東京の銅像 ベスト10を選ぶ

東京三大銅像とは何か 皆さん ご存知でしょうか?  正解は上野公園の西郷隆盛銅像
皇居前広場の楠木正成銅像 靖国神社の大村益次郎銅像です。

私のホームページには 今まで ほとんどパソコンやインターネットやに関することを載せて
いましたので 何故 唐突に銅像について書く気になったのか訝る方がおられるかも知れ
ません。 決して気が狂ったわけではありませんのでご安心ください。
(エッ! 安心できないですって?)

嘗て勤めていた某ベンチャーキャピタルは大手町にありました。 近くにある皇居前広場の
楠木正成銅像前をたまたま通りかかったところ 東京三大銅像の一つという説明ボードが
目に入りました。 好奇心旺盛な私は残る二大銅像は何なのか調べてみる気になったのが 
そもそものきっかけです。 同時に 最近デジタルカメラを買ったのですが 自宅の猫以外に
何を写したら良いのか分からず 昼休みに会社近くにある銅像を試しに撮ってホームページに
載せ デジタルカメラマンとしての私の腕前を世に問うてみたくなりました。  
(ホームページに載せるネタが切れたというのが 実は 正直な理由なのですが・・・・) 

日本では先人の偉業を称えるのに 墓碑や記念碑などの巨石をもってするのが主でしたが
西欧から銅像の鋳造技術が入った明治中頃から 銅像として顕彰されるようになった
そうです。 第二次世界大戦前に東京には61基の銅像があったそうですが 多くは
神田須田町の広瀬中佐銅像を含め 戦争中に供出され 戦後は軍国主義排除ということ
から撤去されました。

現在 東京には会社創業者銅像を除き 有名な銅像が35基あるそうであり その中から
私の独断と偏見で以下の如くベスト10を選んでみました。

                  
東京の銅像ベスト10
(順位)  (銅像) (年代) (銅像所在地)
 1位 和気清麻呂 733-799 気象庁前
 2位 楠木正成 1294-1336 皇居前広場
 3位 太田道灌 1432-1486 東京国際フォーラム
 4位 大石内蔵助 1659-1703 泉岳寺境内
 5位 吉田松陰(石像) 1830-1859 松陰神社境内
 6位 大村益次郎 1824-1869 靖国神社
 7位 西郷隆盛 1827-1877 上野公園
 8位 勝海舟 1823-1899 能勢妙見堂
 9位 野口英世 1877-1928 上野公園
10位 忠犬ハチ公 1924-1935 渋谷駅北口
 番外 自由の女神   − お台場海浜公園

和気清麻呂像をベスト1に選んだのは 明治 大正 昭和の時代に活躍した人物の銅像
多いなかで 奈良朝時代に功のあった和気清麻呂像は特に異彩を放っているからです。

この銅像は紀元二千六百年記念として戦時色が強まりつつあった背景の中で 陸軍大臣
の働きかけで昭和15年(私の生まれる前年)に建ったものです。 敗戦後 軍国主義排除
ということで多くの銅像が撤去されたにもかかわらず この銅像が残されたのは GHQ
マッカーサー司令長官による皇室対策の延長であったのではないでしょうか。


皇位につこうとした道鏡の野望を 宇佐八幡宮の神託により退け 天皇家の正統な皇位
継承を存続させた清麻呂の功績は良く知られいます。 生涯独身だった女帝 (孝謙)
称徳天皇の寵愛を受けた道鏡が皇族以外ついたことのなかった皇位を望み 「道鏡を
天位につけたら天下はよく治まる」 という宇佐八幡宮の託宣(神のお告げ)があったと朝廷
に奏上し これが真実であるかどうかを確かめるために和気清麻呂が派遣されました。
和気清麻呂が宇佐八幡宮から持ち帰り奉告した神託は 「わが国は開闢以来君臣定まりぬ。
臣をもって君となすこといまだこれあらざるなり。 天つ 日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしくはやく掃ひ除くべし」 というもので皇統を守る結果となりました。

