「Funny World じょたの冒険」
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第6話「The gear of the destiny.」(下)
 振り子のように傾いてカーブを曲がる列車は、轟音を立てながら山の中の小さな踏切を通過していった。踏み切りのそばには、農作業に向かう馬車と農夫、そしてその子供か 孫らしき男の子がひとり、銀色の流星のように通過していく列車を見送っていた。
 マルクは、山の中にぽっかりと現れた耕地を見ると、そこに住む人たちの生活に思いを馳せてわくわくしていた。彼は、これから遭遇する事態に不安を感じていたが、それで もあのままノインツェンに帰るよりは、後悔しないですむはずであると思っていた。彼は、あの日アイゼナッハ嬢と別れた後、自分でもこれからどうしたらよいのか迷い、夜の 町をふらふらと歩いていた。彼女の周囲に現れた雲は、拒絶の言葉を聞いた瞬間に見えなくなってしまったが、だからと言って不吉の原因が取り払われたとはとても思えなかっ たし、彼女がこれから成さんとしていることが尋常なことでないことくらいは、彼にも容易に想像できたのだ。彼女の周囲に現れた雲を取り除いてあげたい。そして、その方法 が一つだけあるとすれば…
 カレルシュテインは、大異変の際にカール帝国の侵攻を最初に受け、最も被害の大きかった都市である。何重もの水路に囲まれたその都市の中心に、不思議な建造物群があっ た。穴を開けた袋からクリームをお皿の上に垂らして、すいっと持ち上げるとこんな形になるだろうというような、不思議な形の建造物群である。群といったのは、そのような 形の建物が無数に建っているからで、その中心には天にも届かんばかりの細長い建物があって、それはまるで迫り来る竜巻のように見えた。これらはマイヤーの高度な魔道理論 によって作られた装置なのだが、巷では雷を呼び寄せるくらいしか使い道がないと言われていた。実際この地方では雷雨がよく発生し、この建造物群に落雷することは珍しくな い。そして、とんがり頭の建造物に直撃した雷は、その建造物の内部のカタツムリのような構造を通過して、地下へとエネルギーを送り込んでいるようなのであった。
 アイゼナッハは、彼女の祖父が面倒を見ていた軍人のハインツ氏から詳しい話を聞くために、カレルシュテインまでやってきていた。ハインツ氏は、ヴァルファラに住んでい るのだが、別荘をカレルシュテインに所有していて、現在はその別荘に滞在しているようなのであった。彼女は、所々にソフトクリームのお化けのような建造物の立っている、 迷路のような町を一日かけて歩いた。しかし、どうしても水路を隔てた向こう側にある、目的の屋敷にたどり着くことができないでいた。勿論、これは尋常ならざるものの仕業 なのであるが、彼女は全くそのことには気付かなかったし、そんな考えさえ思い浮かばなかった。「ふぅ、おかしいわね。向こうに見える橋を渡って、隣の島に移ればいいだけ なのに。どうしてもあの橋に近づくことができないわ。」彼女は、手にした町の地図と周囲の風景を照らし合わせて現在位置を確認すると、もと来た道を少し戻り、さっきは無 視した小路に入り込んでいった。
 おかしい。マルクは、もう何回目か忘れてしまったが、交差点の四つ角の家の屋根にくくりつけられた風見鶏を見上げて腕組みをしていた。水路によって小さなブロックに分 けられている町の構造のせいなのか、灰色と黄土色の石を組み合わせて造られた3〜4階建ての同じような建物が多いせいなのか、それともあの奇妙なソフトクリームのような 建造物のせいなのか良く分からなかったが、とにかくカレルシュテインという町が道に迷いやすい土地であるという事だけは確かなようだった。彼が向かっているのは、その迷 い町の山吹色ブロックにあるミスティックの家であった。