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『金葉集』第十九、雑五
  
    「松上雪」をよめる 

323 万代の ためしと見ゆる 松の上に 雪さへつもる 年にもあるかな

『詞花集』第十九、雑五
  
    土御門右大臣の家に歌合をし侍りけるによめる
 
64  よもすがら たゝく水鶏は 天の戸を あけてのちこそ をとせざりけれ

『詞花集』第十九、雑五
 
    所々の名を四季に寄せて人々歌よみ侍りけるに、「三島江の春の心」をよめる

    
272
 春霞 かすめるかたや 津の国の ほのみしま江の わたりなるらん

『後拾遺和歌集』第十九、雑五


    ものいひ侍りける女の五節に出でて、こと人にと聞き侍りければつかはしける  

1125 まことにや なべて重ねし おみごろも 豊の明りの かくれなきよに   

『金葉集』雑上
   
    源頼家が物申しける人の五節に出でて侍りけるを聞きて、
    まことにやあまたかさねし小忌衣豊の明かりの曇りなき夜に、
    とよみてつかはしたりける返事に               
                                   源光綱母
574
 日蔭には 無き名立ちけり 小忌衣 きて見よとこそ いふべかりけれ

『後拾遺和歌集』第十七、雑三

    
頼家朝臣世をそむきぬと聞きてつかはしける
                                   律師長済 
1023 まことにや 同じ道には 入りにける ひとりは西へ ゆかじと思ふに  

【通釈】
 
  「松の上の雪」を詠んだ歌 

 万代の ためしと見ゆる 松の上に 雪さへつもる 年にもあるかな

    土御門右大臣の家で歌合をしました折に詠んだ歌
 
 よもすがら たゝく水鶏(くひな)は 天の戸を あけてのちこそ をとせざりけれ

    いろいろな場所の名を四季にこと寄せて人々が歌を詠みました
    折に、「三島江の春の心」を詠んだ歌

    
 春霞 かすめるかたや 津の国の ほのみしま江の わたりなるらん

    求愛していました女が五節に出て、別の男と浮気をしたと聞きましたので贈った歌

  私以外の男と小忌衣を重ねたというのは本当ですか。豊明節会で
  秘密も明るく照らし出されて隠れようもない夜に。
 
    源頼家が、求愛していた人が五節に出ていましたのを聞いて、
    「まことにやあまたかさねし小忌衣豊の明かりの曇りなき夜に」、
    と詠んで贈ったその返事に
    
 
  身につけた日蔭鬘ではありませんが、陰ではあらぬ噂が立ってしまいました。
  小忌衣を着て、やってきて確かめなさいと言いたいことですよ。

     頼家朝臣が出家したと聞いて贈った歌
 
  あなたもわたしと同じ出家者の道に入られたと聞きましたが、本当ですか。
  ひとりでは西方浄土へ赴くまいと思っていたのに、うれしいことです。  
        
【語釈】
●万代……数限りなく続く世。千歳。
●土御門右大臣……源師房。寛弘5(1008)年藤原頼通の猶子となる。長暦・長久の2度の歌合を自邸で開催し、また多数の歌合に出席、和歌の隆盛に努めた。日記『土右記』を著す。後拾遺集初出で2首。
●よもすがら……夜通し。
●たたく水鶏……「水鶏」は夏クイナ、ヒクイナのこと。夏期に日本へ渡来する。
●天の戸……天上にあるという岩屋の戸。
●あけてのちこそ……「開け」に「明け」を掛ける。戸を開け、夜が明けて後は。
●ほのみし……ほのかに見る、かすかに見る。
●なべて重ねし……「なべて」は一面に。一面に重ねた。
●おみごろも……小忌衣(白布に山藍の汁で草木や小鳥などの文様を青く擦りつけた、狩衣に似た衣服。右肩より二本の赤紐をたらし、冠に日蔭のかづらを着ける。大嘗会・新嘗会・豊明・五節の折などに、上卿・参議・弁官・舞人などが装束の上に着た)。
豊の明りの……豊明節会。11月中の丑の日の夜、特に選ばれた五節の舞姫が参内し五節所と呼ばれる常寧殿に入る。帝が常寧殿の帳台に渡御、舞姫たちの試演と殿上人の乱舞を御覧になる(帳台の試み)。
翌寅の日、清涼殿にて「殿上の淵酔」を行い、夜は清涼殿廂の間で舞を行う(御前の試み)。
翌卯の日、清涼伝に舞姫の介添えの童女や下仕えを召し、廂に座らせ帝が簾中から御覧になる(童女御覧)。
翌辰の日、紫宸殿で豊明の節会、舞姫たちは五節の舞を行う。
かくれなきよ……豊明節会の「夜」と、浮気の噂が人の口の端に上ることを、かくれなき「世」と掛けた。
日蔭……大嘗会・新嘗会の際、冠につける飾りの組み紐。
きて見よ……「来て」と「着て」を掛ける。
●頼家朝臣世をそむきぬ……晩年、延久4(1072)年以降、出家したらしい。
●律師長済……万寿元(1024)年〜永保2(1082)年。正四位下藤原家経の男。母は中宮大進藤原公業女。六人党・藤原経衡の甥。三論宗、東大寺の僧。承暦4(1080)年に権律師となる。後拾遺集初出。
●ひとりは西へゆかじ……一人では西方浄土(極楽浄土)へ行くまいと思っていた。