白神山地と三内丸山遺跡からの発信

白神山地は屋久島と共に日本初の世界自然遺産として 三内丸山遺跡は縄文時代における最大規模
の集落跡として 共に有名です。 両方に共通するキーワードは「ブナの森」です。 白神山地は現存
する世界最大級のブナ原生林であり 三内丸山遺跡はブナの森がもたらした縄文時代について
従来の見方を一変させました。

実は 朝日新聞の財団法人・森林文化協会主催のツアーに参加したのですが 青森県で自然保護
活動の最前線で大活躍されている3氏(村田孝嗣 吉川隆 高橋仁志)のお話を 直接聞く機会があり 
色々と考えさせられました。 という訳で このページでは白神山地と三内丸山遺跡を訪れ 私が何を
学び感じたかを披露します。 

白神山地
白神山地は雪に半年も閉ざされており
「白い神の山々」という意味。 青森県
南西部から秋田県北西部に広がる低山帯
に大小さまざまな山と川が入り組んでいる
奥深い森。 広大な山域の中に最も高い
向白神岳1243m 2番目に高い白神岳
1232m ほとんどの山は1000m以下


T. 白神山地の世界自然遺産

白神山地には ブナを中心に同じ落葉広葉樹である種々な樹種(ミズナラ トチ カツラ ホウノキ
サワグルミ等)が林立し 山と川が入り組んだ奥深い森の中に 様々な動植物が成育し 人間活動の
影響をほとんど受けていない原流域が集中しています。 古くから山の幸を生活の糧として暮す
「山棲み」と呼ばれる 炭焼き 山菜・キノコ採り 狩人などの極く限られた人々が出入りし 今は存在
しないマタギと呼ばれる伝承性を備えた狩人が 集団で伝統的な作法に則って狩猟を生業として
いました。

一部の観光地化された場所と建設済みの林道を除き ほとんど登山道というものが存在せず 険しい
沢登りと強烈な藪を抜ける尾根超えをしないと 奥深い山に入ることが困難な場所です。 材木市場
である都市から遠く 伐採や木の搬出が難しい辺境にもあります。 

こうしたことが幸いして 世界最大級と言われる白神山地のブナ原生林は 手付かずのまま今に残さ
れてきたと言えますが もう一つ ブナの森を守る為に林道建設に反対し中止させた 地域住民を中心
とした自然保護活動(第U項で詳述)を忘れることは出来ません。 

白神山地が ユネスコの世界遺産委員会で屋久島と共に 日本初の世界自然遺産として登録された
のは1993年12月です。 世界自然遺産として登録されたのは白神山地の13%に相当する地域で 
青森県側が3/4 秋田県側が1/4を占めています。 

世界遺産(World Heritage)とは 世界遺産条約に基づく世界遺産リストに登録されている物件のこと
です。 ナイル川のアスワン・ハイ・ダムの建設計画において 水没の危機にさらされた古代エジプト王
(ラムセス2世)の神殿などの遺跡群の救済問題で 1959年にユネスコが遺跡の保護を世界に呼び
かけ 多くの国々の協力で移築したことに始まります。 人類共通の遺産を 国家を超えて協力し合い
保護・保存することの必要性から生まれた概念が 世界遺産です。

世界遺産条約は 1972年のユネスコ総会で採択されましたが 日本は20年後の1992年に国会承認
を得て締約国にやっと仲間入りしました。 白神山地や屋久島が世界自然遺産に登録される必要条件
は 日本が締結国となることでした。 世界遺産に登録された物件は 大規模自然災害 戦争 
開発事業 自然環境の悪化 などによって滅失や破壊など深刻な危機にさらされ 緊急の救済措置が
必要とされると世界遺産委員会が判断すれば 各締約国の拠出した世界遺産基金から 必要に応じて
保全に対する国際援助が行われることになります。

青秋林道
青秋林道の青森県側終点。 秋田県
八森町と青森県西目屋村を結ぶ28km
林道として建設が始まったが 反対運動
により1990年に中止。
 秋田側終点
までの道路は舗装されている。