ローテンブルクやシュバイゲンにもミスティックはいるが、なるべくアイゼナッハ嬢の近くにいたかったし、クリスタ ルシティ前後で大陸横断鉄道が不通になっている区間があり、移動が面倒だったからという事もあった。彼は、漠然とではあるが、あの雲は高度なミスティックの魔道によって なら、払うことができるかもしれないと考えていた。また、払うことをお願いできないとしても、何か解除のヒントになるアイディアを教えてくれるかもしれないと思っていた 。彼が、背の高い建物によって視界を遮られた階段の下に、目指すミスティック、ステラ先生の家を発見したのは、空が橙色から藍色に変わり、空に黒いカーテンがかけられた 頃だった。
 マルクが重たい鉄のドアを開けると、室内から聞こえていた話し声は静まり、暖炉の木が燃えるパチパチという音だけになった。ごめんください。彼は、もう一度室内に声を かけた。どこかで、かさこそというネズミの動き回るような音がしたが、依然として室内からはパチパチという暖炉の音だけが聞こえてくる。留守かなぁ。でも、暖炉の火がつ いているのはおかしいなぁ。彼は、ゆっくりと室内を見回してみた。入り口正面には赤々と燃える暖炉がある。向かって左側には、階段により天井が低くなっているので、その 形状に合わせた背の低い戸棚と安楽椅子があって、戸棚の中には緑や琥珀色をした液体の入ったビンが幾つも並べられていた。向かって右側には窓があって、窓際には小さな人 形が並べられていた。どうも、有名なミスティックの住む家にしては、ちょっとみすぼらしいような気もした。うーん、もう一回駅のインフォメーションで調べてきたほうがい いかもしれない。検索ワードを間違えたのかも。彼が扉をばたんと閉めたとたん、部屋の中からまたがやがやという話し声が聞こえてきた。彼は、ぎょっとして再度扉を開けて みた。すると、やはり部屋の中は静まり返り、暖炉の燃えるパチパチという音だけがしていた。マルクは背筋がぞくりと寒くなったが、ミスティックというのはこういうものな のだ、と思うことにして、足早にその家を後にした。回れ右をして遠ざかる彼の背後では、やはり大勢の人間の声がしていたが、彼はもう何も気にしないことにした。
 マルクが、カレルシュテイン駅のインフォメーションパネルをいじくっていると、背後から声をかけられた。「あー、あんだぁ、今さっきおらの家さ来ながっただか。」その 声にマルクが振り向くと、浅黒い顔色に白ヒゲを生やした熊のような大男が立っていた。その男は恐らく50代くらいで、もこもこした毛皮のコートを着て、ぼんぼんのついた 毛糸の帽子を被り、ぼんぼんといっしょに妖精のようなマスコットがぶら下がっているのがミスマッチだが、ごつごつした樫の杖?らしきものを手にしていた。杖を持っていな ければ、ミスティックというよりは猟師か冒険者会館の用心棒といった風貌だなとマルクは思った。それに彼が持っている物体は、杖と言うよりはもうほとんどヘビークラブで あり、持つところが丸く曲がっているから杖に見えるのだが、ひょっとしたら鉄の鋲が打ち込まれている可能性もあるとマルクは思った。こんにちは。マルクは白ヒゲのミステ ィックに挨拶した。ステラさんっていうから女性だと思ってたのに。それに、年齢も2周りくらいさばを読んでいるのでは。マルクが疑心暗鬼の目でステラさんを見ていると、 彼は言った。「ま、こんな所で立ち話もなんだぁな。そこのカヘーで話さすんべぇ。」うーん、イメージが合わない。やっぱり人違いのような気がするんだけど。でも、本当に あの家の住人であるような気はするな。
