GLN鹿角のルーツあれこれ

四郎兵衛屋敷と難破船

ア 村の出来事
  石川県小松市安宅新町(あたかしんまち)
「安宅新町史」
第6章 村の出来事
 4 四郎兵衛屋敷と難破船
「昭和30年海岸から銅板約200貫余が発掘された。これは文化12年大阪八荷屋新兵衛の持船で船頭四郎兵衛の船が、金平銅山製の銅板を積んで安宅湊を出港直後に難破した積み荷の一部といわれる。難破船の四郎兵衛がしばらく居住した所が四郎兵衛屋敷といわれ、海岸よりの松林中にある。(小松市史)」
 しかし、その後の調査でこの記録は間違いであることが判明した。
 
 昭和30年1月に安宅新海岸で大量の銅板が発見され、金が含まれると新春のビッツクニュユースとなった出来事がある。昭和30年5月発行の加南地方史研究「創刊号」で川良雄氏の調査記録が掲載されているのであるが、当時としては記録の収集が十分でなかつた為かこの銅板が何処の鉱山から搬出されたものかについて調査された記事が記載されているが、この鉱山は明らかにされていない。
 
 即ち、「昭和30年の元旦の朝小松市安宅新海岸へ流木拾いに行った安宅新町の林信男さん(25歳)が同海岸波打際の砂浜で大人が両手で円を描いたほどの大きさの銅板3枚を拾い、その後昔、同海岸に宝物を積んだ千石船が沈没したと云う古老の話や、これに関係があるのではないかという古文書が発見され、そのうえ銅板には金が含まれていると云う噂が出るにおよんで、同海岸はシャベルや鉄棒をひっさげて頭から波しぶきをかむりながら銅板を探るものや、霧まじりに吹きなぐられる海岸べりで歯をガチガチさせながら見物に押しかけるヤジ馬などで、浜の鉱脈を掘るときならぬ銅板ラッシュを現出している。1月6日までに発見された銅板は約190貫で、拾った人が納屋や床下に隠匿して容易に届けられなかつた為に小松警察は、町の協力を得て届け出るよう呼び掛けをした。また埋蔵物にするか、漂流物にするか議論まちまちであったが7日埋蔵物に決定した。またこのニュースは6日にメトロ映画、8日には毎日新聞社ニュース映画班が来松し撮影を行なうなど今や安宅新海岸は銅塊ブームで海外に迄紹介される大騒ぎとなった。」

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