「Funny World じょたの冒険」
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第4話「Cloud」(中)
 異国の女性の歌声が、スピーカーから静かに流れている。音楽に混じって、カップにスプーンが触れる音、グラスの中で融ける氷の音、若い女性たちの低い話し声が聞こえる 。窓際に沿って半円形に並んだテーブルは空席が目立ち、初々しいカップル数組が何事かを囁きあったり、無精ひげを生やした男が、南国産のタバコをくゆらせながら、所在な さげに周囲を見回したり、時折窓の外の景色をつまらなそうに見下ろしたりしていた。ここは、クリスタルシティ外縁部にそびえる都市フィールド内の、アクエリアスブロック に存在するカフェ、「プレトマイオス」。窓の外からは、円弧を描いて聳え立つ石の壁が、そしてその上にドーム状に広がるエネルギーフィールドが、ずっと連なっているのが 見える。都市フィールドは、マイヤー帝国首都クリスタルシティを守る鉄壁の防御壁であるが、その内部には人々の生活空間も広がっていた。フィールド内部は、幾つかの隔壁 で仕切られていて、そのそれぞれがひとつの街を形成しているのだ。すなわち、サジタリウス、カプリコーン、アクエリアス、フィシズ、アリエス、タウロス、ジェミニ、キャ ンサー、レオ、ヴァルゴ、ライブラ、スコルピオである。
 そのカフェ、「プレトマイオス」の隅に、先ほどからぶつぶつと独り言を言っている男がいた。少し銀色が混じった癖毛の頭髪、灰色の瞳に青白い顔色、ダークグレーのスー ツを着た恰幅のよい男である。年齢は、30代半ばと思われる。彼は、テーブルの上の冷めたコーヒーにはまったく手をつける様子がなく、ひざの上に置かれた革の書類入れの 留め金をもてあそびながら、なにやらぶつぶつと独り言を言っているのだった。
 「今、本当に必要なものは何か、あなた方は全く理解していない。都市のフィールドに利用されているエネルギーの、ほんの10%を地下の市民が利用できるようにすれば、 難民の大半は救われるのです。」男は、テーブルの前の何もない空間を、うつろな目で見つめながら言った。「カール帝国の脅威に対抗するため、エネルギーフィールドを維持 するためには、都市フィールドのエネルギーをこれ以上下げることはできませんぞ。」男の口調が変わった。甲高い、早口の声色である。どうも、彼の頭の中では、誰か他の人 と論戦をしているようなのであった。「話し合うこと、それが重要です。」これは、落ち着き払った男の声だ。また甲高い声の男が出てくる。「彼らの信じている宗教を考えて みよ。自分たちと同じ神を信じぬものには死を与えよ、と言っているではないか。」ここで、男は深く息を吸い込み、ゆっくりと深呼吸をした。「邪神を信じる者の数は少ない 。」静かな雰囲気の声だ。「噂によると、ひとつの国家を丸ごと破壊しつくす兵器、魔道兵器も開発しているという。彼らに気を許してはならない。」甲高い声の男に変わると 、男の目玉は飛び出さんばかりに見開かれた。「噂に過ぎない。それほどの巨大なエネルギーを得るすべを、彼らは持っていない。技術力の流出にさえ注意していれば、取るに 足らない問題だと思われます。そのような技術は、われわれでさえもまだ持ちえていないのですから。」そのとき、カップが床に落ちて、粉々に割れる音が店内に響いた。男は 、一瞬びくりと体を震わせると、音のした方向をすばやく睨んだ。真一文字に閉じられた口、ひくひくと動く眉毛とあごの筋肉は、夢想の世界から引きずり戻された不快をあら わにしていた。男は、女性店員が、カップの処理をするのをしばらく眺めていたが、また元通りテーブルの上を眺めだすと、低い声で言った。「都市フィールドのエネルギーは 、恵まれない人々のために使用すべきである。」うっすらと微笑を浮かべた男は、いすの背もたれにゆっくりと体を預けると、満足そうに何度もうなずき、冷え切ったコーヒー を一息に飲み干してしまった。