 マルクとステラは、カレルシュテイン駅前の宵闇通りに面した一軒の小さなお店に入った。薄暗い店内には、観葉植物によって仕切られた席がいくつも並んでいて、ライトア ップされた通りが正面に見えるように席が配置されていた。そして夕飯時のせいか、店内にはうまそうな食べ物の匂いが漂っていた。彼らは、店の一番奥の席に向かい合わせで 座った。そこは、螺旋を描いた黄色い植物がテーブルの周りを取り囲んでいて、植物の中にお店があるように錯覚する場所であった。ステラが適当に何品か注文するのを眺めな がらマルクは、この人には悪いのだけれど、この風貌イメージにばっちりマッチするのは、やっぱりごろつきの集まる酒場だなぁと思っていた。そして、アイゼナッハ嬢の雲に ついては自分でなんとかして、というかこの人にどうにかできるものでもないと思うし、この人の好意はありがたいのだけれど、早く宿を探さなければならないし、悪いけどあ んまり係わり合いになりたくないなぁとも思っていた。
 「さて、ぼんず。まんず、おめさに、ひとつゆーておきてぇごどがある。」ステラは、一通り注文を終えると、そのぎょろ目でマルクを睨み、テーブルに身を乗り出して彼に 話しかけた。マルクは、ごくりと生唾を飲み込んだ。なんだろう?ひょっとして、と彼は思った。ヴァルファラで見た妖精マークの建物と何か関係があるのかな?黒服の男達が ぞろぞろと出てきたあの建物だ。ステラさんの帽子についたマスコットの飾り物、なんとなく妖精マークに見えないこともないものな。マルクの頭の中に、ヴァルファラの早朝 のイメージが浮かび上がってきて、その黒服がこちらを向いたとき、ステラは言った。「このおどこぁ、ステラじゃねぇど。」ん?「このおどこぁ、ステラじゃねぇ。わがんね んなら、雷おどす!」マルクも、うすうすそうではないかと思っていたところだが、やはりこの男はステラの使い魔か何かだ。今度は、帽子にぶら下がっていたマスコットがし ゃべりだした。「分からないなら、雷落とす!」分かった、分かりました!マルクは、慌てて返事をした。このマスコットみたいなのがステラさんなのかな?「よろしい。」マ スコットの甲高い声。熊のようながたいの男は、突然ぼうっとした表情になってしまった。コントロールから外れたものらしい。「見て。」マスコットは窓の外を指差すと言っ た。マルクはマスコットに言われるまま窓の外を見た。ガス灯によってライトアップされた通りには、流線形をした乗り物が途切れも無く行き来していて、光の川みたいに見え て綺麗だった。彼は、クリスタルシティでアイゼナッハ嬢と見た夜景を思い出していた。そのクリスタルシティも今では瓦礫の山になっているのだ。「あの、通りの向こう。」 甲高い声が指示する。マルクは、光の流れの向こう、駅の方向を、目を凝らして見た。すると、足早に歩く人たちの中に、ぽつりとこちらに背を向けて立っている女性が見えた 。街路樹の陰になっていてよく見えないが、金髪が腰まで伸びていることだけは分かった。「あれが、わたし。正体は明かせないの。」なるほど、用心深い人だとマルクは思っ た。
 ステラ、いや熊のような大男とマルクの前に、何品かの料理が運ばれてきた。「さて、あなたのことを少し教えてちょうだい。」僕は、マルク・マンハイムと言います。ノイ ンツェンの寄宿学校に通っているんですが、銀色の三日月が見える頭痛が起きるので、シュティル・シュバイゲンのスタイン先生の所に行って治療を受けたんです。ステラさん のお名前は、スタイン先生から伺ったんです。カレルシュタインで一番有名なミスティックだということで。「スタイン!?あの樽男、まだ生きていたの?さては、私の隠れ家 もあいつに聞いたのね。」えぇ、バイエルさんがご存知でした。「バイエル!?あのひょろひょろ、なよなよした、つかみ所の無い、およそ人間離れしたアレ!?」どうやら、 ステラさんは、スタインさんの研究室について詳しいらしかった。アイゼナッハさんもご存知ですか?マルクは、嬉しくなってつい余計なことを言ってしまった。「あの女は、 嫌い。来てるんでしょ。知ってるわ。町の中を一日中うろうろしてたみたいだけど、いい気味。」クククという笑い声がマスコットから漏れた。観葉植物に遮られていて、周り の席から見えないからいいけれど、人形と話をする少年というのも、凄く不気味なんじゃぁないだろうかとマルクは思った。少なくとも、僕はこのマスコット不気味だなぁ。
