない。
「おかあさん?!」
その声を最後に春香の姿が消えた。
翌24日、朝
一旦、一刻館に戻り着替えとユーリからの連絡を待とうとして玄関を開けてみると、そこには五代と響子が
倒れこんでいた。
「五代さん!?、管理人さん!?」「響子さんっ!!」
一ノ瀬達の姿が無い。
「そっか、皆、今年は旅行で居ないって云っていたわね」
「琴乃さん、手伝って!」
二人を弐号室に運び、寝かせる草薙達。
「春香ちゃんはっ!?」
澪が春香の不在を問う。
「それは私が話しましょう」
声のした側を見やれば、ミレイが何時の間にか窓際に立っていた。
部屋の中には誰も居なかったのに――琴乃には事態がすぐには呑込めない。
「母様、一体何があったのですか」
母様、この女性が澪を人に為させた人か――神秘的な雰囲気の奥底に試練を与えられている気がする。
「御話ししては頂けないでしょうか、私、眞司君の保護者の御剣琴乃といいます」
第五章:夢の終わり
24日午後4時過ぎ
南関東地方は再び雪空となり、湿った重い雪に塗り込められようとしていた。
交通機関はマヒ状態となり早々と業務を切り上げた会社帰りの列がタクシー乗り場やバス停を幾重にも
囲んでいる。その中を雪に滑るのを意に介さず疾駆して行く御剣のヴァイパー。汚れて灰色に滲む街灯が
沈痛な気をより鬱屈させていく。
「そんな、今の眞司君や澪には何の罪もないじゃないですか」
「ディアナの人形としての贖いを求めているのでしょう」
琴乃の問いに返答するミレイだが、それが誰に対する贖いなのかが琴乃には理解できない。
「人の世が愚かである限り、天秤の針は振れます。
シェズ・フィーが人であればこそ、愚かさを己で贖わせる気なのでしょう。
春香ちゃんが人の理(みち)をどう進むかはまだ分かりません、故にこそ、まごうことなき願いこそが
二人の行く末を導くのでしょう。
そして、私では春香ちゃんの所へは行けないのです」
出発前、背中から琴乃が抱締めた眞司の背中は、大きく感じられた。
「私の胸の中で眠れるくらい小さかった眞司君がこんなに大きくなって…大きくなったわね、ほんとに……」
思い出される眞司との生活の日々。
琴乃の涙が眞司の肩を濡らしていく。
「生きて、生きて帰っていらっしゃい、最初で、最後…、…の、めい…、れい…、よ…」
:
「着いたわ」
目的地である横浜再開発地区の高層ビル。
人智を寄せつけない揺らぎがそこから溢れていた。
ライトアップされ光柱が幾十も立ち昇り、雲底を幻惑的なまでの荘厳さで照らし出していた。
どこからともなく響いてくるブルガリアンヴォイスのメサイヤ。
「ここから先は意識の世界」
「いきましょう、眞司」
混濁する意識、軽い体の感覚、浮揚する識覚。天地も水平も垂直もない無限に閉鎖された空間。
「ここは、春香ちゃんの意識(世界)が接触した世界」
「意識の世界を紡ぐ者、いざなう詔、媒介する魂の入れ物、溶け合う空間。
ディアナの人形の歌声、ナディアの子の烙印、この向こうにティアとフェイが居るわ」
浮かぶように飛ぶように漂う草薙と澪。
現実とは違う、夢の世界。
しかし、現世(うつしよ)に生きることを願う草薙と澪にとってはここで生ある限り死と同じ。
虚ろからの回帰なくしては生は続かない。
「春香ちゃんを早く偽りの現実から目覚めさせないと」
「そして、本当の夢の世界で眠るの、明日を迎えるために」
すっと二人の姿が消えた。
世界の中心を目指して。
距離も時間もどの位経過したのか判らない無限に対象物の無い世界。
春香の居る世界の中心まで効率的に辿り着く方法を考えながら、澪がその方法を示した。
「ティアとフェイが居るのなら、誘う者を現出出来る筈だわ」
「例えば、アリスの中の"ウサギ"のようにかな?」
草薙が思いついたことを口にした途端、二人の横を時計の時間を気にしながら一羽のウサギがとこと
こと走り抜けていった。
「ほら、やっぱり」「じゃあ、彼に聞こ…ん?!」
背後からヌーの集団移動のような無数の蹄が大地を踏み締める地響きが轟いてくる。
「う、やばっ」
咄嗟に宙高く飛び上がると魚群の流れのように数千数万のウサギが時計を手にして走り抜けていく。
気が付けば、二人の格好が変わってしまっている。
草薙は素顔をそのまま出すウサギの着ぐるみ姿に、澪は燕尾服を着たバニーガールになっている。
「一ノ瀬さんか四谷さんが何か吹き込んだみたいだな、これは」