 低いハミング音がする。オレンジのランプで照らされた室内には、全身にカッパを着込んだ人間が3名いた。そのうちのひとりは、直径1mはあろうかという大きなハンドル に手をかけ、回転させようとしていて、残りの2名は周囲を警戒しているようだった。「どうだ。」見張っているうちのリーダーらしき男が、ハンドルに手をかけた男に尋ねた 。「・・・だめです。びくともしません。」「やはり、コントロールルームに侵入して、解除のコードキーを入手する必要がありますね。」もうひとりの男が言った。「だが、 あの部屋には、高度な魔道感知器がセットされている。この衣を着ていても発見される可能性は高い。」とリーダーらしき男。彼らが着込んでいるカッパは、人間の魔道力場を 外側に放射しないように出来ているらしい。「あのお方は、確実な仕事をお望みだ。都市のエネルギーフィールド発生装置内に、スパイがいることはまだ知られていない。事は 慎重に運ばねばなるまい。今日のところは、発生装置の警備状況と、仕組みを知っただけでよしとしよう。引き上げだ。」3人の男たちは、排気用ダクトを伝って部屋の中から 姿を消した。
 「責任者のウオルフさんにお会いしたいのですが。」警備の衛兵2名は、またか、というような表情をして、顔を見合わせた。この男、ここのところ毎日のようにここへやっ てくる。銀色の少し混じった癖毛、灰色の瞳、ダークグレーのスーツの、恰幅の良い男である。名前は確か、「ウェドニー・シェリダンと申します。」「えぇ、存じております 。昨日も伺いましたから。」衛兵の仕事は、命がけである。いつ何時正体不明のやからがやってきて、攻撃を仕掛けてくるかもしれないからだ。それに、今マイヤーは、隣国の カールと微妙な関係にある。いつ戦争になってもおかしく無い。クリスタルシティの都市フィールドは、直径1kmの隕石の直撃にも耐えられるように設計されており、およそ いかなる攻撃を受けても、首都が陥落することは無いはずである。しかし、その発生装置を破壊すれば話は違ってくるわけで、このエネルギーフィールド発生装置の管理施設は 、万全の警備が要求されていた。都市内と外部は、完全にテレポートブロックされており、アリンコ一匹入る隙は無いし、施設自体にも同じようにテレポートブロックされてい て、外部からの招かれざるお客様が侵入するのを防いでいた。
 「大変申し上げにくいのですが、ウオルフ卿は、あなたとはお会いにならないと申しております。また、警備上の理由から、お約束の無い方とは面会することが出来ないとい う規則がありまして、残念ながら御引取り願うしか無いという次第であります。」と衛兵のひとりが、ウェドニーに言った。「あなた方は、ここのエネルギーの1パーセントち ょっとを地下へ回せば、どれだけの人間が救われるかご存知ですか。」ウェドニーは、胸ポケットからハンカチを取り出すと、それをくるくると手の中で丸め、ぱっと手を開い たときには水晶球のような物が手の中に現れていた。「怪しい奴!余計なことはするんじゃぁ無い!さっさと立ち去らないと、痛い目を見ることになるぞ!」衛兵は、長槍のよ うなものを腰に構えると、スパークする切っ先をウェドニーの方に向けた。「暴力は反対です。暴力では何も解決しません。話し合い、分かり合うことが重要なのです。」そう 言うと、彼の手の中にあった水晶球がちかちかと光りだした。そして、ものの10秒もしないうちに、衛兵は二人ともその場に崩れ落ちて、深い眠りについてしまった。
 「やれやれ、一体君はいつもどうやってここへ入り込むのかね。ウェドニー君。」そう言って、執務室の椅子の上にふんぞり返っているのは、エネルギーフィールド発生施設 の責任者、ウオルフ卿である。「お目にかかれて光栄です。ウオルフ卿。ここへはいつも正面玄関から入りまして、受付のお嬢様にご挨拶をし、奥のエレベーターを使用し最上 階へ、そしてこの部屋の入り口を守る魔道兵にしばしご休息いただいて、・・・」「もういい。」警備システムに問題がある、とウオルフは思った。「システムを信用しすぎる のは、身の破滅を招きます。ウオルフ卿。」ウオルフは、じろりとウェドニーの方を見た。「まぁ、こちらの警備の問題については、後日ゆっくりと議論させていただくとして 、本日こちらへ参りましたのは・・・」「分かっている。」