話しは後先になるが、春の彼岸も終って雪が消えると、ニシンの季節になった。
私達は、生ニシといった。どこの家でも箱単位で買ってきて、腹をとって塩をきか
せて糠漬けをつくった。取ったブリッコはザルなどに広げて入れて、屋根などに上
げて干した。それを今のように数の子といったかどうか忘れたが、その半乾きがう
まかった。こっそり取って食っておこられた。ヌカ漬けのニシンは、夏になるとや
わらかく身が崩れたりするので、そういうのは、フキの葉っぱに包んで焼けばいい
などといった(漬けるのが下手だったのかな)。ヒロコを入れたニシンカヤキの味
も忘れられない。あれは、まさに春の味であった。
ニシンカヤキで思い出すのは、トフゴヤといった芳一さんの後の山、山しいうよ り丘といった感じで、馬の背のようになっていて、後ろ半分はヤブだったが、前の 方、背中から腹にかけてカノカの生えた「ヒラ」になっていて、子供達のいい遊び 場だった。よく松の枝を折って尻の下にしいて、ヒラを滑って遊んだりした。 あれは、トフゴヤに1人で遊びに行けるようになってからだから、小学校の低学 年の頃だったかもしれない。そのトフゴヤの上で、大きい人達がニシンカヤキをや るといって、もっくれ(芝生)を2尺角くらい(だと思う)剥して、少し掘り下げて 火をたいた。その火が飛火してあたりに燃え移り、みんなであわてて松の枝でたた いたり踏みにじったりして消した記憶がある。といってもはっきりしたものではな く、ただ、もっくれを剥いだ跡の黒い土と、火がばっぱと飛び移って、おっかなか ったというだけで、私達は、うろうろと見ていただけだったかもしれない。大きい 人達といっても、もしかして高等科ぐらいの人達だったかもしれない。なぜかチョ ンコさん(吉田長一さん、秋田のトーサンの弟、私が帰ってきた頃は購買前で床屋 さんをしていた。その後東京?に出て行ったが、12、3年前亡くなった。子供の頃、 皆なチョンコ、チョンコといっていた)だけがいたという気がするが、後は大きい 人は誰がいたのか、小さい子供達は誰がいたのか、記憶にない。チョンコさんは下 タ沢のきかん坊の代表だったみたいな記憶がある。 |
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