五輪塚 (東大道町五輪塚) ▲MENU


仮設場所での撮影です

旭中学校のグランドの南東の角,郵便局との境の,南へ向かう道の突き当たりにあります(2002年夏までの仮設場所です)。もともとは中学校の運動場の中にあったのだそうです。新居の祖,水野又太郎良春の妻の墓碑だとの伝承がありますが,基壇には「永和四年七月廿五日」(室町時代1378年)の記年銘がありますから,年代としては合致します。

小ぶりな台座にのせられたこの宝篋印塔には塔身がなく,基壇の上に笠石が2段に積まれています。もともとは別々の宝篋印塔の笠石の部分を組み合わせたものと考えられます。残念なことに一番上の相輪も失われ,今は宝珠(上がとがって,炎の形をした珠)だけが乗っています。いや,相輪の天辺だけが残ったというよりも,別の五輪塔の団形(宝珠)を流用したものと考えた方が妥当なのでしょう。しかしこの地方でよく見られる五輪塔の場合は,団形の下に半円を一体に作ることが多いので,宝珠だけが残るというのは…?(五輪塔の項および右図を参照)

さて,この宝篋印塔が「五輪塚」という地名の由来になったと考えられます。しかし「五輪塔」というは本来右の図のような塔で,宝篋印塔とは別の物です。何時の時代か,宝篋印塔と五輪塔が混同されたのでしょう。五輪塔の形をとどめている例は,愛宕山や洞光院で見られます。

  区画整理で再度移設
この宝篋印塔,2002年の夏には一時撤去されてしまいました。区画整理が進み,郵便局の西から旭中学校の南に抜ける道を造ることになったためです。なにしろ道の真ん中にあったわけですから,動かさざるを得ないことに…。そこでお寺さんを呼んで「魂を抜いて」もらい,石屋さんに預けてあったのだとか。信仰が絡むものだけに,なかなか大変です。で2003年7月に道路が完成。以前よりも大きな石組みの基台に載っての再登場です。黒い御影石に刻まれた,立派な説明板までついていました。(下は原文のまま)

    五 輪 塚 縁 起

この五輪塚(宝篋印塔)は新居村開祖水野又太郎良春
(元弘の役一三三一年吉野金峯山寺の僧将)の妻の
墓碑として伝承されております。
 五輪塚という字名はもとここに塚があり、その上に
この宝篋印塔を祀ったところからついた名であります。
 この印塔は石積みの台座の上に一基のごとく積み
上げてあるが正しくは二基分から構成されています。
基壇には永和四年(室町時代一三七八年)の記年銘が
刻まれています。
 向土地区画整理事業により平成十五年六月旧地
(旭中学校運動場南端)から移設改築し、
この場所に安置することにしました。

う〜ん,旧地ねぇ。「旭中学校運動場南端」にあったのは,おそらく平成元年7月に行われたプール移設までですね。それ以後は上記のように道の突き当たりに仮設されていたわけで…ちょっと正確さを欠く記述のように思います。でも,こうした石像物は後々まで残るわけですから,これが「真実の記録」になってゆくのでしょうか。些細なことかもしれませんが,気になって仕方がありません(^_^; (2003/08/07記)