 「話は大体分かったわ。」マルクが、シュバイゲンやクリスタルシティで見た不思議な雲について一通り説明すると、ステラのマスコットは言った。「で、私がそれに協力す るとでも思う?」そのとおりだとマルクは思った。どうも、ステラさんとアイゼナッハさんは、仲が良くないらしいのだ。一瞬、マルクはマスコットがニヤリと笑っているよう にさえ見えた。ふと窓の外を見ると、いつの間にか髪の長い女性はいなくなっていた。彼女は、直接面倒なことをお願いされるのを避けるために、使い魔を使役しているのだろ う。実に利口で、用心深く、そしてミスティックらしい人だ。スタイン先生のように、公の学園で生徒たちに講義をして、学会に論文を発表するという、いわゆる先生型のミス ティックよりも、彼女のように世俗から離れて、自分の追及したい研究に一生をささげるミスティックの方が多いのだ。「でもね、せっかく来てくれたから、一つだけ教えてあ げる。あの娘、ちょっとヤバイ事に首を突っ込んでるわ。やめときゃいいのに。ハインツとかいう軍人に詰め寄るつもりだね。あの男、隣国のカール帝国と繋がっててね、色々 悪いことしてるみたいなのよ。まぁ、私にとっては、マイヤーでもカールでも同じなんだけど。あの娘、今、ちょうどその男の家に忍び込もうとしている。あの屋敷には、侵入 者を防ぐ仕掛けがたくさんあるから、よっぽどの盗賊でないと忍び込むのは無理なのに。よしんば忍び込んだとしても、生きて出てはこれないでしょうねぇ。」その屋敷ってど こにあるんですか?マルクは、熊男にしがみついて、ゆらゆら揺れているマスコットをもぎ取ろうとした。その瞬間、彼は全身を駆け抜ける激痛を感じて吹き飛ばされた。体が 痺れて動かない。「あたしに触るんじゃないよ。」そういえば、ノインツェンの学校で習った事があった。使い魔にダメージを与えると、本体にもダメージが届くという事を。 「ま、出血大サービスで教えてあげる。今、あなたの頭の中に、あの娘がどうなっているのかを直接送り込んであげるわ。道順も教えてあげる。もう、迷い妖精もいなくなって るから、簡単にたどり着けるはずよ。」マルクの目の前にスクリーンが広がってアイゼナッハ嬢が現れた。彼は、どきりとして思わずそのスクリーンの中に飛び込んでいきたく なった。彼女は、大きな屋敷の裏口から、鍵のかかっていない裏口から敷地の中に入り込もうとしているようだった。マルクの目は、なぜかナイトビジョンが利くようになって おり、暗闇の中に仕掛けられた数々の罠が手に取るように見えた。彼女は、偶然にもそれらの罠を避けつつ、屋敷に向かっているようだった。
 急がなきゃ!マルクは、彼女の周囲に以前よりもはっきりと雲が出現しているのを見た。彼は、お店を飛び出すと、頭の中に現れた地図をたよりにカレルシュテインの町を走 った。後には、寝ぼけた顔の熊のような男が取り残されていて、彼は自分がなぜこんな店にいるのか全く分からなかったし、今までマルクと話をしていたことも、自分の頭にマ スコットが乗っかっていたことも、全く覚えていないようなのであった。
 ざわざわという風音に混じって、魚が跳ねるような音が聞こえた。ぼんやりとした人工照明に照らし出された深夜の庭園には、ところどころに石の塊のようなもの、オブジェ のようなのだが、が飛び出ていた。また、こんもりと丸くカットされた植物が連続的に茂っていて、それらが重なり合ったり、間隔をあけて配置されたりして迷路を形作ってい た。背の高い樹木には、よく見ると紐がぶら下がっていて、草丈の長い芝生の間の罠につながっていた。また、魔道の品と思われる光を発する柱が、数メートルおきに設置され ていて、その光が作り出す真っ黒い陰の中にも、何かが隠されていそうな雰囲気であった。罠だらけの庭園の先には、ツタが生い茂った建物がのっそりと聳え立ち、壁に開いた 丸やひし形の穴からオレンジの光が漏れていて、地面にゆらゆらと揺れる影を落としていた。その暗闇の中で、時々倒れたり転がったりしながら進んでいく物体があった。地面 に飛び出た石につまずいて転び、運良く目の前の罠を跳び越したり、傾斜した地面を勢い良く転がったため、飛んできた数本の矢を避けたりして、どじでラッキーな泥棒役を演 じているのは、シュバイゲンの魔道学園のヒロイン、カレン・アイゼナッハ嬢であった。
