「ゴキブリ軍団大進撃!」
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第7話「ブレイブ」
 草木も眠る丑三つ時。オマチ城の裏手に広がるわんぱくの森は、ぼんやりとした月の光に照らされて、漆黒の影を地表に落としていた。風も無く静かな夜の森の奥からは、時 折夜行性の獣の声が聞こえてくる。その森の入り口に、一人たたずむ子供の姿があった。少年は、ふっくらとした頬とくりくりした目玉を真っ赤に染めて泣きべそをかきながら 、漆黒の森の奥に続く銀色の道を睨んでいた。口の端には血がにじんでいて、よく見ると頬に手形がついているから、頬が赤いのは誰かに叩かれた痕なのだという事がわかった 。少年は、肌にまとわりつくような夜の空気を振り払うように、大またでのしのしと森の中へ入っていった。
 月明かりが無ければ、漆黒の闇の中をさまようところだったろう。中天に顔を覗かせている白銀の照明に照らされた砂利道は、いつか学校の宇宙の授業で見たスライドのよう に、ぼんやりと輝く月面クレーターのような世界になっていた。ざりざりという自分の足音がやけに大きく聞こえる。彼の足音が近づくと、シャーシャーという鳴き声を上げて いた虫も静かになったし、白い道の両側に聳え立つ漆黒の壁の中から、何かががさがさと動く音が聞こえたりした。
 じょたは、最近なーことわんぱくの森で遊んでいたときのことを思い出していた。起伏にとんだ地形のわんぱくの森は、一歩砂利道から外れると谷があって小川が流れていた り、部分的にこんもりとした山になったりしていた。じょたは、なーこと一緒に小川に沿って森の奥へ入り込んで、何か面白いものはないか探して目を輝かせていた。なーこも 女の子ながら冒険ごっこが大好きで、アルファリングの内側にある手ごろな冒険フィールドのわんぱくの森は彼女のホームグラウンドであったし、「子分」のじょたを引き連れ て探検するのは大好きだった。今日はずいぶんと森の奥までやってきてしまったわ、となーこは思った。ここはアルファリングの内側なので、凶悪なモンスターはほとんど出な いが、それでもハンタータイプ(捕食タイプモンスター)が全く出ないというわけではなかったし、毒を持つ昆虫や小悪魔だって出現することはあった。ま、もっともなーこ自 身も、じょたにとっては小悪魔のようなものだったが。
 「あ、あれは何だ?」じょたが甲高い声を上げた。全く、この子は女の子みたいな声でしゃべるんだから。体もほっそりしていて頼りないし。もう少し強くなって、私のボデ ィーガードになってほしいのだけれど。「何よ。」なーこはじょたに近づいて、彼がしゃがみこんでまじまじと眺めているものを見た。そこには小さな花が群生していた。花の 大きさは直径5mmくらい。小さくて可憐な花である。白い花びらが4枚、紫色の突起を中心としてくっついている。薄緑の葉っぱは、螺旋を描くように白い茎についていて、 ひとつの茎にはひとつの花しか咲いていないようだった。その花が、小川の脇に100か200くらい群生していた。「こんな花始めてみたよ。」じょたは、瞳をくりくりと輝 かせて花に顔を近づけて見ている。なーこはこの花の名前を知っていた。小さい頃、北の大陸で見たことがあったのだ。しかし彼女の父親の話では、ヤマトではこの花は絶滅し てしまったはずであった。「これはねぇ、・・・っていうんだよ。」なーこは、花をなぜながら言った。「この花は、ヤマトではもう絶滅したはずなのよ。珍しい花なの。」「 ふーん。」「じょた、この花のことは私たちだけの秘密よ。」「どうして?」「皆に知られたら、全て摘まれてしまうかもしれないでしょう?」「うん。わかったよ。」