U. 青秋林道建設反対運動

白神山地のブナ原生林を守る為に展開された グラスルーツ(草の根)からの青秋林道建設反対運動は
林野庁の森林施業方針を大転換させ 林道建設中止に至らせた点で 日本の自然保護運動史に残る
快挙です。 青秋林道建設中止なしに 後の世界自然遺産登録も無く 反対運動の功績は大です。
青秋林道建設反対運動が始まる前に 重要な伏線となったのが 青秋林道の着工からさらに遡ること
10年 白神山地の北部地域を東西に横断する形で開通した旧弘西林道(現在の県道「白神ライン」)
です。

弘西林道は「 弘=弘前」と「西=西津軽郡」を結ぶ林道として1973年に完成しました。 青森県の
日本海側の岩崎村から 白神山地にある赤石川上流を横切り 西目屋村を結び弘前方面へ抜ける道
として重宝されました。

ブナ原生林は全ての源である水を貯えた「水瓶」の役割を果たし 川の流域に住む住民の生活を支え
てきました。 旧弘西林道の建設と 同時進行した林道周辺のブナ伐採により 山はその保水力を
失い 白神山地に流れを発する多くの川の水量は 明らかに激減し アユもめっきり減りました。 
大雨が降れば 荒れた山肌を削って大量に土砂を含んだ濁流が川を汚し 河口を濁らせ沿岸漁業にも
打撃となりました。 赤石川などの地域住民は 林道建設とブナ林伐採に伴う被害を現実に受け 悲惨
な結果を実感していました。

こうした中で起きたのが 新たな「青秋林道」建設計画です。 青秋林道は 青森県の「青」 秋田県の
「秋」をとった名前で 白神山地から流れ出す河川の源流域を貫いて 秋田県八森町と青森県西目屋村
を結ぶ28km林道として 1982年に建設が始まりました。 その目的は 青森と秋田との
「経済や文化の交流」「地元の過疎対策」「森林資源の活用」 と言われていましたが 森林資源である
ブナの伐採が一番の目的でした。  

地元で長年に亘ってブナ原生林保護の為に 活発な活動を行ってきた青森県側の自然保護団体
「青秋林道に反対する連絡協議会」を中心に 日本全国に広がった林道建設反対運動は ついに政治
をも動かし 1988年に工事凍結 1990年には林野庁による森林生態系保護地域に指定され 工事中止
となりました。

反対運動を成功させた要因は 「日本自然保護協会」が着目した次の3点について 青森県側の
自然保護団体が実行に移したからです。

(1)青森県の鯵ケ沢町を流れる赤石川源流の林道工事を進めるには 水源涵養保安林の指定を解除
   しなければならない
(2)直接の利害関係者であれば保安林解除について異議意見書を出せる
(3)異議意見書が出されれば 林野庁は公聴会で一人一人から反対意見を聞かなければならない

青森県の自然保護団体の人々は 赤石川流域の集落ごとに反対集会を開き 林道建設の異議意見書
を出すよう説得しました。 「源流で工事が行われれば また赤石川が損なわれる」 ことを既に実感して
いた住民は 「赤石川流域を守る会」を発足 地域住民が反対の先頭に立つたことで行政側は反対運動
を無視できなくなりました。 直接の利害関係者である赤石川流域住民を中心に 全国からも寄せられた
最終的には約1万4000通もの 日本の林政史上空前といえる異議意見書提出となり 建設中止の
流れを加速させました。 

ブナ原生林を守る為に 地域住民を中心に立ち上がった高い市民意識は その後の自然保護運動の
模範となっています。 
 
ブナの大木(津軽峠にて)
写真は樹齢400年 胸高直径1.5mある
ブナの大木で「マザーツリー」と呼ば
れる。 ブナは漢字で「木」偏に「無」と
書き 生育が遅く腐り易く割れ易いこと
から 使い道の無い木として扱われブナ
を伐採して代わりに杉を植林することが
奨励された。 ブナの寿命は一般的に
300年と言われる。

