私のポルトガル見聞録(10日間の旅)
このページは 私のポルトガル旅行について 既にブログに載せた記事をホームページ用に再編集したもの
です。

ルックJTB主催のパック旅行(8日間)に延泊2日を加え 平成19年6月28日(木)〜7月7日(土)の間 リスボン
から最北部のポルトまでバスで往復し リスボンから最南部のサグレスまでレンタカーで往復したので 
ポルトガルの西側は北から南までほぼ全て見ることが出来ました。

ポルトガルはヨーロッパの西の果てにあり 日本との時差が8時間あります。 往きはフランクフルト(独)で
乗換え 帰りはロンドン(英)で乗換えましたが 成田空港〜リスボン空港まで約17時間半もかかる長旅と
なります。 日本から遠いヨーロッパの果てにあるポルトガルだけのパック旅行に どんな人が参加するのかと
思ったら 参加者は14名(男性4名 女性10名)で 熟年夫婦3組 76歳の男性1名 未婚の若い女性1名 
昔は若かった思われる女性6名という構成でした。 年金生活の老後を海外旅行で楽しむ方が大半で 今回の
パック旅行が40回目という女性も居ました。
 
ポルトガルと日本の交流史として 1543年 種子島の鉄砲伝来, 1549年 フランシスコ・ザビエル来日, 
1582年 天正遣欧少年使節の派遣(リスボンに上陸しスペイン経由ローマ法王に拝謁), 江戸時代の鎖国令
まで続いた南蛮貿易などを 歴史の教科書で習いましたが 今回の旅行は ポルトガルについて見て知る良い
機会となりました。

1.ユーラシア大陸最西端の地・Cabo da Roca(ロカ岬)

ロカ岬(Cabo da Roca)

ユーラシア大陸最西端の地・ロカ岬(Cabo da Roca)
の灯台で 西経9度30分にあり ユーラシア大陸を
一つの陸塊と見るなら まさに西の果てになります。

最西端の地を示す十字架の搭の石碑には 
"AQUI・・・ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR
COMECA" (ここに地果て 海始まる)とポルトガル
の詩人カモンエスが詠んだ詩の一節が刻まれて
います

高さ140mの断崖の上にある展望台から遠く海の先を眺めながら ヨーロッパからアフリカ最南端の喜望峰を
経て1498年にインドへの航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル人)の偉業を思いました。 

それまで インドの香辛料(胡椒)は陸路でヨーロッパに送られていたので ヴェニスの商人が香辛料貿易を
独占していましたが ヴァスコ・ダ・ガマが15世紀末にインド航路を発見してからは インド香辛料貿易の
覇権はポルトガルに移り ポルトガルに莫大な富をもたらしました。

2.ポートワイン発祥の地 Porto(ポルト)

Porto(ポルト)のドン・ルイス1世橋

ポルトガル最北部に位置するポルトのドウロ川に
架かるドン・ルイス1世橋(1886年に完成)です。

ポルトは リスボンの北300kmにあり リスボンに
次ぐ第2の都市です。 

この場所は ローマ時代にカレ(Cale)という名で
あったのが 貿易港(ポルトPortus)として発展して
ポータス・カレ(Portus Cale)と呼ばれるようになり
これがポルトガル国名の語源になっています。

ポルトガルはローマ帝国の一部であったものが 718年にイスラムの手に落ちます。 イスラムの支配下から
イベリア半島を奪い返すキリスト教国(十字軍)による戦いが レコンキスタ(Reconquista 再征服)と呼ばれる
国土回復運動で 1492年のグラナダ陥落で終わります。 こうした歴史の中で ポルトは1131年までポルトガル
の実質的な首都として発展し 1143年のポルトガル独立に前後してコインブラが首都となり 1255年から
今日までリスボンが首都になっています。

ポルトは、「港」という意味であり 混同を避けるため、都市を特定するときは、「オポルト(Oporto)」と呼ぶことも
あります。 ポルトガル語「o」は英語の冠詞「the」に相当します。

ポルトは ポートワイン(ポルトワイン)発祥の地として世界的に有名です。 ポートワインは 一次発酵の途中で
ブランデーを加えて発酵を止めることにより ぶどう本来の甘さを残した酒精強化ワインで 食後酒として
楽しむのが一般的です。

3. ポルトガル最西南端の地・Sagres(サグレス)

サグレス岬

ポルトガル最西南端の地・Sagres(サグレス)の
西端に延びるサグレス岬です。 

サグレスは リスボンから260km南にあり 
ポルトガル産の壜ビールに同名のものがあり
ます。

ポルトガルの壜ビールとしては サグレスと
スーペル・ボックという二つが有名で 市場を
分かち合っています。 

今回のポルトガル旅行で なぜポルトガルの果てにあるサグレスにまで足を伸ばす気になったかというと 
沢木耕太郎著「深夜特急」(新潮文庫)の第7章「果ての岬」を読み その舞台となったサグレスを是非一度
訪れてみたいと前から思っていたからです。 沢木耕太郎がサグレスを訪れたのは リスボンで初めて飲んだ
ビール・サグレスがきっかけとなっています。