 じょたは、白銀の砂利道から真っ暗な木立の中へ進んでいった。あの時、なーこが言った花の名前をどうしても思い出せなかったが、なぜかあれが魔毒だみであると確信して いた。ぱきぱきと小枝を踏みしめながら木々の隙間を進んでいくと、不意に体が軽くなったような気がした。そして、強い衝撃が足元から脳天に突き抜けた。彼の三半規管は、 彼の姿勢がすでに地面に対して直立していないというアラームメッセージを脳に伝えていたが、彼の運動神経は両手両足に適切な指令を伝えることは出来なかった。「ぅ、ん! 」じょたは、声にならない声を上げると、自分の右手と右脇腹に強烈な熱感が生じている事に気付いた。じょたはゆっくりと起き上がると、くぼ地の中から這い出た。そして、 右手をゆっくりと月明かりに照らしてみた。手の平から手首にかけてざっくりと切れた傷口と、黒っぽく見える血液が流れ出ているのが見えた。彼はそれを見たとき、右脇腹も 尋常でない状況になっているだろうという事が想像されて、足がガクガクとしてしまった。しかし、幸いなことに黄色のシャツには転倒したときの泥はついていたが、血のりは ついていないようであった。彼は少しほっとすると、右手の傷を反対側の服のそでで拭くと、泥か木の破片が入った傷口を舐めた。
 じょたが、森の中をゆるゆると流れる小川に到達したのは、彼がくぼ地で転倒してからたっぷり半時ほど経過した頃であった。そしてその小川を遡ると、目的の花の咲いた場 所へ出た。そこは、森の中にぽっかりと月の光が差し込む場所で、銀色の光を受けた白い花は、地面に広がる天の川のように見えた。しかしその天の川の前に、光るネットが広 がっているのも彼は見逃さなかった。じょたは、ゆっくりと視線を地面から上のほうへ上げると、そのネットの正体に気がついて、背中に氷を押し付けられたかのような悪寒が 生じた。樹木の隙間から差し込む月光によって燐光を放ち、空中に浮かぶように広がるネット。規則正しい数学的螺旋模様と、その螺旋の外縁から中心へ向かって伸びる直線。 そして彼は見た、その空中に浮かんだ数学的幾何学模様の中心に配置された黒い物体を。「大鬼蜘蛛だ。」獲物を捕らえる糸の太さは直径1mm程度、子供の力では切断するこ との出来ないほどの強靭な糸だ。蜘蛛本体の大きさも直径10cmはある。足を伸ばせばその倍以上だろう。猛毒は無いが、骨まで噛み砕く強靭なあごを持つ。
 目的の花は、直径1mmの白い燐光を発するネットの裏側に広がっていた。じょたは、糸と糸の隙間からそおっと手を伸ばした。糸の間隔は中心から外縁へ向かうに従って広 がっていた。だからじょたは、ネット最外縁の糸の隙間から手を伸ばして花を掴み取ろうとしていた。糸の間隔は約10cm。子供の手の大きさなら、なんとか潜り抜けること ができる広さだ。しかし、糸に少しでも触れたら、ほんの少しでも震動を与えたら、あの黒い塊は稲妻のような速度で獲物に襲い掛かるだろう。燐光を放つ糸をよく見ると、小 さな丸い粒がついているのが見えた。これが獲物を捕らえる粘着成分なのだろう。じょたは、努めて上を見ないようにして白い花に手を伸ばした。よし、あと15cmくらいで 手が届く。じょたは、血に濡れた右腕を腕まくりして、光る糸に服がつかないようにすると、最後の数センチ分腕を伸ばそうとした。そのとき、腕を伸ばす先に白い花以外の星 のきらめきを見たとき、彼は自分の運の悪さを呪った。そして、その体勢のまま凍りついた。
 じょたは、自分の視線の先にあるものを見たとき、これが最近良く見る悪夢であったらいいのにと思った。このまま意識を失ってばったりと倒れたら、暖かい自分の寝床の中 にいて、右手も怪我をしていなくて、いつもどおり学校へ行けば見慣れた友人の顔があって、なーこもいて。なーこ。じょたは、アルファリングの中でこうもりに噛まれて重症 を負った、なーこの事を思い出してはっと我に返った。そうだ、なーこを助けなくちゃ。でも、でも。じょたは、凍りついた腕の先にいる薄茶色の生き物を見て、泣きたい気持 ちになった。彼の指の先から1mほど離れた場所にいたのは、ハンタータイプの節足動物、モサラカ蜘蛛であった。体長は30cm程度で、まだ子蜘蛛であると推測される。成 長すると1〜2mほどの大きさになるのだ。彼らは巣を作らず、森の中を獲物を探して歩きまわっている。そして、運悪く出会った小動物をその鋭い牙でしとめる。彼らの移動 速度は、成長するほど遅くなるため、武装した人間ならばそれほどてこずる事もないはずである。毒も持たないので脅威になることは無いのだ。しかし子蜘蛛の時は、体重が軽 いせいか動きがすばやい。少なくとも、子供が全力疾走する速度よりは早いだろう。じょた君絶体絶命のピンチである。しかし、彼がこの薄茶色の生き物を出し抜く方法が一つ あった。