V. 入山禁止と保護のあり方を巡る論

青秋林道建設反対運動については 後日談として NHKを巻き込んだ面白い話があります。

2001年7月10日のNHK TV番組「プロジェクトX 白神山地・マタギの森の総力戦」は 秋田県側の
自然保護団体リーダーであった鎌田孝一氏にスポットを当て 秋田県側が中心となった市民運動が
青森県側にも広まり 「青秋林道」建設を中止に追い込んだ如く放送しました。 これに対し 青森県側
の自然保護団体と日本自然保護協会は 番組内容に偏向があり重要な事実関係を誤認している
として 公開質問状を送りNHKに回答を求めました。

白神山地を守る運動は 青森県側と秋田県側で独立して同時発生したものであり 最終的には
青森県側住民の保安林解除に対する異議意見書の数の多さが 林道中止判断に決定的な影響を
与えたというのが真実です。 NHKは日本自然保護協会からの公開質問状に対し誤りを認め  番組の
本とビデオの発売を取り止めました。。

青秋林道建設は 1990年に白神山地が森林生態系保護地区に指定され 営利的な森林施業ができ
なくなったことで 正式に中止されました。 しかし森林生態系保護地区は 林野庁長官の通達に基づく
制度であり この法的不備を補い白神山地を永遠に守る保障となったのが 世界自然遺産登録です。

世界自然遺産に登録されて大団円ですが しかし これが新たな問題と戦いの出発点となりました。
白神山地の世界自然遺産地域は 核心地域(コアゾーン)と緩衝地位(バッファーゾーン)に区分され
ていますが 1994年6月 青森営林局は核心地域の入山を禁止しました。 白神山地には そこで
生計を立て 自然と密接に関わりあってきた人々が従来からいましたが 核心地域では指定ルートに
ついて入山許可の事前申請が義務化され 釣り 焚き火 山菜取りが禁止され 各河川では周辺部分
まで禁猟となりました。 山の恵みを生活の糧にし 山を伐採から守った地域住民が 林道建設で山を
壊そうとした行政側によって 山から追い出されるという 皮肉な結果になった訳です。

以来 入山を禁止・規制すべきか すべきでないか と言う議論が 今尚 延々と続けられています。 
入山規制に賛成するグループの意見は 「無制限に人を入れれば、オーバーユースになって貴重な
自然が損なわれる。 世界遺産なのだから 自分だけのものだと考えてはいけない」 入山規制に
反対しているグループの意見は 「もともと白神山地は マタギやキノコを採る人達などの 地域住民の
生活の場であった。 オーバーユースになるほど生やさしい山ではない。 入山禁止・規制措置は
慣習的に先祖代々 自然からの恩恵を糧にしてきた人からすれば生活権の侵害である」  というもの
です。

入山の禁止・規制について 青秋林道建設中止のために一緒に闘った自然保護団体でありながら
秋田県側(賛成)と青森県側(反対)の意見が 二手に分かれて争っています。

こうした議論は両極端に走り勝ちですが 自然と人間を対峙させるのではなく 自然と人間を共生
させる知恵が必要です。 環境を守ることと そこで暮らす人々の生活を両立させる為に何をすべきか
我々の良識が問われています。 保護されるべき自然と 保護する人間が二元的に存在するのでは
なく 保護されるとしたら むしろ人間の側であるべきなのですが それがいつのまにか逆転して
しまっていないでしょうか。

三内丸山遺跡の大型掘立柱建物(復元)
三内丸山遺跡は縄文時代(今から1万5千年
〜2400年ほど前まで)の前期中頃から中期末
(BC3500〜BC2000年)に存在した最大の
集落跡。

写真は 地面に穴を掘り6本の柱を立てて
作った建物跡に 高床の建物を想像し復元した
もの。 三内丸山遺跡のシンボル的存在で
建物説と非建物説がある。

W. 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡は本州北端 JR青森駅から南西約4kmほどの丘陵地帯にあります。 江戸時代には
既に知られていた有名な遺跡で 縄文時代の前期中頃から中期末(BC3500〜BC2000年)頃までの
1500年間続いた大集落跡です。 縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡で
たくさんの竪穴住居跡 掘立柱建物跡 大量の遺物が捨てられた谷 大規模な盛土 大人と子供の墓
土器作りの粘土採掘穴 土器や石器などの生活関連遺物 土偶などの祭祀遺物が見つかっています。

