「Funny World じょたの冒険」
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第4話「Cloud」(上)
 マルクが大陸横断鉄道に乗って、謎に包まれた魔道の街シュティル・シュバイゲンを後にしたのは、スタイン先生のアメーバクリスタルを借りてから1週間後のことであった 。発作を起こす側のクリスタルを封印したせいか、ここ数日は頭痛もなく体調も申し分ない。マルクは、大陸横断鉄道の特急マゼランのコンパートメントに、スタイン先生の生 徒であり助手でもある、アイゼナッハ嬢と向かい合わせに座っていた。これから向かうのはマイヤー帝国の首都クリスタルシティである。王立魔道院で催される召喚系魔道学会 に、アイゼナッハ嬢が参加するのであった。彼女は、クリーム色のファイルを開け、熱心に資料に目を通していた。時折視線をマルクの方に向けてはニコリと微笑み、お腹がす いた?とか、クッキーを食べる?とか、お茶を飲む?などと尋ねた。マルクは、これから出席することになってしまった、学会というものの事で頭が一杯だったし、王立魔道院 という、なにやら恐ろしげな場所に行かなければならないのもプレッシャーだった。それで、アイゼナッハ嬢の問いかけにも、あいまいに、うんとか、ハイとか答えるだけであ った。彼女は、そんなマルクを気遣ってお茶を入れたり、これから向かう街について話してあげたりしていた。
 マイヤー帝国は、ファニーワールドの北の大陸の東側、いわゆる東の大陸に存在する軍事大国である。その東側に国境を接しているカール帝国とは宿敵同士で、頻繁に小競り 合いを繰り返しているが、ここ50年くらいは大きな戦争は起きていなかった。マイヤーは、魔道王国ブリューニェほどではないが、魔道の進んだ国である。王立魔道院は、建 国の祖マイヤー皇帝がブリューニェの魔道に対抗するために設立した機関である。彼の業績には、そのほかにも王立天文台の設置、魔道学校制度の整備、運河による交通網の整 備、上下水道の整備と医療機関の無償化などに渡っている。中でも上下水道の整備による伝染病の撲滅は帝国の人口増加に寄与し、マイヤーがファニーワールド最強の国となっ たのも無理ないことである。
 列車は大きく右にカーブし、車体を右側に傾けた。マルクが窓から外を眺めると、列車の進行方向のずっと先に、ぼんやりと虹色に光るドームが見えた。その中には天に向か ってそびえる建物が幾つも建っていた。四角いもの、三角のもの、多角形をしたもの、先のとんがったもの、丸いもの、とにかくもうたくさんの種類の建造物が見えてきた。
 列車が都市のフィールド内に進入した。フィールドの境界には、石の城壁が都市全体を囲っており、列車はそこに開けられたトンネルをくぐることによって、内部に入ること ができるのだ。あと30分もすれば、クリスタルシティの駅に到着するはずだ。列車は、駅で5分ほど停車すると、次の駅へ向かって出発する。東西大陸の境目のカナル運河で 検閲を受けて、さらなる西のドリムランドへと向かっていくのだ。
 マルクは、窓の外で赤や白や黄色や、それから青や緑に光り輝いている魔道のディスプレイを見た。空中に光で描かれたドラゴンは、マルクの方に向かって炎を吐き出したし 、気球にぶら下がったネコが、シャボン玉を飛ばしながら空の散歩を楽しんだりしていた。石で出来た多角形の建物は、表面にクリスタルのパネルがびっしりとはめ込まれてい て、見る角度によって色が変わるのできれいだった。その建物の隙間をぬうように、緑色の目玉をした巨大なトンボが、籠を抱えて高速で飛び回っていた。列車は、何段重ねに もなったアーチの高架の上を、時速80キロの巡航速度で走行していた。地上の人々の姿は良く見えなかったが、ありんこのようなものが、わらわらと動いているのが見えたの で、あれがこの街の住人に違いないと思った。マルクは、学会出席用に紺とグレーのブレザーを、アイゼナッハ嬢に見立ててもらっていた。こんな都会ではファッションも進ん でいるだろうし、自分のフォーマルな服装が浮いてしまわないかと不安になった。光り輝く街の光景に見とれているうちに、列車はとうとうクリスタルシティの駅に到着しよう としていた。楕円形をした駅の建物は、地上数百メートルの高さを誇る超高層建築であった。建物の中腹に高架が幾つも連結されていて、列車はそのうちの一つからビルの中に 吸い込まれていった。車内は突然暗くなり、オレンジ色のランプの光で照らされたマルクの顔が窓の向こうからこちらを覗いていた。「さっ、そろそろ行こっか」アイゼナッハ は、ひざの上に乗せたカバンをぽんとたたくと、マルクに向かってウインクしてコンパートメントから通路へと出た。改札は混雑していて迷子になりそうなほどだった。
 王立魔道院は、駅からトンボに乗って10分ほどの場所にあった。5階建ての建造物の中には、隠し部屋も含めると1000を超える部屋があるらしい。正門へと続く道には 、学会の出席者らしき人たちがゾロゾロと歩いていた。アイゼナッハは良く知られているのか、いろいろな人たちに話し掛けられたり、挨拶したりしていた。そのたびに緊張し たマルクが、壊れた人形のようにお辞儀をするものだから人々の失笑をかっていた。やれやれ、そもそもなぜこんなことになったんだっけ?
