「ゴキブリ軍団大進撃!」
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第8話「ホーリーライト」
 漆黒の空の端が藍色に変わる頃、じょたはわんぱくの森を抜けて人通りのない街中の道に戻ってきた。怪我をした右手にはしおれた花が握られていて、彼の右手はすでに自分 の意思で思うように動かなくなっていたのだが、泥だらけの黄色いシャツは右わき腹のあたりが少し裂けていて、じんわりと血がにじんでいた。彼は左手でわき腹を押さえると 、石の壁に肩をもたれかけながら、じりじりと歩いていた。
 オレンジ色の朝焼けが道路を照らし出した。日の出だ。早くこの花を置いて家に帰らないと、また往復びんたで怒られちゃう。じょたは、思い通りに動かない体に鞭打って、 なーこの家に向かった。昨日あれだけあわただしかったなーこの家も、今は朝もやの中で静まり返っていた。じょたは、ラッコの形をした郵便受けの口に持ってきた花をくわえ させると、ぼんやりとした明かりが漏れるなーこの家をそっと覗いてみた。その光景を見た瞬間、じょたはとてつもない衝撃を受けた。部屋の中には白い顔をしたなーこが横た わるベッド、ベッドの周囲には色とりどりの花が飾られていた。そしてすごいボリュームのなーこの母親がそばに付き添っていた。彼女はうつむいて嗚咽しているようだった。 じょたは、自分の努力が報われなかったことを知った。間に合わなかったんだ。彼の瞳からは、熱い泉が出現したかのようにとめどなく涙が流れた。
 その日の朝、右手を包帯でぐるぐる巻きにしたじょたは、通学時に学校に隣接して立っている礼拝堂へ立ち寄った。礼拝堂の中央には、色とりどりのステンドグラスがあって 宗教的なシーンが表現されていた。そして、朝日がステンドグラスの後ろ側から射し込み、礼拝堂の床をスポットライトで照らし出したかのように演出していた。じょたは、そ のスポットライトの中心にひざまづくと、怪我した右手をものともせずに両手を重ねると祈りをささげた。彼は、この礼拝堂にやってくるべき人間ではなかった。別の宗教の信 者だからだ。しかし今日だけは、なーこのために、なーこの魂が祝福されるように、祈りをささげることにしたのだった。
 しばらく沈黙の時間が流れていった。じょたが、ゆっくりと目を開けて立ち上がり、ステンドグラスの中で微笑んでいる女神の顔を見たとき、それは起きた。いつの間にか彼 の背後に誰かが立っている気がした。ふうわりと柔らかな匂いが漂ってきた。バニラクリームのような、花の香りのような、眠たくなってしまうような匂い。これは、なーこ? 彼がそう思ったとき、彼の体は柔らかなぬくもりに包まれていた。両のかいなで、やんわりと体を抱きしめられる感覚。背中に伝わる柔らかな感触、左肩には彼女のあごが載せ られる感覚もあるし、さらさらとした髪の毛が触れ合う感覚もある。そして、彼の頬にすべすべとした彼女の頬が、唇が触れた。じょたは、いつの間にか涙が頬を伝っているの に気がついた。ずっとこうしていたいと思った。ステンドグラスのスポットライトに照らされたじょたは、昨日の強行軍のせいで頭がくらくらとしていて、このまま気を失った ら、彼女はどこかへ行ってしまうような気がした。「どうせなら、僕も連れて行くといいよ。頼りにならないかも知れないけど。」そう言うと、じょたは自分を抱きしめている 腕をつかんだ。彼女は、じょたの耳元でクスっと笑うとささやいた。「ありがとう。」じょたは、気がつくと礼拝堂の長いすに倒れて眠っていた。生活指導のニワトリ先生がや ってくるまで、ずっと眠っていたらしかった。周囲になーこの姿は無かった。彼の目の前には、わんぱくの森で手に入れた白い花が一輪添えられていた。
 「まったく、貴様というヤツはなんということをしでかしてくれたのだ!」シルクハットの校長先生が、自慢のひげをなでながらじょたを見下ろしていた。じょたは、校長先 生の話など上の空であった。今朝礼拝堂で起きた出来事で頭がいっぱいだったのだ。「こんな事件は我が校始まって以来の・・・」じょたの目は校長先生を見ていたけれど、頭 の中のスクリーンには全く別の映像が映っていた。球技大会のドッジボールで、彼女に剛速球を顔面にぶつけられたときのこと。夏のうだるような暑さの中、学校のプールで溺 死寸前まで水の中に頭を沈められたときのこと、彼女のおかげで泳げるようになったんだっけ。校長先生の話はまだ続いていた。「本来ならば、ファーベルの鷹の爪騎士団に叩 き込んで、性根を叩きなおしてやるところであるが・・・」そうだ、じょたは思った。この人が僕たちをアルファリングにたきつけたんじゃないか。じょたは、アルファリング に入り込むときの様子を克明に思い出すと、怒りがどんどんと湧き上がってくるのを感じた。恐らく、憎たらしい表情をしていたに違いない。「反省しておるのかね!」校長先 生は、そう言うと手にしたステッキで、じょたの頭をしたたか叩いた。じょたは衝撃で吹き飛ばされ、教室の床に叩きつけられた。「じょたは元気が無いんだよ。元気が無さ過 ぎるよ。」突然なーこの言葉が脳裏をかすめた。そうだね。僕は、元気が無かったかもしれないね。見ててよ、なーこ。今に、元気いっぱい暴れまくるから。そう思ったじょた の瞳はらんらんと輝いていた。
 その日、学校を早退させられたじょたは、まっすぐどんじゅうろうの家へ向かった。なーこの家の方へは向かいたくなかったから。相変わらず小汚い玄関で扉をノックすると 、どんじゅうろうが顔を出した。彼も学校を休んでいたものらしい。じょたは、真剣な表情でどんじゅうろうを見ると、「どんじゅうろう、君に頼みがあるんだ。」と言った。 どんじゅうろうは、相変わらずお菓子の紙袋をごそごそさせながらじょたの話を聞いていたが、そのうちごくりと生唾を飲み込んだ。心なしか手も震えている。「いつ、やるの かな?」声も裏返っている。「今日さ、今日やるんだよ。」じょたは、鋭い視線をどんじゅうろうに向けた。その瞳からは、彼のどうあってもあきらめない、という強い意思が 感じられた。
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