1992年から始まった県営野球場建設に先立つ発掘調査で 日本考古学史上例を見ない 巨大な縄文
時代の集落である事が明らかになり 1994年7月 直径約1メートルのクリの巨木を使った縄文時代
中期の大型掘立柱建物跡の発見をきっかけに 遺跡の重要性を考慮した保存の声が高まり 青森県
は途中まで進めていた野球場の建設工事を中止し 遺跡の永久保存と活用を決定しました。
大型掘立柱建物の柱は6本で 柱穴の直径2m 深さ2m 全ての間隔4.2m 中に直径1mのクリの
巨木が残っていました。

復元された大型掘立柱建物(写真)は 屋根なしの見張り用楼閣で 三内丸山遺跡のシンボル的存在
となっています。 用途や構造等について 大きく建物説と非建物説(木柱列説)に別れ 具体的には
祭殿や神殿などの宗教的施設 物見櫓 灯台 見張り台 天文台  トーテムポールなどとする見方が
あり 三内丸山遺跡の大きな謎の一つです。

洞くつや岩陰を住まいにし 動物を追い 魚を捕り トチや栗など木の実を採取する 移動・狩猟・採取
中心の不安定な非定住生活が「縄文時代」 これに対し 稲作により生活水準が飛躍的に向上し安定し
た定住生活が可能になったのが「弥生時代」 という これまでの歴史的常識を根底から覆した点で
三内丸山遺跡は画期的でした。 遺跡調査で分かったのは 縄文時代に三内丸山で村を作り1500年も
長期定住した人々の集落が存在したことです。 遺跡調査で縄文人の等身大の生活が少しずつ解明
され 「原始的で野蛮」という縄文観は確実に塗り替えらました。

具体的には 計画的な集落作り 高度の土木技術 加工技術 布製の衣服 航海技術 ヒスイ・琥珀・
黒曜石といった遺物から東日本全域をカバーする交易圏 栗を主食とした大規模な栽培(農耕初期) 
果実酒を含む多様な食生活 自給自足でない分業体制など  「弥生時代以降」に始まったと考えられ
ていたことの多くが既に「縄文時代」の三内丸山に存在していたことが 明らかとなりました。 こうした
ことから  「日本文化のルーツは狩猟・採集の縄文文化ではなく 稲作農耕の弥生文化である」とか
「米を食べる弥生人が原日本人で、米を食べない縄文人は征服された野蛮な先住民」 という従来から
の誤った固定観念も崩されることとなりました。

「まほろば」とは優れた良い所という意味です。 1万年以上も続いた縄文時代に 三内丸山を中心と
した東北地方は 「北のまほろば」として 独自の高い文化を誇っていたことになります。 その縄文文化
と豊かな定住生活をもたらしたのは ブナに代表される落葉広葉樹の森だったのです。

三内丸山遺跡の大型竪穴住居(復元)
復元された写真の大型竪穴住居規模は
長さ32m 幅10m  ほぼ中央に炉があり
何本もの柱で屋根を支えた。 集会所
共同作業所 共同家屋などとして使わ
れたとする諸説がある。 規模の小さい
小型竪穴住居も多く発見されている


X. ブナの森がもたらした縄文文化

日本の歴史は教科書を読み直すまでもなく 旧石器→縄文→弥生→大和→飛鳥→奈良→平安→ 
の如く時代区分され 現代に至っています。 水田稲作が盛んになる弥生時代の前が縄文時代で
今から1万5千年〜2400年ほど前までの1万年以上も続きました。 当時の気候は温暖化が進み
西日本一帯にはカシ・シイを主体とする照葉樹林帯 東日本にはブナ・ナラなどの落葉樹林帯が広がり
ました。 縄文時代の豊かで安定した定住集落を支えたのが 落葉広葉樹のブナ林で 英国でブナは
「森の母」と呼ばれています。、

