私の香港・マカオ見聞録

このページは 香港・マカオの観光旅行(平成17年11月に3泊4日)で撮った 私のデジカメ写真展です。 

香港には 今までに 仕事で4回ほど行ったことがありましたが 今回の訪問は1987年3月以来 実に18年
振りなので 英国から中国に返還されて どう変わったのか 自分の目で見たいと思いました。 マカオ訪問は
今回が初めてで 旧植民地としてポルトガルが隆盛だった頃の名残を感じることが出来るか 興味ありました。

旅行の手配はJTBに 往復の航空券 宿泊ホテル(九龍のSheraton Hong Kong Hotel)および香港国際空港
からホテルまでの送迎を依頼し 現地の案内は香港に住む姪夫婦のお世話になりました。

いきなり私の写真展に入る前に 読者の中には香港とマカオの歴史について 余りご存知でない方も居られる
と思うので 極々簡単な歴史を 以下 少しオサライしておきます。

1.香港の歴史

香港の歴史は 阿片戦争による英国の植民地支配に端を発する。 1842年の南京条約で香港島が英国に
割譲され 続いて九龍が割譲 新界の租借が決められた。 香港は英国植民地として軍事拠点となり 天然
の良港であることから 自由貿易港 国際金融都市として発展を遂げた。 1984年に中国返還が決められ 
1997年7月1日をもって中国に返還された。 返還後 中国の特別行政区となった香港は 「一国二制度」
(共産主義国家である中国の中に 資本主義の香港という特別行政区を設ける)のもと 返還前の法制度や
通貨(香港ドル)が返還後もそのまま有効とされ 独立した関税地域として自由貿易港を堅持している。 
今では年間1000万人を超える観光地であり 中国料理(主に広東料理)の最高峰は香港にあると言われる。
人口は約700万人。 

2.マカオの歴史

ポルトガルとマカオの関係は 1513年にジョルジェ・アルヴァレスが船隊を率いてやってきて この地を荒らし
ていた海賊を征伐し、その功績で当時の中国皇帝からマカオを貿易拠点とする認可を得たことに始まる。 
ポルトガルは 長い間 マカオを拠点として東アジアとヨーロッパ間の貿易を独占し 中国や日本にキリスト教の
布教を行った。 1577年にポルトガルはマカオにおける居住権を獲得し 1887年には アヘンの密入に手を
焼く清朝に協力した報酬で マカオはポルトガル領となる。 マカオは正式に中国から分譲されたポルトガルの
海外領土であり 英国植民地に無理矢理させられた香港とは大きく異なっている。 19世紀になり イギリス
が香港を拠点に経済活動を行なうようになると それまでマカオが独占してきた東アジアの貿易拠点としての
役割は相対的に低下し  マカオは国際舞台から遠ざかることになる。 20世紀に入り ポルトガル政府は
マカオを海外州に制定 カジノを正式公認することで マカオを世界最大のカジノリゾートに変貌させつつある。
1999年12月20日に 中国の特別行政区として返還されるが 香港と同様に「一国二制度」のもと マカオは
司法 立法 行政の自治権を中国から認められている。 ポルトガル語と中国語が公用語として認められ 通貨
の単位はパタカ。 香港の西南西約64kmに位置し フェリーボートで1時間ほどにある。 人口は約45万人。

3.香港旅行の写真

香港国際空港着陸前の機内から見た景色

現在の香港国際空港(チェクラプコク空港)は
香港市街地のそばにあった「啓徳空港」
(Kai Tak International Airport)に代わるもの
として 1998年7月に完成した。 

旧空港は林立するビルの谷間に離着陸する
曲芸で知られていた。

九龍半島から見た香港島

九龍のシェラトンホテルにチェックインした後で
九龍のスターフェリー・ピアから見た香港島
中心部・中環のビル群。。

フェリーで香港島・中環に渡り 100万ドルの
夜景を楽しむべく ヴィクトリアピークに向かう。

九龍半島と香港島を隔てる海がヴィクトリア港

ヴィクトリア・ピークからの100万ドルの夜景

土曜日の夜だったからか ピークトラムという
登山電車に乗るのに約1時間ほど待たされた。

ヴィクトリアピークの展望台は標高373mにあり
眺めは「100万ドルの夜景」と言われる。
(香港ドルだと1500万円で大したことはない?)