 「いたたたたた…」カレンは、すりむいた腕を魔道の光に照らしてみると、ポケットから救急キットのテープを取り出して傷口に貼り付けた。「予想していたのと大分違うわ ね。仕掛けは無いみたいね。ここまで、罠は無かったみたいだし。」彼女は、この屋敷が相当古いものであることを知っていたから、屋外にも大昔の盗賊よけの罠がたくさん仕 掛けられているだろうと思っていた。それに、軍の要人が住む家であるから、見張りも相当数いるはずだと思っていたのだ。「うそみたいに静かで、何も無いのよねぇ。」彼女 は屋敷に到達すると、入り口の扉をそっと開けてみた。立て付けの悪くなった扉は、ぎぎぎという嫌な音を立てて開いた。
 どこをどう走ってきたのか良く覚えていない。マルクは、カレンが通ったおかげで罠が作動してしまった庭園を横切ると、半開きになったドアから室内の様子をうかがった。 ナイトビジョンが使える彼の目は、暗闇の中に設置された警報装置の数々を発見したが、その殆どが壊れて使い物にならなくなっていた。これら全てが、彼女が通過したことに よって壊れたとは考えにくい。誰かが彼女を誘導している。
 全体的に薄茶色で統一された部屋の中に、ふっくらとした赤と黄色の縞々模様の風船のような服を着た男がいた。彼は、机に向かって何か書き物をしていて、時折羽根ペンの 先にインクをつけると、ちょっと考え込んではまたかりかりとペンを滑らせていた。彼が身に付けている、風船のように膨らんだ服の中にはガスが入っていて、ベッドに横にな ると体が少し浮かび上がるようになっていた。使用者の呼吸に合わせて浮遊するこの服は、最近巷で流行している夢見のアイテムで、これをつけて眠ればよい夢が見られると評 判なのであった。風船のような服を着た男、ハインツ氏は、最近おかしな夢を見るようになっていた。風船の服を購入した理由もそこにあった。夢の内容は良く覚えていないが 、背の高い男に何かを説得されているような夢だった気がする。しかし、相手が誰なのか、何の話をしていたのかは覚えていなかった。いつも目が覚めるとぐったりと疲れてい て、寝汗もかいていた。そして、肩や後頭部あたりが、ぐったりと重い感じがするのであった。その時、彼は部屋の隅で何かが動いたような気がして、ふと顔を上げた。彼の見 上げた方向には、濃い茶色のカーテンが窓の上から垂れ下がっていた。窓はぴったりと閉まっており、隙間風でカーテンが動いたとも考えられない。ぱたり。書棚に立てかけて あった一冊の本が、バランスを失って倒れた。木製の書棚には、厚さ5センチはある重厚な本がずらりと並んでいた。倒れたのはそんな分厚い本であった。疲れているのだと思 った。彼は、羽根ペンを置くと眉間を指でぐいぐいとマッサージした。今日はもうこのくらいにしておこう。彼が、廊下に何者かの足音が近づいてきているのを感じたのは、そ のときであった。
 全体的に薄茶色で統一された部屋の隅で、書棚を背にして立っている男がいた。背が高く、痩せ型、髪はぼさぼさで、肌の色は灰色、いやうっすらと背景が透けて見えていた 。この男、ゴーストのようであった。幽霊の彼は、落ち窪んだ目で、カラフルな風船のような服を着て羽根ペンを滑らせている男を睨んでいた。この幽霊男、生前はダニッジと いう名だったのだが、彼はハインツに対して特別な感情を抱いているわけではなかった。ただ、彼はある男との契約に束縛されていた。この男を説得しなければならなかった。 この男をある人物に引き合わせるために、彼の行動をコントロールしなければならなかったのだ。しかし、この男は手ごわかった。再三にわたる兆しを与えたにも関わらず、全 く気がついていないようなのだ。ダニッジは、物質に働きかける力をほとんど持っていなかった。