こうした問題が起きたのは 古代では政治と宗教が分離されていなかったからです。
奈良の都から遠い宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の代わりに もっと近くにある伊勢神宮
(三重県伊勢市)から 何故 神託を貰わなかったのかと疑問を持たれる方が居られるかも
知れません。 朝廷からの崇敬は宇佐八幡宮 伊勢神宮のどちらも厚かったのですが
神託(託宣とも言います)を出すサービスは宇佐八幡宮にしかなかったのです。

宇佐八幡宮の神託をめぐる「道鏡事件」はロマンがあり私の好きな話です。 チョット脱線
しますが 江戸川柳でかなり有名なものに 「道鏡は座るとみっつ膝ができ」 というのが
あり 私に Inferiority Complex を読むたびに感じさせる川柳です。 


和気清麻呂や姉の広虫(孤児教育の創始者)などを祭った和気神社が岡山県和気町にあり
ます。 和気清麻呂の生誕地に所在し 朝倉文夫作の銅像が神社の入り口に建っています。
私は平成12年2月 倉敷市に居る愚息を尋ねた後 山陽本線の和気駅で下車し和気神社
を訪れましたが極めて印象的でした。


東京三大銅像である 楠木正成 西郷隆盛 大村益次郎 の各銅像はベスト10当確で
外せません。 大村益次郎銅像は西欧の鋳造技術を取り入れた我が国の本格的な
記念銅像第一号です。 西郷隆盛が入るなら勝海舟を入れざるを得ません。

(ところで 楠正成 楠木正成 何れが正しいのか私自身混乱していて良く分かりません。  皇居前広場にある銅像案内
には楠正成となっていますが ほとんどの参考書では楠木正成です。 インターネットの検索エンジンでは何れも出て
きますが 楠木正成の方が多いです。 私はこのページでは楠木正成としました。 家系図で遠縁にあたる方から
楠木正成が正しいというメールをいただきました。
 「日本の苗字七千傑」という苗字についてのサイトがあり 出身地の
観点から判断すると やはり 「楠木」が正しいようだというメールを 他の方からいただきました。 同じ方から
楠木正成の家紋の「菊水」と皇室の紋章である16弁の「菊」はベースが同じというご指摘がありました)


「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」と小娘に笑われた
太田道灌は江戸城を築いたゆかりの人物として また都庁のシンボルとなっていた銅像
として入れました(注: 山吹の逸話は後世の作為で実際にあった話ではないそうです)。
ペリーの黒船に乗って米国に密航を企て失敗し安政の大獄で29歳の若さで江戸の獄中で
処刑された吉田松陰 福島県猪苗代湖畔の農家に生まれ世界の医学会で細菌学者として
知られている野口英世 赤穂四十七士の墓が祀られ参詣者が絶えない泉岳寺の大石内蔵助
もベスト10に入れてオカシクないと思います。 渋谷駅の忠犬ハチ公も除けません。

東京の銅像ベスト10に何を入れるか 色々な考え方があると思いますが こうしてみて
みると 私が選んだベスト10の銅像は 結構 常識的で妥当なのではないでしょうか。
番外の 自由の女神は フランスから訪問していた銅像で お台場の海浜公園に平成11年
5月9日まで展示されました。 ニューヨークにある自由の女神よりサイズはかなり小さい
ですが さすが本場の銅像だけあって出来が良いと思いました。

ベスト10の順位は 偶然の一致なのですが年代順と同じとなりました。 年功序列を信奉
する私としては この並べ方は日本の美徳として誰からも文句がでないものではないかと
思っています。 東京の銅像ベスト10の内容と順位について ご意見や異なるお考えなど
ありましたら 是非メールでご連絡ください。 必要なら内容を改めるつもりです。