眼下に見えるのは香港島の中心街(中環)の
ビル群で ビクトリア湾の対岸には九龍半島
が見える。 ヴィクトリアピークからの帰路は
待たずにタクシーで九龍の中国料理店へ直行。
九龍の尖沙咀とネーザン・ロード

香港最大の繁華街が九龍半島南端の尖沙咀
チムシャツオイ
 南北に貫く中心道路が
ネーザン・ロード。

片側3車線の大通の両側には ホテル 各種の
店 レストラン 商業ビルなどが軒を連ね大変に
賑やか。
 
ネーザンロード南端の両側にペニンシュラ・
ホテルとシェラトンホテルがある。
早朝写真なので車の混雑は未だない。
レパルス・ベイ(浅水湾)

香港島南部のビーチエリアで 香港を代表
するビーチリゾートで高級住宅地。 

映画「慕情」の舞台になったことでも有
名。
天后廟

レパルスベイビーチの南端にある道教の寺院。

漁師や海で働く人の守り神。
スタンレーマーケット

赤柱にあるマーケットで 通路の両側に 格安
の土産品  中国の伝統工芸品 衣類などの
店がずらりと立ち並ぶ。 

欧米人客が多いので 彼ら好みの商品も多い。

海沿いにはレストランも多く 買い物と食事を
満喫できる。

西貢(サイクン)の桟橋

新界にある西貢は 無数の島々が沖合いに
浮かぶ風光明媚な西貢海に面した町で
香港有数のレジャースポット・保養地。。

人気を高めているのが 海鮮街で豪快に味わう
シーフード。

西貢の桟橋で見たボートの魚屋

桟橋には写真にあるようなボートで活魚を売る
商売が繁盛している。

長い棒先の網に魚を入れ桟橋の客に渡し
代金は網に入れて貰っていた。
西貢でのハーバークルーズ

西貢で船を一隻チャーターし 11人で2時間の
ハーバークルーズを堪能。

写真は船上から撮った桟橋。


西貢海のサンセット

船上から見た日没風景。
上海蟹

中国料理店で上海蟹を注文。

正式名はシナモズクガニで 9月から11月頃
蘇州近郊の淡水で採れるものを特に上海蟹
と呼ぶ。

「蒸蟹」としての食べ方が一般的で 食通は
甲羅に少し紹興酒を入れ 紹興酒の甘みとミソ
の深い味わいを楽しむ。
九龍半島の尖沙咀から見た香港島の夜景

尖沙咀の桟橋から撮った香港島・中環の夜景。

宿泊した香港シェラトンホテル最上階のバーで
ナイトキャップを飲みながら 同じ眺めを
楽しんだ。



4.マカオ旅行の写真

マカオ市街

セントポール大聖堂2階から撮ったマカオ
の市街。

フェリーでマカオに到着後 タクシーで
先ずセントーポール大聖堂に直行。
セントポール大聖堂

セントポール大聖堂は 建設当時
東洋一のキリスト教建築物と称された
17世紀の大教会の遺構。 1835年の
大火で大部分が焼け落ち 現在も残る
建物正面が かつての壮麗な姿を今に
伝えている。

マカオのシンボル的存在で世界遺産。

モンテの砦

セントポール大聖堂横の小高い丘にある。
17世紀初頭 イエスズ会教徒によって
築かれた22門の大砲を持つ要塞跡。

1622年には攻めてきたオランダ軍を撃退
した。

セナド広場(1)

セントポール大聖堂前の石段を下った
所がセナド広場。


広場の地面には波のようなデザインの
モザイクが敷き詰められている。
セナド広場(2)

