脇坂 安治 天文二三(1554)年〜寛永三(1626)年
武将列伝
近江浅井郡出身。羽柴秀吉に仕え、近江の浅井攻め、播磨の別所攻めなどに参戦。天正一一年の賤ヶ岳の合戦では、七本槍の一人と言われるほどの戦功をあげ、山城にて三千石を褒美としてもらいうける。さらにその二年後の天正十三年には淡路洲本三万石の大名となる。その後も主君秀吉と共に、九州征伐、小田原の北条攻めにも参戦。朝鮮出兵では九鬼義隆などと共に、水軍を率いる。慶長五(1600)年の関ヶ原合戦においては、はじめ石田方である西軍に属するが、小早川秀秋の寝返りに呼応するかのようにして、東軍に味方することになる。この事により戦後も所領が安堵される。慶長十九(1614)年には伊予大洲五万三千石へ転封され、翌元和元(1615)年には京都にて隠棲する。
関連史跡


渡辺 了 永禄五(1562)年〜寛永一七(1640)年
武将列伝
勘兵衛。近江阿閉氏の家臣。天正一〇(1582)年に豊臣秀吉に仕え、羽柴秀勝の旗下に就いた。山崎の合戦、そして賤ヶ岳の合戦にて功をあげる。主君であった秀勝が死去すると、伯耆米子城主の中村一氏に仕える。天正一八(1590)の北条攻めに際し、山中城攻略でもって功名を挙げた。しかし主君の一氏とそりが合わずに出奔し、増田長盛に客将として仕える。関ヶ原の合戦の際には大和郡山城を守備する。主君が処罰されるまで城を最後まで守り抜き、敵将であった藤堂高虎に乞われてこれに仕えた。大阪の陣で長宗我部氏と対陣するが、藤堂高虎との間で意見の対立を生む。そしてまたまた藤堂家を出奔し、浪人生活を送る事になる。
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和田 惟政 天文元(1532)年〜元亀二(1571)年
武将列伝
近江甲賀群の領主であり、13代将軍足利義輝に仕えていた。しかし松永久秀をはじめとする、三好三人衆により義輝が討たれると、その実弟であった一乗院覚慶こと義昭を、僧の身分から還俗させる。流浪の身からはじめ朝倉氏をたよるが、上洛の夢果たせず。その後信長の庇護により無事に上洛を果たす。それまでの間、義昭の側を離れる事の無かった惟政は、信長より摂津高槻城を与えられる。また惟政は熱心なキリスト信者でもあった。宣教師フロイスと信長との間を取り持ったりもした。が、洗礼を受ける前に、元亀二年(1571)に、摂津郡山にて討ち死にを遂げてしまう。