つんぼ石 (城前町上大道) ▲MENU
・つんぼ石 地上部分 96cm
・道 標 地上部分 41cm
【左】瀬戸街道沿い時代の「つんぼ石」全景 【右】左右の行き先を示す道標
瀬戸街道と殿様街道との追分に立つ「つんぼ石」。自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれたこの供養塔は,様々な言い伝えに包まれています。しかし,「つんぼ石」そのものが道標なわけではありません。道ゆく人に行き先を教えたのは,黒くて大きな「つんぼ石」の傍らに立つ,小さな白い切石の道標です。
三角柱の頭を斜めに切り落としたようなこの道標,いろいろな資料や文献にさまざまな読み方が紹介されてきました。しかし,表面の汚れを落としてじっくりと見つめると,かなりはっきりとした文字が読み取れます。碑の右側には「右 セト 志奈の 道」,同じく左側には「左 定光寺 かさわら 道」。拓本をとったり,ちょっとした工夫をして写真撮影をしたりしましたが,間違いないようです。ただし崩した漢字や変体仮名が使われていますから,先の「 」の中の通り標されているわけではありません。
右へ行く瀬戸街道は,瀬戸の追分を通って品野(しなの=現在の瀬戸市品野町近辺)に至る道。この道は信州へと繋がる中馬の道,信州飯田街道の一部でした。左の殿様街道は定光寺(瀬戸市定光寺町)や笠原(かさはら=岐阜県土岐郡笠原町)へと続く道。名古屋方面からやってきた幾多の旅人や馬稼ぎ達が,この分かれ道に立ち止まって刻まれた文字を読み,行き先を確かめたことでしょう。
区画整理で移設!
八瀬の木地区の区画整理事業の進展に伴い,つんぼ石が瀬戸街道と殿様街道の分岐点から姿を消しました。殿様街道そのものが消えてしまうのに伴い,撤去されたのです。生涯学習課に移転先を問い合わせたところ,丁寧に地図をFAXしてくださいました。場所はもとの場所の北北東,約75m。区画整理で取り壊された後に新築された,民家の土地の一角です。移設されたのは2003年5月14日だったそうです。こうした移転の場合,市有地が近くにあればそこへ,そうでなければ地主さんの好意で場所を提供してもらうことになります。今も瀬戸街道沿いに残る一里塚も,後者の例ですね。道標はもとの場所の近くにあってこそ,歴史を語るといえるのですが,今回は瀬戸街道沿いの分岐点からかなり離れてしましました。やむをえないとはいえ,ちょっと残念です。(2003.06.07記)
【左】移設された「つんぼ石」 【右】道標は役割を果たせなくなりました。「つんぼ石」こぼれ話
「つんぼ石」はどこから来たのでしょうか。尾張旭でこのような石が産出したとは考えられません。じつは平成の初め頃,瀬戸街道で交通事故があり,勢いあまった事故車が「つんぼ石」にぶつかるというハプニングがありました。ひっくり返ってしまった「つんぼ石」を埋め戻す際に調べたところ,土中になっていた部分に「笠原」と刻まれていたそうです。道標の文字と合わせて,この石は岐阜県から殿様街道を運ばれて来たと考えてよいと思われます。ひと頃,「つんぼ」という語が差別にあたるというので,「だんまり石」と表記した子ども向けの本もありましたが,歴史的な名称ゆえ,もとの名に戻ったようです。