広場に面して パステルカラーの
コロニアル風の建物が並びエキゾチック
な雰囲気。
仁慈堂博物館横の路地

仁慈堂博物館は マカオの最初の司教
D・ベルキオール・カーネイロにより
1560年代に慈悲施設として建てられた。

写真左側が仁慈堂博物館。

セナド広場(3)

セナド広場の中心部にアーミラリ天球儀を
形取った噴水がある。


アズレージョ

ポルトガル語で「青」色をアズール(AZUL)
と言い アズレージョ(AZULEJO)の語源と
なっている。 アズレージョは装飾タイルの
ことで 青一色が一般的。 ポルトガルでは
壁あるところにアズレージョありと言われ
表札などにも使われる。 

写真の「ポーサダ・デ・サンチアゴ」は
17世紀にポルトガル軍が建設した要塞を
利用したマカオ随一の個性的ホテル。

5.まとめ

これまで私のホームページで取りあげた様々なテーマには 発信したい私の主義主張が何か必ずありましたが
このページは デジカメで撮った観光写真を並べただけの 凡庸な内容となりました。 香港・マカオの単なる
観光旅行に 私から発信したい主義主張がある筈もなく このページは それで良いのだ! と開き直ることに
しました。

香港は 18年前に訪れた時と比べ 街がキレイになり 治安も良くなりました。 新国際空港だけでなく
ショッピングアーケドやレストランのある立派な建物や設備が増え 年間1000万人を超える観光地として 
人気の高い理由が良く分かりました。

1997年7月1日に共産主義国である中国に返還され 特別行政区となったので 大きく変わったのではと
思っていましたが 「一国二制度」のもと  資本主義が堅持され 見た目には前と何も変わっていないのは
ムシロ 驚きでした。 

マカオは 初めての訪問でしたが 歴史的に深い繋がりがあるポルトガルと日本の関係を思い起こさせました。

ポルトガルにとって マカオは東洋における貿易と宗教(イエスズ会)活動の重要拠点となり 1543年には
日本を最初に訪れた西洋人として ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来しました。 1549年に初めて日本で
キリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルは 1552年にマカオで亡くなり(47歳) マカオに今も墓があります。
1587年に発せられた豊臣秀吉のバテレン追放令以降は 多くのキリシタンが迫害され マカオに追放されて
います。

マカオ観光の目玉は 何と言っても セントポール大聖堂です。 ポルトガル人だけでなく 長崎を追われた
日本人キリシタンも加わり 20年余りの歳月をかけて17世紀に建造されましたが 火事で焼け落ち 今残る
のは教会正面の壁・ファサードのみです。 そこには 聖母マリアやフランシスコ・ザビエルと共に 日本の
象徴・菊などが彫刻されていて かつての壮麗さと日本との結び付きをしのぶことが出来ました。


最後になりますが 香港・マカオ旅行期間中 フルアテンドいただた香港に住む姪(私の妹の長女)のAちゃん
に感謝します。 英語と広東語を巧みに使って仕事でも大活躍している姿を 頼もしく思いました。 お陰で 
3泊4日を楽しく過ごし また ホームページもupdate出来ましたが 毎日 昼も夜も 飲み過ぎ食べ過ぎた
ことを 今になって少し反省しています。

このページについて ご意見ご感想を 下記迄いただければ幸いです。

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(補足) フランシスコ・ザビエルの墓

フランシスコ・ザビエルの墓は 正確に言うと ゴア(インド) ローマ(イタリア) マカオ(中国)の3カ所に
あります。 ザビエルは1552年12月に中国・広東港外の上川島で没した後 遺体はポルトガル領だったゴア
に安置されたが 両腕を切り離し 右腕はローマ 左腕はマカオに移された。 18世紀に建てられたマカオの
世界遺産「聖ヨセフ修道院聖堂」には フランシスコ・ザビエルの左腕の遺骨がガラスケースに納められて
いる。

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