 ここはシュティル・シュバイゲンにある魔道の学園。時間は少し遡って一週間前のこと。マルクがアメーバクリスタルの共鳴によって、銀色三日月の発作を起こした日に戻る 。マルクは、アイゼナッハに介抱された後、学園のゲストルームで休んでいた。ひどい目にはあったが、発作を抑えるアイテムは借りることが出来たし、久しぶりにノインツェ ンの寄宿学校の外へ出て旅行することもできて満足だった。スタイン先生は、マルクの病気の原因について調査したいと言っていたようだが、この際そんなことはどうでもよか った。ノインツェンへは1ヶ月以内に戻ればよかったし、ここには面白そうなものがたくさんあって、色々と見学することができるからだ。
 マルクは、学園全体を見渡せる時計塔に足を運んだ。学園は、山の頂上付近に建てられていて、ほぼ円形に建物が配置されている。東西南北に広い通りがあって、それぞれの 先端に尖塔があるのは先に述べた。その東の尖塔の脇から山頂へ向かう小道をたどると、時計塔に行き着く。螺旋階段を登り、機械室に入れてもらうと、そこからさらに上の部 屋へ案内してもらった。時計の文字盤の頂上に開けられた穴から外を覗くと、眼下に学園、シュバイゲンの駅、それから大陸横断鉄道の線路が、大平原の向こうに向かってずっ と伸びていくのが見えた。はるか彼方に見える山々は、カール帝国との国境となっていて、その山脈の向こうには魑魅魍魎どもが跋扈していると恐れられていた。
 マルクは、覗き穴から冷たい風が吹き込むのも気にせずに、飽くことなく下界を眺めていた。シュバイゲンの駅前広場から、おんぼろバスが茶色い煙を吐き出して、車体をぶ るぶると震わせながら出発するところだった。恐らくヴァルファラへ向かうバスだ。アイゼナッハの出身地がヴァルファラだと知ったのはついさっきだった。時計塔の管理人が 自慢げに話すのを聞いたのである。まだ20歳代の若い管理人は饒舌で、彼女のことなら何でも知っているといわんばかりに話していた。マルクは、彼の話を聞いているうちに むかむかと腹が立ってきたが、気になることでもあり最後まで話を聞いた。彼によると、ヴァルファラとは、緑豊かでのどかな農村地帯らしい。地主の娘であった彼女は、幼少 の頃より絵画(どうも幾何学的な抽象画を得意とするらしい。)、文学(若者の話では、ロビンソンの冒険物に目が無いらしい。)、音楽(主にピアノとバイオリン、ピアノの ソロ演奏には、肌の色の違う異国の人たちまで聴きに来るらしい。)、地学(ハンマー片手にルーペで縞模様の岩石を調べる姿が美しい、・・・らしい。)、生物学(ワンダリ ングモンスターの分類学で論文を書いているらしい。)、化学(クリスタルの・・・なんだか難しい話。この辺りは聞き流してしまおう・・・)、数学、天文学、付与系魔道、 召喚系魔道など、その他あらゆる学問について英才教育を受け、地元では才色兼備で有名人だったらしい。15の時にヴァルファラのハイスクールを飛び級して、シュバイゲン の魔道の学園に入学すると、召喚系魔道力学を専攻し、スタイン先生の研究室に入ったのが17の時。以来3年間、彼女は多次元系空間力場の理論について研究を深めているら しい。また、彼女がこの学園に入るきっかけとなった事件があるらしいのだが、それについては何も教えてくれなかった。
 二十歳ということは、自分より7歳年上なわけだな。マルクは、ゲストルームに戻る間、スタイン先生の実験室で見かけたアイゼナッハのことを思い出していた。身長は16 5センチくらいで、ほっそりとして痩せ型である。漆黒の髪は肩にかかっていて、金細工の髪飾りが流れ星のように見える。流れ星といえば、発作のときに現れる銀色の三日月 は、一体何を表しているのだろうか。銀色の三日月からは、いつも稲妻のようなものが四方八方に飛び散っていた。蒼い?稲妻?・・・いや、違う・・・。また、スタイン先生 の実験室で見た映像には、周囲に子供達がいて、不思議な歌を歌いながら踊りを踊っていた。森の奥?いや、祭壇のような場所だったと思う。あの、映像が、表しているものは 、ひょっとして・・・。マルクは、視線を足元に落とし、学園の木立の中を歩いていた。白いローブを着た2,3人の女学生たちが声をかけてきたのも気付かなかった。強い風 が吹いて、木立がざわざわとざわめいていた。夕暮が近付いた学園には、冷たい風が吹いていた。マルクは、背中を通り抜けた風にぞくりとして、不吉な予感を感じていた。