ウオルフは、これ以上この男の話など聞きたくないといわんばかりに、右腕を振るとウェドニーの言葉をさえぎった 。「ここのエネルギー配分を変更するという君のアイデアには、私も個人的には賛成だ。だが、私はただの管理人にすぎんのだ。この施設の運用については、特別な権限が必要 だ。マイヤー皇帝じきじきの命令か、さもなくば王立魔道院の許可がなければいかんのだ。」「えぇ、それについては私もよく理解しているつもりです。」ウオルフは、ウェド ニーを無視して続けた。「そして、君に協力できない大きな理由がある。これは、機密事項なので口には出来ないが・・・」そのとき、建物全体がびりびりと震動しだした。「 これは!?」ウオルフが、椅子から転げ落ちそうになって机にしがみついた。「これは?」ウエドニ−が、オウム返しに尋ねる。「今のは、マントルエナジー変換装置の再起動 に伴う震動音に違いない。しかし、そんな馬鹿な!制御盤は、こちら側からは制御できないはず。」「しかし、制御する方法はあった。」ウエドニ−はつぶやいた。「マニュア ルによる制御装置が存在するのではありませんか?」震動は、断続的に続いていた。「マニュアルで再起動する方法はある。だが、それは[こちら側]からは操作できんのだ。 各部屋の暗号キーは、コントロールルームで管理されているし、コントロールルームには、魔道による警備装置がセットされている。侵入できるはずがない。」ウオルフの顔に は、脂汗がにじみ出ていた。「あれは、[こちら側]からは操作できん。おお、そうだ、そうだとも。あれは、[こちら側]からは操作できんのだ。はははは。」ウオルフの表 情からは、先ほどまでのふてぶてしさは消えていた。「どんな優れたシステムにも欠陥はあるものです。機械任せではいけません。すぐに警備の兵を向かわせるべきです。ウオ ルフ卿。」ウオルフは、ウェドニーを睨みつけるといった。「おぬしが望んでおったとおりになりそうだな。それも、1%程度ではないぞ。悪くすると、都市のエネルギーフィ ールドが消滅するかもしれん。」「それは私の望むところではありません。ウオルフ卿。私が望んでいるのは、全国民、いえ全人類の幸せなのです。」「おぬしの世迷言に付き 合っている暇は無い。ワシがじきじきに出向いてくれよう。」「私も参ります。」ウオルフは、ぎろりとウェドニーを睨みつけた。「まぁ、良かろう。警備兵は、全ておぬしに 眠らされておるようだし、その責任をとってもらわねばならんからな。」まぁ、うちの警備兵どもよりは、おぬしのほうが使えそうな気もするワイ。ウオルフは、壁の隠し扉か ら装備を取り出すと、すばやく着用した。「おぬしもこれをもっておけ。」そう言うと、ウェドニーにニードルガンを手渡した。「これは、魔道銃!こんなもの、私には扱うこ とは出来ません。」「なーにを言うとるか。ここに入り込むだけの魔道エネルギーがあれば、充分扱えるワイ。」「いえ、そういう意味ではありません。」だんだん震動の周期 が短くなってきた。「急ごう!」ウオルフは、自分のニードルガンを掲げると、ウェドニーの背中をぽんと叩いて部屋の外に飛び出していった。
 重たいハンドルのついた扉を開け、その先にあるマントルエナジー変換装置の部屋へやってきた3人組は、この部屋のどこかにあるはずの制御盤を探していた。「ボス、この 部屋には制御装置らしきものはありません。」「いや、[ここ]にあるんだ。それをどうやって確認するか、なんだが。ところで、ちゃんと俺が指示したとおりの印をつけてお いたか?」床を見ると魔法陣のようなものが書かれていた。「ふむ、まぁいいだろう。どうせ低級なものを召喚するのだから。」リーダー格の男が言った。「いいか、この装置 は、[こちら側]からは操作できん仕組みになっている。従って、どうにかして[あちら側]へ移動しなければならん。しかし、[あちら側]へ行って無事戻ってこれるという 保証は無い。」腕組みして話をするボスを前に、手下2名はごくりとつばを飲み込んだ。「だが安心しろ、何もお前たちに[あちら側]へ行ってもらう必要は無い。俺の言った とおりにすれば大丈夫だ。なに、お客様をご招待するのさ。」そういうと、ボスは大声で叫んだ。「大変だ!制御装置が故障した!!誰か来てくれ!!」廊下をバタバタと走っ てくる足音が聞こえてきた。「よし、お前たちは、その辺の物陰にでも隠れていろ。」