驚くことに 縄文文明は チグリスユーフラテス川流域に発展し世界最古の文明と言われてきた
メソポタミア文明より更に古く 世界最古と文明である可能性がかなりあります。 世界史的に見ると
世界四大文明である メソポタミア文明は今から5500年前 エジプトの初期王朝時代は約5000年前 
3大ピラミッド建設は4500年前  インダス文明は4400年前 中国で最初の王朝である殷の成立は
3600年前です。 これに対し 三内丸山遺跡は今から5500〜4500年前の1500年間も生産・交易・祭祀
の場として栄えた古代集落で 当時の世界最先進の文化と歩調を合わせるか 或いは先行していま
した。 エジプトなどの四大文明は大河と砂漠の地域に発展しましたが 大陸とは気候も生活条件も
異なる日本の縄文時代には 山と川の恵みの象徴だったブナ原生林が存在し 稲作なしに豊かな
食生活と定住生活が可能でした。

縄文時代に東北地方を含む東日本が 稲作なしに 日本文化の中心地でありえたのは 豊かな食生活
を支えたブナの森の恵みによりますが 縄文土器の果たした重要な役割も忘れることはできません。
世界最古の土器は 青森県で出土した縄文土器で 放射性炭素法年代測定により約1万6500年前と
判定されています。 当時の縄文人たちは 竪穴式住居のなかで たき火の中に縄文式土器を据え 
鹿・ウサギ・猪などの肉 魚介類 それに根菜類やトチなどの木の実からとった澱粉などを入れ煮立てて
食べていました。 これは当時の地球では最先端の食文化(土鍋料理)でした。

日本列島で同時発生したブナの森と縄文時代は 世界最古の土器を持つ人々が生活を始め 縄文土器
による煮炊きで食べられる範囲を拡大し 食料事情と生活様式を革命的に変えました。 土器使用に
よる煮炊きで 動物性食料から植物性食料の割合が増加し 食べられる食料が多様化し 土器により
飲み水と保存食の確保が可能となり 移動の必要性がなくなりました。 縄文時代の集落と定住生活を
支えたのは縄文土器でもあったのです。

天狗峠から天狗岳への登山道
天狗岳は標高958m 県道・白神ライン
天狗峠から登る。 白神山地の登山道は
少なく 他に 太夫峰(1164m) 白神岳
(1232m) 大峰岳(1020m)などに登る
主要登山道がある。 白神山地に入るには
秋田県側or青森県側からの選択となるが
見所は青森県側に多い。

Y. 白神山地と三内丸山遺跡からの発信(まとめ)

日本文化起源論として 「照葉樹林文化論」と「ブナ帯文化論」 の二つがあります。

照葉樹は 西日本に分布するクスノキ シイ カシ ツバキなどの常緑広葉樹を指し 葉の革質に光沢が
あり 東アジアの暖温帯地域に広がっています。 照葉樹林帯に生活している日本民族は 稲作文化
として共通する多くの物質文化・食文化・精神文化を持ち 日本の深層文化を形成しているというのが
定説でした。 日本の文化基盤は暖かい西日本で始まった稲作文化にあり 稲作=照葉樹林帯文化の
視点から 東日本に広がった縄文時代は生産性の低い野蛮な過疎地でしかなかったとされました。

しかし 最近の三内丸山遺跡等の調査で(ねつ造事件は別として) 縄文文化が意外に高度であった
ことが明らかになりました。 弥生時代より前の縄文時代において 東北を中心に豊かな独自の文化が
存在し その文化を作り出したのが ブナやミズナラを代表とした落葉広葉樹林帯=ブナ帯の生態系
システムでした。 「ブナ帯文化論」とは 日本の基層文化を生み出した母胎として ブナ林の価値を
再認識したものです。 最近の考古学調査で 従来 弥生時代以降と考えられてきた色々な事が既に
縄文時代に行なわれていたことが判明し  これまでの縄文観を劇的に変えました。

