一里塚碑 (東印場町一里山) ▲MENU
【左】瀬戸街道をむいた一里塚碑 【右】立派な石組み土台ができました
真新しい石組みの上に
旭前のバス停の近く,瀬戸街道の南側に新しくできたセルフサービスのうどん屋さんの一角に,「一里塚」と刻まれた高さ1mあまりの石碑が,りっぱな石組みの上に立っています。以前は20mほど東にあり,木陰になった地面にじかに置かれていました。自然石を使ったとおぼしいこの石碑は,かつてこのあたりに「一里塚」があったことを示しています。近世(江戸時代)になって各地に街道が交通網として整備された際,街道筋の1里(約4km)ごと盛り土をし,榎(えのき)などの木を植えて,里程のしるしにしました。この盛り土,つまり塚を「一里塚」といいます。(余談ですが,この近くには「八瀬の木=痩せ榎」という地名もあります)大森寺から一里
さて,江戸時代には,この地域に大森寺(現名古屋市守山区)の寺領がありました。平子公民館(平子町中通)の南にある「大森池」がその名残といえるでしょう。この池の名は,大森寺の寺領の耕地を灌漑するための溜池(ためいけ)の意味で名づけられたといいます。その大森寺の門前から瀬戸街道を1里進んだ所ということで,この場所に一里塚が作られていたということです(実際には3kmたらずしかありませんが…)。碑文は表と裏に
現在は整地され,塚の面影はありませんが,昭和12(1937)年にこれを記念して「一里塚」の碑が作られた…と伝えられています。碑の表側には「一里塚」と刻まれていますが,碑の裏側には「昭和十四年一月修復」と記されています。そして,その下には次のように彫られています。(原文縦書き)※慶長9年は1604年になります。(2001/02/26追記)
慶長九年二月徳川家
康江戸日本橋ヲ基点
トシ諸道ニ一里塚ヲ築
カシム此候亦其一也 旭村旧蹟保存會
発起者寺尾國助
森平三郎ちなみに地名の「一里山」の「山」は,山岳の意味ではなく,「雑木林」を指していると考えられます。ほら,「桃太郎」の冒頭に「おじいさんは山へ柴刈りに…」というフレーズがありますね,あの「山」は雑木林の意味なんだそうです。
【左】シートをかぶった哀れな姿 【右】覆いがとれましたが…
1998/10/20 1999/07/26
この「一里塚」の碑。もともと瀬戸街道を向いて立っていたのですが,1998年秋,西側の寿司屋よりの塀ぎわへ移され,東を向いてブルーシートに包まれてしまいました。空き地の南の民家を建て替える際の,工事用通路を空けるためだったと思われます。その後1999年7月になって,空き地東の家が取り壊され,立ち木も抜かれてすっかり更地になりました。肝心の「一里塚」の碑は,シートをはずされて,再び光を浴びることができましたが,古タイヤを背に,少々前のめりになった姿はちょっぴり寂しげでした…。しかし2000年夏,上記のようにセルフうどんの店ができる際,地権者の好意によって,安住の場所を確保されることとなりました。以前より大切な扱いになったのは喜ばしい限りですね。(2000/09)