下タ沢会によせて(覚書)

マルメロとカリン − おまけの話し・トマト −

 子供の頃食べたもので、初めは食えなくて、強く印象に残っているのがトマトで ある(私には)。あの独特というか青くさい匂が鼻につき、どうしても食えなかっ た。
 トマトが鹿角に入ってきたのは、「鹿角のあゆみ」の産業こぼれ話しによれば、 「鹿角ではじめて栽培結実させたのは、毛馬内の立山弟四郎と花輪の関村幸次郎で、 明治42年のことである。当時の花輪小学校諏訪篤校長が関村幸次郎の献じたトマト を口に入れて、「人肉の味がする」などといい、喜ばれなかった。「潘茄」と書い たのもその故か。しかし当時これを「夏柿」と呼んだのは、正に言い得たりの感が する。」と。
 私がはじめてトマトをかじったのは、小学校に入る頃だったろうか、私の父は、 花輪のどこからか苗をもらってきて植えた。はじめ食えなかったトマトが、いつの 間にか食えるようになったか記憶がない。気がついたら、うまいうまいと食ってい た。今のトマトは赤くて丸いのが普通だが、当時は平っぺたい感じで、粒も大きく、 ピンクや黄色いものもあったが、今は程んどみることはなくなった。
 トマトは広辞苑によると、「ナス科の一年生果菜、原産地は南アメリカのアンデ ス高地。わが国には18西紀頃渡来。栽培は明治初期の導入から広がる。潘茄、古名 あかなす、さんごじゅなす。」などとあるが、「潘茄」、なんと読めばいゝかわか らないが、勝手に「はんか」「ばんか」と読んで、さがしたらあった。「ばんか、 トマトの異称。あかなす」と。当時の鹿角の人たちは、「トマトのことを、バンカ とか赤ナスとかいったろうか、字では潘茄と書いて、トマトと読んでいたろうか。 夏柿とはいったようだが、私達は片かなのトマトでおぼえたが。

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…… 鹿角の特色ある料理 ……
マルメロとその缶詰
GLN企画普及室
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