源頼家

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事跡: 
 寛弘4(1007)年、出生?
 長元8(1035)年1月9日、
六位蔵人(左衛門尉)
            5月16日、『賀陽院水閣歌合』方人
 長元9(1036)年4月17日、蔵人を去る            
 長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久元(1040)年、備中守?
 長久2(1041)年、4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
 永承2(1047)年ごろ、『左京大夫道雅障子絵合』に参加 

 天喜元(1053)年、 越中にて『頼家名所合』催行
 治暦3(1067)年ごろ、筑前守
 延久4(1072)年以降、出家
 承暦3(1079)年ごろ、橘為仲から和歌六人党の最後の二人となったことを憂う文を受け取る。これ以後、没か。

 和歌六人党の一人。極官は従四位下。後拾遺集初出。

源頼家の和歌(1) (2)

逸話:『袋草紙』
道雅三位は、帥大臣殿の息なり。八条の山庄の障子の絵に、歌合に読ましめて撰びて書かしむ。作者は、兼房・家経・範永・経衡・頼家等なり」
「江記に云はく、「往年六人党あり。範永・棟仲・頼実・兼長・経衡・頼家等なり。頼家に至りては、かの党頗るこれを思ひ低(かたぶ)く。範永曰はく、「兼長は常に佳境に入るの疑ひ有り」。これ経衡の怒る所なり」。また云はく、「俊兼の曰はく、「頼家またこの由を称す。為仲、後年奥州より歌を頼家の許に送る。『歌の心を遺す人は君と我なり』と云々。頼家怒りて曰はく、『為仲は当初(そのかみ)その六人に入らず。君と我と生き遺るの由を称せしむるは、安からざる事なり』」」と云々。」