歩こうとしたが足先だけの着ぐるみのために躓いてしまう草薙。
「取り敢えず、追い掛けましょう」「そうだね」
二人は心に念じる。
――ウサギを追って、と。
次に草薙と澪が辿り着いた場所では様々なモノ達が動き回っていた。
動物だけでなく、立方体や球、人形や日常の品々が抽象的に擬人化されて縦横無尽に飛び跳ね、駆け
回り忙しなく動いていた。子供の落書きにも似て、春香の絵心はまだまだのようである。
「随分と賑やかな世界だね」
「おもちゃと魔法の世界みたいだわ、子供番組の」
目覚まし時計と丼鉢がダンスをしていたり、帚がソーセージを抱えてブルースを唄っていたりして奇妙な
取り合わせで常軌を逸した様子である。
「おもちゃ箱をひっくり返したそのまんまじゃないか、これじゃあ」
「でも、夢ではないわ、ここは。夢は明日に続くものよ」
喧噪の向こう側から迫り来る気配を感じて澪がそちらに顔を向けて促す。
「ティアとフェイが来るわ」
どのくらい時間が経過しているのだろうか、この世界では時計は無意味である。
翻弄されるように奇妙な人形達との間に繰り広げられている夢の呪縛に傷ついていく草薙。
「ちょっと、きついなあ…」
かつて澪:シェズ・フィーを救い出す為に流した血よりも少ないが、他人の世界である幼い春香の心。
その夢の在り所は余りにも脆く、儚い。
「ちっちゃな女の子が夢見る世界を壊しちゃいけないからね…」
――きっと澪はもっと傷ついている、獲り込まれた姉妹と戦うのはかつての自分を傷つける事だ、と。
「余興は終わらせよう」
覆い被さるよう上空から鍾乳石のように尖塔が聳え、広場の噴水が絶え間無く水を流し続けていた。
「そうしましょう」
傍らに澪が現われるが、幽霊のように透けてしまうほどに弱々しい。
「夢の泉は眠る為にあるんじゃない、明日の為に涌き出るんだ」
草薙が持つナイフに手を添えて二人で噴水に突き立てると爆発するように水柱が立ち昇り、霧となった
時、偽りの世界は消え、ベッドの上で深く眠る春香とその両脇に佇むティアとフェイの姿があった。
第六章:歩むもの
「何故、こんなことをする?!」
『 怒り、憎しみ、恨み、憤り、怨み、憾み、賤しみ、人は基より愚かなもの…
愚かであればこそ人と為り、揺れ動く振り子のように所業はどちらにも傾くもの』
部屋全体を震わすような野太い声が響く。
『ディアナの人形は人に仕える物でも尽す物でもない…
ただ光と闇の間を司るだけだ…、踏み込んではならぬ領域に人が近付く事は許されない、
なればこそ、赦しを獲たければ自らの力で贖うべし、もの也』
不意にティアが草薙の間合いに飛びこんできて掌を草薙の胸倉に押し当てた。
渦巻く旋風のように全身が光り輝き力が解放されていく。
一瞬の沈黙の後、心が爆風を受けたようにガンガン転がされていく。
ティアの力が解放されれば人は過去から紡がれた糸を断ち切ってしまう。
弱き心も、強き心も振れる針の落ち着きを求めて流離いだしてしまう。
必死にその場に踏み止まり、狂風に立向かう巨樹のように心を奮い立たせる草薙。
逆にティアの胸元に掌を押し突けていく、その手にシェズ・フィー、澪が手を重ねる。
返し手をするようにフェイがティアの掌の横、草薙の胸元に同じように張り手をするように突く。
エメラルド色の輝きを放ち、竜巻のように力が部屋中に吹き荒れていく。
全ての呪縛を解き放ち、未来への昇華を促すようにフェイの力が奔流のように草薙の心を流そうとする。
なにものも獲ない始まりも終わりも無い解けた糸のように心が梳けてしまう。
「人は、それでもまだ、小さくても、少しずつでも、生きていく中で紡ぎ出すのよ」
シェズ(澪)と草薙の身体も瑠璃色に輝き、ラピスラズリの光の波を爆発させるように果てしなく吹き出す
泉のように全てを満たして包み込んでいく。
「…全ては終わらないし、何も始まらないわけでもないわ、私は今、ここに居るわ、眞司とね、
……共に生きてこそ、人は人なのよ、永遠なんて一瞬よりも短いわ…」
4人の魂の光が波となり、風となり、結界を破裂させるほどに溢れ出していく。
『春香ちゃん…、起きなさい……』
揺り篭の心地良い温もりのような声が春香の心に語り掛けていく。
「おかあさん…、あさなの?」
眠たげに目蓋を擦りながら周囲を見てみると、柔らかな掛け布団は消え、全てが蔭の無い世界。
春香独りしか居ない世界。