 うわ!ゲストルームのドアを開けたとき、目の前にいたのは、右手にはたき、左手にはラッパのような物を持った、エプロン姿のアイゼナッハ嬢であった。「あ、ごめんなさ い。本当は、あなたがこの部屋に入る前に、掃除しておきたかったんだけど。ちょっと時間が取れなかったのよ。研究論文を提出しなくてはならなかったの。」そう言うと、彼 女はマルクの部屋に入り込み、部屋の棚の上を、四角い紙のひらひらがついたはたきでぱたぱたやると、ラッパの開いた口を寄せてほこりを吸い込んだ。ラッパのようなものは 、ほこりを吸い取る魔道具のようなのだ。さすが魔道の学園!それにしても驚きなのは、吸い取っているほこりの量である。よくもまぁ、これほどたくさんのほこりがたまるも のだ、というくらいの量を吸い込んでいる。ラッパの先についた透明の管の中は、あっという間に一杯になってしまった。「ここも、たくさんほこりがたまるのね。実験室もそ うだし、スタイン先生の部屋もすごいんだから。」マルクは、何も無いところからどうやって「ほこり」が吸い込まれてくるのか、じっと目を凝らして見たが、よく分からなか った。彼女が言うには、部屋の中には目に見えないほこりがたくさん浮いているが、はたきでこまめにはたいてやると、浮き出てくるのだそうだ。と、言っている間にも、彼女 は、ガラス管のコックを閉めると、新しいガラス管を接続して「ほこり」を吸い込んでいた。
 あ、あの、掃除なら僕がやります。部屋の中央で、ぼーっと突っ立っていたマルクが、アイゼナッハの突然の来襲という呪縛から逃れると、そう言った。「いいのよ。なぜだ か分からないけど、この掃除機私が使わないとうまく働かないのよね。機械も人を見るのかな。それとも、私って、お掃除の天才なのかしら。」マルクは、彼女にラッパの機械 を借りると、はたき?でカーテンの上のほうなどを叩いてみたが、ほこりは出てこなかった。同じ場所を彼女が「掃除」すると、たくさんの「ほこり」が出てくるのだ。らっぱ は、ぶーんという音を立ててほこりを吸い込み、あっという間にガラス管一杯にしてしまうのであった。
 「スタイン先生の所にやってくるお客さんを、おもてなしするのが私の仕事の一つなのだけど、時々お客さんが突然いなくなってしまうことがあるの。」アイゼナッハとマル クは、「掃除」の終わったゲストルームで、お茶を飲みながら話をしていた。部屋の隅には、お掃除の成果、雲のような「ほこり」が充満したガラス管が1ダースほど山積みに なっていた。そのガラス管の中で、何かが動いたような気がしたマルクが、ちらりとその方向を見ると、雲の中から幾つかの獣の目のような物がこちらを見返しているような気 がしたが、やはり長旅のせいで疲れているのだと思い、無視することにした。「あなたがスタイン先生の研究室に来る前にも、ひとりいらっしゃったのよ。先生にお会いしたい というお客さんが。お約束ですか?と尋ねたら、ハイそうです。と言うので、とりあえず、研究室にご案内したのよ。私、あなたが来るのは、スタイン先生から話を聞いていて 知っていたから。」そこまで言うと、彼女はお茶をすすり、一息ついた。マルクは、ガラス管の中から覗き込む視線を、努めて無視しながら彼女の顔を見つめていた。視線が、 さっきよりも増えているような気がする。「でも、今日来るのは13歳の男の子だって聞いていたので、少しおかしいなと思ったわ。