 「どうしたんですか!?」走りこんできたのは、新米の所員であった。「俺たちが、この周囲を見回っていたら、急に中からいつもと違うハミング音が聞こえてきたんだ。」 「俺たち?」しまった!「え?いや、そんな事言ったか?」空とぼけるボス。何やってんだか。仲間は、ハラハラして物陰で様子をうかがっていた。「聞いてくれ、このハミン グ音を。いつもは、こんなに大きな音じゃなかったんだ。」「そう言われてみればそうですねぇ」実際のところは、いつも閉まっている分厚い扉が開いているので、そう感じる だけなのであった。それと、新米所員なので、ハミング音の違いが本当は分からなかったということもあった。「すぐ制御盤を確かめてみてくれ。」「あれは、[こちら側]か らは操作できないので、・・・」「何を悠長な事を言っているんだ!このエネルギーが供給されなくなったら、都市のフィールドは無くなってしまうんだぞ!そうなったら、完 全に元通り復旧するのに、一体どれだけの時間がかかると思っているんだ!」ちなみに、本来は再起動にかかる数時間ですむのであった。新米は驚いて「分かりました。すぐ上 司に相談してみます。」と言った。もう一押し!「バカモノ!緊急事態にすばやく対処できんでどうするかぁ!」本来、自分自身が緊急事態の対処をすべきである、ということ を棚に上げて激しくせまった。「はい、分かりました。すぐに制御盤の確認作業を行います。」よし!ボスは、内心ほくそえんだ。新米は、腰にぶら下げた懐中電灯のようなも のを、部屋の中央に向けるとスイッチを入れ、暗証番号を入力した。すると、部屋の中央にぼんやりと制御盤が現れてきた。「見たところ、異状はないようでありますが・・・ 」「いや、そんなはずは無い!よく確かめてみろ!」新米は、部屋の中央に浮かび上がった制御盤に近づき、目盛りの文字を読み上げた。「ふむ、このライトで確認を行うんだ ったな。」「そうです。ただ、制御盤の操作をする場合は、[あちら側]に入らなければならないので、ここからは操作することができませんが。」「うむ、そうだ。ちょうど 今、[あちら側]の住人にお越し願ったところさ。」新米が後ろを振り返ると、床の下からスモークと一緒に豚のような化け物が、今まさに現れんとしているところであった。 「うーん」新米君、泡を吹いてばったりと床に倒れて気絶してしまった。「よーし、めでたくお目当てのブツが見つかったところで子豚ちゃんや、ちょっくら俺に力を貸してく れい。」ボスは、豚の化け物に言った。「何用か・・・」豚がしゃべった。「古の契約に基づいて汝に命令する。」「・・・いたしかたなし。」ボスは、床の魔法陣が、新米君 によって一部消されてしまったことには、気付いていないようであった。
 震動の周期はますます短くなってきた。ウオルフとウェドニーは、地下へ向かう階段を駆け下りると、制御装置のある部屋へたどりついた。突然、金属どうしが激しくぶつか るような音がして、ウオルフ卿はその場に倒れた。そして、じわじわと血のしみが床に広がっていった。「ウオルフ卿!」ウェドニーがそばに駆け寄った時には、彼はすでに息 絶えていた。どこから狙われたのか?部屋の奥には、制御盤らしきものがあったが、彼には操作方法は分からなかった。所員らしき人間が、倒れているのが見えるが、生きてい るのか死んでいるのかも分からない。ウェドニーは、油断無く周囲を見回すと、小声で魔道感知の呪文を唱えた。だが、部屋全体が魔道具と化しているこの場所では無意味のよ うだった。「人間の分際で・・・」誰かの声がする。「人間の分際で我を使役しようなどとは、千年早いわ。」それ、は、別次元で部屋全体に広がって、重なっていたのだ。部 屋全体が、それ、だったのだ。豚のような化け物と、人間らしき物の融合体である。だんだんと実体化してきた。「喰われたのか。」豚は、ウェドニーの姿を確認すると、人間 の腕で銃のようなものの狙いをつけてきた。彼は、バックステップして死角に入ると、ニードルガンの安全措置を外した。「たいした事の無い低級魔道だ。ウオルフ卿の敵をと らねばなるまい。喰われた人間には悪いが、彼らとて低級魔道として存在するよりは、人間としての死を選ぶだろう。」
