鹿角市文化財保護協会
事務局からのお知らせ
 
△鹿角市市制施行40周年記念事業「鹿角市歴史文化発掘新世紀」(事務局提案)
 
 鹿角市の歴史文化については、一応『鹿角市史』をもって完結したことになっている。
 参考:鹿角市史
 
 しかし、その後の動向をみるに、実は「市内には、まだまだ沢山の貴重な古文書や歴史資料がある。安心できる収蔵室があれば、これらの史料を寄贈(又は寄託)したいと希望している市民も沢山おられると思う」。
 参考:学習文化交流施設基本設計 市民説明会@
 
 鹿角市市制施行40周年記念事業として、鹿角市歴史文化発掘新世紀を旗印として、 今一度、市内の歴史文化を再発掘してみようではありませんか!!
 
一、古文書・歴史資料の収蔵室
 市中の古文書・歴史資料の収集を積極的に進める。
 参考:学習文化交流施設基本設計 市民説明会@
 
二、『鹿角市史資料編』などの継続的刊行
 『鹿角市史資料編』は第34集まで刊行されているが、現在、解読済みの原稿は沢山あり、 続刊されることを待っている。是非とも引き続き刊行されることを希望する。
 参考:鹿角市史資料編
 
三、古文書解読
 古文書解読の輪を広げる。
 参考:学習文化交流施設基本設計 市民説明会A
 
 即ち、「伝説史実との関係」を究明することなど、 鹿角市には沢山の、この種の研究課題が残されている。 これら歴史文化に類する市史文献が刊行される、ということになれば、古文書解読の輪が広がって行くと思う。

T 鹿角市歴史文化発掘新世紀「伝説と史実を結ぶ幻の経糸(たていと)」
 
 『鹿角市史第五巻』年表によると、文治五年(1189)藤原泰衡が比内贄(にえ)の柵で殺された頃から、鹿角の歴史が「史実」に登場するようになった。そして、正安元年(1299)、夏牛館内に建設された「板碑(いたび)」は、いわゆる「史料」として確実視されている。
 
 一方、たとえば、「錦木塚伝説(物語)」・「だんぶり長者伝説」・「八郎太郎伝説(物語)」などは、「言い伝え」とはいうものの、ほぼ史実と認めても何ら違和感のない事柄を物語っている。しかしこれらは「伝説」とされているので、「歴史的に証拠」としての価値はない(とみなされている)。「伝説と史実」とを結び付ける「史料(鹿角の里にある史料)」を見つけ出すことは不可能なのであろうか。
 
 前掲『鹿角市史』編さん時には、諸先輩の並々ならぬご努力により、数多くの「史料(古文書類)」を収集し解読していただいた。大筋の史実については、私共浅学菲才の者は、何ら申し上げることはできない。非常に優れた名著である。しかして、この中で、前述のように、鎌倉期以前の歴史は、いわゆる「伝説」であり、「鹿角の史実」としては認められていない。私共後進の者は、何とかして、これらの「伝説」を「史実」として証明する課題を負っていることになる。私共がこの課題を成し遂げないと、鹿角の史実は、何時まで経っても明らかにされない。
 
 「伝説」と「史実」とを結びつける最も重要な事件は、十和田湖の噴火であると考えたい。
 十和田湖の噴火は、延喜15年(915)8月17日に起こったという。
 参照:「十和田湖」・「十和田湖噴火による毛馬内火砕流と泥流」・「毛馬内火砕流
 
 このときの噴火は、当時(以降)の東アジアにおける最大級の噴火とされている。鹿角の全域は、火山灰のために壊滅的な被害を受けたもの推測できる。全ての資産や財産が焼失(消失)し、流出したものと想像することは難くない。同じ鹿角でも、十和田湖からより離れている郡南は、比較的被害(降灰)が少なかったと思う。何故なら、藤原泰衡が文治五年(1189)、わざわざ、難儀な鹿角街道「細野道」を通ったと推測されていることや、正安元年(1299)、夏牛館内に板碑が建てられたことから推測すると、鹿角の現在の「佇まい(いわゆる「鹿角四十二館」)」は、郡南から徐々に回復(再建)されてきたものと考えることができる。鹿角の大方の神社の縁起には、「正安」年間の文字が認められることも頷ける。
 因みに、弘前市中別所には、1200年代の板碑群(板石塔婆)が発見されている。鹿角の郡北に板碑が見つかっていないのはどうしてなのであろうか。即ち、郡北では、十和田湖の噴火被害が甚大なため、被害の回復はなかなか進まなかったのではないだろうか。
 
 以上のようなことから、
@市内にまだ眠っている史料(主として古文書)を収集する。
A鹿角市内の遺産遺跡と思われるような「地点」をボーリングする。
ことを提案したい。

U 鹿角市歴史文化発掘新世紀「金の長芋・白根発見伝説
 「金の長芋・白根発見伝説」の中に、次のような一文がある。
 老婆の語るには、昔此処に砂金というものの出る山のあったことは伝えられているが、
話ばかりで見た者は誰もいない。遠い昔に都から来た人が砂金を持って帰り、それで奈
良の大仏を彩ったとか、その後も金を掘る人がいたという話もあるが、当国の主であっ
た安倍殿が滅んでからそのことも絶えてしまった。祖父からの言い伝えには、あの山の
奥の村の少年が朝草を刈りに行ったところ、草の葉に金色の露がたまり、その輝く光が
目を射て思わず気を失ってしまった。暫くして息を吹き返した時は、その光物も消えて
いた。すぐに家に帰り、親たちと再びその所の草の葉をよく見てみると、どの葉のもみ
な金色の粉や砂が付いていた。これこそ金というものであろうと、上方へ持っていくと
数十貫の銭に代わり、それで田畑を買い長者となった。近郷の人々が羨んで探し尋ねた
が、重ねてそのような不思議は起こらなかったという。
 近年迄羽州からときどき旅人が来て、薬にするからといってこの辺の土を取ってゆく と世間の噂があるが、そのほかはなんの変わったこともない、という物語である。
 参照:「白根発見伝説
 
 老婆の語ったこの証言(劇中劇)は、事実だろうか、北十左衛門へ阿(おもね)ってのことだろうか、 作り話(フィクション)なのであろうか……。
 
@歴史資料の発見に努める。
A白根金山の図面を再現(測量)する。
B鹿角市内のかつての鉱山跡の位置図を作成し、標識を設置する。
 参考例:鴇鉱山製錬所・選鉱場跡

V 鹿角市歴史文化発掘新世紀「尾去沢銅山の御用銅」
 江戸時代、盛岡藩南部領尾去沢銅山から産出され、来満街道を経て野辺地湊から北前船で大坂へ運ばれた、いわゆる「御用銅」は、どんな「形」のものであったろうか。御用銅は大坂で精錬され、長崎の湊からオランダへ輸出された。銅の生産〜輸出によって、盛岡藩や江戸幕府の財政は大いに潤った。
 参照:四郎兵衛屋敷と難破船
 
 石川県小松市の関係者のご協力を仰ぎながら、その複製(レプリカ)を作成し、「かつての鉱山の里“鹿角“」の象徴(シンボル)として、鹿角市役所の1Fホール正面に展示したい。

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