著者は「深夜特急」の中で スペインのマドリードからポルトガルのリスボンにバスで移動します。 リスボンで
食事時にビールを頼むと サグレスという小瓶が持ってこられたので サグレスの意味を聞くと 地名と教えられ
ます。 著者は 地図を開きサグレスという地名の場所を探し そこが「ポルトガルの果てで イベリア半島の
果てで ユーラシア大陸の果て」であることを知り 果ての果てがどんな所で そこでサグレスを飲んだらどんな
味がするのかを知りたくなり サグレスに行くことを決めます。

私がサグレスで飲んだサグレスは 沢木耕太郎がサグレスで飲んだサグレスと同じ味がしました!?

4. ポルトガル国民の英雄・エンリケ航海王子

発見のモニュメント

リスボンを代表する観光スポットとなっている
「発見のモニュメント」です。

先の項のサグレス岬は 岬全体が要塞となって
います。 

この要塞は 15世紀初頭にエンリケ航海王子が
世界初の航海学校を設立し航海術(羅針盤利用
など)を教えた場所で エンリケ航海王子は 
大航海時代の先頭に立って海のルートを切り開いた
国民的な英雄となっています。 

その後 バスコ・ダ・ガマがインド航路を見つけることができたのも すべてエンリケ航海王子の先駆的な業績
があったればこそだと 高く評価されています。

エンリケ航海王子について 今回ポルトガルに行くまで 私は全く知りませんでしたが スペインに先立ち
ポルトガルが大航海時代(15世紀中頃からの新航路開拓による地理上の大発見がもたらした海外進出と
植民地獲得の時代)の幕開けを担えたのは エンリケ航海王子が先駆者として航海者たちを指導し援助した
からだそうです。

リスボンにある「発見のモニュメント」(写真)は 1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念してカラベラ船
(エンリケ航海王子が考案したとされている3本の帆を持ち逆風でも進める大型帆船)をかたどって建てられた
モニュメントでです。 舳先にはエンリケ航海王子が立ち 大きな帆船の両側に大航海時代を担った天文学者、
地理学者、航海者、宣教師などが表されています。

石の帆船に乗っているポルトガル偉人群像には 先頭に立っているエンリケ王子の他に 
バスコ・ダ・ガマ(1498年 インド航路発見) ペドロ・アルバルシュ・カブラル(1500年 ブラジル航路発見) 
バルトロメウ・ディアス(1488年 喜望峰発見) フランシスコ・ザビエル(1549年 宣教師として日本到着)等が
居ます。 

「発見のモニュメント」は 偉人群像の中で先頭という別格の扱いを受けているエンリケ航海王子が一番
偉かったということを示しています。 このことは 今回のポルトガル旅行で 私にとって大発見でした。

5.ポルトガルでの運転を初体験

レンターカーで利用したトヨタ・プリウス

リスボンからサグレスまで1泊2日で往復(600km)
した時に借りたレンターカー・プリウスです。 

リスボンに住む娘夫婦と家内を加えた4人で 
サグレスまでバスで行くことも考えましたが
迷った末 レンタカーを借りることにしました。



なぜ迷ったのかと言うと ポルトガルは 左ハンドル車で右側通行(日本と逆)の上に 道路交差点に
ランダーバート(ラウンドアバウト roundabout)と呼ばれるロータリーが滅多矢鱈に多いからです。 私は 
左ハンドル車を米国で2年間運転しましたが 40年も前のことであり 米国にランダーバートはほとんど
無かったので 今回 ランバートを頻繁に通る運転に余り自信を持てませんでした。 

信号機のないランダーバートは 交通量の少ない交差点では流れが良く 優れたシステムです。 しかし 
短所として 交通量の多い道路から車がどんどん進入してくるような場合には 右側の道路からはなかなか
ランダーバートに入れず大渋滞が起きます。 また 全ての運転者が左側から来る車を優先させるという基本
ルールを守らないなら ランダーバートは機能しなくなります。 リスボン市内では ランダーバートの短所が
顕著になっているので レンタカーを借りるべきか迷いました。 

しかし 遠いサグレスまでバスで移動するとなると 途中のバス接続が悪く 色々と不便であり 難しい場所は
娘婿が運転してくれるというので 思い切ってレンタカーを借りることにしました。 

レンタカーは 日本で運転に慣れているトヨタ・プリウスでしたが ウインカーとワイパーの操作レバーが
日本仕様車とは逆なので 私が運転を始めいきなり右折れしようとしたら ウィンカーでなくワイパーが作動
したので 少しパニックになりました。 高速道路では 右側車線を走るほとんどの車の巡航速度が時速
140km/hほどであり そのスピードで右側車線を前の車と十分な車間距離を保って安全運転していると 
後ろから追い越してくる車がどんどん割り込むので 結構緊張しましたが 楽しい経験となりした。 

