愛宕山 (新居町寺田) ▲MENU
【左】水野又太郎良春の墓碑 【右】左右のどちらかが松木てつの墓碑か? .
水野又太郎良春の墓標
退養寺の東側,愛宕の大弘法との間の山道を登っていくと,ほどなく愛宕山の頂上に出ます。ここには尾張旭の中心部を見下ろすようにして,立派な壇の上に3基の塔が並んでいます。中央のひときわ目立つ宝篋印塔が,新居を開いた水野又太郎良春の墓碑とされています。そして左右のいずれかが,良春の子である水野惣右衛門兼春の妻,松木てつの墓碑であると伝えられています。中央の,良春の墓とされる宝篋印塔は塔身が失われていますが,他の部分は比較的良好な状態に保たれています。しかし両側の2基はかなり損傷が進んでいます。向かって右の宝篋印塔にも塔身がありません。笠石は原型がわからないくらいに欠け,かろうじて段々が識別できる程度ですが,相輪は健在です。基壇も原型を保っています。向かって左のものは五輪塔です。
塔身がないわけは?
ところで,五輪塚と愛宕山の宝篋印塔すべてが方形の塔身を欠いているのには,何か意味があるのでしょうか。愛宕山の五輪塔らしいものも,塔身に相当する方形や円形がなく,基壇の上にじかに三角形がのっています。ひょっとして最初から塔身がないのがこの地方の宝篋印塔の特徴であるとか…。あるいは何らかの理由で塔身を取り除いてしまったのかもしれませんね?ご存知のかた,教えてください!塔身は石垣の材料に?
尾張旭市に残る宝篋印塔の,塔身が失われている例が多い理由について,尾張旭市教育委員会社会教育課(現生涯学習課)の課員の方から下記のメールを頂きました。ありがとうございました!
宝篋印塔の一部がなくなっているのは,あの部分が一番転用しやすいからのようです。全国的に見てもこのような例は多く見られます。しかし,何処へいったんでしょうね。よくよく探すと,どこかの石垣に「ひょっこり」なんてことはないのでしょうか。 もう少し宗教的・民俗的な理由を予想していたのですが,意外に単純な結末でした。宝篋印塔の塔身や五輪塔の「方」が石垣なら,五輪塔の「円」は漬物石にでも使われているのでしょう(笑)。もしも古い石垣や漬物石に,四佛や梵字が見つかったら,それは宝篋印塔や五輪塔の一部分ということになりますね。(1999.05.16)
【水野又太郎良春】
志段味(名古屋市守山区)出身の武将で,奈良の吉野金峯山寺(きんぷせんじ)で修験道や棒術の修行をし,同寺の僧兵団の将を勤めました。室町時代,建武の新政後の南北朝時代には南朝方について戦いましたが,劣勢の南朝に見切りをつけ,故郷の志段味へ帰ってきました。その後,康安元(1361)年に南方の,現在の尾張旭の地に進出して田畑を開き,新たに居を構えました。これが「新居」の始まりです。没年は応安7(1374)年とされています。
なお,良春は金峯山寺時代からの法名を「無ニ」といいました。新居に伝わる,尾張旭で最も歴史が古いといわれる棒の手の流派,「無ニ流」の名は,この良春の法名にもとづいています。【松木 てつ】
吉野金峯山寺の執行(しゅぎょう),宗信法印の娘ともいわれます。水野又太郎良春の子である,水野惣右衛門兼春のもとへ嫁いできました。松木という苗字をもつのは,兼春との間にもうけた子,心道が松木姓を名乗ったからだということです。
心道は祖父良春に命じられ,吉野の大峰山(だいぷせん)で修行をすることになりましたが,志半ばで病に臥せってしまいました。そこでてつは吉野に赴き,心道の看病にあたるかたわら,自らも棒術や修験道を学んだのです。新居に帰ってからも,若くして亡くなった心道にかわって棒術をひろめました。「無ニ流」の事実上の祖であると同時に,巫女的な性格でもあったようです。後世になって「爵龍」「桜松院」の号を送られています。【退養寺と愛宕社】
水野又太郎良春が康安元(1361)年,新居に来て創建したのが安生山退養寺です。良春の弟,報恩和尚が応安7(1374)年に開山したとの説もあります。後の寛文7(1667)年には,この辺りで狩猟をした初代尾張藩主,徳川義直によって再建されました。水野家の菩提寺(ぼだいじ)であるとともに,裏山(つまり現在の愛宕山)に勧請(かんじょう)された愛宕社(あたごしゃ)は,新居村の北東,つまり鬼門を守る守護神とされました。尾張旭市内の他の寺と同じく,退養寺も臨済宗の寺です。これは江戸時代後期(1822年)に書かれた『尾張徇行記』(おわりじゅんこうき)にも,すでに記されています。地元の人々からは「東寺」とも呼ばれます(西寺は洞光院)。
※愛宕社は,京都の愛宕山の山頂にある愛宕神社が各地に広まったもので,防火の神とされています。