広くて、狭い世界。無限に広がる虚空であり、僅かな部屋の中の世界。
『眠っていても良いのよ……』
不安も恐怖も、苦しみも哀しみも感じない、いや春香は考えることも出来なかった。
『そう、何も、何も考える事もないのよ、目を閉じて、お眠り為さない』
母の優しい、枕もとの添い寝の語り掛ける声のように、心の奥底まで染み込む声。
疑う事も無く、臆する事も無く、全てを抱締めてくれる母の胸のように。
空腹を癒す母の乳房のように心地良く、力を抜き身体を委ねる腕の中のように。
『春香ちゃん…、起きなさい……』
母でもなく、父でもない声が、鐘を打ち鳴らすように春香が居る世界に響き渡る。
『春香ちゃん…、起きなさい……』
パッと飛び起きる春香。
「おにいちゃん、おねえちゃん」
だが、飛び起きた目の前には彌娑笥が立っている。
目を閉じれば、眠ってしまえば、耳を塞げば、逃れられるかもしれない。
『立ちなさい、眼を開けて、立つのです』
草薙と澪の声が響く。
温かな澪の身体、逞しげな草薙の背中、愉しい事、嬉しい事、悲しい事、二人と遊んだ事や過ごした
様々な日々、出来事が思い出される。
『鳥はね、春香ちゃん、巣から出ないと羽ばたけないの。
生き物はね、生きていこうとする中で、鳴いて、踊って、飛んで、泳いで、晴れの日も雨の日も、
冬も夏も、森の中や砂漠の中でも、生きていっているのよ』
渓流の岩場で素足を流れに浸けて涼んでいる澪と春香。
草薙が夕食の魚を巧みに2匹、3匹と捕まえていく。
『さあ、春香ちゃん、歩くのよ…』
「恐くない、恐くないっ!!」
意を決して立ちあがり、きっと目の前の彌娑笥を睨みつける。
「春香は、春香は、ひとりであるけるもん!!」
得心した笑みを溢してふっと彌娑笥が消え去った。
「そうだ、たとえ間違っても、取り返しがつかなくても、少しづつでいい、答えを模索しながらでも、
生きていこうとする、一人じゃない、支える人が居て、抱締められる人が居て、悔やんでも泣いても
生きているからこそ、人の世だと思うんだよ」
半死半生の身体で彌娑笥と対峙する草薙。
傍らでは澪が倒れたティアとフェイを抱かかえている。
「審判の刻まで生きてはいられぬのぞ」
時の天秤たる彌娑笥が長刀を鞘から抜いて半身で構える。
ブンッ、と結界を突き破って光の剣が飛びこんできて、逸らすことなく掴まえる草薙。
「琉茫の騎士と巫女か、まあ、よい、人がディアナの人形を手にする事はもう無い…」
踵を返し、明けゆく空に消えゆく夜空に帰っていく彌娑笥。
「よき男と巡り合ったな、ディアナの人形、いや、星見る三妖精よ」
星見る三妖精、遠い昔にシェンとミレイに育てられた時の名前、
ゼロデューア・エシェル・ティア・ファー・ナスミス(神我彌 倖乃)、
ゼロデューア・エシェル・フェイ・フォー・パラナル(神我彌 迦葡瑠)、
ゼロデューア・エシェル・シェズ・フィー・サタミム(神我彌 澪)
今はかつての日々のように幼き子を自分達が囲んでいた。
光の剣を手にした草薙の瞳に光りは点しておらず、春香を抱えた澪は口許に笑みを結んでいるだけ。
ティアとフェイは春香をあやすように語り掛けるようにしているだけだった。
「おにいちゃん、おねえちゃん」
思い出すように起きて見ると、そこはいつもの一刻館の部屋だった。
カーテンの隙間からは日が差していて、外は一面の雪景色である事が覗われる。
部屋中を見まわしてみれば響子と五代がコタツで寝入っている。
「あさぁ?!」
記憶がハッキリしない。そのまま寝入ったのだろうか、思い出せない春香。
気付けば枕元にはカラフルな包み紙に彩られた大きな箱が三箱、積まれている。
添えられたカードには、"はるかちゃんへ、しずく、しんじ、ティア、フェイから"とだけあった。
「おにいちゃん、おねえちゃんっ!!」
「眞司くん、澪っ!?」
朝になったことに気付き、ユーリを乗せて夕べのビルに急ぐ御剣。
半壊し崩落寸前のビル前のコンコースに座る人影を見つけて駆け寄る。
「眞司くん、澪っ!?」
肩を抱くように草薙が澪と並んで座り、両隣にはティアとフェイが凭れ掛かるように眠っていた。
「…眞司くん……、澪……」
雪のように白くなった4人の前で只々、涙を流す事しか出来ない御剣。何処からともなく鐘の音が鳴り響き亘っていた。
雪一面に積りきった街の上空は雲一つなく晴れ渡り、青空が広がっていた。
― 完 ―