先生は、実験中で取次ぎできないから、し ばらく研究室でお待ちくださるようにお伝えしたの。それからしばらくして、あなたがやってきたときは、もうその方はいらっしゃらなかったわ。お名前は、確か・・・、いや だ、忘れちゃった!」その人、ひょっとして泥棒だったんじゃない?「研究室は、いつも散らかっていて汚いけど、物の配置は大体覚えているの。何もなくなったものは無かっ たわ。食べかけサンドイッチ以外はね。」あ、あれは僕が食べたんじゃないよ。スタイン先生が食べたんだから。「研究室もそろそろお掃除しなくちゃダメかしらねぇ。」彼女 は、マルクが必死に言い返すのを受け流し、窓の外を眺めながら言った。マルクは、そっと掃除の魔道具であるラッパガラス管の方を見た。雲が渦巻くガラス管の中からは、先 ほどよりもさらに多くの目玉がこちらを睨んでいた。彼は、研究室のお掃除もアイゼナッハさんが担当するに違いないと確信した。そして、出てくるほこりの量は、こんなもん じゃぁ無いんだろうなぁと思ったのだった。
 あくる日、マルクと一緒に研究室に顔を出したアイゼナッハは、昨日と同様に右手にはたき、(「これは、はたきというより、南の大陸で御払いに使われている、魔道具だと 思うのだけど・・・」マルク)左手にラッパ、背中に1ダースの予備ガラス管、頭にはほこりよけ?の頬かむりのようなものをして現れた。「いや、掃除はまた今度、別の機会 にしてくれたまえ。」万全のお掃除準備を整えた彼女を見て、スタイン先生は言った。「召喚系魔道力学の学会が、マイヤー帝国首都、クリスタルシティーの王立魔道院で開催 されるのは君も知っていることと思う。」「はい」「その研究発表論文なのだが・・・我が校の代表としてアイゼナッハ君、君が選ばれたのだ。しっかり頼むよ。」スタインは 、そう言うと彼女の右手を両手で包むようにして握手した。はたきがぱたぱたと揺れる。あまりのことに一瞬我を忘れて立ちすくむ彼女。良かったね。マルクは、彼女を見上げ ると、右手の親指を立ててウインクしてみせた。「ありがとうございます。私、がんばります。ありがとう、ございます。」最後のほうは涙声になっていた。どうやらとっても 嬉しかったらしい。マルクは、召喚系魔道力学の学会というものがどのような会なのかよく分からなかったが、王立魔道院がマイヤー帝国で最も有名な魔道の研究施設であるこ とは知っていた。多分、その学会というものも、権威のあるものに違いあるまいと思った。「マルク君、いっしょに頑張ろうね!」え?「先生、私の助手としてマルク君を指名 します。彼は、若いのに魔道に関する造詣が深くて物知りなんです。それに、彼の発作と召喚系魔道には関係がありますし、彼にとってもプラスになると思うんです。」彼女は 、涙できらきらと輝く瞳でスタインを見ると、そう言った。「ふむ、マルク君、彼女はああ言っているが、君はどうかな。その、君さえ問題なければ、悪くない申し出だと思っ ているのだが。」はい。マルクは、直立不動で返事をした。休みは1ヶ月もあるのだ。その間、彼女とクリスタルシティーに行くのも悪くない。それに、放っておくとあのほこ りみたいのを、どんどん吸い寄せてしまいそうだから。「嬉しい!」彼女は、マルクを抱きしめるとほほにキスをして、研究室内でくるくると舞った。顔を赤らめたマルクに、 スタイン先生が顔を近づけて小声で言った。「彼女は、色々と問題のある娘なのだが、・・・よろしく頼む!」そして、右手の親指を立てると、マルクにウインクしてみせた。 そのとき、彼らの後ろから、ぶいーんという音が聞こえてきた。「私のいない間、汚くなるんですから、やっぱり今のうちにお掃除しておかなくちゃ。」ガラス管の中には、あ っという間に雲のようなほこりがたまっていた。昨日のお客様の分もたっぷり吸い込んだガラス管の中からは、いくつもの目玉がぎょろりとこちらを睨んでいた。