 じょたは昆虫が好きだった。だから、お菓子のおまけについてくる昆虫カードを集めていたし、昆虫図鑑をよく読んでいた。その図鑑の片隅には、彼の大嫌いな節足動物、蜘 蛛についても記述されていた。もちろん、モサラカ蜘蛛についても載っていた。それによると、彼らの目は動く物体は正確に捉えるけれど、静止した物体は良く見えないのだっ た。従って、じょたの方から動かなければ、敵に捕捉される心配は無い。そして、彼らは夜行性なのだ。だから、獲物を探しにどこかへ行ってしまうのを待てばよいのだった。 武器を持たないじょたが取れる最善の策はこれだけだった。
 睨み合いが続いていた。首筋から汗が流れて背中を伝っていく。どれだけの時間が過ぎただろうか?半時?それとも、まだ殆ど時間が経過していないのかな?じょたは、辛抱 強くモサラカ蜘蛛が移動するのを待った。そよ、風が吹いた。地面の枯葉がさわさわと動いた。そのとき、薄茶色の生物は枯葉の移動に合わせてふらりと動き出した。最悪の方 向へと。なんとそのモサラカは、じょたの方に向かってやってくるのだった。じょたは気がついた。匂いだ。この蜘蛛、僕の血の匂いに惹かれて近づいてきているんだ。彼は自 分が賭けに負けた事を悟った。そして、すぐに次の策を立てなければ、自分の命が危ういという事も悟っていた。
 蜘蛛との距離は、すでに50cm程度になっていた。ここで彼がすばやく手を引っ込めても、それより早く跳び上がった蜘蛛の餌食となるだろう。または燐光を発する糸に触 れて、稲妻のような一撃を食らうのだ。稲妻?そうか、いちかばちかだ。蜘蛛同士で戦ってもらうのだ。モサラカ蜘蛛は毒をもっていないので、最初の一噛みで命を落とすこと は無い。正確な一撃を食らわせるために、わざと噛まれたという人の話も聞いたことがある。モサラカ蜘蛛は、獲物を捕らえた直後に一瞬隙ができるのだ。これはタイミングと 度胸の問題だった。だんだんと近づいてくる薄茶色。じょたは顔面蒼白になり、自分の腕に蜘蛛が食らいつくのを待った。あと10cm、5cm、3cm・・・。来た。モサラ カ蜘蛛は、血の滴るじょたの腕を確認すると、前足2本を振り上げて鋭い牙を彼の腕に食い込ませた。
 ずきん!という激痛。そしてじりじりと痺れる感覚。くそ!毒は無いんだろぉ!しかし、ここで慌ててはいけない。すばやく、正確に燐光を放つ糸の隙間から腕を引き抜いて 、モサラカだけを糸にくっつけなければならない。ずき、ずき、ずき、連続して襲い掛かる激痛。じょたは、涙目になりながらも正確に腕を途中まで引き抜いた。そして、光る 糸にモサラカ蜘蛛をくっつけた。その瞬間、腕の激痛が10倍にもなった気がして、彼はとうとう悲鳴を上げた。「あーっ!!」それは、モサラカが大鬼蜘蛛に食らいつかれた 瞬間の痛みであった。モサラカは、大鬼蜘蛛の奇襲に驚いて攻撃の矛先を新たな敵に向けたが、地力に勝る大鬼蜘蛛に難なくそれを跳ね除けられると、ぐちゃぐちゃと喰われて いった。
 じょたは、モサラカが大鬼蜘蛛に食われる様を目の前に見ながら、再度勇気を奮い起こして光る糸の間から腕を突っ込むと、痺れる腕で取れるだけの花をつかんで引き抜いた 。指先の感覚が麻痺していたが、それでも彼の手の中には数十本の花が握られていた。
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