デジタルカメラで撮った銅像の写真と簡単な個別説明は以下です。

1位。 和気清麻呂
奈良末 平安初期の公卿。 皇位継承をねらう
道鏡の野望を打ち破り天皇家の正統な皇位
継承を存続させた存在として有名。

道鏡の野望は退けられたが道鏡により
左遷され 更に別部穢麻呂(きたなまろ)と  
名前を変えられ大隈国へ配流された。

道鏡の後ろ盾となっていた称徳天皇が
崩御すると 道鏡は勢力を失い 清麻呂
は許され帰京し 桓武天皇の信任をうけ
従三位に昇進した。  平安遷都を推進。

紀元二千六百年記念事業として昭和15年
に銅像は完成された。
2位。 楠木正成

南北朝時代の武将で後醍醐天皇の
鎌倉幕府討伐に参加 建武の新政樹立
に貢献。

軍記物「太平記」の中で中心人物の一人
として描かれ 忠臣の鑑にたとえられた。
足利尊氏と攝津湊川で戦い敗死。

楠木公の銅像は高村光雲が中心になって
制作された。

依頼主はかっての財閥住友家で 愛媛県
別子銅山を開いて200年にあたる記念
行事として献納。 完成は明治33年
(1901年)。
3位。 太田道灌

室町時代中期の武将。 江戸城を1457年に
築き 江戸・東京にゆかりの深い人物として
知られる。

昭和33年 都庁舎があった場所に設置
され 都庁のシンボル的存在として親し
まれていたが 都庁が移転し跡地に建て
られた東京国際フォーラム内に置かれ
ている。

太田道灌の初代銅像は朝倉文夫の兄
渡辺長男が制作したが 戦時中に供出
され 戦後 朝倉文夫が二代目を昭和32年
に製作
4位。 大石内蔵助

播州赤穂城主 浅野長矩は江戸城内 
松の廊下で吉良上野介義央を切りつけ
刃傷沙汰に及んだことにより切腹。 

大石内蔵助は浅野家再興を図ったが 
望みが絶たれたと知ると敵討ちの覚悟を
決め 同士47人とともに吉良亭に討入り
吉良上野介の首を挙げた。
元禄の太平の世にあって この事件は
幕府と世間を驚かせたが 義士47人は
切腹を命じられ遺骸は泉岳寺に運ばれ
浅野内匠頭長矩の墓側に葬られた。
討ち入り後 上野介の首は泉岳寺に持ち
去られたが 後に万昌院にある上野介の
墓に胴体と一緒に葬られた。
5位。 吉田松陰

この像は銅像ではなく石像です。

吉田松陰は長州藩士として生まれ 22歳の
時に脱藩して江戸の佐久間象山に洋学を学
んだ。 1854年ペリーの浦賀再来時に密航
を企てたが失敗 長州に蟄居し松下村塾を
開き 高杉晋作 桂小五郎 伊藤博文 
山形有朋などの人材を世に送った。

安政の大獄で死罪となり 29歳という
若さで江戸の獄中で処刑されたが幕末長州
の思想形成に多大の影響を与えた。 

遺体は両国回向院から現在の松陰神社の
場所に移され祭神に祀られた。
6位。 大村益次郎

長州周防に生まれ幼名は村田蔵六。 
医学を修め 儒学を学んだあと22歳で
緒方洪庵の適塾に入門。 蘭学 西洋兵
法学に優れ桂小五郎の薦めで長州藩に
出仕。

第2次長州征伐が始まると 総司令官と
して全作戦を指導し長州を勝利に導いた。
その後 戊辰戦争や函館の戦いなどでも全
作戦を監督した。近代日本陸軍の創設者で
戊辰戦争の戦没者を祀るため東京招魂社
を明治2年創建(明治16年に靖国神社と
改称)。 東京三大銅像の一つであるとともに
わが国の西洋式銅像第1号となっている。
製作者はヨーロッパの彫刻芸術を習得
した大熊氏広で銅像完成は明治26年
7位。 西郷隆盛