 ステージに対面して扇状に座席が並び、その座席が階段状に配置された巨大なホールには、すでに学会員が並んで着席し、開会の宣言がなされるのを待っていた。マルクは、 アイゼナッハの隣に座って、緊張した面持ちでステージの上を見ていた。上、をである。ステージの上には、緞帳を作動させる装置があるのだが、そこに例のほこりを発見して しまったのだ。どんよりとした雲のようなそれは、収束したり、発散したり、ゆるゆると流れて形を変えたりしていた。マルク君、どうやら彼女の影響で、「見える」ようにな ってしまったようである。もともと魔道センスが高く、その才能があったわけであるが、彼女に出会うまでは休眠状態になっていたらしい。
 ステージ上に、タキシード姿の頂上の禿げ上がったオヤジが現れた。「えーっほん、あー、これより、第125回、召喚系魔道力学総会を執り行いたいと思います。」雲みた いな物体が、ステージの上からするすると紐のようになって降りてくると、タキシードオヤジの鼻の穴に入った。「ふが、・・・ふぇくしょん!」ツバキが飛んだ。「・・・失 礼、では・・・、まず、最初に、王立魔道院から、院長であり、学会名誉会長でいらっしゃる、シュバルツ伯爵より御言葉を賜りたいと存じます。」雲状の物質は、タキシード の頂上部が気に入ったのか、禿げ上がったその周辺部に残る数少ない髪の毛をもてあそびながら、くるくると頭の周りを飛んでいた。マルクは、このことに自分以外の誰かが気 がついているかしらと思い、座席の背もたれに隠れながら、ゆっくりと後ろを振り返った。すると、頭髪を額のところでくっきりと二つに分け、銀ぶち眼鏡をかけた堅物そうな 男が、後ろで彼を睨んでいた。男の頭上にも、もやもやとした物体が渦を巻いているのが見えた。マルクは、目玉をまん丸にし、口をへの字に結んで、男の顔を見返しながら、 シートの背もたれにゆっくりと隠れた。この人、気が付いてないんだ。ふと前方を見ると、彼の目の前にいる殆どの人たちの頭上に雲が漂っているのが見えて寒気がした。彼女 は?彼女はどうだ?もし、隣に座る彼女の頭上にも、この雲みたいな物が見えたら、どうしよう?心臓がどきどきしてきた。ステージ上では、すもうレスラーみたいな巨漢が、 何事かをしゃべっていたが殆ど聞き取れなかった。マルクは、またゆっくりと首を回すと、彼女の方向を見た。
 アイゼナッハは、初めて参加する召喚系魔道力学総会に感動していた。巨大なホールに集められた人材は、この国を、(いや他国からの出席者もいる)代表する召還系魔道の 専門家たちである。その代表者たちの中に自分がいる。やっと、自分は彼らと肩を並べることが出来たのだ、という達成感。なんと名誉なことだろう。彼女は、シュバルツとい う男の話が、ほとんど頭に入っていなかった。ところで、先ほどから隣のマルク君の様子がおかしい。どうしたのかしら?彼女は、ステージ上から目を離さないようにしつつ、 マルクに顔を近づけると小声で囁いた。「ちょっと、マルク君。どうしたのよ。」
 よかった、彼女には雲が取り憑いていない。しかし、さっきから自分がもそもそ動いていたため、周囲の人から白い目で見られているのも事実。どうしよう?彼女が顔を近づ けて囁いてきた。え?どうしたって・・・。彼女にも見えていないのか、この雲。もはや、会場中に雲が充満しているような状態だと言うのに。見えないんじゃ、しょうがない な。怖がらせても仕方ない。
 「マルク君、一体どうしたのよ?」彼女は、マルクの方を見て、もう一度囁いた。マルクは、両手をまたの間にはさみ、もじもじしながら囁き返した。「あ、あの、僕・・・ 、オシッコしたくなっちゃった。」彼女は、一瞬戸惑ったような表情を見せたが・・・、すぐに顔を引きつらせながら言った。「はったおされたいの?」小声のため、かすれた ような声で囁いたセリフは、世界最強!鬼のような表情も美しいと思ったのだった。
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