アストラルボディの悲しきか。物質にもっと影響を与えるためには、人間の力 を利用しなければならなかった。生きた人間のメンタルポイントを利用することによって、彼はもっと大きな力を物質に加えることができるのだ。ハインツの少ないメンタルポ イントでは、カーテンを動かしたり本を倒すのが精一杯だった。しかし、彼には分かっていた。もうすぐ来る。もうすぐ自分に力を与えてくれる人物がやってくる。そうしたら 、まず主張すべきは主張する。聞き分けが悪ければ…、強硬手段もやむをえないだろう。そんなゴーストの目の前で、ハインツは羽根ペンを机の上に放り投げると、右手で眉間 のあたりをごりごりと押していた。
 カレンには、なぜか確信に近いものがあった。この部屋にハインツさんがいる。ここにくるまで、誰にも出会わなかったけれど、本当にここがハインツさんの別荘なのか疑わ しいと思っていたけれど、でもこの扉の向こうにいる。「入りたまえ。」部屋の中から聞き覚えのある男の声が聞こえた。確かにハインツさんだわ。「カレン・アイゼナッハで す。夜分遅く申し訳ありませんが、訳あって参上いたしました。」カレンが部屋の中に入ると、ハインツ氏は赤と黄色のカラフルな風船のような服を着て、それは寝間着であろ うが、机の上の書類を片付けていた。「屋敷の召使には暇を出している。そうしなければならなかったからだ。」ハインツは、カレンの方を見ずに話をしだした。「屋敷の周囲 には、対侵入者用の罠がたくさん仕掛けられていたはずだが、よくここまで来れたものだ。君の家系には、シーフかレンジャーの血でも流れているのかね。」「そんな下賎な血 は流れておりません。」カレンは、彼の言葉にかっとなって言い返した。しかし、彼女は面食らっていた。彼の着ている寝間着もそうだったが、ハインツ氏の対応に戸惑いを感 じていたのだった。それに、顔色と雰囲気の悪い執事もいるし。彼の言葉ではないが、彼女のやったことはシーフ=泥棒と同じ事なのだ。ただ、彼女にも言い分はあって、ヴァ ルファラの事件があってから、アイゼナッハ家の一族はお尋ね者になっているので、表立って行動はできないという事はあった。それにしても、あの厳しいハインツ氏のことで ある。どんな叱責を受けるかと思って覚悟していたのだ。「君のご両親の事は、とても残念だった。」「祖父の事もです。」「うむ。君のおじい様には大変世話になった。だが 、アイゼナッハ卿は…、卿がカール帝国の密偵と会っていたのは事実だった。私は、マイヤー帝国に忠誠を誓った軍人だ。だから、アイゼナッハ卿にはご忠告申し上げていたの だが。その矢先の事故なのだよ。あの、クリスタルシティの大異変は。」信じられない。確かに、あまりいい噂を聞かない祖父ではあったけれど、魔物どもと密約を交わすなん て。「アイゼナッハ卿は、カールとの関係を切ろうとおっしゃっていた。」「祖父が確かにカール帝国、魔物どもの国と繋がっていた証拠はあるのですか。」カレンは、だんだ んと頭に血が上っていくのを感じた。このままでは、このままでは自分は、ハインツさんを殺してしまうかもしれない。
 そろそろ、いい頃合かもしれない。ダニッジは思った。自分が物質に影響を与えるための人間がやってきた。魔道センスの高い人間だ。この人間に憑依すれば、あの男との契 約を実行にうつすことができる。だが、あわててはいけない。高度なレベルのゴーストや悪魔ならともかく、自分のような低レベルのゴーストでは強制的に人間に憑依するのは 難しい。例えば、重い荷物を持ち上げることを考えてみればいい。力のある者ならばいとも簡単に持ち上げるだろうが、力の無いものは梃子の原理を利用しなければならない。 ここで力のあるものとは高レベルのゴースト、力の無いものとは低レベルのゴーストを表す。てこを利用するとは、憑依対象の精神の隙を突くという事である。もう少し、もう 少しだ。彼は、アイゼナッハとの距離を少しずつ、音も無く縮めていった。