藩主島津斉彬の側近として抜擢され国事
に関心を高めたが 斉彬が急死 勤皇僧
月照と錦江湾に投身 一人生き残って
大島に流された。 その後 大久保利通ら
の助けで討幕運動に復帰 坂本竜馬の
仲介で桂小五郎と薩長同盟を結び王政
復古の大号令を決行。

東征総監府参謀として江戸城無血開城を
実現。 新政府樹立後 征韓論めぐる政争
に敗れ鹿児島に戻ったが 西南戦争に担ぎ
出され城山で自刃。

西郷銅像は楠木像と一緒で高村光雲作。
完成は明治31年。
8位。 勝海舟

幼少の頃 野犬に股間を噛まれ一時生死を
彷徨した際に父親が水垢離をしたのが銅像
のある墨田区本所の能勢妙見堂。
25歳の時に幕臣となる。 蘭学 航海術 
砲術を学び幕府海軍の創設に尽力。

1860年に送られた遣米使節の護衛艦
咸臨丸の艦長となり日本の船では初の
太平洋横断に成功。
大政奉還後 東征軍として官軍代表の
西郷隆盛と幕府代表の勝海舟が和平交渉
を行い江戸城無血開城を成功させ江戸を
戦火から救った。
勝海舟の墓は隠居生活を送った洗足公園
内にある。  (逆光で上手く撮れませんでした)
9位。 野口英世

福島県猪苗代湖畔の農家に生まれ
北里柴三郎博士に師事し細菌学を研究。
米国に渡りロックフェラー医学研究所と
ペンシルベニア大学で細菌学 血清学 
梅毒研究に成果をあげた。

発展途上の国々に自らおもむき医療活動
に従事したが 53歳の時に任地ガーナで
黄熱病の研究中に感染し殉職。

記念銅像を建てる計画は終戦後
日本医師会と北里研究所などにより
進められ昭和26年に上野公園にある
国立科学博物館前の木立の中に完成
10位。 忠犬ハチ公

ハチ公は渋谷松涛町に住んでいた
東京大学農学部 上野栄三郎教授が
飼っていた秋田犬。 大学へ出校する
教授を渋谷駅へ送迎するのが毎日の
日課だった。 上野教授の死後 10年間
帰らぬ主人を渋谷駅で待ちつづけたという
ことが国民的な美談となり ハチ公が未だ
生きていた昭和9年銅像にされた。

この銅像は戦争中に供出され 戦後
昭和23年に再建された。

ハチ公の遺骸は上野の科学博物館に
剥製として保存されている。
番外。 自由の女神
(LA STATUE DE LA LIBERTE)

平成10年4月から平成11年5月9日まで
お台場の海浜公園に設置された。 東京都
とパリ市の友好都市提携記念事業として
フランスから期間限定で送られたもの。 
平成12年12月にレプリカを同じ場所に設置。

1876年 フランスはアメリカ建国百年を
祝して自由の女神(銅像)を贈りNY港に
設置された。 返礼としてパリ在住の
アメリカ人がフランス革命百年を記念して
フランス政府に自由の女神を寄贈し
パリ市セーヌ川のグルネン橋に1889年
設置された。

東京にある銅像としては 上記以外にも 品川弥二郎 大山巌 平田東助 渋沢栄一
北白川宮能久親王 板垣退助 伊藤博文 大熊重信 尾崎幸雄 ジエンナー
小松宮彰仁親王 ジョサイア・コンドル 瓜生岩子 木村安兵衛夫妻 榎本武揚 
震災遭難児童 嘉納治五郎 鳩山一郎夫妻 高橋是清 有栖川宮親王 新聞少年
樺太犬タロ・ジロー 三沢初子 田村成義 などが有名です。

デジタルカメラを買い初めて使ってみた印象は バッテリーがあっという間に無くなるという
ことと 写真一枚あたり8KB〜18KBの容量を必要とするということでした。


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(参考文献:  桜井正信編 「歴史散策 東京江戸案内」 八坂書房)

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