約600年続いた弥生時代に始まる稲作文化は 照葉樹林を焼き払い水田に変える自然支配を当然の
こととし 自然を破壊しながら 工業文明 都市文明へと生活圏を進歩・発展させていく中で 大きな
生態系システムの循環は忘れ去られました。 その行き着く先として 大気・水質汚染 温暖化 砂漠化
生体をむしばむ環境ホルモン 過剰人口などの問題から 終末思想があります。 これに対し 1万年
以上も続いた縄文時代は ブナを代表とする落葉広葉樹に覆われた森の世界で 縄文人は自然と共生し
森の恵みと庇護の下で 循環する生態系システムが守られていました。

このまま書き続けると Never ending story となるので このページ全体をこの辺でまとめ 強制着陸
させることにします。

白神山地と三内丸山遺跡は 現在の我々に 何を語り発信しようとしているのでしょうか??

かつて1億5千年前の地上を君臨していた恐竜は 環境の変化に順応できず絶滅しました。 現在の
我々が持つ終末思想とは 人類も恐竜と同じように環境の変化に順応できず 絶滅が近いのではという
恐怖です。 恐竜と同じように 人類も いつか 絶滅から避けがたいとしても 恐竜と人類の違いは 
環境を壊し変えたのは 恐竜ではなく 人類である点です。

環境を人間が壊し始めたのは 日本では弥生時代がスタートした約BC300年で 森を焼き払い水田に
変え始めた時点です。 それから今に至るまで 2300年しか経過してないのに 終末思想が広まるとは
驚きです。 その前の縄文時代が1万年以上も続けられたのは 自然と人間が共生し循環する生態系が
守られていたからです。 

人類を絶滅から守るために 今更 縄文時代同様の生活に戻すことは出来ませんが 我々に求められて
いる選択は 「このまま照葉樹林文化を発展させ終末思想を正夢にするのか」 又は 「ブナ帯文化の
自然との共生や循環する生態系システムを尊重し終末思想を無効にするのか」 の何れかではないで
しょうか。

白神山地と三内丸山遺跡が我々に発信しているのは 上記の選択余地です。 皆さんも 是非 
白神山地と三内丸山遺跡を訪れ ブナの原生林の中で このことを考えてみては如何でしょうか。
三内丸山遺跡で復元模型や展示物をご覧になれば 縄文時代に近い生活に戻るのも案外 捨てた
ものではないと思われる(?)かも知れません。 一時話題となった本 「木を植えた人」
(ジャン・ジオノ著 原みち子訳 こぐま社刊) を読み直してみるのも 良いと思います。

これが 私の結論とまとめです。 このページは 白神山地と三内丸山遺跡という 全く異なる2つの
テーマを 「ブナの森」 という共通のキーワードでまとめようと 書き始めました。 まとめは何とか成る
だろうと思っていましたが まとめる段になって 正直 苦しみました。 何とかまとめましたが まとめ方
に無理があったかどうかは 皆さんのご判断に委ねます。 

ご参考まで 私の旅程は次のようなものでした
     初日: 青森空港集合 ビジターセンター 青秋林道 暗門の滝 西目屋村泊
    2日目: 津軽峠 天狗峠から天狗岳山頂近くまで登山  くろくまの滝 鯵ヶ沢泊
    3日目: 三内丸山遺跡 (オプション弘前城) 青森空港解散

このページについて ご意見ご感想を下記アドレス迄いただければ幸いです。

Eメールアドレス*123hakuzouszk@kha.biglobe.ne.jp (注意*正しいアドレスは数字123を除く)

      参考資料:    「白神山地を守るために」 鎌田孝一著  白水社
                 「白神山地ブナ原生林は誰のものか」 根深誠著  つり人社
                 「縄文文化の扉を開く」 国立歴史民族博物館編集・発行 
                 「三内丸山は語る」 久慈力著 新泉社
                 「縄文の宇宙・弥生の世界」 高島忠平・岡田康博著  角川書店

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