 勝負はあっけなく決まった。低級魔道ごときに遅れを取るようなウェドニーではないのだ。しかし、低級魔道は去ったが、部屋の震動は続いていた。しかも、揺れはさっきよ りも激しくなっていた。「いかん、なんとかしなければ。」そのとき、床で伸びていた新米君が目を覚ました。「おお、君!なんとかしてくれたまえ。私には制御盤の操作方法 は分からないのだ。」「うーん・・・あんたは誰だ?ん?あれは、ウオルフ卿!・・・死んでいる!?」新米は、倒れているウオルフの元へ駆け寄った。「これは、ニードルガ ンによる傷じゃないですか!まさか・・・」新米は、ウェドニーの手にしているニードルガンを見た。「ま、待ってくれ。誤解だ。私の話を聞いてくれ。」「ひぃとごろしぃー !」新米は、大声で叫びながら階段を駆け上っていった。「君!ちょっと待ってくれたまえ!」そのとき、ひときわ大きな震動が起こると、あたりは急に静まり返った。まさか 、機械が止まったのか?チャージされたエネルギーが尽きるまでは問題無いだろうが、そのエネルギーが尽きたとき、フィールドジェネレーターにエネルギーが供給されなけれ ば、都市のエネルギーフィールドは消滅してしまう。「なんてことだ。私のことは、まぁ、いい。しかし、この都市のフィールドが無くなれば、恐ろしいことが起こるに違いな い。」人殺しの濡れ衣を着せられ、都市のエネルギーフィールドを破壊した犯人に仕立て上げられてしまったウェドニー。この先、彼に待ち受ける運命やいかに。
 男性バイオリニストのソロ演奏が終わった。ひとしきり拍手がなされると、お楽しみの会食が始まった。マルクは、アイゼナッハ嬢と向かい合わせに座り、料理が目の前に運 ばれてくるのを、少し緊張した面持ちで眺めていた。マルクは、こんな高級レストランに来るのは生まれて初めてだったし、ましてや美しい妙齢のお嬢様と会食など、初めてづ くしの経験であった。まだ怒っている。マルクは、アイゼナッハの顔をちらりと見て思った。青白い顔色をした彼女は、無表情でうっすらと目を開き、(半眼というのか?)視 線の先はテーブルの上に固定されて、身動きひとつしなかった。少し青色の入ったグレーのスーツを着た彼女は、学会初日が終了してからというもの、一言の言葉も発せず黙り こんでいた。やっぱり、さっきのはまずかったかなぁ。マルクは、今はまったく見えないが、学会の会場で大量の雲を見たときに、彼女に言った言葉を思い出していた。何か、 もう少し気の利いたことを言えばよかったのになぁ。彼女は、あのあとマルクが手洗いに席を立つのを、むっとした表情で見ていた。顔を赤らめながら。僕も本気で言ったので はないのだから、トイレになんて行かなければよかった。マルクは、また上目遣いにそっと彼女を見た。彼女は、テーブル上の料理にはまったく手をつけずに、無表情のままで あった。しかし、マルクの視線を感じたのか、視線をマルクの方向に移して言った。「どうしたの、お食べなさい。せっかくのお料理が冷めてしまうわ。」そう言うと彼女もナ イフとフォークを手に取り、お皿の上の料理に手をつけ始めた。マルクも、ナイフとフォークの使い方に悪戦苦闘しながら、お皿の上の物体をやっつけ始めた。確かこれは、マ イヤーのディアブルグ沿岸で獲れるお魚料理だと聞いていた。でも、これは、魚というよりはトカゲのようにしか見えなかった。足をもがれたトカゲ。目玉がぎょろりとこちら を見ているようで気持ちが悪い。マルクは、どうもグロテスクなものは苦手だ。げてもの料理など、まったくお手上げだ。なんだかこれ、魚というよりトカゲだね。「ン?」マ ルクの問いかけに対しての返事はそれだけである。語尾が上がるような返事。もっと機嫌が悪くなっちゃったかな?しばらくカチャカチャと食器の触れ合う音がしていた。明日 の発表も楽しみだね。「ン」今度は語尾が低い返事だ。