 ばたん!その時、アイゼナッハの背後で扉が勢い良く開いた。いきなりの大きな音に驚いた彼女だったが、それ以上に驚いたのは、陰気な執事がいつの間にか自分のすぐそば までやってきていたことだった。「いや!」彼女は、すばやくその場から飛びのいた。アイゼナッハさん!と叫んで飛び込んできたのは、細身の少年であった。「マルク君」ア イゼナッハは、ほっとして涙目になってしまった。「まったく、君は、あれほど言ったのに。」緊張の糸がぷっつりと切れてしまったせいか、彼女は涙腺が緩んで言葉もまとも に話せなくなってしまった。今だ、とダニッジは思った。彼は、すばやくアイゼナッハとの距離を縮めようとした。しかし、すばやくその間に立ちふさがった者があった。ダニ ッジは急に背面からの引力を感じてその場にとどまり、そして後ろに下がった。しかし、実際には背面からの引力ではなく、正面からの斥力ではじかれたのだった。何者だ?私 の邪魔をするな!むぅ、口惜しいが、我の力ではこれ以上近づけぬ。「き、君、君は何者だ!?盗賊か!!」ハインツ氏が、マルクに向かって怒鳴った。ハインツ氏は、ようや く彼の本性を取り戻しつつあった。頭の中にかかっていた霧が、すっと晴れていくような状況である。アイゼナッハさん!こいつゴーストだよ!気を抜かないで!憑依されちゃ うよ!「何を言っているの?マルク君。この人は、この家の執事さんなのよ。」「何!?執事?何のことだ?何を言っているのだ君達は!」ハインツ氏は、アイゼナッハとマル クが何を言っているのか全く理解できなかった。この子供は、こんな子供が、シーフ?全く世の中間違いだらけ…アイゼナッハ嬢?なぜここに?私は、今まで何をやっていたの だ?召使たちはどこに行った。そうだ、私が暇を出して…。なぜ?ハインツ氏は、少しずつ事態を把握していった。「ハインツさん。彼は、マルク・マンハイムと言って、魔道 学園に来ている子供なんです。私を心配して来てくれただけなんです。泥棒なんかじゃありません。」アイゼナッハさん!あいつ実体化してくるよ!僕達のメンタルポイントを 吸収して実体化しているみたい。その時、ハインツ氏は見た。そして、完全に理解した。自分の夢見の悪かった理由、体の具合がすっきりしなかった理由も、カーテンや本がひ とりでに動く理由も。
 ダニッジは理解した。この子供がいなければ、この子供のメンタルポイントとライフエナジーを吸収すれば、強制的にあのアイゼナッハとかいう人間に憑依することができる 。そうすれば、この女を使ってハインツをたぶらかし、あの男との契約を実行にうつすことができると。彼は、二人の人間が放出する微弱なメンタルポイントを吸収して実体化 すると、一声叫んだ。その日、カレルシュテインのあちこちで、夜中に子供が目を覚まして突然泣き出すという事件があいついだらしい。
 アイゼナッハは、自分が目にしているものを信じたくなかった。理解しようという気持ちさえ湧かなかった。彼女は、体中から力が抜けて床に座り込むと、ずるずると後ずさ りした。「いや、いやよ。」彼女は、意味不明の言葉をしゃべりながらなおも後ずさりしていた。ハインツは、腕組みをして天井を見上げたまま石の彫刻のように動かなかった 。アイゼナッハは、理屈に合わないことは好きでなかった。オカルトな現象は全く信じていなかったし、理論だけが全てであると思っていた。しかし、この、目の前の現象はど うだ?あれは、何?人間?なのかしら。彼女の目の前で、執事と思っていた人物が変化をし始めていた。まず体が異様に大きくなった。口は耳まで裂けて、目玉は落ちてしまう のではないかと思われるくらいに飛び出て、そして光っていた。両手はいつの間にか4本に増えていたし、30センチはあろうかというツメは刃物のようだった。これは人間で はない。人間であるはずが無い。ワンダリングモンスター?大陸には化け物が生息する地域があるという。カール帝国では、魔物が国を治めているという。でも、彼は、人間だ ったはずだ。