6. ポルトガル旅行の写真

今回の旅行中に撮った写真の中から 何枚かを追加して以下に載せます。 

リスボンの中心市街

サン・ジョルジェ城から見たリスボンの中心市街。
テージョ川に架かる橋は4月25日橋で 
ヨーロッパで一番長い吊橋。 

サン・ジョルジェ城から撮った風景。
ベレンの塔

リスボンの西の砦として テージョ川からの侵入者
を見張る塔。

16世紀にマヌエル1世(大航海時代をリードした
国王)が建設。
ジェロニモス修道院

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念して
エンリケ航海王子が設計した礼拝堂を基に
エマヌエル1世によって造られた修道院。

完成には16世紀〜19世紀に至るまで長い年月を
費やした。

大航海時代の栄華を象徴した建物。

内部には ヴァスコ・ダ・ガマの棺が安置されて
いる。
サン・ジョルジェ城

数々の民族に支配された歴史を持つリスボンを
象徴する城。

5世紀・古代ローマ時代の砦が基礎になっている。
ロカ岬に立つ十字架の塔

ユーラシア大陸最西端の地であることが 十字架の
ある石の塔に刻まれている。

訪問者は "The westernmost point in continental
Europe where the land ends and the sea bigins"と
書かれた日本語を含めた5カ国の証明書を貰える。

写真はロカ岬の灯台から撮ったもの。
ポルトの町

ポルトはポルトガル最北部に位置し リスボンに
次ぐ第2の都市。

ポルトガル国は歴史的にポルトから発展し
歴史地区は世界遺産に指定されている。

ポルトワイン(ポートワイン)発祥の地でもある。

ポルトワインの工場見学

SANDEMANという1790年創立のワイナリー(熟成
と出荷の工場)の内部。 

説明員の黒マントは コインブラ大学男子学生の
制服で SANDEMANのトレードマークになって
いる。

工場見学時に試飲も可。

ナザレの海岸

1954年のフランス映画「過去をもつ愛情」の中で
出演したファド歌手アマリア・ロドリゲスによって
歌われたテーマ曲「暗いはしけ」の背景として紹介
され一躍有名になった海岸。
城壁の上から見たオビドスの町並み

オビドスは 8世紀にイスラム教徒が造った城壁
に囲まれた小さな町。

城壁は 高さ13m 全長1565m 城壁上を徒歩で
1周できる。
サグレス岬の突端

ポルトガル最西南端にあるサグレス岬(要塞)
の突端部分で 断崖の上に砲台がある。


サン・ヴィセンテ岬

サグレス岬の北にあり 絶壁の上に灯台がある。
蛸のリゾット(Arroz de Polvo)

ポルトガル料理の定番。  

塩茹でのじゃが芋付き鰯の塩焼き(Sardinas
Assadas)もお薦め。

 まとめ

今回 ポルトガル旅行をして強く感じたのは ポルトガルには 海洋国家としてスペインと共に世界を二分した
絶頂期があったという歴史的な事実です。 

ポルトガルが独立国家になったのは 1143年で 初代国王となったアンフォソ・エンリケは イベリア半島を
イスラムの支配から十字軍の協力を得て取り戻すレコンキスタ(国土回復運動)を進めた人です。 独立国家
となるまで フェニキア ギリシャ ローマ イスラム等による支配がズット続いたことから ポルトガルは
文化的にも民族的にも複雑な要素から成り立っています。

欧州最西端の小国に過ぎなかったポルトガルが 大航海時代の幕開けを担い 海洋王国として隆盛の時代を
迎えるのは 当時の地中海を中心とする世界情勢とポルトガルの置かれた地理的な位置があります。 
当時 地中海の貿易航路はイスラムの支配下にあり 東洋(インド等)からの香料・絹・宝石・陶磁器を欧州で
売る交易ルートは 陸路を含め イスラムとヴェネチアが独占し莫大な利益を得ていました。 

この交易ルートを劇的に変えたのが 海外進出を国家事業として進めたポルトガルで 1498年のヴァスコ・ダ・
ガマによるインド航路の発見は ヨーロッパから希望峰を通り南回りでインドとの直取引を初めて可能にした
ものです。 ヨーロッパからインドに南周りで船に乗って行くには 地理的に見るとポルトガルが最も有利な
位置にあり インド航路をポルトガルが発見したのは必然とも言えます。

1543年 ヨーロッパ人として初めてポルトガル人が種子島に漂着します。 その時に伝えられた鉄砲が日本の
歴史を大きく変えますが これも海洋国家ポルトガルが絶頂期にあったことを象徴するものです。

今回のポルトガル旅行は 単なる物見遊山を超えて こうした奥深い歴史的な背景について色々と考えを
巡らせる良い機会となりました。

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