しかし、特に会話を楽しみたいと思ってはいないのか、それ以上の反応は無かった。怒ってるなぁ。マルクは、彼女のご 機嫌を直すのをあきらめると、目の前の料理を本格的に片付けだした。これは、魚、魚、さかな、そう思って食べれば大丈夫、と。目玉の部分を上手に切り分けながら、食べら れそうな身の部分をフォークでつついているとき、「マルク君、やっぱり、つまらなかったのかなぁ。」彼女はそう言った。「ごめんなさいね、私の都合で勝手に君を連れまわ したりして。私、嬉しかったの。この学会は、マイヤーはもちろん、ファニーワールド全土で認められた学会なのよ。誰でも会員になれるわけではないし、あのホールに集まっ て発表を見ることも名誉なことなのよ。だから、いつか出席してみたいと思っていた。あなたにとっても名誉なことだと思って、無理やりつれてきちゃったけど、自分に興味の ないことを何時間も聞かされたら、たまらないわよね。」彼女は、そう言うとにっこりとマルクに微笑んだ。マルクは、どきりとしてお魚を飲み込んだ。僕のこと、怒ってるん じゃないの?発表中に急に席を立ったりしたから。「怒ってなんかいやしないわよ。ただ、このままあなたを学会に参加させるのは酷かもしれない、と思っていたのよ。とって も、残念なのだけれど。」彼女は、顔は微笑んでいたけども、悲しみをたたえた瞳で、マルクを見つめながら言った。マルクは、胸の奥がぐるぐると動くような、締め付けられ るような、なんだかとても切ない気持ちになった。あ、あの、つまらないなんて、そんなことないです。確かに、分からないことがほとんどですけど、僕もノインツェンの学校 で研究論文を発表したことがあって、それは昆虫の生態についてなんですけど、でも、魔道のことも興味があるから、ブラームス先生の召喚系魔道理論についても講義を受けて いて・・・、マルクは、話しているうちにわけが分からなくなってきた。アイゼナッハの表情、視線を見る限り、彼女はマルクを怒っている様子はまったくなかった。しかも、 彼女がこれまでずっと黙って考えていたことが、実は自分のことで、彼に帰ったほうがいいと言っていっているけれども、本当はそう思っていなくて、それで、そう言わなけれ ばならなかったことが、すごく寂しいのだと分かった。ずっと、僕のことを考えていてくれた・・・。僕もいつか、ここで発表してみたくなりました。マルクはそう言うと胸を 張って彼女を見た。だから、今回の学会は最後まで出席していたいんです。
 テーブルには、デザートが並べられていた。ピンク色のゼリーの上に生クリームが載っていて、砂糖の粉のようなものがふりかけてあった。甘い。スプーンで生クリームをす くって口の中へ運ぶと、滑らかな舌触りと、砂糖の粉の刺激が舌に交互に伝わってきた。マルクは、さっきまでの鬱屈した気分が、うそのように晴れ渡っていることを知った。 アイゼナッハ嬢も、いつものにこやかな表情に戻っている。「ねぇ、学会が終わったら遊園地に行ってみようか?」彼女は、赤ワインのグラスを傾けながら言った。「クリスタ ルシティには、大きな遊園地があるのよ。ファニーワールド中にチェーン店、というか、その系列の遊園地があるのだけれど、ここのは一番規模が大きいのよ。」うん、いいね 。行ってみよう。それから、僕、クリスタルシティに来るの初めてだから、街の中も見てみたいよ。「えぇ、案内してあげるわ。」マルクは、口の中で炭酸ジュースがはじける 感覚を楽しみながら、彼女と街の中をデートする自分の姿を思い浮かべていた。小ステージでは、マジシャンのショーが始まっていた。窓の外には、銀河のようにきらめくクリ スタルシティの摩天楼。流れ星のように飛ぶ、エメラルドグリーンのカーゴシップがきれいだ。マルクは、ステージのショーを見ている彼女を眺めて思った。あなたのほうが、 ずっときれいです。アイゼナッハさん・・・。マルクは、彼女と出会えた喜びにひたり、少し眠たいような心地よい感覚を楽しんだ。この後、二人に残酷な運命が待ち受けてい ようとは、彼には知る由もなかった。
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