彼女は、頭の中で意味の無いやり取りを自分自身と繰り返していた。アイゼナッハさん!気持ちを強く持つんだ。とりつかれちゃうよ!「気持ちを、強く?」アイ ゼナッハは、オウム返しに言ったが、心ここにあらずといった表情であった。ダニッジは、一声叫ぶと少し気分がよくなった。こいつらには叫び声が効果的だ。あの女はもうい つでも憑依可能。あとは、このツメで子供を血祭りに上げればよいのだ。アストラルボディでは近づくこともできなかったが、実体化した今なら問題ない。この強靭な肉体によ るスラッシュなら、こんな子供など一撃で分断できるだろう。死ね。ダニッジは、巨大なツメを振り上げると、マルクに攻撃をしかけた。だが、思わぬところで邪魔が入った。
 うわぁ!マルクは、自分が武器を持っていないことに、今さらながら気がついた。彼の目の前に、陰気な執事ゴーストの巨大なツメが迫ってきたとき、疾風のように割って入 った者があった。ハインツだ。彼はロングソードで、実体化したゴーストのツメを受け止めると、その怪力で攻撃をはじき返した。「子供のシーフも怪しからんが、子供を手に 掛けるやからはもっと怪しからん。カレーン!いつまでもめそめそしているんじゃなーい!」ハインツは、雷が落ちたかと思うほどの大声で話すと、ゴーストに突撃した。ダニ ッジは、しまったと思った。アストラルボディの状態ならば、魔道具でないロングソードの攻撃など受け付けないのだ。プレーン=世界が異なるのだから。通常の物質でアスト ラル体を攻撃することはできないから。しかし、実体化してしまった今は別である。彼は、ハインツの攻撃によって、じわじわと自分のエネルギーを削られていくのを実感して いた。このままでは、マテリアルプレーンに存在しつづけることができない。
 カレルシュテインに不気味な野獣の咆哮が鳴り響いた。「消えたぜ、畜生め。」ハインツは、荒い息をしながらマルクたちの方を振り向いた。マルクは、自分がなぜこんな攻 撃の魔道を知っているのか分からなかったが、自然と呪文を詠唱していたようだった。ステラさんのおかげかもしれない、と彼は考えていた。と、いうのも、呪文自体をもう思 い出せなくなっていたからだ。アイゼナッハは、マルクに歩み寄ると彼の頭をぎゅっと抱きしめた。
  しばらくすると、ハインツは「今日はもう遅い。今夜はこの屋敷に泊まっていくがいい。」と言った。アイゼナッハは、マルクの頭にほおずりすると、ハインツの後に続いて 部屋を出た。マルクは、顔を赤らめながら彼らの後をついていった。誰もが全て終わったと思ったそのとき、マルクは見た。アイゼナッハの背後に怪しい影が浮かび上がるのを。 そして、長いつめが彼女を狙っているのを。危ない!と叫ぶのと同時に彼は飛び出して、アイゼナッハの背中を突き飛ばした。突き飛ばされて振り返ったアイゼナッハが見たもの は、長いつめのイメージがマルクの脇から右胸に刺さっているところだった。「マルク君!」
 痛みは感じなかった。何か胸の中が熱いような感じがした。耳元でいやらしい声が聞こえる。ダニッジだ。「よくも俺様の邪魔をしてくれたなぁ。」身動きが取れない。アイゼ ナッハが何かを叫びながら近づいてくる。耳が聞こえない?周囲が急速に暗くなってきた。「おまえのエナジーで、俺様はパワーアップしてやるからありがたく思え。」ダニッジ の声が頭の中に直接響いてくる。誰がおまえなんかに食われるものか!「こいつ!吸い取れない!畜生!こうなったらおまえに憑依してやる!」マルクは、自分の周囲にあの忌ま わしい雲が広がってくるのを見た。最後にアイゼナッハの方を見たとき、もうほとんど目が見えなくなっていたけれど、彼女の周囲は暖かい光に包まれているのが分かった。彼女 の雲を払う方法、それはこれしかなかったのだと思うと、ほんの少し救われたような気がした。そして、そのまま彼は漆黒の闇の中に落ちていった。
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