庚申堂 (印場元町北島) MENU

  
【左】笠石のない宝篋印塔    【右】宝篋印塔や馬頭観音が納められていた小堂

   お堂の中にひっそりと
「尾張旭の地名」(尾張旭市教育委員会 平成元年刊)や「尾張旭市誌」には,印場元町の庚申堂の裏手に,宝篋印塔があると記されています。しかし現地へ出かけてみたところ,庚申堂の裏には卵塔(禅宗の僧侶の墓標)が幾つかあるだけでした。探したところ,宝篋印塔は庚申堂の東にある小さなお堂の片隅に,馬頭観音などと一緒に遠慮がちに納められていました。

   基礎が2段重ねに
大小の基礎が二段に重ねられ,九輪の一部が乗せられています。笠石もない無残な姿で,尾張旭市内の他の宝篋印塔と同様,塔身が失われています。上の小さな基段の側面には,梵字か四佛らしきものを見て取ることができます。五輪塚の宝篋印塔が持つ2つの笠石の1つが,じつは庚申堂の宝篋印塔のものだったりしたら面白いですね。もっとも基壇の大きさを見る限り,五輪塚の塔の方がかなり大きいようなので,その可能性は低そうです。地域的にも交流(混乱?)はなさそうですし…。相輪を固定するセメントで反花が分からなくなるような,かなりおおざっぱな補修を受けているのが,残念といえば残念です。

   西暦1527年製
「尾張旭市誌本編」によれば,大きい方の基礎の格狭間には「睦講人数廿人 春郡□ 大永七年十月十三日」の銘文があるということです。大永七年(1527年)に,春日井郡印馬村の20人の農民が講(グループ)を作って建立したと言う意味です。1527年といえば戦国時代の真っ只中。民衆が村の自治組織である「惣」を作り,力をつけていった時期でもあります。

   庚申堂取り壊し
区画整理の進展にともない,庚申堂が取り壊されてしまいました。宝篋印塔は印場元町北山の退養寺に預けられています。この件については,[庚申堂の馬頭観音]の項を参照して下さい。(2000/08/11)